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今日の説法の中の言葉が耳に引っかかっている。
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「生きていながら死んだ振りをしている」というところだ。
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「振り」だから死んでいるわけではない。生きている。でもこれだって「生きている振り」をしているだけかもしれない。
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わたしはほんとうに生きているのか。振りをしないでいるのか。突きつけられたような気がした。
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生きているのも擬態に過ぎないかも知れない。そういう擬態を取っているだけかも知れない。
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説法の趣旨は念仏を生活の中心に据えて生きているべきだというお話だったと思う。眼目はそこだったと思う。煩悩中心、欲望中心、憎しみ怨み中心の生き方ではいけないということ、それを暗示されていたのだろうと思う。
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「世間虚仮、唯仏是真」を通すのが仏法にちがいない。でも、わたしの暮らしの事実は「虚仮是真」を通している。だったらやはり、「生きている振り」にしか過ぎまい。我が身の誤魔化しである。
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その後不意に「生きていながら死んでいる」人がいるのなら、「死にながら生きいている」人もいるのではないかということを思った。
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「死んだと見せて生きた人」がいるのではないか。死者の国は死の国なのではなく、生の国だった、ということに驚いた人、それに目覚めた人である。
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つまりは念仏中心、仏法中心の生き方が出来るようになった人たちである。
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これで生き生きと生きていることができるようになった人たち、である。であれば、われわれ生者は、死者を悲しむべきではない。はずである。
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「有相」と「無相」ということも話された。無相とは姿を持たぬということである。「有相」とはその逆だ。姿を持っているので、そこに囚われが起きて執着心が起こっているわれわれ生者である。肉体をわたしとしているからである。
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「無相」は「空相」ということかもしれない。空を感じ得た人の生き方、肉体の執着から解き放たれた生き方に進み得たことである。
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死は必然的に無相である。姿から解放されている。であれば、「死んでいるが生きている」状況が生まれているかも知れない。
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まあそんなこんなを雑然と考えた。結論は出ない。いや、「生きている内に生きていたい」ものだと思った。溌剌と堂々と生きていたいものだと思った。