<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

老爺にはこういう楽しみもある

2018年01月28日 20時06分33秒 | Weblog

8時を過ぎた。そろそろ入浴の時間だ。このところよく入浴剤を利用している。濁り湯。真っ白に濁る。臭いもする。温泉に入った気分が味わえる。一日の終わりを風呂の中でゆっくりする。太平楽だ。老爺にはこういう楽しみもある。以前は風呂場でよく高音を張り上げて民謡を歌っていたが、この頃は止んでいる。高音を張り上げるにはそれなりの勇ましい元気が必要だ。

その代わり、よく仏教経典を諳んじている。声に出して。バスタブに身を沈めてあたたまりながら。じわりじわり仏陀のお慈悲のこころを感じている。

風呂場は冷えているので、あらかじめ電気温風機で温めておく。毎日下着は着替える。ユニクロの超極暖を揃えた。薄くて温かい。風呂場には小さな冬の花が飾ってある。其れもこころを癒してくれる。

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僕は今日は朝からうずうずしている

2018年01月28日 19時28分40秒 | Weblog

僕は今日は朝からうずうずしている。詩を書きたいというその欲心が蠢いている。ずっと蠢いている。

でもそれは、蚊のこどもの「ぶよ」くらいだ。赤い色はしているが、水中をふわりふわりしているだけだ。ぶよが我が心の水槽の中にたくさんいる。蠢いている。蚊になりたがっている。

蚊になればもうそれで詩だ。価値を持つ。でも、詩が生まれない。ぶよは相変わらずふわりふわり水中を緩やかに泳いでいるきりだ。

詩は紡ぐものだ。縦糸と横糸を織り成して紡ぐものだ。刺繍のようだ。編み物のようだ。でも、編み糸が見つからない。

詩を紡ぎたい。紡いで詩の織物を造り上げたい。美しいもの、艶やかなもの、ごつごつとしたものにして、飾りたい。冬空に見せてあげたい。

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「春を迎える眼を持つ男」という称賛を浴びるにふさわしい

2018年01月28日 19時12分26秒 | Weblog

こんばんは。7時を過ぎました。夕食を終わりました。薩摩芋、人参の天麩羅でした。薩摩芋は貯蔵が難しい。寒さに弱い。で、腐りかけたものが多かった。随分、切り落とさねばならなかった。(僕は夕食準備のの手伝い加勢をした、しばらくだけど。なにしろ包丁を握るのが好きと来ているから。困ったもの。出しゃばりで。)でもそれだけ切り落としていたから、あとは大丈夫。みなおいしかった。芋焼酎をお湯割りで飲んだ。けっこうけっこう。(これは漢字にすると雰囲気が壊れそう。平仮名がいい)

おおい、おおい、おおい。ちと、尋ねるが、おれはこれで一日を終わることになるが、これでよかったのか。良かったも悪かったもないかもしれない。そもそもそれは愚問かも知れない。でも、気に掛かっているのだ。「果たして今日をおれは生き生きと生きたのだろうか」というクエスチョンが、手裏剣のように襲いかかってくる。

「大丈夫。安心なさい」とおれはおれに耳打ちしてあげたい。おれにはおれなりの十分条件を生きたのだ。その第一、おれは今日、花生けに飾ってある沈丁花の蕾を見た。しっかり蕾んでいた。まだ色香も見せていなかった。だが、華々しい意欲を感じた。春を迎えるぞという彼らなりの凄まじい意欲を感じた。それを感じ得たおれは、彼らから「春を迎える眼を持つ男」としての称賛を浴びるに相応しかった。

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喰う楽しみ それ以外にはないのか わたしには

2018年01月28日 18時00分17秒 | Weblog

さ、6時になった。そろそろ夕食の声が掛かるだろう。喰う楽しみ、それ以外にはないのか。ないなあ。

見回しているのだが、見つからないなあ。喰う楽しみがあればしばらくはまあ元気で生きておれるのだが。

食欲。これが我が世の楽しみの最高なのか。まだある。物質欲だ。睡眠欲、排出欲、名誉欲、金儲け欲、色欲、長生き欲だ。

しかし、どれもたしして縁がないなあ。喰う以外の諸々の欲は、未だ以て、実現が遠いなあ。

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生きていながら死んだ振りをしている、のかもしれない、わたしは

2018年01月28日 17時36分11秒 | Weblog

今日の説法の中の言葉が耳に引っかかっている。

「生きていながら死んだ振りをしている」というところだ。

「振り」だから死んでいるわけではない。生きている。でもこれだって「生きている振り」をしているだけかもしれない。

わたしはほんとうに生きているのか。振りをしないでいるのか。突きつけられたような気がした。

生きているのも擬態に過ぎないかも知れない。そういう擬態を取っているだけかも知れない。

説法の趣旨は念仏を生活の中心に据えて生きているべきだというお話だったと思う。眼目はそこだったと思う。煩悩中心、欲望中心、憎しみ怨み中心の生き方ではいけないということ、それを暗示されていたのだろうと思う。

「世間虚仮、唯仏是真」を通すのが仏法にちがいない。でも、わたしの暮らしの事実は「虚仮是真」を通している。だったらやはり、「生きている振り」にしか過ぎまい。我が身の誤魔化しである。

その後不意に「生きていながら死んでいる」人がいるのなら、「死にながら生きいている」人もいるのではないかということを思った。

「死んだと見せて生きた人」がいるのではないか。死者の国は死の国なのではなく、生の国だった、ということに驚いた人、それに目覚めた人である。

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つまりは念仏中心、仏法中心の生き方が出来るようになった人たちである。

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これで生き生きと生きていることができるようになった人たち、である。であれば、われわれ生者は、死者を悲しむべきではない。はずである。

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「有相」と「無相」ということも話された。無相とは姿を持たぬということである。「有相」とはその逆だ。姿を持っているので、そこに囚われが起きて執着心が起こっているわれわれ生者である。肉体をわたしとしているからである。

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「無相」は「空相」ということかもしれない。空を感じ得た人の生き方、肉体の執着から解き放たれた生き方に進み得たことである。

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死は必然的に無相である。姿から解放されている。であれば、「死んでいるが生きている」状況が生まれているかも知れない。

まあそんなこんなを雑然と考えた。結論は出ない。いや、「生きている内に生きていたい」ものだと思った。溌剌と堂々と生きていたいものだと思った。

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わたしが目覚めることを長い間待っていて下さった

2018年01月28日 17時09分37秒 | Weblog

わたしが仏法を聞く。聞く身になった、それを喜ぶ。如来がわたしを動かされた、そのことを思って、我が身の果報を喜ぶ。そこまでだったら、一方通行である。

なあんだ、結局は我が身可愛さで終わったのか。それでは一人乗りだった、おのれ一人の解決に全生涯を費やしたことになってしまう。

わたしが如来に動かされたのを喜んだのであれば、わたしはそこでどうすべきか。此処を終着点としてにんまりすること、それが我が信心だったということになってしまう。やはり利他へ動かねばならない。

親鸞聖人は「浄土真宗を按じるに二種の廻向あり、一つには往相、二つには還相(げんそう)これなり」と述べておられる。わたしが仏法を聞く身になったのは、如来がわたしを動かされたのであって、それは如来の功徳廻向である。これを独り占めにしていては申し訳が立たないではないか。そこを悟りの究極地点にしていたら、それは所詮は独善なのではないか。そういう反省、後ろめたさが起こって来るのだろう。であればどうしても、次へ動いて行かねばならない。次とは還相への挑戦である。

自分が目覚めたのであれば、それは他者を目覚めさせたいという方向へ動いていくはずである。如来の廻向を多くの人たちと共有したいという願いが起こって来るはずである。

普通は還相は死んで浄土に迎えられて成仏して、そこから仏陀と成ったわたしの利他の活動を指しているのではないか。死んでからの話だったのではないか。それは果たして死んでからの話に過ぎなかったのか。

わたしを目覚めさせたのが如来の功徳廻向であったのなら、それを独り占めする訳はない。目覚めが起こったその時点で同時に利他の活動へと動き出して行くはずである。目覚めも死後のことだとすれば、話は別だが。

二種の廻向は、あくまでも阿弥陀仏の二種廻向であるから、還相も阿弥陀仏のそれであらねばならないかもしれない。死ぬ以前のわたしはそれを見守っているだけでいいのかもしれない。

「二種廻向」「入出二門」の考えは、どうやらわたしの手には負えないようだ。

わたしが目覚めることを長い間待っていて下さった方があった。阿弥陀仏である。しかし、わたしがわたしの力で目覚めることはなかった。その力がなかったのである。そのわたしを目覚めさせようとするのが阿弥陀仏の功徳廻向であった。阿弥陀仏はわたしを前にして長い間、獅子奮迅の努力をされているのである。

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「入出二門」ということの我流解釈

2018年01月28日 16時24分58秒 | Weblog

「入出二門」は、二門あるようで、一門でもある。入った門から出ていく場合が多いだろう。その場合は「入出同門」である。しかし、表門、裏門とある場合もある。この場合も、表門を入って裏門に出れば、「入る」と「出る」は二門になる。裏門から入って表門に抜ける場合も二門だ。

仏の世界、真如界に入ることを往相といい、出ることを還相というらしい。今日のご正忌さんの説法の中にこの言葉が紹介された。親鸞聖人のお言葉か。真如界=仏界に、先ず入ることが先決事項かもしれない。そうするとそこから出て行ける。出て行くときには、しかし、真如界を背中に背負って行けるのであるから、元に戻る訳ではないことになる。

神社は神々の領域である。寺院は仏・菩薩・明王・化仏(けぶつ)の領域である。そこへ足を踏み入れると、変化が起こっているのかも知れない。それぞれの世界を背中に背負って出て来られるのかも知れない。「入る」というのは自利の完成、つまり「人間完成」の謂、「出る」というのは利他の働きに出動することか。

そういう自利利他の「空間」の役割を神社や寺院が担っているのかもしれない。そこへ入って行けば、出る時には微妙な変化が起こっているのかも知れない。仏智=仏の智慧に「感染している」場合があるのかもしれない。

「煩悩即菩提」も二門あるようで一門である。「梵我一如」の「一如」は、一つの門(同門)を入ったり出たりしているということかもしれない。

今日は檀家寺のご正忌さん(宗祖親鸞聖人のご命日)の法縁に与った。変化がわたしの中に起こったかどうかは定かではないけれども、ともかくもお寺(仏縁にあずかる空間)という「空間」に入って、そこを出て来た。目に見えぬが、意味があったのかも知れない。

「入出二門」はもっと違った解釈をすべきかも知れないが、今日の所では僕はそんな風に考えたことだった。

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今日の中に昨日と明日が含められて同居している

2018年01月28日 16時13分13秒 | Weblog

豆は実なのか、種なのか。花が咲いて、雄蘂雌蘂が受粉すると結実する。それを土に埋めるとそこからまた発芽するので、これは種でもある。種が発芽するのに必要な栄養分がその実の中に貯えられている。実と種との境目は何処なのか。時間の推移がそれを決めているのかも知れない。結果はすぐに原因となる。一つの結果は次の原因を含んでいるようだ。切れ目がないのかもしれない。人間の生活もまた同じようなことが言えるのかも知れない。今日の中に昨日と明日が含められている。案外この三者は、単独では存在し得ず、常に「同居している」とも言えそうだ。植物の実(種)を見ていると、そこに「いのちの連続性」を見る思いがする。

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宝石のような青い海の宮古島へまた行ってみたくなった

2018年01月28日 11時16分24秒 | Weblog

で、それから、アカシックレコード・リーデイングをするレコーダー「玉愛あみのオフィシャルサイト」をネット検索して見ていた。もう随分前に宮古島で買ったパワーストーンのブレスレットのメンテナンスを申し込もうと思って。娘たちにプレゼントしたのがもう擦り切れ寸前らしい。実は、彼女に京都でアカシックレコードもしてもらったことがある。わたしの人生の過去へ過去へ遡ってもらった。「虚空図書館の人生記録」は仏教の深い潜在意識「アラヤシキ」に通じている。また宮古島に行ってもいいな。宝石のような青い海は感動の海だ。空港でレンタカーを借りて数日島を巡ることができる。

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「おはよう」ではなくてもう「おそいよう」かな

2018年01月28日 10時55分05秒 | Weblog

おはようございます。もう、「おはよう」ではなくて、「おそいよう」かもしれないけど。なにしろ、目覚めたのが9時。9時起きは珍しい。夜中、何度も寝て起きて、寝て起きてた。朝ご飯は久しぶりにお粥だった。さらさらしたお粥。これが好き。鰹節かけ高菜の一夜漬けと梅干しとを混ぜて、啜り込んだ。お替わりもした。白菜と茸の味噌汁もおいしかった。

雨とも雪とも言えぬその中間ぐらいのが降っている、霏々として。空は灰色をしている。今日は檀家寺の説法を聴きに行く。午後から。お斎(とき)も出される。精進料理の食事だ。浄土真宗宗祖親鸞聖人を偲ぶ会「お正忌さん」である。本堂は広い。寒いだろうな。風邪が流行っているから、人が集まるところは風邪の蔓延に要注意だ。

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