毎日新聞社10月16日夕刊に載っていた内容です。
「秘境駅に魅せられて」というタイトルに惹かれてしまいました。
JR東海が5月のゴールテンウィークに「飯田線秘境駅号」を募集したところ、全席指定席の予約があっという間に埋まるほどの人気が出た。
鉄道ファンだけではなく、中高年や家族連れに人気が出たため、その企画は来年2月まで続くそうです。
そのブームの火付け役は「秘境駅へ行こう!」の著者、牛山隆信さん。
秘境駅人気の秘密は「何もなく不便な場所だが、日常とは全く違う世界。訪れた人の想像をかき立てる郷愁を誘う。その魅力が人を引きつけるのではないか」と牛山さんは語ると書かれています。
何にもない青ヶ島に魅力を感じるのは何ででしょうか~と今まで疑問に思っていたのがやっと解き明かせました。
まさしく、牛山さんのお言葉のとおりです。
秘境駅ランキングトップ10
1 小幌(こぼろ)駅 北海道・JR室蘭線
2 小和田(こわだ)駅 静岡県・JR飯田線(付近に静岡・長野・愛知の県境表示あり)
3 尾盛(おもり)駅 静岡県・大井川鉄道井川線
4 田本(たもと)駅 長野県・JR飯田線
5 八ツ森(やつもり)駅 宮城県・JR仙石線
6 押角(おしかど)駅 岩手県・JR岩泉線
7 坪尻(つぼじり)駅 徳島県・JR土讃線
8 大志田(おおしだ)駅 岩手県・JR山田線
9 古瀬(ふるせ)駅 北海道・JR根室線
10 浅岸(あさぎし)駅 岩手県・JR山田線
1~10位の中で行ったことがあるのは岩手県の押角駅、3回も訪ねてしまいました。(笑)
201系といえば、国鉄時代から中央線(東京~高尾間がメインだが、山梨県の大月、さらに富士急線の河口湖まで乗り入れ。現在は201系から新しいE233系にバトンタッチ、河口湖~東京間は1日2本のみ運行。
上りは河口湖 5:48 → 東京 8:27
6:18 → 8:56
下りは 東京 18:09 → 河口湖21:09
19:12 → 22:04
河口湖から東京行きが設定されているのは通勤客がいるからでしょうか。
ボロ房線も上総湊を7時1分に出て、東京には8時40分着も新型E233系で運行。JR千葉支社は真新しいのが出るともったいぶる傾向があるので、しばらくこの先になるだろうと思ったら、運行初日の7月1日から内房(東京湾側)・外房線(太平洋側)に乗り入れる車両はすべて新型でした。
(房総半島の電車は塩害に強い国鉄の古い車両が使われているので、「ボロ房線」と最初に名付けたのは私なのに、他のブログを見ていると浸透しつつあるそうだ。JR千葉支社にお下がりではなく、最初から新製のE233系を導入したのは喝采を送ります)
201系の話になるところが、話をすっかりそらしてしまいました。
今の中央線は完璧にオレンジ色帯の軽量ステンレス製車両に置き換えてしまいましたが、数年前までは昭和54(1979)年に登場した、全面がオレンジ色の201系が主力でした。
老朽化に伴い次々と引退し、最後まで残っていた1編成が10月17日、豊田(東京都)~松本(長野県)間の192.3キロの廃車回送を旅客扱いの臨時電車に転じ、抽選で400名(10両編成なので、1両あたり40人)に選ばれたファンの方々を乗せ、ラストラン。
・JR東日本・八王子支社のキャンペーン
「201系」「さようなら201系」を検索すると、実際に乗られた方のブログで報告されています。
色あせた古い車両ではなく、新製時の姿に戻し、方向幕も「さようなら201系 豊田→松本」もセッティング。
全面オレンジ色の電車は2度と首都圏も舞い戻ることはなく、まるでスクラップ(解体工場)までの野辺送りのようです。
201系といえば、ずっと昔、東京でサラリーマンをやっていた頃、お世話になりました。
30年も本当にお疲れ様でした~。
三鷹または中野で地下鉄東西線に乗り換えて大手町方面へというようなルートですが・・・運よく座れた場合は終点東京まで。中野~東京間は乗り越し清算210円は着席料だと割り切っていたみたいです。
過去に千葉から奥多摩行きの「ホリデー快速」がこのオレンジ色の201系が運用されていたことがありました。
千葉発の方向幕は「ホリデー快速 奥多摩」。
奥多摩発千葉行きはさすがに用意されていなかったのか、「臨時」。
ホリデーパス券(当時2040円)でわざわざ201系で奥多摩へ出かけてみたときの記憶は・・・千葉を出ると、停車駅は総武快速線と同じく稲毛、津田沼、船橋、市川、錦糸町。
錦糸町を出ると地下に潜るはずなのに、総武線各駅停車のレールに乗り入れ、御茶ノ水。
立川まではホリデー快速と同じ停車駅、西立川、拝島、福生(ふっさ)、青梅、御嶽、奥多摩。
千葉からぶっ通し乗り換えなしで3時間!!でした。
ず~っと奥多摩まで乗り通した、変な人は私だけだったかも知れません・・・。
3時間ぶっ通しでもトイレなし車両でもよく我慢できたかも??
オレンジ色の201系が千葉駅に入るのは珍しい風景だと思い、何枚か撮ったのに、保存先のハードディクスがクラッシュしたため、画像データ消滅。
韓国最北限の駅、新炭里(シンタンリ)駅周辺の写真もあったのに・・・。
写真などの大切なデータはパソコン本体には保存せず、外付けハードディクスか、DVDなどのメディアに移して保存したほうがよさそうです。
<追伸>
まだまだ使える車両をスクラップにするのはもったいないので、大阪環状線も同じオレンジ色。そこに譲ればいいのに、JR会社(東京は東日本、大阪は西日本)が異なるからと理由により、譲渡はしていないようです。
モノを大切にするエコロジーの時代になっているので、ほかの用途に転用すればいいのにな~と思っています。
たとえば、わが故郷を擁するJR西日本広島支社。山陰線も国鉄時代からのディーゼルカーが使われているし、電車も103系(昭和30年代の高度経済成長期に導入されたもの)。
あまりにも古すぎる印象がするので、中央線の201系を広島支社に譲り、201系より古い103系を淘汰させる方法もある。
これがエコロジーの活用方法だと思うが、会社が異なるからという理由で片付くのはもったいない。
京都土産といえば、「生八つ橋」が有名です。
保存料などの化学添加剤をいっさい使わないので、日持ちさせるのはちょっと難しい。現地から発送したほうが賞味期限に間に合う。
お土産店で直接発送することはできますが、手数料も少し上乗せされるので、送料が高くなってしまいます。駅前の中央郵便局に持ち込み、自分で梱包したほうが安上がり。
私と同じようなことを考えている人が多いのか、梱包資材やテープやはさみなどが常備してありました。
鉄道輸送に頼っていた昔は県庁所在地の駅前に必ず中央郵便局がありました。
丸の内側にあった旧東京中央郵便局も地下道で東京駅ホームに直結していたと聞いたことがあります。
今の時代はトラック輸送に変わってしまい、東京中央郵便局は集配を行わない普通の「郵便局」になり、23区と伊豆諸島・小笠原における集配は江東区の「新東京支店」に集約。
伊豆諸島全地域・小笠原も配達を行う組織は「新東京支店」を冠し、御蔵島集配所や青ヶ島集配所といったような表示になります。
郵便局窓口で差し出したものは、原則として窓口で押印なのに、それを省略し、日本郵便事業に任せるところもあるそうです。
たとえば、青ヶ島郵便局の窓口で差し出したのに、消印は「新東京」。
郵便業界に詳しくない受取人が見たら、消印が「新東京」ならば内地からだと誤解してしまいそう。
銀座支店大手町分室の消印みたいに「新東京」の下に小さく集配所や集配センターを示す「青ヶ島」や「小笠原」といったように改まって欲しいです。
京都駅前の高さ131メートルの京都タワー。
1964(昭和39)年竣工。
欲しいものを物色。結局買わず・・・。
楽天市場で探したほうが同じ商品でも最安値が出るところもあるし・・・。
ターゲットの商品を見つけると、価格.comを携帯電話で価格調査。
それとほぼ同じ値段か安ければ、迷わず購入。
たとえば、79800円の値札でも楽天市場で探せば39800円という商品もある。
なんと4万円の差額があるなんて信じられません・・・。
これは青ヶ島の島民から頂戴しました、10月12日の空模様。
私の拙いブログを読んでくれる島民がいらっしゃるのは嬉しいです。
いつもありがとうございます
10月12日の空模様がとてもきれいだったということは、
青ヶ島に暮らす +++1/200シンプルライフ+++ にも紹介されています。
とてもきれ~な夕景。
ここで見る夕景は何とも思わないのに、青ヶ島ならでの夕景ですね。
(2010年10月12日)
10月にしては台風13号発生。西のほうへ移動しているので、日本列島への影響はないみたいです。
例年なら13号はほとんど8月に発生しているのに、10月の半ばになって発生とはかなり遅いほうだと思います。
青ヶ島滞在中は運悪く台風4号発生。台湾と沖縄の間で発生し、そのまま北のほうに向かい、九州と中国の真ん中の東シナ海を通り、韓国の済州島(チェジュト)で右折し、日本海に抜けていったのに、青ヶ島にも大きな影響が・・・・。
三宝港に波がかぶっていれば、欠航。今度船が来るのは、たぶん土曜日か来週の月曜日になるらしい。
(今日は8月11日なので、3日後、5日後になってしまいます。厳しい自然環境なので、青ヶ島に渡るのに相当余裕を持たなければなりません。今年は台風の発生が少ないので、予定になるとおりでしょうと思っていたのが大きな誤算でした)
青ヶ島は波高2.5メートルか3メートル出ていれば就航は厳しいのに、1000キロ離れた小笠原は台風12号(9月25日)襲撃中。それでも「おがさわら丸」は就航していました。出港日を繰り上げたというのに、台風12号がまるで「おがさわら丸」を追いかけるかように進路も全く同じでした。
波高6~7メートルはあったでしょう。
横になってもすごく船が傾き、今にでも横転しそうな感じだったそうです。
怪我人も出たため、三宅島に緊急寄港し、ヘリコプターで病院に搬送するハプニングも発生しました。
伊豆諸島、小笠原で急患者が出た場合の搬送先は屋上にヘリポートが備えられている都立広尾病院(渋谷区)か、房総半島最南端の大きな亀田総合病院(千葉県鴨川市)のようです。1秒でも一刻を争うような症状でしたら、比較的近い鴨川の亀田総合病院屋上のヘリポートに着陸するらしい。 8月11日の夕食はカツオのマリネ、カツオの煮付け、マカロニサラダ、豚肉の串刺し、島きゅうり。
民宿の女将さんは本当に大変ですねぇ・・・。
宿泊客に提供する献立を考えながら何品かを数人分作る。
ここの女将さんは青ヶ島好きが高じて、本当に移住。
青ヶ島の男性に嫁ぐ方が多いようです。
8月はカツオが豊漁のようなので、食卓にカツオ料理ばかり並びます。
春先の3月はトビウオなので、もしかするとトビウオ料理ばかりかな。
ハン尚宮(母)の楽しみはその土地のお土産なので、最終日にショッピング。
事前リサーチしたところ、烏丸(からすま)口のジェイアール京都伊勢丹と、新幹線側の八条口のイオンモールKYOTO。
ハン尚宮いわく「小倉駅も伊勢丹だよね?」
ここに転居する前の2004(平成16)年にオープン、わずか3年後の2007年のクリスマスの日に撤退したのは聞いたことがあるので、「小倉の伊勢丹はもうなくなっている」
「えっ!?伊勢丹の前は玉屋、その前はそごうだったでしょう?」
「駅前は江戸時代からのお寺と墓地があり、駅前開発に伴い、墓地をほかの場所に移転したため、眠っていた霊が・・・・という話を聞いたことがあるので、駅前の一等地でありながら次々と入れ替えているみたい」
山口の故郷で暮らしていた頃、小倉そごうがオープン。その直後、「地階のお手洗い付近で幽霊がよく出るスポット」として噂されていたところです。ローカル新聞などで「小倉そごうで怪現象?」と掲載されたときは興味津々で読んだのは記憶にあります。
もともと墓地として人骨が安置されていた空間なので、お手洗いにされては霊の訴えなのかも知れません。
小倉駅前に行ったのは何年前でしたっけ?思い出してみると、10年以上も行っていないことが判明。
小倉伊勢丹が撤退し、1年以上は幽霊ビルとして放置されていましたが、やっと私が子供のときからあった老舗井筒屋の「コレット館」に生まれ変わったそうです。
母がいつも小倉で買い物するとしたら、井筒屋。本館は玄関に彩りの明かりで装飾された噴水があり、化粧品のほのかな香りが漂うところでした。今も子供のときに見た風景と変わらないかなと気になるところです。
京都の話をするところが、小倉に脱線してしまいました・・・。 イオンモールKYOTO内の韓国家庭料理の「???」(チェコヤ)。
ハングルそのまま日本語にすると「最高だ~!」。
韓国ドラマの「チャングムの誓い」・・・韓国で放映されてからもう6年経つのにストーリーをちゃっかり覚えているのはインパクトのあるテレビドラマだったからでしょう。
最高尚宮も「チェコサングン」と言っていたので、??(チェコ)も「最高」という意味になります。
?????(ヘムル ビビンパム)・・・海鮮ビビンパ。
韓国も日本と同じく海に囲まれた国。
注文するときは海鮮でなきゃ・・・。 ?????(トルソッ ビビンパム)・・・石焼きビビンパ。
韓国定番料理です。
韓国料理店だと必ず注文してしまう、一品。 ????(ヘムル シヂム)・・・海鮮チヂミ。
京都だというのに、海鮮物ばかり。
京都のイメージは「和」のはずなのに、韓国料理とはちょっと不釣り合いがも知れませんが、ここのお店は美味しかったです。
久しぶりに本場韓国に行ったような気分をさせてくれます。
ここは都道236号線から分岐する、村道のようです。
このまま進めばヘリポートに行けます。
この道を島民の間では通称「猫坂」だそうです。
沿道に猫がいっぱいいるので、クルマの運転には気を付けなければならないとか・・・。
2007年7月の猫坂。
さすがにクルマでその道に進入する勇気はありませんでした。(アップダウンが激しく、轍の跡からにすると1台しか通れません) かわいい猫がいっぱい!!
初対面でも平気に懐いてくれるのにビックリ。
青ヶ島の人たちは猫を可愛がっている証拠ですね。 猫坂から見える、青ヶ島伝統住宅。
青ヶ島の木材で建てられ、台風でも耐えるように低く建てられているのが特徴です。
ヘリポートを横切ろうとすると、後ろから人が近づく気配がします。
振り向くと自転車に乗った少年。
「どこに行くんですか~?」と話しかけられたと思うので、バックからメモを取り出し、「あそこの神社に行こうと思って・・・」
「ふーん」といった顔つきで帰ってしまいました。
あそこの神社とはヘリポートの奥に佇んでいる金毘羅神社。
神社まで見るなんて、よほど変わり者なんだな~?と思われたかも知れません・・・。 天明の噴火が起きたのは1785(天明5)年。
お隣の八丈島に避難し、およそ50年は無人島でした。
佐々木次郎太夫が青ヶ島に戻り、復興に尽力しました。
八丈島からの連絡船「還住丸」は「自分の生まれ育った故郷に還って、住む」という意味合いもあります。
もし、彼がいなかったら、東京都八丈支庁に属する無人島になっていたかも知れません。
2007年7月にも参拝。
黒潮を横切るのに大変難しい航路だというのに、佐々木次郎太夫は事故もなく還住に成功。
そのため、海上交通の守り神として金毘羅大権現を勧請したといわれています。
前代の村営のあおがしま丸から伊豆諸島開発に引き継いでも海難事故は1度も起きていません。
金毘羅神社のご加護もあると考えられます。
これからもずっとご加護があるのを祈りつつ、帰途につきました。
三連休最後の日はよいお天気でした。
掃除機を使うと、フローリングに傷跡がうっすらと出ていました。
ブラシの裏側を見ると、無数のゴミがこびりつき、ローラーが回転できずに筋のような傷ができてしまったわけです。
今日はまぶしいほどのお天道さま。
ブラシをきれいに掃除すると、長年も手入れしていないせいか、ま~っ黒でした。
日の当たる場所で乾燥させ、再び掃除機をかけてみると、傷が出てこなくなりました。
たかが掃除機でも日頃から手入れが必要だったのです。 今日の昼は28度でした。
10月にしては夏日は珍しい。
この程度でエアコンを欲することはないのに、スーパーやコンビニではエアコンが入っていました。
まるでここは沖縄のようです。(当日の最高気温29度、最低24度)
夜になっても、ご覧の通り26.4度でした。
今年は猛暑だし、異常気象はこの先も続くでしょう。 山口の伯母からまた鮮魚が送られてきました。
ブリとカワハギでした。
顔見知りになっている宅急便の配達員も「この家だけ、細長くてでかい発泡スチロールばかり」と思われてしまったかも知れません・・・。 ブリのあらの煮付け。
身を切り抜いても、骨に付着している身も立派な食材。
捨てるには忍びないので、あらの煮付けにして、1匹まるごと残さずいただきました。本当にごちそうさまでした~!!
いつも故郷の鮮魚ばかり送ってくれる伯母さん、ありがとうございます
青ヶ島の牛祭りは毎年8月10日。
あれからもう2ヶ月なのに、青ヶ島の話はまだ続きます。
日本一の秘境村に滞在する優越感をかみしめながら、あちこち取材してしまいました。
ここは青ヶ島村西郷長ノ平の黒毛和牛の牧場。
青ヶ島は基本的に全地域「無番地」ですが、細かな地名もあります。
「西郷」(セイシゴウ)、「休戸郷(ヤスンドゴウ)」、「中原(ナカハラ)」、「長ノ平(ナガノダイラ)」これらの地名をまとめて「岡部(オカベ)」。
「池ノ沢(イケノサワ)」、焼酎あおちゅうの銘柄にもなっている「恋ヶ奥(コイガオク)」。
青ヶ島で人が暮らしている、「岡部地区」です。
隣の家までかなり離れていますね。
夜になれば、明かりも騒音も全くなく、静粛の闇に包まれそうです。
都会の喧騒さから逃れるのに最適な場所かも知れません。(ここでも日本の首都、東京都ですが・・・)
毎日夕方5時の時報に「もうもう牛さん」のメロディーが流れます。
島民はもううんざりするほど耳にしているかな。
「もうもう牛さん」の歌詞は
♪ もうもう牛さん ご苦労さん
重いお荷物 背に乗せて
あの坂 この坂 やっとこどっこい
黙って働く 牛さんに
なんとお礼を申しましょ♪
「こっちにも見晴らしがいいですよ~」と牛を飼っているおばさんに案内された場所です。
ジョウマンが見えますね。
1年を通して温暖な気候であること、背高く茂る草がたくさんあること。
ここで和牛を育てるのに適しているかも知れません。
ちなみに毎日正午のメロディーは「池ノ沢」。
歌詞は
♪ 東海 孤島の 青ヶ島
緑も深き 池ノ沢
赤い椿の うるわしさ
芭蕉の葉陰で 月を見る
青ヶ島 青ヶ島
われらの 青ヶ島 ♪
うちの職場では「ピンポンパンポーン」を3回繰り返すチャイムなので、あまりにも素っ気ない。
正午のチャイムは「池ノ沢」、5時は「もうもう牛さん」を流したいな~。
ミラーを使って幻想的な写真作品を編み出すのが得意なヨングクさんを真似てみました。
これが幻想的な構図なのかとツッコまれそうですが・・・(笑)
最後に「もうもう牛さん」の動画です。
毎年5月1日から9月30日まで、鴨川沿いの飲食店が納涼川床としてのスペースを提供しています。
川床でのランチ(昼食)は5月と9月のみになります。
ネットでリサーチしたところ、夜は京の食材をふんだんに使われた、中華料理の「北京料理・東華菜館」をセレクト。
「いらっしゃいませ~!!お席は川床と部屋、どちらになさいますか?」
9月10日の京都は蒸し暑い夜でした。
私はできるだけ京の風情を味わいたく、川床にしたがったのですが、ハン尚宮(母)がエアコンの効いている部屋の中をリクエスト。 国内で現存する、最古のエレベーター。
1924(大正13)年製造のアメリカ製。
今年は2010年なので、計算してみるとなんと86年前。
エレベーターを操作する専任スタッフが行先のボタンを押したり、手動で扉を開けたり・・・。
針で階数を知らせる、アナログ的な計器も・・・。
スーッと穏やかな止め方ではなく、弾性のようなが多少感じられます。 中国っぽい雰囲気が漂う室内。
メニューを取ってみると、中国語!!
中国語を日本語に翻訳されたものも併記されていますが、とても長くてどんな料理なのかわからない。日本語で書かれてもわからないなんて、そんなのあり!?
店員さんを呼び、「中国語で書かれていても、さっぱりわかりません。予算の範囲内でおすすめのメニューをセレクトしてくれませんか?」とお願いすると、「はい、かしこまりました。私のおすすめは・・・これと、これ、これ、これ・・・」とメニューに指差す。
「うまく、予算内におさまりましたね。では、料理が運ばれるまでお待ちください」
次々と一品ずつお料理が運ばれてきました。
暖かいうちに召し上がっていただくのがお店の方針なのか、一品の食べ終えた頃を見計らい、運ばれてきました。
全部で6品。いろいろな料理を味わっているうちに満腹になってしまいました。
写真には写っていませんが、チャーハンもすごく美味しかった。
チャーハンは2人前がおすすめですと言われたのに、お皿は1つしかありません。
いくら待っても、運ばれてきませんでした。
「あ、あの~、チャーハンを待っていますけど・・・」
店員さん「チャーハンをご注文ですか?」
「チャーハンは2人分だったと思いますけど、お皿が1つしか運ばれてきませんでしたが」
店員さん「あっ、1つのお皿で2人前になっています」
1つのお皿にしては多いな~と思いながらあっという間に平らげ、それでも足りないとあと1皿を待っていた私が恥ずかしい。
店員さんも(1つの皿に2人分盛り込んだのに、大食いやな)と思われたかも。
すごく美味しかったので、また1皿来るかもと期待してしまうのも仕方がありません・・・。
とても美味しかったです。ごちそうさま!!
ここは東華菜館の川床です。
夏の間は川の涼みを求めながらの食事は格別になるでしょう。 帰りはタクシーではなく、ホテルまで2キロを徒歩。
2キロは30分くらいあれば、辿り着ける。
ハン尚宮(母)はふだんVIP待遇のクルマなので、すぐタクシーに頼ってしまいますが、今回は健康のためウォーキング。
四条駅までショッピングアーケードなので、いろんなお店を眺めながら歩くと楽しかったです。
青ヶ島村立図書館は教育委員会が運営していますので、開館時間中は青ヶ島小中学校関係者が駐在しています。
ちょうど学校が終わるごろに図書館が開くため、平日14時30分から17時10分まで。
毎週土曜日と祝日は休館、日曜日開館は10月3日・17日・31日。
村立図書館なので、東京都立図書館との相互協力貸出も行われています。 新しく生まれ変わった図書館は、青ヶ島に関する郷土資料がたくさん所蔵されるようになりました。
マニア向けの本はやはり、小学校社会科副読本の「わたしたちの青ヶ島」。1冊まるごと、歴史から現代まで全部詰まっています。 こちらは中学生向けの本です。
2冊とも我が家の家宝にしたいですけど、入手方法は・・・・・。
手元になぜか「わたしたちの小笠原」の副読本を持っています。
2002(平成14)年、ははじま丸でちょうど教育委員会の方と知り合い、「わたしたちの小笠原」という本が欲しいですけど、いただけるかな?」と厚かましくもお願いしたところ、「父島に着いたら、村役場に来てください。差し上げますよ」
小笠原に関する情報満載の本でした。
「わたしたちの青ヶ島」も欲しいな~。(笑)
新しく生まれ変わった図書館のビデオをアップします。
日本図書館十進法に従った並び方なので、探したい本を簡単に見つけられるようになりました。
郷土資料展示、高津勉先生寄贈の小中学校着任期間中の写真集、「わたしたちの青ヶ島」の中身。
1999年と2007年の図書館内部も紹介します。(この動画がアップされたのは2008年7月31日)
亀岡を出てから2時間近く。
保津峡下りも終わりに近付くと移動売店船(?)が我らの船と並走するように、飲み物やおでん、イカ焼き、お菓子などいろいろなものを売りに来ます。
ちょうどお腹も減ってきたし、アツアツのおでんと団子を注文。
美味しかったで~す!! まもなく、嵐山の川下り降り場に到着。
渓谷に沿うような16キロの川下り2時間とは思えないほど、あっという間でした。
3人の職人さん、本当にお疲れ様。
特にお年寄りとは思えないほどの艪漕ぎは素晴らしい。
出発からずっと終点まで、休憩タイムはほんの20分だけ。しんどかったでしょうか。
天井の部屋を取り外し、トラックで上流の出発時点に運ばれるそうです。 「嵯峨とうふ稲」というところでランチ。
全席禁煙なので、刺激の強すぎる紫煙に気にせず、心行くまで食事を楽しめるところです。
9月とはいえ、夏真っ盛り。
冷やしソーメンセットを注文すると、京都おばんざいを盛り込んだ、豪勢なご膳が運ばれてきました。
こういう食事は低カロリーだし、栄養満点。この近くでもそのようなお店があればいいな~。 嵯峨嵐山駅。
時刻表を見ると、最終電車は0時22分 園部行き。
園部に着くのは0時50分。
山口県も同じ山陰本線。そちらの店じまいは早い(下関22:00→滝部23:09)のに、同じ路線とは思えず。
ちなみに首都圏で宵っ張りは高尾駅1時37分着。(東京始発0時20分快速)
京阪神圏は西明石駅1時36分着。(京都始発23時35分各駅停車)
かつて「絶海の孤島」「鳥も通わぬ島」と言われた八丈島。これまで古から連綿と受け継がれてきた「八丈語」が、いま文化・交通の発達により、失われかけている。本書は八丈三島(八丈・小島・青ヶ島)の八つの地区に残る貴重な島言葉(1427語)を収集したものである。
新刊案内でも「青ヶ島」の文字を見逃さず、丹念にチェック。
著者:山田 平右エ門
出版社:郁朋社 (2010年9月23日 発行)
ページ数 191ページ /大きさ 21センチ・ A5判
ISBN: 9784873024776
NDC: 818.36 (言語-日本語-方言・訛語-東京都)
価格:1575円
中身はまだ読んでいませんが、八丈島、八丈小島、青ヶ島で使われていた島言葉1427語も収録しているなんて貴重な本。
私の知っている島言葉は、青ヶ島で普段話されている、「おじゃりやれ」は「ようこそ」、「おもうわよう」は「さようなら」、「わせ」は「いらっしゃい」の3つくらいかな。
青ヶ島の人たちと話・・・(筆談ですが)をしても、天下の東京都に属しているので、島言葉を全く使わない100%標準語でした。
高津勉先生の文献を読んでみると、昭和25年初めて青ヶ島に赴任した日、島の子供たちに歓迎されていたのですが、言葉は全く理解できなかったと書かれています。
ちょうど島言葉と標準語のバイリンガルを話せる生徒がいたので、通訳してもらったとか・・・。
たとえば、「ヒックグル」は寝る、「カンヨメ」は猫、「ヤスミヤッタカ?(休みやったか?)」は「おはよう」、「~タモゥレ」は「~してください」といったように、初めて聞く人にとっては理解できるわけではありません。
青ヶ島に電燈が入ったのは、昭和41(1966)年11月1日。多くの発電機材は船と艀で運ばれてきましたが、巨大な発電機はそれらの手段では到底無理なため、自衛隊の大型ヘリコプターで空輸。
しかし、今みたいに24時間使えるのではなく、発電機の稼働時間は夕方5時から午後10時まで。それまでは薄暗いランプの下で不自由な生活を余儀なくされていたので、昼のような明るい電燈は斬新だったそうです。
テレビも集会所の1ヶ所しかなく、子供から大人まで(当時の人口250名)ぎっしりと集まり、普段目にすることのない内地での話題に興奮をおさえていたそうです。
島言葉で話していた子供たちもテレビで覚えた標準語を話すようになり、少しずつ変化が起きるようになったのはその頃からだそうです。
今の子供たちは上に書かれているとおり、知っている島言葉は3つくらいしか知らないだろうと思います。
あれからもう40年。内地との格差はほぼなくなりましたが、残るのは現在工事中の地上デジタル。今度の青ヶ島はきっと、くっきりした美しい映像に字幕も楽しめるようになるかも知れませんね。
「住民基本台帳人口要覧 平成22年版(平成22年3月31日現在の全国市区町村別の男女・年齢別人口、世帯数、人口動態) 出版社:国土地理協会」に載っていたデータです。
今年3月31日は異動などもあり、男性100名、女性65名 合計165名になっていました。
9月1日現在のデータは 男性104名、女性73名 合計177名。 実際のデータでは、0~5歳、5~9歳、10~14歳・・・といったように細かなデータになっていましたが、ここではおおまかに0~19歳、20~29歳といったように分類してみました。
中学校を卒業すると親元から離れ、八丈島か東京の高校に進学しなければならないので15~19歳は空白になっています。(0~19歳といっても、乳児から中学生まで) これは年齢別比率です。
中学生まで 19%
20歳から59歳まで 生産人口は65%
60歳以上は16%でした。
過疎地における若年層の流出が多いのに、青ヶ島は都道236号線を修復する工事関係者、島の健康を守るお医者さんや看護師さん、保健師さん、保育士さん、治安を守る駐在所のお巡りさんはほとんど20代から30代なので、日本一ミニ自治体とはいえ、若い人ばかりです。
住民票を取り寄せると、前住居地の住所が記載されます。
前のアパートに住んでいたときの住民票は前住所地の東京都・・・が記載されていましたが、今のところに転居すると、前住居地はアパートの住所になっています。
そのアパートはワケあって「恐怖の館」と名付けているので、もう思い出したくないな。
青ヶ島村に旅行で滞在するだけで住民票も一時異動すれば、前住所地は「東京都青ヶ島村無番地」と記載されるわけですが・・・・・このやり方はどうかと調べてみました。
住民基本台帳法を読んでも、転居してから14日以内に市町村に届け出をしなければならないと書かれていて、旅行のため住民票を移して数日間で出ていくのはダメだとかは書かれていません。
しかし、社会通念から見ると、生活の本拠地ではなく、旅行中の一時滞在と認識されるため、受理はできないそうです。
もし、本当に青ヶ島村に住民票を移して、わずか数日間で転出届だとすると虚偽申告でなくても詳しい事情を聞かれてしまいそうです。