地銀はついに彼に言いました。
「会長、仕方ありません。あのビルを競売させて頂きます。
それには会長のところを不良債権にしなければなりませんが、
帰社し次第、期限の利益の喪失通知を送らせて頂きます。」
戦後からこの地で大きく商売を続け、風靡を重ねた彼の最後の
瞬間でした。
昭和の頃は、まさに彼の天下とも言うべきでした。
木材業をはじめ、関連会社を3社つくり、その何れもの
羽振りが良かったのです。公庫と地銀と信金、この3行が
メイン銀行でした。
10年ほど前から少し狂ってきました。返済が条件通りに出来ません。
返済する元金は減り気味で、特に、此処4-5年は金利だけです。
彼の子会社の本社ビルを担保にして居る地銀は、手形切り替えの
条件に、最初は担保の売却依頼でしたが、ついに任売で売れないと、
次の手形は切り替えせず、しかも担保は競売しますと言い出し他のです。
地銀が此処まで彼を追い詰めるのには、なみなみならぬ時間を
掛けております。支店長や担当者が代わっても、一貫した態度で、
ついに昨年彼にこの条件を了承させたのです。
こう決まる前でも、彼も謙虚に任売をしようと勤めました。
相場は債務の30%くらいです。
しかし彼はその倍近い70%くらいで売りに出ています。
何よりも残債を気にして居るのです。売れる筈がありません。
地銀は忠告しました。
しかし彼は残債の返済を盾に取って下げようともしません。
銀行は彼のこの姿勢を、「売りたくない。」と判断をしたのです。
そこで「売れない時は競売」と通告したのです。
さすがに期限寸前に時価まで下げましたが、既に不動産の動きは
全然無く、地銀は彼に約束通りにさせて頂きますと宣言したのです。
彼は地銀と約束したときから、会社の引き際を覚悟して居ります。
一方では其の準備も初め出しました。
本社工場と自宅の不動産は残したい。
本社工場で事業は続けたい。
其れだけを考えて着々と手は打っていたのです。
自宅は幸い違う銀行のローンが残っていたため、彼から息子に
ローンも借主を変えました。3行の保証人は彼だけです。
自宅の下位には地銀mp担保がありましたがハンコ代で
解いてもらいました。借地が入り混じった工場の不動産は、
公庫の担保でしたが。親戚の会社に買い取ってもらいました。
そして息子は、第2会社を作ったのです。息子は今までの工場を
借ります。仕入先、販売先には銀行に内緒で債権債務を
引き継いだ為に、騒ぎも置きません。
期限の利益の喪失を言われた時は全て済んでいました。
したがって期限の利益が喪失すると決まったとき、
彼は公庫と信金に通告しました。
「地銀が不良債権になります。差押が始まりますから、
当社は営業続行は出来ないと思います。残念ながら
今後の分は、お支払いが出来無くなりました。」
2行とも噂で地銀との間を知っていたか、大して騒ぎませんでした。
此れで彼は必要な事業と不動産は守ったのです。会社は倒産と
同じですが、新聞での倒産沙汰にはなりません。此れで全ての
不動産が任売でも出来れば、競売騒ぎも一切起こりません。
我ながら良く出来たものです。
不思議なことが起こりました。
良く出来たと思う反面、彼は実に銀行には申し訳ないことをしたと
言う呵責に悩まされだしたのです。戦後60年近く、面倒を見て
もらった銀行だけを裏切るようになったのです。彼はそんな呵責に
悩むようになったのです。
どの銀行も何も言ってきません。競売をすると言った地銀ですら
無言です。此処で、たまらなくなった彼が取った行動は電話です。
担当者・融資課長・支店長、誰にでも電話をする様になったのです。
その時、誰かが「こんな資料が欲しい。」といえば夢中になってそれに
取り掛かったものです。其処までしながら、彼はその間1円も
返済しておりません。妙なものです。
銀行員相手の電話ですから、長くはないものの、電話が多いと
言うことは、つい此方の裏話までしがちです。営業譲渡ではない
第2会社の発生に授受の苦労話が生じます。不動産の買取には
無関係のはずですが、金策苦労の件もチラッと出ます。
その所為かわかりませんが、ついに信金が彼を捕まえて
交渉を始めました。
「この債権は、当分当行が持って居ます。譲渡は考えません。
ひいては今後、払えるだけ毎月払ってもらえませんか。
第2会社にも少し肩代わりして貰ったらどうでしょうか。
工場の買い取りも少しは会長から出ているのではないかと
思います。裁判になれば厄介ですからね。」
彼は信金が言い出しのが自分が元だとは気付いて居りません。
銀行は痛いところをつくなと思っています。
さて信金をどのように説得すべきでしょうか。
↑宜しければ、クリックして下さい
↑こちらのランキングもお願いします
↑こちらのブログランキングもお願いします
↑こちらのランキングもクリックお願いします
「会長、仕方ありません。あのビルを競売させて頂きます。
それには会長のところを不良債権にしなければなりませんが、
帰社し次第、期限の利益の喪失通知を送らせて頂きます。」
戦後からこの地で大きく商売を続け、風靡を重ねた彼の最後の
瞬間でした。
昭和の頃は、まさに彼の天下とも言うべきでした。
木材業をはじめ、関連会社を3社つくり、その何れもの
羽振りが良かったのです。公庫と地銀と信金、この3行が
メイン銀行でした。
10年ほど前から少し狂ってきました。返済が条件通りに出来ません。
返済する元金は減り気味で、特に、此処4-5年は金利だけです。
彼の子会社の本社ビルを担保にして居る地銀は、手形切り替えの
条件に、最初は担保の売却依頼でしたが、ついに任売で売れないと、
次の手形は切り替えせず、しかも担保は競売しますと言い出し他のです。
地銀が此処まで彼を追い詰めるのには、なみなみならぬ時間を
掛けております。支店長や担当者が代わっても、一貫した態度で、
ついに昨年彼にこの条件を了承させたのです。
こう決まる前でも、彼も謙虚に任売をしようと勤めました。
相場は債務の30%くらいです。
しかし彼はその倍近い70%くらいで売りに出ています。
何よりも残債を気にして居るのです。売れる筈がありません。
地銀は忠告しました。
しかし彼は残債の返済を盾に取って下げようともしません。
銀行は彼のこの姿勢を、「売りたくない。」と判断をしたのです。
そこで「売れない時は競売」と通告したのです。
さすがに期限寸前に時価まで下げましたが、既に不動産の動きは
全然無く、地銀は彼に約束通りにさせて頂きますと宣言したのです。
彼は地銀と約束したときから、会社の引き際を覚悟して居ります。
一方では其の準備も初め出しました。
本社工場と自宅の不動産は残したい。
本社工場で事業は続けたい。
其れだけを考えて着々と手は打っていたのです。
自宅は幸い違う銀行のローンが残っていたため、彼から息子に
ローンも借主を変えました。3行の保証人は彼だけです。
自宅の下位には地銀mp担保がありましたがハンコ代で
解いてもらいました。借地が入り混じった工場の不動産は、
公庫の担保でしたが。親戚の会社に買い取ってもらいました。
そして息子は、第2会社を作ったのです。息子は今までの工場を
借ります。仕入先、販売先には銀行に内緒で債権債務を
引き継いだ為に、騒ぎも置きません。
期限の利益の喪失を言われた時は全て済んでいました。
したがって期限の利益が喪失すると決まったとき、
彼は公庫と信金に通告しました。
「地銀が不良債権になります。差押が始まりますから、
当社は営業続行は出来ないと思います。残念ながら
今後の分は、お支払いが出来無くなりました。」
2行とも噂で地銀との間を知っていたか、大して騒ぎませんでした。
此れで彼は必要な事業と不動産は守ったのです。会社は倒産と
同じですが、新聞での倒産沙汰にはなりません。此れで全ての
不動産が任売でも出来れば、競売騒ぎも一切起こりません。
我ながら良く出来たものです。
不思議なことが起こりました。
良く出来たと思う反面、彼は実に銀行には申し訳ないことをしたと
言う呵責に悩まされだしたのです。戦後60年近く、面倒を見て
もらった銀行だけを裏切るようになったのです。彼はそんな呵責に
悩むようになったのです。
どの銀行も何も言ってきません。競売をすると言った地銀ですら
無言です。此処で、たまらなくなった彼が取った行動は電話です。
担当者・融資課長・支店長、誰にでも電話をする様になったのです。
その時、誰かが「こんな資料が欲しい。」といえば夢中になってそれに
取り掛かったものです。其処までしながら、彼はその間1円も
返済しておりません。妙なものです。
銀行員相手の電話ですから、長くはないものの、電話が多いと
言うことは、つい此方の裏話までしがちです。営業譲渡ではない
第2会社の発生に授受の苦労話が生じます。不動産の買取には
無関係のはずですが、金策苦労の件もチラッと出ます。
その所為かわかりませんが、ついに信金が彼を捕まえて
交渉を始めました。
「この債権は、当分当行が持って居ます。譲渡は考えません。
ひいては今後、払えるだけ毎月払ってもらえませんか。
第2会社にも少し肩代わりして貰ったらどうでしょうか。
工場の買い取りも少しは会長から出ているのではないかと
思います。裁判になれば厄介ですからね。」
彼は信金が言い出しのが自分が元だとは気付いて居りません。
銀行は痛いところをつくなと思っています。
さて信金をどのように説得すべきでしょうか。
↑宜しければ、クリックして下さい
↑こちらのランキングもお願いします
↑こちらのブログランキングもお願いします
↑こちらのランキングもクリックお願いします