「京鹿の子絞」
Description / 特徴・産地
京鹿の子絞とは?
京鹿の子絞(きょうかのこしぼり)は、京都府一帯で作られている染織品です。布を糸で括って染め上げる染色技法の1つで、括られた部分が染色されずに白く残ることで模様を表現します。染め上がった模様が子鹿の斑点を連想させるため、「鹿の子絞」と呼ばれるようになりました。
代表的な技法は「疋田絞(ひったしぼり)」や「一目絞(ひとめしぼり)」などで、全部で50種類以上にのぼります。1人1種類の技法を有す技術者が1粒ずつ括り上げ、その特殊な技法に合わせた染色を行います。京鹿の子絞の特徴は、複雑で精巧な括り粒です。精緻(せいち)な括りで表現される独特の立体感は、他の技法ではみることができません。他の染色に比べて完成までの期間が長く、総絞りでは1年半、振り袖では2年以上かかることもあります。
着物や帯などの和装素材として長い間伝承されてきましたが、柔軟な発想の転換により、現在ではファッションやインテリアにも取り入れられるようになっています。
History / 歴史
絞り染めは世界各地でみられる染色技法で、その始まりはインドとされています。日本には仏教などとともに伝わったとされ、6~7世紀頃には日本各地で行われていました。
最古の記録は「万葉集」で、平安初期の歌人が絞り染めについて詠っています。10世紀には宮廷衣装の模様にも用いられるようになり、室町時代から江戸時代初期にかけて「辻が花染(つじがばなぞめ)」として一世を風靡しました。また、各地で技法が改良され、京都一帯では「かのこ」「鹿の子絞」「京鹿の子絞」と呼ばれる技法が確立され、17世紀末には最盛期を迎えます。奢侈(しゃし)禁止令により、贅沢品とされた絞り染めが姿を消した時期もありましたが、その高度な技法は、現在に至るまで着実に受け継がれています。
一方、他の伝統工芸品と同様に後継者不足に直面しており、京鹿の子絞を未来に受け継ぐため研修会や展示会などを通して、若い年代に魅力を発信しています。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kyokanokoshibori/ より
職人の手から手へ。心を括り染めてゆく京鹿の子
絞り括りによって生みだされる立体的な染めの美しさ。下絵師から絞括師、染め分け師、染師、仕上師と職人の手から手へ技と心をつなぎながら生み出されてゆく京鹿の子。鹿の子絞りに乗せられる職人の心と技を追う。
括り(くくり)に母の心を重ね見る疋田絞り
「母の絞りを見よう見真似で」始めたのは12歳のとき。その2年後に母親と死別。今では数少ない疋田絞りの職人、川本和代さんの絞りには、母親から受継いだ技と母への想いが込もっている。こんもりとした丸い指が、生地に刷り込まれた小さな水玉の粒をひとつひとつを摘み括っていく。あま撚りの絹糸は右手指に複雑に掛けられていて、括り拍子を取る。結び目を作っているわけでもないのに、括られた山は硬く均一に隆起して正絹の柔らかな生地からは想像できない程堅い。「疋田絞り」いわゆる総絞りは、仕上げるのに1年はかかる大物だ。慣れるまでは指先から血が滲む程の手仕事。「どんなに急いでても2ついっぺんには括れません」。習い始めの頃「1粒何とか括れるようになっても、その粒が邪魔をして2つ目が括れないんです。苦労してやっと2つ目が括れるようになると、次は2段目が括れません」。これまでのどんな仕事にも「満足できたことがない」という川本さん。一番嬉しかったのは「“おばあちゃんが孫娘の成人式にって作ってくれた着物が仕上がって来たので見てやって”言われて寄せてもらった時のこと。見たらそれ、私が括らしてもろた着物やったんです。言葉が出えへんほど嬉しかった」。一旦括りが終わって手を離れたら、職人が仕上がりを目にするということはまず無いのだという。一目で自分の括りだとわかる。生き別れた我が子を目の当たりにした。そんな想いだったのだろう。
穏やかな人柄。疋田絞りを括っている間、心に浮かぶのはどんな想いなのだろう。括りの中で、まだ幼くして死別した“母親の心”に出会い、その心うちを辿っているようにさえ見える
“丁寧に勝る技術はない”染め分けられた上品なゆらぎ
職人として会得するにはどれ位かかるのだろう。「10年目にようやく“わかった”と思たことなんか、今思えば馬鹿みたいなもんですわ。20年目もそう。ずっと同じで、終りなんてないんとちゃいます?」。“染め分け”家業三代目の山岸和幸さん。しかし幾ら自分の父が師匠と言っても「“習う”のは基本的な部分だけで、後は自分のやりよう」と言う。「うまいこといかんな、と思ったらチラッと親父のやっとるのを見るでしょ。そうして(技を)盗むんです」。分業が特長の京都の伝統工芸。それぞれの職人が自分の任された工程を一級のセンスで仕上げていく。幾ら分業とは言え絵師は絞り括りを考え、染め分けは染を考えて作業をする。「その先を考えた仕事が出来ないと、一人前やないような気がするね。綺麗に染め上がるよう括り方を変え、染めが映えるように染め分けをする」。ただ「どう頑張っても出来ない事もある。そういうときは残念ですねぇ。仕上がったのを見て、あーやっぱりな」と思う。「ああいう絵をかくとこうなるっていうのは絵師に言いますね。そうすると描く人は出来上がりをイメージし易くなるでしょ」。情報と気配りが“鹿の子”一反一反に乗せられ伝達されていく。「人が絶えると技術が絶えるんですわ。知識(技術)は蓄積されるもの。一旦絶えたものを復活させるのは大変なんです」この技と心を、四代目につなげたい。
お金儲けにならないことは楽しい!染め分けの限界を研究し「釣り竿と釣り糸の図案」を試作。趣味の山登りも、一歩一歩踏みしめて頂上を目指す。仕事も趣味も自分との戦い。どう頑張っても太刀打ち出来ないものに挑む
何年続けても、まだ新しい発見があるという。プレッシャーを感じたのは「親父が伝統工芸士になった時。顔を潰す様なものは作れん」と実感した。「年に1、2回この仕事をして良かったと思う“狙い以上”の仕上がり」があると言う。
心に描かれた色を“絞り”にのせる
染師、川本弘さん。「技術を身に付けたい」と17歳で弟子入り。生まれ育った実家の近所に、黒染・無地染・友禅染の染屋さんは沢山あったが「鹿の子絞」にこだわった。「絞りには他の生地物にないものがあるでしょ。平面だけの染色と違うて、生地自体が立体的で何とも言えん味がある」それが川本さんを惹きつけた。1回の染色で1色しか染めることが出来ない“浸染法”。色の指定はあっても「常に色本(色見本)よりも良い色(深みと光沢のある色)を出すことを心掛けている」と言う。最終工程に近い染師の技量は、それまで関わった全ての工程・全ての職人の技を引き受ける。「ちょっと気になったから言うて、直しが入れられないんです。染めは液体に浸ける訳やから、薄めの色から慎重に合わせていくんです」。一寸の油断も許されない。一瞬で全てが決まってしまう、染めの難しさだ。「弟子入りして5年間、(染色釜の)薪割りしかさして貰えなくて、逃げ出したことがあったなぁ。何しにここに来たんか分からん言うてね。でもホンマのとこ言うて、事が大きいだけに親方も不安やったんやと思いますわ。鹿の子一反、丸々任せる訳ですから」。夏は釜の湯気で蒸し暑く、冬は底冷えする作業場に立ち続けて50年。一度だけ失敗した。染め過ぎた。絞りの白地まで染め切ったのだ。染料会社が同じ品名・品番で、染料の成分を変更していたのだ。心に楔を打つ為、「今も手元に置いている」と言う。
巻き込みの点検。やや薄めに調整した色目で1回目の染色。「絞りで立体的に交差した部分は、どうしても生地が巻き込まれて染め残しになりやすい」ので確認する。「京都の染屋さんで、ここまで手かけてはる所はどこもない」と定評がある
1回目の浸し。色指定の紙片を見ながら、釜の色を調整していく。「ちょっと薄めかな、言う位から調整していく。僕の場合で、だいたい7~8本(色)で合わせます」。日中、屋内の自然光でしか色の確認ができない。時間との勝負だ
職人プロフィール
川本和代(かわもとかずよ)
昭和16年1月19日生まれ。京鹿の子絞絞括師。伝統工芸士
山岸和幸(やまぎしかずゆき)
昭和24年2月9日生まれ。京鹿の子絞染め分け師。伝統工芸士。京鹿の子振興協同組合幹事
川本弘(かわもとひろし)
昭和4年3月26日生まれ。京鹿の子絞染師。伝統工芸士。勲七等青色桐葉章受賞。京鹿の子伝統工芸士会副会長。
こぼれ話
フローリングのリビングにも映える京鹿の子
着物は好きでも、着る機会が減ってきているのが現状。着る機会がないのなら「暮らしの中」に取り込んでしまうのも一つの手。目隠しとしても、コーナー分けにも使えて、2つに折りたためるコンパクトなインテリア。最近は、京鹿の子の風合いを活かした新製品も沢山考案されています。京鹿の子も衝立もしっかり日本的なものなのに、なぜかフローリングのリビングに置くと映えるのです。和室が減ってきている最近の住宅事情にもぴったり。
大胆にデザインされた“のれん”。白い絞りの粒が光を放っているようにも見えます。伝統的な京鹿の子ですが、タペストリーやのれんには、こういった斬新で遊びごころを活かしたデザインが採用されています。とても抽象的なデザインなのに、その色や絞りに光や風を感じます。染色小物は沢山目にしますが、やはり京鹿の子絞りにしかない味があります。風に揺れるのれんは、平面の生地を立体的に演出します。
*https://kougeihin.jp/craft/0207/ より