いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> 「麗紅」

2021-06-09 10:32:39 | 食品

 「麗紅」

 なつかしい昔いちご 「麗紅」  2006-03-08 12:55

 八戸市から旧百石町にかけての太平洋側は県内一のいちご産地。
 ここに、甘味と酸味のバランスがたまらない、とってもジューシーないちごがあります。
 昔のままで残っている古い品種「麗紅(れいこう)」です。

 この品種は、1976年に千葉県で誕生しました。
 日本で初めて育成された品種「福羽(ふくば)」とアメリカから導入された「ダナー」を親に持つ「はるのか」の交雑から生まれました。一世を風靡した「女峰」の親となった品種でもあります。

 大粒できれいな紡錘型。
 イチゴの中で最も赤いと言われるほど鮮やかで光沢がある濃紅色。
 あふれる香り。コクのある甘味と成熟した酸味。果汁たっぷりでジューシーな果肉。
 忘れていた懐かしい味がするとってもおいしいイチゴです。

 なつかしい昔いちご 「麗紅」
 ところが、豊富な果汁とやわらかさは輸送面では逆に短所となります。
 甘さ重視の新品種が増える中、大量輸送・長距離移動が不可欠な市場流通では評価が下がり、全国の生産量はずいぶんと減ってしまいました。
 「麗紅」を一定量生産できるのは、もうここだけなのかもしれません。

 「麗紅」の旬は3月~6月。大粒が多い旬の前半は生食で、小粒が増える後半はジャムやケーキにしてお楽しみください。
 全国的に大変貴重な「麗紅」ですが、地元のスーパーや八食センター、直売所などでむしろほかの品種より安く手に入ります。
 ですから、パック買いでなく、箱買いがおすすめです!by 義人 (旬になったので、また書いてしまいました。)

*https://www.marugotoaomori.jp/blog/2006/03/1237.html より

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<言 葉> 夏の言葉 暑し

2021-06-09 10:20:59 | 言葉

 「暑し」

 三夏の季語。

 北太平洋高気圧から吹き出す風が高温と湿気をももたらし、日本列島の夏季はたびたび耐え難い蒸し暑さに見舞われる。しかしこの暑さなくして秋の実りも有り得ず、恵みの暑さでもある。

*https://kigosai.sub.jp/kigo500a/236.html より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-灰野敬二

2021-06-09 10:10:20 | MUSIC

 「灰野敬二」

  1952年5月3日生まれの69歳

 

 灰野敬二、ロスト・アラーフを語る
 「三里塚で石を投げられたことがオレの宝」 インタビュー・文/剛田 武 , 写真/船木和倖
 JAPAN Rock / Experimental 2021.02.03follow us in feedly

 2020年12月31日にリリースされた2枚組CD『LOST AARAAF』には灰野敬二のミュージシャンとして最初期の活動が記録されている。灰野自ら〈ロックを継承した唯一のバンド〉〈いちばんシンプルなパンク〉と表現するロスト・アラーフだが、常に〈今〉を追求しつづけているアーティストとして自他ともに認められている灰野にとっては、過去よりも現在の活動の方が遥かに重要であることは間違いない。とはいえ70年代日本のロックの黎明期におけるロスト・アラーフの活動が、現在の灰野敬二の音楽の基本にあることは確かである。40年以上昔の話なので正確に覚えているわけではないと前置きする灰野に話を聞いた。


 やりたいから乱入する

――ロスト・アラーフ加入前に参加した〈実況録音〉はブルース・ロックのバンドとのことですが、加入の経緯と活動内容を教えてください。

 「加入の経緯は思い出せない。高校を辞めた後に、都内の別の高校に行っている友達に誘われて彼の同級生のバンドに参加して、彼の高校の学園祭で1回だけライブをした。学外のメンバーが参加するのは異例のことで少し揉めたけど。多分その時のライブを実況録音のドラマーの高橋さんが観てくれて誘ってくれたんじゃないかな。錦糸町でリーダーの伊藤(寿雄)さんを紹介してもらった記憶がある。

 実況録音はフリートウッド・マックみたいなブルース・ロックをやっていた。ベースはのちにカルマン・マキ&OZに入る川上シゲさんだった。ビアホールやジャズ喫茶で演奏したけど、音がでかい、ヴォーカルがわけわからん、と言われていつも途中でライブを中断させされた」

――ロスト・アラーフに加入する前に、南正人さんやブルース・クリエイションのライブに飛び入りしていたそうですね。どんな経緯で飛び入りしたのでしょうか?

 「飛び入りするのに経緯なんかないよ。やりたいから飛び入りした、というより乱入だね。歌う前に一言断りを入れたけどね。対談※でも話したけど、南正人さんの〈魂のコンサート〉に飛び入りした時、南さんは学生服のオレのヴォーカルを聴いて〈カッコいいね!〉って褒めてくれた。南さん、今までいろいろどうもありがとうございます。あまり会う機会はありませんでしたが、ご冥福をお祈りします。

 ブルース・クリエイションは布谷(文夫)さんが辞めてヴォーカリストが不在の頃で〈演奏はいいのにヴォーカルがいないじゃん、それじゃオレが歌っちゃおう〉と思って乱入した」

 

 ロック、フリー・ジャズ、現代音楽

――渋谷のヤマハに行ってレコードを試聴していたとのことですが、どんなふうにレコードを選んだのでしょうか? 当たりだったのはどんなレコードですか?

 「当時輸入盤を扱っていた店は、渋谷ヤマハの他に銀座・山野楽器や桜上水のドンキーくらいしか知らなかった。とにかく自分が聴いたことがないもの、『ミュージック・ライフ』に載っていないものを片っ端から聴いた。特にハードなもの、ロリー・ギャラガーがいたテイストとか、当時は誰も知らなかったね。

 それから変わっているもの。インクレディブル・ストリング・バンドを聴いて普通のロック・バンドとは違う楽器編成に興味を持った。どっちが先か忘れたけど、サード・イヤー・バンドに出会って衝撃を受けたのもその頃。この頃買ったレコードは今でも持っているよ」

――フリー・ジャズを教えてくれたのは川越のレコード屋だとお聞きしましたが、ロック少年だった灰野さんはショックを受けましたか? 

 「音羽屋という一見のお客はお断りという雰囲気のレコード屋があって、その店長からフリー・ジャズのレコードを聴かせてもらったけど、そのときはグチャグチャしてると思っただけでピンと来なかった。

 それより渋谷ヤマハのレコード・セールで傷あり600円で買ったオリヴィエ・メシアン『世の終わりのための四重奏曲』は大ショックだった。当時の自分が好きになれるものがここにあった!と感動した。その頃ラジオでNHK FMの『現代の音楽』や『バロック音楽のたのしみ』を聴いていた。電波が悪くて雑音交じりだったのをテープ・レコーダーで録音して聴いていた。

 他にパティ・ウォーターズもセールで買った。これも傷ありだったけど、この2枚は買い直す気になれないね。ノイズも含めて記憶に馴染んでいるから」

 

 17歳の時、レッド・ツェッペリン“You Shook Me”を聴いて覚醒した

――前衛ヴォーカルがやりたかったとのことですが、なぜそう思ったのでしょうか? 具体的に影響を受けた音楽やミューシャンはいますか?

 「人がやっていないことをやりたかった。17歳の時、レッド・ツェッペリンの“You Shook Me”(69年)の最後のヴォーカルとギターの掛け合いをTBSの深夜ラジオ番組「パックインミュージック」火曜日の福田一郎さんの番組で聴いて、夜中に覚醒した。それからアーサー・ブラウンの“Fire”(68年)もショックだった。

 高校でバンドをやり始めた。ひとつは先輩のバンド。ギタリストが生徒会の副会長でジェフ・ベックそっくりだった。ギターの腕はそれほどじゃなかったけど。もうひとつの同級生のバンドで学園祭に出演した時は、バンドが10分間(ローリング・ストーンズの)“Satisfaction”のリフを繰り返して、オレはずっと叫び続けた。本当はクリームやテイストをやりたかったけど、高校生には無理だったからね。

 その後に教師から呼び出しをくらって、英語と音楽の成績が2段階落とされた。特に音楽の先生はそれまでオレの声を認めてくれていたから、バンドでオレのヴォーカルを聴いてショックを受けたみたいだ」

――その頃の衝動がロスト・アラーフ加入に繋がったわけですね?

 「自由劇場でブルース・クリエイションに飛び入りした時、おそらく富士急〈ロック・イン・ハイランド〉の関係者のひとりだった宇佐美さんという人が観てくれたみたいで、その後に〈ロック・イン・ハイランド〉に出演しないかと電話が来たんだと思う。で、前衛ヴォーカルをやりたい、と言ったらロスト・アラーフを紹介してくれたんだ。ロスト・アラーフがいなかったら、ソロで出演していたかもしれない。ソロでやったら一瞬で引きずり降ろされただろうね」

 

 オレはどこにも属さなかった

――71年8月の〈三里塚幻野祭〉をはじめとして、この時代のロック・コンサートには学生運動や政治が関わっていることが多かったと思いますが、灰野さんはどう感じていましたか?

 「社会を批判しているくせに、奴らは自らも飲酒や喫煙など社会の悪習慣に染まっていた。そして権力に対しての憤りをドラッグで自ら沈静してしまっていた。今になって煙草をやめたという人がいるけど、どうして煙草を吸い始めたのか自問自答してほしい。

 オレはどこにも属さなかった。誰とも付き合いはない。集団や共同体は大嫌いだった。学生団体、ヒッピー、演劇集団、新興宗教、人が集まればろくなことをしない。だからフォーク・ソングは大嫌い。個人として好きな人はあらゆるジャンルにいるけどね」

――髙橋廣行さんとの対談で当時の灰野さんはコンサート荒し(潰し)で有名だったと言っていますが、なぜそんなことをしていたのですか?

 「彼らのコンサートのやり方は自分にとってはロックじゃないと思っていたから。当時はコンサートに警備員はいなくて、バンドの関係者のふりをして潜り込むこともできた。もしかしたらオレがコンサート荒しをしたせいで警備員がつくようになったのかもしれないね」

 

 望む音楽は即興演劇

――自分で歌詞を書き始めたきっかけは? 

 「初めの頃は究極の言葉は叫びだと思っていた。その後自分の言葉が見つかって、歌詞が溢れてきた」

――活動を続けるにつれて即興でありながらも曲構成が出来てきたとのことですが、構成のあるロックの方向へ転換しようという意図はあったのでしょうか?

 「それまでも完全にフリー・フォームだった訳ではなくて、最初の何分はドラム、その後全員で何分、といった感じで時間的な流れは決まっていたし、CD2の3曲目“LAW OUT”ではドラムとピアノがリフを作っていた。組曲“1999年の微笑”はみんながアイデアを持ち寄って作った。

 オレは元々役者志望だから、演劇性を求めた。オレが望む音楽は言ってみれば即興演劇、(定型を)なぞらない演劇だから」


――“1999年の微笑”の歌詞は、かなり露骨で過激な言葉が出てきますが、インスピレーションの元は?

 「その頃のオレは、今よりも言葉や文学にも近づいていた時期だった。観念的になっていて、いわゆるダダにも興味があった。それで“1999年の微笑”で言葉をたくさん使った。すべての色を使った。

 その後、自分にとってすべての色の素と思う黒に近づいていった。フランスのある作家が、東洋に傾倒し、たったひとつの世界に溶けていくことを描いている。オレは最終的に言葉をひとつにしてしまいたかった。シュールレアリズムやダダには興味がなくなった。

 だから不失者では言葉をできるだけ使わないし、固有名詞を使わない。使う言葉は同じで組み合わせを変えているだけ」


 ロックの弁護士

――73年に裸のラリーズの水谷(孝)さんとブルー・チアーのカヴァー・バンドをやったそうですが、その経緯・意図は?

 「ロング・ヘアーが好きだし、ブルー・チアーが好きだから。確か2回スタジオに入った。誰かが録音していたみたいだけどオレは覚えていない」

――73年7月から裸のラリーズと共同でイベント〈エレクトリック・ピュア・ランド〉を始めました。企画は髙橋さんが中心だと思いますが、灰野さんとしてはラリーズとのイベントをどう感じていましたか?

 「自然な流れだね。なるべくしてなった。オレたちとラリーズはやっていることが違うから一緒にできたんだ。〈エレクトリック・ピュア・ランド〉では一度も揉めたことはないよ。実務はすべてオシメ(髙橋のニックネーム)に任せた。交渉は彼の方が得意だったし、リーダーが二人いると必ずぶつかるからね。チラシ配りだけは一緒にやったけど」

――74年5月5日、最後の〈エレクトリック・ピュア・ランド〉でのソロ・ライブは、ステージの4つの椅子の前にマイクを立てて、ひとつの椅子にロングブーツ、2つ目に1万円札を置いたそうですね。3つ目は忘れたそうですが……。

 「いま思い出したけど、3つ目の椅子に置いたのはコードのついていないマイクだった」

――そして4つ目の椅子にスイッチをオンにしたジューサー・ミキサーを置いて、その音をマイクで拾いながら詩の朗読をするというユニークなものだったそうですね。どうやらこの時の録音がどこかにあるらしいですが。

 「おそらくこれが日本で初めてのノイズじゃないかな? フルクサスのヘニング・クリスチャンセンや川仁宏さんのように、何でもないような事でも、やる人によっては醸し出す魔術がある。日比谷のライブがそのようになっていたら嬉しい。実際に魔術になったかどうかは分からないけど。音楽に対するアンチテーゼだよ。

 ハプニングとかインスタレーションをやり出した人間の中で、オレが唯一のロック畑の人間だと思う。だからその頃から自分を〈ロックの弁護士〉と呼び始めたんだ」

 

 三里塚で石を投げられたことがオレの宝

――灰野さんがずっと音楽をやり続けている中で、ロスト・アラーフとはご自分にとってどういう意味があるのでしょうか。

 「対談でも言ったように、ロスト・アラーフがあったから今のオレがいる。三里塚で石を投げられたことがオレの宝。あの時受け入れられていたら、不失者は生まれなかっただろう。50年という節目に集大成CDをリリース出来て本当によかったと思う」

――結成50周年の集大成音源集CD『LOST AARAAF』の装丁について聞かせてください。アルバム・ジャケットを〈赤〉にした意図は?

 「一言で言えば〈やりたかった〉から。デザイナーの北村(卓也)君、彼はオレのやりたいことを分かっていて、〈あの赤〉を持ってきてくれた。これはなんだ?と驚く色。だから赤にしたんだ。

 特に限定盤のジャケットの形と色合いがとても綺麗に出来て、紫色に銀で印刷した歌詞カードと合わせて自分の美意識にピタッとハマった。美術品としても価値があるものが作れて満足しているよ」

*https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/27556 より

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<日本酒> 兵庫 神結/神結酒造

2021-06-09 08:17:49 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(大阪国税局)】
 〈兵庫〉 神結/神結酒造

 伝統の酒造りに若い力をあわせて、地域色の濃い、日本酒文化の発展を目指す。

 「うまい酒はうまい米から」というテーマで日本酒作りをされていますね。

 弊社は創業明治26年(1893年)です。

 酒蔵の裏手にある二本の樫の木が、一本に結ばれているように見えるのですが、それは神様が結んだものではないかということで、「神結」と命名されたようです。
 日本酒らしい縁起のいい名前だと思っています。

 ここ加東市は山田錦のふるさと。品質のよい酒米が収穫できる場所として、全国的にも有名です。
優秀な地元産の酒米を、豊かな五峰山の伏流水で仕込んで、品質を大切にした日本酒造りを続けてまいりました。

 受賞経歴がたくさんありますよね。

 酒造りへの情熱が感じられる光景だ
 ありがたいことに、平成9年から、全国新酒鑑評会では昨年の平成24年までに、のべ8回金賞をいただきました。
 これは私たちの力だけではできません。それ以前は賞に出品しても受賞はできない、そんな時代もあったのです。

 「今までの味ではない、もっと新しい感覚の酒造りを」と心に決めて、情報をもとめて飛び回っていました。
 その頃、ちょうど毎年来てもらっていた杜氏が高齢化でやめることもあって、新しく南部杜氏に来てもらうことにしたのが平成6年でした。

 私たちの想いに共感してくださった方がいらっしゃって。
 その何年か後には大学を卒業した長男や、若い蔵人も加わったこともあって、体制が一新。
 おととしからは社員杜氏制に切り替わりました。

 仕込みの時期、蔵人は精魂こめて、体力的にも精神的にも一生懸命、酒造りと向き合います。私たちはそんな彼らをどこまでサポートできるか。
 その信頼関係の上に出来たお酒が、受賞というご褒美がいただけるのだと思っています。
 今は9回目に向けてチャレンジの日々ですね。

 商品のラインナップも豊富です。

 神結酒造自身の全ラインナップが直売所で購入できる。
 加東市産の酒米も飾られている。
 私たちが持っているのは「酒米を蒸す技術」と「こうじ米を作る技術」です。
 この技術を使って、自分たちができるものを作っていきたいと考えています。

 最近では「麹スウィーツ Poudre(プドレ)」という商品が話題になり、「神戸セレクション」や「五つ星ひょうご選定商品カタログ」にも選んでいただきました。
 甘酒をスウィーツ感覚で楽しんでもらえたらと提案していますが、女性を中心に喜んでいただいています。

 金賞受賞酒はもちろんですが、季節限定酒などいろいろと取りそろえていますので、お客様の気分でいろいろと楽しんでいただけるとうれしいですね。

 地域の方との交流にも積極的ですね。

 神結の名前の由来にもなったというカシの木は、蔵元の裏にある
 日本酒は全体で見れば消費量が減ってきています。
 加東市は酒米の産地ですし、まずは地域の方にもっと日本酒に親しんでいただけるよう、情報を発信していきたいと思っています。

 毎年2月には加東市が主催する「あったか加東市 冬のまつり」に協賛させていただいて、蔵を開放して見学会や試飲会を行っています。
 寒い時期ですが、大勢の方に来ていただいて、新酒の味を効いてくださるので、私たちも励みになっていますね。

 これからも地域の方に喜ばれる日本酒作りを通して、神結の酒を発信していきたいと思っています。

*http://www.harima-sake.jp/introduction/kamimusubi/ より

 

 神結酒造株式会社 兵庫県加東市下滝野474

 ラインナップ

 「神結」純米大吟醸・大吟醸 金賞受賞酒・大吟醸 など

 「たましずく」

 「闘竜灘」原酒 など

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<伝統野菜> 宮城 鬼首菜

2021-06-09 08:09:17 | 伝統野菜

 「鬼首菜-おにこうべな」
 【生産地】大崎市鳴子町の鬼首地区

 【形状】葉の付け根や根、株が赤色に発色する紫茎系(赤茎系)と、アントシアンが発色しない緑茎系(白茎系)がある。

 【食味】鬼首の軍沢地区の標高300m~350nlの風土が独特の風味をもつ鬼首菜をつくりあげているといわれる。塩漬け、ふすべ漬けなどで、茎・葉・根などすべての部位を利用する。地元では、収穫後すぐに湯通しして塩漬けし、翌朝の朝食の惣菜とする。霜にあたると、よりいっそうの甘味が生じる。

 【来歴】自家用として栽培しているツケナの一種で、カブナの仲間である。栽培されるようになったのは大正年代で、山形県最上地方から魚などの行商とともに鬼首菜の種子がもち込まれたと伝えられている。長年の栽培の課程で、周囲に生育していたアブラナ科の植物と交雑して誕生したともいわれている。赤茎系と白茎系の2系統がある。赤色はアントシアン系の色素である。地元では「地菜っこ」とよんでいる。

 【時期】秋作に適し、8月下旬~9月上旬に播種し、11月頃に草丈が40cmほどになったら根こそぎ収穫する。

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%AE%AE%E5%9F%8E/#i-27 より

 

2018年12月10日 / 最終更新日 : 2018年12月15日 trad
 この土地の栽培でしか出ない!独特の辛みと旨み-宮城県・大崎市の伝統野菜「鬼首菜」の復活と活用を目指す「ずなっこ隊」
 宮城県の伝統野菜である「鬼首菜(おにこうべな)」。名前を聞くと、ちょっと怖そうですが、宮城県大崎市鳴子温泉鬼首地区(旧鳴子町鬼首地区)で栽培されており、由来は地名からきています。

 鬼首地区は大崎市から車で一時間ほどの秋田の県境にほど近いところで、かつては「鬼切部(おにきりべ)」と呼ばれていました。他説に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で蝦夷の首領である大武丸を斬った時に、その首がこの地に落ちたので鬼首と呼んだという説がありますが、鬼首地区には鬼切部城跡があり、かつては鬼切辺村という名前であったことを伝えています。平安時代には、すでに陸奥国栗原郡にみられる歴史ある地名です。

 この辺りは、各所から温泉が湧き出ており、硫黄、石英、石雲母、金・銀・銅の鉱産資源に恵まれていました。また、漆の生産にも富んでいたそうです。馬の産地としても有名で、豊かな地区だったと思われます。もしかしたら、あまり人を近づけないようにするために恐い地名にしていたのかもしれませんね。

 そんな鬼首地区には、「鬼首菜」という伝統野菜があります。地元では「ずなっこ」と呼ばれる漬け菜の一種で、8月下旬頃に植え、11月上旬頃に収穫し、根・茎・葉のすべてが利用できるため、かつては冬場の貴重な野菜として、ほとんどの農家で自家採種・栽培されてきました。

 もともとは大正時代に山形県最上地方から持ち込まれたものだそうで、鬼首地区以外の土地でも育つのですが、他の土地だと、なぜか辛みがなくなってしまうとのこと。鉱産資源の豊富な土地柄が影響しているのでしょうか。採種業者が研究しても、はっきりした理由は判明していないそうです。

 独特の辛みと旨みがある美味しい「鬼首菜」ですが、冬でも様々な野菜が手に入るようになり、栽培は次第に廃れていきました。現在、栽培農家は2軒だけになってしまい、このままでは、近いうちに消滅してしまう危機的な状況です。

 そんな中、地元では「鬼首菜」を復活させ、活用していこうという動きが起きています。プロジェクト鳴子CSAは、鬼首農地開発農業振興組合と協力し「鬼首塾」を開催しました。今年度は「鬼首菜の復活と活用」をテーマに3回の開催が予定されており、第一回が2018年10月31日に行われました。

 「鬼首塾」では、鬼首菜の特徴である辛みや旨みの生まれる謎を科学的に解説したり、「鬼首菜(ずなっこ)隊」を組織し、栽培や調理・加工など活用に向けて活動する予定です。

 その土地で栽培したものでなければ、辛み旨みがでないという不思議は、まさに地野菜ならではの魅力でもあります。ぜひ、復活した「鬼首菜」を鬼首地区の名産品として食べてみたいですね。

*https://tradveggie.or.jp/%E3%81%93%E3%81%AE%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%A0%BD%E5%9F%B9%E3%81%97%E3%81%8B%E5%87%BA%E3%81%AA%E3%81%84%EF%BC%81%E7%8B%AC%E7%89%B9%E3%81%AE%E8%BE%9B%E3%81%BF%E3%81%A8%E6%97%A8%E3%81%BF/ より

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<漢字検定> 1級 四字熟語 13.回答 14.出題

2021-06-09 07:47:33 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 垂名竹帛  -すいめいちくはく-歴史に名前が残るような功績や手柄のこと。
「竹帛」は竹の札と綿布のことで、紙のない時代には竹帛に文字を書いていたことから、歴史書や書物のこと。
「名を竹帛に垂る」とも読む。

 

 問2 博引旁証  -はくいんぼうしょう-事物を説明するのに、多くの例を引き、証拠をあげて論ずること。▽「博引」は広く例を引用すること。「旁」はあまねく、広く行き渡る意。「証」は証拠の意。

 

 問3 魑魅魍魎  -ちみもうりょう-人に害を与える化け物の総称。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえ。▽「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。

 

 問4 駢拇枝指  -べんぼしし(へんぼしし)-役に立たないもののたとえ。
「駢拇」は足の親指と人差し指がくっついて一つになっていること。
「枝指」は手の親指が枝分かれして、親指の隣に六本目の指があること。

 

 問5 羊很狼貪 -ようこんろうどん-荒々しく道理に背き、どこまでも貪欲なこと。
「羊很」は乱暴な羊のように荒々しく、命令に従わずに道理に背くこと。
「狼貪」は狼のように欲深くむさぼること。

 

 今回の出題

 

 次の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 和羹塩梅  

 

 問2 懲羹吹膾  

 

 問3 濯纓濯足  

 

 問4 邑犬群吠  

 

 問5 偃武修文

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典オンライン より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 京都 京黒紋付染

2021-06-09 07:40:33 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「京黒紋付染」

 Description / 特徴・産地

 京黒紋付染とは?
 京黒紋付染(きょうくろもんつきぞめ)は、京都府京都市、亀岡市などで作られている染色品です。
 京黒紋付染の特徴は、葬儀の際に着る喪服や婚礼の際に着る黒留袖といった礼服としての冠婚葬祭の衣装として用いられており、深い気品ある上質な黒色に染め上げる点です。生地が絹織物で上品な黒を表現するために化学染料を使ってはいるものの、昔ながらの染料である紅あるいは藍などで、三度黒(さんどぐろ)と黒染料(くろせんりょう)の2種類の技法で染める黒引染(くろひきぞめ)か、黒浸染(くろしんせん)という技法を用いて染色されています。
 また、生地に氏や家系を示すものであるため伝統工芸士により正確で美しい家紋が施されています。約2万種類あるといわれているもののうち、一般的に用いられている平安紋鑑の約4千種類が手描き、または型紙による型刷りで「紋章上絵付け」されています。

 History / 歴史
 京黒紋付染の歴史は10世紀頃まで遡り、17世紀頃に黒染として確立したとされています。もともと古くは僧侶の法服や、武家の紋服とあいて用いられており、明治に入って現在のように冠婚葬祭の際に着用する礼服の羽織袴として需要が増加してきました。
 戦後においては、日本欧米の文化が進出していったなかでも。京都の黒染業は伝統工芸品といての確固たる位置づけを維持し続け、今日に至っています。
 また黒染業の最盛期であった1902年~1903年(明治35年~36年)頃には、一般的な技法として五倍子汁(ふし)・桃皮汁(とうひ)・檳榔子汁(びんろうじ)・鉄漿(おはぐろ)の4種類の染液を使い、18回以上繰り返し染め上げるという労力を要していました。
 しかし、大正時代には合成染料が用いられるようになったほか、黒引染の手法も行われ、合成染料を用いた黒浸染が一般的になるのと同じくして藍染を専業としていた紺屋は、黒浸染への転業を余儀なくされました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kyokuromontsukizome/ より

*https://kougeihin.jp/craft/0210/ より

 

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