第127回 2016年5月31日 「心地よい暮らしの道具~滋賀 信楽焼~」リサーチャー: 生方ななえ
番組内容
洗練されたデザインと淡く美しい色が目をひく食器。鎌倉時代から続く、滋賀の「信楽焼」の新しい器だ。しかも軽くて薄い。3ミリの“究極の薄さ”を実現するため、土を知り尽くした職人が生み出したワザとは?さらに、おしゃれでしかも食材が焦げつきにくい陶製フライパンや、癒やしの音を奏でる室内用水琴窟(すいきんくつ)も紹介。伝統の技を駆使し、時代に合わせた新しい信楽焼を生み出す職人たちにモデルの生方ななえが迫る。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201605311930001301000 より
詳細不明につき、勝手に調べてみました。
「信楽焼」
「信楽焼」は、滋賀県甲賀市信楽町を中心に生産されている陶器で、「日本六古窯」の1つです。
たぬきの置物が有名ですが、時代に合わせて人々の暮らしを支える器や道具が、小さなものから巨大なものまで幅広く作られてきました。
信楽の土
信楽は、付近の丘陵から良質の陶土が出る土地柄です。
これは琵琶湖と関係があります。
今から400万年前、琵琶湖は今の信楽の地付近にありました。
それが、時間をかけて現在の位置へと北上していきました。
そして元々湖があった場所には、様々な養分が堆積し、良質な粘土層が信楽に残りました。
この粘土層の中に含まれる養分は、焼き上げると様々な化学反応を起こし、緋色のような土味が滲み出て、耐火性、保温性に優れ、火鉢や瓶などに作るのに向いていました。
信楽においては粘土だけでなく、「花崗岩」や花崗岩マグマに伴う「貫入岩」も採掘されています。
「花崗岩」は、地殻変動や気温の変化、風雨などの物理的な風化作用により石英や長石で出来た「真砂」(まさ)と呼ばれる砂になります。
また「花崗岩」に含まれる「長石」は、水による化学的風化作用により「カオリナイト」などの粘土鉱物に変化します。
信楽焼の歴史
奈良時代の天平14(742)年に、聖武天皇が「紫香楽宮」(しがらきのみや)を造営した際に、瓦を焼かせたのが、「信楽焼」の始まりと言われています。
「紫香楽宮」(しがらきのみや)からは丸瓦や軒平瓦が発掘され、信楽町の文化財に指定されています。
「信楽焼」は、鎌倉時代後期に「常滑焼」の技術を取り入れ、中世窯として発展したと考えられています。
14世紀になると、「信楽焼」独自の作風も確立されて、甕、壺、鉢などの生活に即した焼き物作りが盛んに行われるようになりました。
同時代に開窯した瀬戸、常滑、丹波、備前、越前とともに、「日本六古窯」の1つとして、歴史長く現在に伝わっています。
「日本六古窯」(にほんろっこよう)
古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称です。
昭和23年頃、古陶磁研究家の小山冨士夫氏により命名され平成29年4月28日、「日本六古窯」として「日本遺産」に登録されました。
室町時代、安土・桃山時代には、茶陶が盛んになると、土味をいかした、ざっくりとした素朴な風合いの「信楽焼」は、「侘び茶」の精神性と通じると考えられ、「見立て茶器」 (本来別の用途の道具を茶の湯で用いること) として扱われるようになり、茶道具として美的価値を高く評価されました。
信楽は四方を山に囲まれた土地ですが、山越えや峠越えを経て、茶の湯の中心地であった京都や奈良から近く、しかも良い土が採れることから、茶器の生産地として適していたため、優秀な陶工が集まるようになりました。
こうした立地条件の良さが、産地として興盛していったことも大きな特徴です。
江戸時代になると、茶壺の生産はますます盛んとなりました。
登り窯が築かれたことにより、大規模生産も可能となり、水甕などの大物陶器作りも盛んになりました。
また、釉薬を使わない焼締製造が古くからの特徴でしたが、全国的な施釉陶器の需要に対応するべく、釉薬を用いた生産も始まりました。
商業の発達と相俟って、庶民の暮らしを支える多種多様な日用の雑貨類(梅壺、味噌壺、徳利、土鍋等)を生産する一大産地となり発展しました。
明治時代に入ると、釉薬が研究され火鉢生産が盛んになり、昭和30年代前半まで産地の主要製品(日本国内シェアの約80%)でした。
近年は、「形になるものは何でもつくる」という精神で、消費者のニーズに合わせて、傘立、タイル、庭園用品(テーブルセット、燈籠、照明具)、食器、置物など多様な製品が生産されています。
中でも「狸」の置物は信楽の代名詞となるほど有名です。
昭和51(1976)年、「信楽焼」は国の伝統工芸品に指定されました。
信楽は陶器の町として広く全国に知れ渡るところとなりました。
信楽焼の特徴
信楽の特徴としては、耐火性と粗い土質が挙げられます。
陶土に木節粘土を合わせることで可塑性があり、こしが出るので、日本で唯一、大物や肉厚の物を造るのに適しています。
登り窯による高火度焼成により、焦げて赤褐色の堅い焼締肌となり、窯の中で素地の表面に、燃やしている薪の灰が付いて溶け釉薬の役割りを果たす「自然釉」や、陶器の表面に現れる「火色」と呼ばれる赤いまだら模様、焼けた薪から出る灰が落ちて表面に溶け付く「灰かぶり」などの特徴があります。
また現在は、人工的な釉薬の開発により、様々な色合いの作品づくりがされています。
信楽焼のシンボルと言えるも狸ですが、陶器の狸は何も信楽焼だけでなく、常滑、備前などでも、江戸時代後期から現在まで多く作られています。
狸の置物を最初に作り始めたのは、明治初期創業「狸庵」初代の藤原銕造(ふじわら てつぞう)。
銕造氏は若い頃、京都・清水焼の窯元で修業していました。
ある月夜の晩、狸達が「ポンポコポン」と音羽川の河原で腹鼓を打っていたという夢のような不思議な体験をし、そのことを親方に話したところ、「何人に一人しか聞けぬ、狸の腹鼓だ」と教えられました。
その姿を焼き物で再現しようと思いつき、信楽に帰郷後、狸の焼き物を作り始めたのが「信楽焼たぬき」の始まりと言われています。
陶器の狸づくりが一層盛んになったのは昭和初期からだそうです。
この頃、信楽焼狸の顔や姿に人気が集まり非常に売れたことから、信楽焼のシンボルが狸になったと考えられています。
また昭和26(1951)年11月15日に昭和天皇が信楽を訪問された行幸された際、地域の人々が日の丸の旗を持った陶器の狸を沿道に並べて歓迎したのですが。
この光景を目にされた天皇が大変喜ばれ、歌を詠まれました。
をさなどき あつめしからに なつかしも しがらきやきの たぬきをみれば
このエピソードがマスコミにも取り上げられ、信楽焼の狸が有名になったとも考えられています。
狸(たぬき)だけじゃなく、カエルやフクロウも⁉
昭和50年の2度目のご訪問の際には、皇后陛下が「カエル」の置物をお持ち帰りになったことから、カエルの置物も人気になりました!
更に平成19年の平成の御代に天皇陛下が訪れた際、フクロウの置物でお出迎えした様子がTV放映されると、幸福を運ぶ鳥として珍重されることになりました。
狸は縁起物
狸は、「たぬき→他抜き→他を抜く」という語呂合わせから、「他人より抜きん出る」 という願いが込められており、また「太っ腹(腹鼓)」に通じることから、商売繁盛、開運、出世、招福、金運向上のご利益がある縁起物とされています。
狸は夫婦愛が強く、パートナーと一生添い遂げることから「夫婦円満」も意味するとされています。
福を呼び込む『八相縁起』
信楽焼たぬきは『八相縁起』(はっそうえんぎ)に因み、編み笠をかぶり、首をかしげながら右手に徳利、左手に通帳を持つ「酒買い小僧」型が定番となっています。
笠・目・笑顔・徳利・通い帳・大きなお腹・金袋・尻尾にはそれぞれ意味があります。
【笠】
災難や悪事を避け、身を守ってくれる。
【目】
大きな目で周囲に気を配り、正しい判断をする。
【笑顔】
いつも笑顔でいることで商売繁盛に繋がる。
【徳利】
人徳を身につけ、
飲食に困らない(商売が上手にいく)ように。
【通い帳】
お客様との信頼関係を上手く築けるように。
【大きなお腹】
冷静さと大胆な決断力を持つ。
【金袋】
金運に恵まれるように。
【尻尾】
終わりよければ全てよし。
何事もしっかりした終わり方を。
徳利の「丸に八の字」
また、「たぬきの徳利」には「丸に八の字」印がありますが、これは、いろいろな説があります。
八方丸く収まる末広がりで縁起が良い徳川家康のあだ名が「たぬき」であったため尾張徳川家の「合印」常滑焼の「まる八」紋が人気を博していたことから、信楽でも常滑焼を模してたぬきの徳利に書くようになったなど、
信楽たぬきの日
11月8日は「信楽たぬきの日」です。
たぬきに因んだ様々な催しが行われます。
また、10月8日から10月17日には、「信楽陶器まつり」が開催されます。
昨年同様に特設会場での開催は行われませんが、既存の信楽焼店舗で、お手頃価格で陶器を購入出来るチャンスがあるのでおススメです。
滋賀県陶芸の森 滋賀県甲賀市信楽町勅旨2188-7
甲賀市信楽伝統産業会館 滋賀県甲賀市信楽町長野1203番地
*https://omotedana.hatenablog.com/entry/traditionalcrafts/Shiga/shigaraki より