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<経産大臣指定伝統的工芸品> 千葉 房州うちわ 

2021-02-22 06:32:28 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「房州うちわ」

 うちわの町
 房総半島の南端、館山や富浦では、近隣で採れる女竹を使って明治時代からうちわが作り続けられている。
 当初は豊富な材料を活かして竹でうちわの骨を作り、それを東京に出荷していた。そこに東京のうちわ問屋が参入したことで、骨づくりはうちわ作りへと変っていった。特に関東大震災後には、多くのうちわ職人が移り住み、うちわ製造が盛んになった。
 うちわ職人を取りまとめるうちわの製造元は「うちわ屋」と呼ばれる。最盛期には、小さな町の中に20軒を超える「うちわ屋」があり、うちわ作りはこの一帯を代表する産業として活況を呈していた。うちわのデザインを決めるのは「うちわ屋」だが、実作業はさまざまな専門の職人によって行われる。
 「露地に行くとどこの家も竹を割って表に干しているというくらい、うちわの仕事をしてる家が多かったですね。家業が「うちわ屋」ですから、子どもの頃はよく、使いで加工の済んだものを引き取りに回ったものです」と丸山さんは語る。


 職人たちの技を集めて
 「房州うちわ」は分業で生産される。一本の「房州うちわ」が完成するまでに必要な工程は21。「うちわ屋」は、各工程を受け持つそれぞれの専門の職人のあいだを行き来して製造の流れを管理する。工程のいくつかは「うちわ屋」内部で行われるが、熟練した専門の職人の技が必要とされる作業も多い。
 中でも特に熟練が求められる業種に「割き屋」がある。「割き屋」は柄の先を細かく割いて骨にする仕事を受け持つ。まず竹を均等な幅に割き、その内側の肉を削ぎ落として竹を程よい厚みに整える。さらにそれをうちわの大きさに見合った数に合せて細かく割いていく。直径1センチの竹であれば、分割する数は40数本にも及ぶ。割き方が粗雑だとガサガサしたうちわになり、骨が細かったり薄過ぎたりすればうちわにコシがなくなり使いにくいものになる。「割き屋」の仕事ぶりがうちわの善し悪しを左右するとまでいわれる。
 「割き屋」の他にも熟練が必要な業種はある。うちわ紙を貼る「貼り屋」や、うちわの縁に紙を貼る「縁屋」。このほかにも、「編み屋」、「弓削屋(すげや)」、「下窓屋」など、うちわ作りはさまざまな職人の熟練した技によって支えられている。「房州うちわ」は、何人もの職人の手を経て初めて形になるものだから、「いかにいい職人さんを抱えて、いい仕事をしてもらうかなんですね」と丸山さんは語る。


 選んでもらえる「うちわ」のために
 「房州うちわ」は、丈夫で使い易いことからかつては台所や風呂場で火を起すなど、もっぱら実用に使われていた。そうした需要が減ってきた最近では、夏の風物詩として、装飾や涼しさを求めて購入する人が多い。一本一本丹念に吟味して選んでもらう時代になって、作り手側にもいっそう気合いが入ってきたという。
 製品が選ばれる時のポイントはやはり絵柄だ。「房州うちわ」では、白いうちわに絵付けをすることもあるが、基本は絵柄のある貼り地を使う。
「絵柄はいろいろですね。絽や藍染めなどの布から千代紙まで自分で探します」
絵柄選びはもちろん、貼り地の裁断も一枚一枚仕上がり状態を思い描きながら丸山さん自らが行う。絵柄の入り方次第で粋にも野暮にもなってしまうからだ。「うちわ屋」の個性を見せる勝負所だけに気配りも格別だ。


 風がちがう「房州うちわ」
 「房州うちわ」は、軽く手を動かすだけで柔らかな風を作り出す。しなやかな竹の骨に支えられたうちわ面は、わずかな力でも空気をとらえて優しく解き放つ。その風の心地良さは、天然のそよ風に似ている。
 「使った人からは『風がちがう』といわれます」と丸山さんは語る。「房州うちわ」の作る優しい風は、房総半島の竹林を抜ける涼やかなそよ風を思い起こさせる。


 職人プロフィール

 丸山忠弘 (まるやまただひろ)

 昭和14年生まれ。会社勤めを経験した後「丸山一郎商店」の二代目に。以来45年以上に渡ってうちわ製造に携わっている。
 房州うちわ振興協議会会長


 こぼれ話

 女竹(メダケ)と男竹(オトコダケ)

 房州うちわに用いられる女竹は別名オンナダケとも呼ばれる竹で、川岸や海岸の丘陵地帯に群生する笹だ。節間が長く柔軟性に富むことから、楽器のケーナや釣り竿などにも用いられている。
 一般に「竹」と聞いて思い浮かべられる真竹(マダケ)は、男竹と呼ばれる。丸亀うちわに代表される平柄うちわに用いられているのは男竹である。
同じうちわでも、女竹のうちわと男竹のうちわでは随分と印象が違う。

*https://kougeihin.jp/craft/1402/ より

 房州うちわ今昔
 県内初、国の伝統的工芸品「房州うちわ」の特徴と成り立ち
 房州うちわとは?
 京都府の「京うちわ」、香川県の「丸亀うちわ」とともに、日本を代表する三大団扇に数えられるのが、千葉県南部(館山市・南房総市)で作られる「房州うちわ」です。木の柄を差し込む「京うちわ」、平たく削った竹で作られる「丸亀うちわ」に対し、「房州うちわ」は、細い篠竹(女竹)を柄とする点に特徴があり、平成15年、千葉県で初めて、経済産業省から国の伝統的工芸品に指定されました。

 材料となる女竹(めだけ)は、下から3分の1ほどの部分に節がくるように切りそろえられ、節から上の部分はカミソリで64等分に細かく割き団扇の骨とし、節の下はそのまま柄となります。そして、全体で20以上の工程を経て「房州うちわ」に仕上がります。

 房州うちわは、かつては夏の手軽な贈り物として重宝され、昭和初期には年間約800万本が生産されましたが、戦後、一般家庭に電気扇風機やエアコンが普及し、現在は年間約100万本に減少しました。その一方で、現在は、浮世絵や万祝の柄を染めた布地を貼って丁寧に仕上げたものも作られており、和風の民芸調のインテリアとして注目されています。

 房州の女竹と房州うちわの成り立ち
 房州の山野には女竹(めだけ)が自生し、温暖な気候のため節間の長い良質な竹が採れました。この女竹の存在が、団扇と房州とを結びつけることになりました。房州うちわの成り立ちについては、大正7年(1918)刊行の『房総町村と人物』によると、那古(なご)(館山市那古)に住んでいた岩城庄七(いわきしょうしち)は団扇の材料となる女竹を東京へと出荷していましたが、庄七の子・惣五郎(そうごろう)は明治17年(1884)に東京から団扇職人を招き、紙を貼っていない団扇骨の生産を始めたとされています。実際、明治12年(1879)、岩城庄七が安房郡長に申請した「竹仲買商売営業願(たけなかがいしょうばいえいぎょうねがい)」が残されており、『房総町村と人物』の記事を裏付けています。明治10年代に房州・那古で団扇骨作りが始められ、これが房州うちわの起源となったと言えるでしょう。

 明治から大正にかけては、房州では団扇骨だけを生産、東京で「江戸うちわ」として仕上げていました。しかし、大正12年(1923)に関東大震災が発生、東京の団扇生産が大打撃を受けたため、団扇問屋・横山寅吉が館山市船形に移り住み、団扇骨から完成品まで生産する一貫生産を開始しました。これが、「房州うちわ」ブランドとして定着することになったのです。

*https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sonohoka/kyoudo/kuroshio/boushuu.html より


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