「江戸木版画」
およそ1200年前には木版を利用した蛮絵(ばんえ:鳥獣や草花などを丸い形に図案化した文様)が施された装束(しょうぞく)が奈良県にある東大寺の正倉院に所蔵されているなど、日本の木版技術は長い歴史を持っています。
江戸時代(1603~1867年)初期に菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が浮世絵を製作した頃から、木版画が一般に普及しはじめたといわれます。下絵を書く「絵師(えし)」、下絵をもとに版木に彫る「彫師(ほりし)」、紙に摺る「摺師(すりし)」の分業体制が確立したのもこの頃です。
当初は墨一色であったものを、丹(朱色)など筆で着色し、次第に複雑な着色を施すようになり、漆絵あるいは紅絵(べにえ)と称する美しい手彩色版画となります。
後の寛保年間(1741~44年)末頃には紅摺り絵といわれる紅と緑の2色で色を摺る方法が開発されました。明和2(1765)年、鈴木春信(すずきはるのぶ)によって「錦絵」という形式が開発され、10色以上の色彩の多色刷りが可能となり、木版画の技術は頂点に達することになります。
その後、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が写実的で精緻な表現技法を確立したことで浮世絵は完成の域に達し、江戸時代末期には葛飾北斎(かつしかほくさい)、安藤広重(あんどうひろしげ)が、木版画の色彩美を生かした風景画を多数残しています。
江戸木版画の技術により、浮世絵は広く流通し、江戸を代表する大衆文化となりました。その技術は、今もなお受け継がれており、特に台東区が主な製造地として知られています。
江戸木版画の製作工程は、絵師がまず薄い和紙に墨一色で原画を描き、次に彫師が原画を貼った板(桜材など)に小刀で彫り(多色刷りの場合、1色につき1枚の色版が必要)、摺師が版木にそれぞれの色の顔料を塗り、ばれんで紙の背面より力を入れてこすって仕上げます。絵師、彫師、摺師がそれぞれの熟練の技を発揮し、一体となって美しい木版画の表現をつくり出すのです。
*https://craft.city.taito.lg.jp/craft/2030/ より
*https://kougeihin.jp/craft/1405/ より
Description / 特徴・産地
江戸木版画とは?
江戸木版画(えどもくはんが)は、江戸時代に手法が体系化し浮世絵などの印刷物が浸透することに貢献しました。
江戸木版画の特徴は、絵師・彫師(ほりし)・摺師(すりし)が版元(はんもと)による管理のもと、共同で1つの作品を作り上げることと、色の表現方法です。通常の絵画は、顔料の色で表現されていますが、江戸木版画は、和紙の繊維が持つ色と顔料の色が合わさることで表現されています。
木版を作るための材料には、主に桜材が使われます。桜材が持つ木目の細かさや耐久性が、何百枚も摺り上げる江戸木版画に適しているためで、摺りには、生漉奉書(きずきほうしょ)と呼ばれる紙を使います。生漉奉書は、楮(こうぞ)を原料とし手作られる、越前和紙の高級品で、ふっくらと柔らかな風合いでありながら、多色摺りにも耐える耐久性を持つので江戸木版画に適しています。
History / 歴史
江戸木版画の技術や技法が確立したのは、江戸時代の後期と言われています。木版印刷そのものは飛鳥時代からありましたが、木版印刷が木版画になったのは平安時代後期です。木版画が誕生してすぐの頃は、墨1色の墨摺絵(すみずりえ)で主に仏の姿が木版画で描かれていました。主に宗教で使われていた木版は、江戸時代になり庶民の娯楽である滑稽本や瓦版などとしても使われるようになります。 1744年(延享1年)頃になると、さらに木版画の技術が向上しました。墨に紅と草の2色を加えた、紅摺絵(べにずりえ)が生まれ、江戸時代の多色刷りに少し近づきます。しかし、木版のズレを防ぐ工夫がなかなか生まれず、多色刷りが生まれるまでは色は2色が限界でした。 1764年(明和1年)、大久保甚四郎や小松屋三右衛門らにより多色摺りが開発され、翌年には多色摺りを使った錦絵が江戸で流行し、錦絵の祖と呼ばれる鈴木春信の活躍もあり、錦絵の需要が広がっていきました。ついには江戸の大衆文化として、多くの絵師たちが活躍するようになります。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/edomokuhanga/ より
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