「金鳥-大日本除虫菊」
大日本除虫菊株式会社(だいにほんじょちゅうぎく、登記上の商号:大日本除蟲菊株式会社)は、大阪府大阪市西区土佐堀一丁目に本社を置く、殺虫剤など衛生薬品の製造・販売をおこなう日本の日用品メーカーである。
概要
「金鳥」「KINCHO」(きんちょう)の商標名で知られる。正式な社名より商標が浸透しているが、創業のきっかけを忘れないため「大日本除虫菊」の社名は堅持している。また、2020年現在でも東京証券取引所を含め、国内外の株式市場に上場していない。みどり会の会員企業で、三和グループに属している。
金鳥の由来
1910年(明治43年)に商標登録された「金鳥」は、同社発売の蚊取り線香の「金鳥香」に由来している。シンボルマークにはニワトリが描かれており、これは「鶏口となるも牛後となるなかれ」という故事成語から採られている。上山英一郎は、この一節を信条としており、業界の先駆者として「鶏口」になり、品質をはじめ、あらゆる面で他より優れたトップの存在でありたいという願いが込められている。また、シンボルマークのニワトリの胸の辺りには「上山」の判子を模したロゴが入っている。
「除虫菊」
シロバナムシヨケギク(白花虫除菊、学名:Tanacetum cinerariifolium)は、キク科の多年草である。胚珠の部分に殺虫成分のピレトリンを含むため、除虫菊(ジョチュウギク)の名前でも知られ殺虫剤の原料に使用されてきた。原産地は地中海沿岸であり、セルビアで発見された。
日本での歴史
シロバナムシヨケギクの日本への渡来は1886年(明治19年)であり、博物学者の田中芳男が送付した種子を、東京衛生試験所薬草園で栽培して採種した。さらに、これを播種して、1888年(明治21年)5月に初めて製粉し、殺虫効果をハエやノミで試し、良結果を得た。よって、この種子を農商課植物園で試験栽培し、一部を和歌山県内の集産場で栽培した。農務局の種子は熊本県にも送付されたものの、営利的な成功を収めたのは和歌山県であった。
一方で、1888年に大阪の清水多三郎が除虫菊粉の取引をしていた関係上、神戸のモルフ商会から種子を取り寄せて播種したが、わずかに観賞用に留まった。
これに対して、和歌山県でミカン農園を運営していた上山英一郎は、種子交換によりアメリカ合衆国から得た種子を播種した。最初は観賞用として栽培していたものの、その後、シロバナムシヨケギクが殺虫成分を含むと知り、殺虫剤として接種・栽培に取り組み、他県にも種子を分けて栽培地を拡大した。こうして得られた殺虫剤の原料を製粉し、渦巻型の蚊取線香を発明した。この蚊取り線香が大いに売れたため、後に大日本除虫菊(金鳥)を創業した。上山英一郎が「除虫菊界の恩人」とも呼ばれた所以である。
大日本帝国でシロバナムシヨケギクの栽培が開始された当初は、輸入品に圧倒されていたが、次第に日本での栽培量も安定してゆき、1898年にはアメリカ合衆国への輸出を開始した。第1次世界大戦後、日本はシロバナムシヨケギクの世界的な生産地として知られるようになったが、第2次世界大戦を経て日本での栽培は衰えていった。さらに戦後には、合成ピレスロイド殺虫剤が開発されたことをきっかけに、日本での蚊取り線香用途でのシロバナムシヨケギクの栽培はほとんど見られなくなった。
なお、かつて日本におけるシロバナムシヨケギクの主産地だった広島県因島市(現尾道市)では、市花に指定され、開花時期には島の斜面が白い花で埋まった。
*Wikipedia より
「鶏口となるも牛後となるなかれ-けいこうとなるもぎゅうごとなるなかれ」
《「史記」蘇秦伝から》大きな団体で人のしりについているよりも、小さな団体でも頭 (かしら) になるほうがよい。
*goo辞書 より
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