富田林市 空中写真部分
【左上】石川、 【右上端】北大伴地区、【上真ん中やや右】府営住宅 楠町(現在ここより北部の高層住宅として再建され、この写真の場所は空き地になっています。) 【右上と下半分】条里地割がよく解ります。
【左上】石川、 【右上】北大伴地区、【右上と下半分】条里地割
【上半分の左右の分かれ目】条里地割が不明瞭になるところが後世、河川の氾濫により、条里地割が乱されたと思われます。しかしながら、その不整合面は以下の写真でも解るとおり、比高さ2m位の河岸段丘になっており、洪水に洗われた箇所とそうでない箇所ははっきりしていたと考えられます。
道路が南北・東西の方格になっているのが条里地割。
ここの条里地割は石川左岸の条里地割と河南町・千早赤阪村の条里地割とも規格が同じです。おそらく奈良時代までには成立していたと考えられます。
北大伴地区は1辺=1町(約109m)の条里地割に乗っかっているので、集落は奈良時代以降に成立したと考えられます。(条里集落と言います。)
【等高線図と写真撮影ポイント】
・高さの表示は、左上部の氾濫原とそれ以外の河岸段丘面に注目ください。左の氾濫原と右の河岸段丘面との比高差は約2~3mあることがわかります。
・番号と符号は下の写真に一致しています。
①~⑨:氾濫原と河岸段丘には比高さがあることを写真で説明しています。この高度差が、村への洪水を防いでくれたようです。
氾濫原はもともと条里地割が敷かれた田んぼと考えられます(条里地割が氾濫原にも延びている跡あり。)が、石ころがたくさん出てくることからも、大きな人工堤防ができるまでは何度かは氾濫を繰り返したと考えられます。
ア.~オ. 条里地割を撮影しました。
いろんな自然条件を克服して、奈良時代以前に敷かれました。基本は律令制度の班田収授の法をやりやすくするため(異説もあり。)ですが、同一規格で広大な原野を切り開いたり、正方位条里にこだわったり、当時の地方官(たぶんこの地域の有力な豪族=蘇我氏か?)の意図が見られます。お亀石古墳・新堂廃寺・オガンジ瓦窯跡に関わった豪族の子孫かもしれませんね。
①ハッキリと河岸段丘の比高さ(2m弱)がわかります。
② 後方の宅地は、後で土盛りをしているようです。
③後方の河岸段丘面(宅地部分、法面補強)の高さがよく解ります。
④段丘崖の比高さがよく解ります。上の面も田んぼになっています。
⑤段丘崖が微妙にカーブしています。有史以前に河岸段丘の成立過程で、川の流路の影響を受けたと思われます。
⑥上の田んぼを補強するために、法面を石垣で補強されています。後ろの高層住宅は、府営楠町住宅です。
⑦北大伴地区 浄土真宗 常念寺の境内の崖 比高差2m弱あります。この段丘面に北大伴地区の集落があります。大きな屋根が常念寺。
⑧東側から見た北大伴集落東端。右の墓地は北大伴墓地です。古く、少なくとも江戸前期にあったと考えられます。江戸時代のお相撲さんの墓や墓誌に銘を入れる以前の原始墓も手厚く管理されています。奥の高層住宅は府営楠町住宅。
⑨ここは比高差3~4mもあります。集落の東側は53m以上と高く、西側は50m位なので、街中の水路は東→西、または南→北と流れます。
⑩ 付近の田畑の畦(あぜ)
氾濫で流されてきたと思われる石ころが山積みされていました。小石だけでなく、大きいのもあります。
彼岸花
9月のお彼岸にいっせいに花が咲き、その後このように葉っぱが出てきます。この葉っぱも夏を迎える前に枯れてしまいます。ユニークな植物ですね。
クヌギのひこばえ
クヌギの木は、火付きがよい高級な炭になりますので、50年以上前はこの辺の山でも焼いていました。クヌギの木を地面から数十cm離して切ると、そこから「ひこばえ」といって、新しい芽が勢いよく生えてきて再生します。クヌギの木は定期的に伐採され、燃料(薪や炭)として利用されてきました。千早赤阪村などの田んぼの畦に植えられているのをよく見ますが、この辺の平地の田んぼでは珍しいです。
ひこばえとお茶の花 北大伴町
クヌギの木の間に、お茶の木が植えられています。昔はお茶も自家製だったようです。お茶はこの時期から冬にかけて、白い小さな花を咲かせます。ツバキ科ツバキ属の常緑樹なので、さざんか、椿と同じ時期に花が咲くようですね。
町内の地蔵さん 北大伴町
昔の町の東側の入口あたりにあります。今は、さらに外に街区が拡がっています。町の出入り口あたりに、地蔵さんや賽の神があるのは、厄除けや魔物を街に入れない意味があるのではないかと思われます。
北大伴地区 大和棟(正面)や土蔵のある古い町並み
豪族 大伴氏を連想させる地名と、中世末、寺内町 富田林・大ケ塚を連想させる真宗寺院を中心とした条里地割をさらに細分化した計画性のある町割が特徴です。
2014.10.15.(金) 16:36 北大伴町1丁目
ちょうどだんじり祭りの前日でした。旧石川郡は大阪でも一番遅い10月の第3土・日曜が祭礼の日です。今夜、壹須何神社に奉納する提灯が飾られています。
壹須何神社は河南町にある式内社。6台の各町の地車が宮入りします。宵宮の前日の夜、宮入する各町が台付円筒提灯(高さ3.3m)4本、田楽提灯(高さ3.3m)1本、提灯台(長さ5m)1台を壱須賀神社へ毎年豊年を感謝するために奉納するもので、壱須賀神社独特でだんじり祭りではきわめて珍しい。中世の宮座の習わしが400年以上も受け継がれていると知ってました?実は、だんじりよりずっと古いんですよ。(だんじりは江戸中期、250年くらい前)
旧石川郡の宮入りする神社数あれど、奉納提灯はここだけです。ぜひこれからもこの伝統を受け継いで行ってもらいたいですね。
【参考】 壹須何神社の提灯奉納
昨年の奉納風景です。
河南町東山地区のように伝統的な唄を謡いながら行列を組んで提灯を奉納する地区もあります。
奉納された提灯。各町奉納されます。提灯には「南町」と書かれていますが、宮入りする町会に「南町」は存在しません。
「中」「南」「上」などの名前は、中世起源の宮座のなごりと思われます。
「上之町」の提灯台座
各町 集合して奉納します。
2014.10.15.(金) 17:13 北大伴町1丁目 北大伴だんじり庫で
いよいよあす、宵宮、あさって本宮(宮入り)です。
ア. 条里地割 途中に河岸段丘崖があり坂道になっています。洪水時は写真の撮っている坂の下の田んぼまで水が来ているようです。
イ. 条里地割 河岸段丘面の条里制の道
1200年以上前に、計画的に田んぼの」区割りとともに作られた道路。(当初はもっと細い。)脇に水路が走り、年数が経過していますので、当初まっすぐであったのが歪んできています。
ウ.この辺の広大なエリア(羽曳野市南部から富田林市甲田北部、河南町北部から千早赤阪村北部の広大なエリア)は、おそらく奈良時代以前に、一つの大きな計画に基づいて作られた条里制の痕跡を残す条里地割がはっきりと今も残っています。
しかも、この地域は正方位条里と言って、条里の方位が東西・南北きっちり方位が合っています。傾斜や水利を乗り越えて、このような土木技術で土地を開墾できたのはすごいことだと思います。
きっと、古墳時代の応神陵のような巨大な堀を配した前方後円墳の築造技術や古市大溝・丹比大溝のような水路の開削、狭山池・依網(よさみ)池のような灌漑溜池などの技術があって、この班田収授法に基づく(異説あり)、条里制の施行を可能にしたと考えられます。
なんでわざわざ正方位条里かというと、これは律令国家の施行者のこだわりですね。条里制(農耕地 区分法)は、お手本の中国の風水説(四神相応)と帝都は東西~南北の正方位が理想であるとする条坊制の思想に大きく影響を受けています。
土地の傾斜を乗り越えて、平らな均一の水田耕作地を作るということは、宅地を作るよりはるかに大変なことですから、高度の技術を持つ多くの人材と多くの施工従事者、そしてそれを管理する人たちがいたことが想像されます。
そして、正方位条里は大阪府では、河内地方に多く施工され、泉州地方では小規模な非正方位条里しか施工されていません。
【今に残る条里制】旧石川郡は大規模な正方位条里がみられる、
【石川谷の条里地割】 富田林市史 第1巻本文編付図より部分図
現地に行くと、自然地形を当時の工事担当者が巧みに土木技術で土地を平らにして道路を作り、川から用水を上流より水路で引っ張ってきたり、溜池を作ったりして、水田として耕作できるようにしているのが解ります。
また、それを耕作する集落は条里地割のできた後に、人為的に作られている(条里集落)ようで、条里地割に乗っかる塊村がこの地方に見られます。そしてその集落は1200年以上続いているということになります。
【条里地割の灌漑】
1.上流部に人工的に井堰を築き、遠くより井路により用水を確保するもの。石川左岸は荒前・深溝井路が大きな役割を現在も担っています。他にも多くの井路があります。
石川右岸は、畑田井路・堀越井路をはじめ多くの井路があり、現在も大きな役割を果たしています。大伴地区も井路灌漑です。
2.川の水が引けないところは、溜池灌漑になります。大阪府の年間降水量は、瀬戸内式気候で雨が年間1000mm程度と少なく、天水のみでは谷地田のように湧水でもない限り期待できません。
さいわい、羽曳野丘陵や金剛・葛城山地に付随する台地がありますので、多くの溜池が作られています。毛人谷・新堂地区の大溝井路は羽曳野丘陵の東端の溜池を6つも横つなぎした珍しい井路です。(谷地を縦につないだ溜池は、いたるところにありますが。)
【山中田地区の条里地割】
北大伴地区のお隣の山中田地区。ここも正方位条里地割がきれいに残ります。近年多く宅地化しましたが、条里制の土地区割がその農地所有の関係も含めて残っているので、宅地化も条里地割に乗っかっています。1200年以上の歴史がそのまま残っているのですね。道路も町割りも土地の所有も奈良時代以前が起源となっています。
なおここは小字名が条里制に関わる「一の坪」「十二の坪」と残っているので、南西地点を「一の坪」とした千鳥式の条里地割であることがわかります。さらに、ここの石川流域は権力のある地方官がいたようで、広大な土地を同一規格で施工されていますので、この広大な条里地割全体が、千鳥式の条里地割ということになります。
エ. 北大伴の街中ですが、実はここも道路・街区が、条里地割に由来します。ここは南北道路。
微妙にカーブしているのは、1200年以上経過するうちに変化したもの。道路を拡げる時の変化とか横の水路が崩れて修復した時ひずんだと考えられます。ここはもともと水田。
オ. 街の中心の東西道路。町の東端より西側を望む。
ここも微妙にカーブしています。条里地割の特徴で、他の地域の条里地割も千年を超える経年変化でこうなってしまいます。道路の脇に水路があるのが特徴です。この場所は現在暗渠になっています。
関連ブログもご覧ください。
富田林のミステリーサークル 2014.9.26.
空中写真 佐備・下赤阪の棚田 2014.10.7.
・参考地図:富田林市地形図 2500分の1
2014.10月21日 ( HN:アブラコウモリH )
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