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埴輪見学会―喜志南遺跡の浮ケ澤古墳出土遺物

2023年05月15日 | 古墳

2023年5月7日 喜志南遺跡内の浮ケ澤古墳出土埴輪見学会が近鉄 富田林駅前の観光交流施設 きらめきファクトリーで開催されました。

 

2023年5月7日 15:06 富田林市本町19-8 きらめきファクトリー

あいにくの雨の中でしたが、おおぜいの見学者でにぎわう会場。

 

多くの埴輪が出土し、熱心に見学される方、係の方に質問される方でにぎわっていました。

今回浮ケ澤古墳においては、円筒埴輪を含め少なくとも7種類、計17体の円筒・形象埴輪が確認されました。この規模の古墳でこれだけ豊富な種類と数の出土は珍しいと思います。

 

地図は当日の資料より

古墳の場所は喜志町一丁目6で、石川の左岸の低位河岸段丘面にあります。

標高39.5m、すぐ東側の崖の下は氾濫原で標高37.4m、比高2.1mです。

 

 

見取り図は当日の資料より

墳丘長20mの小さな前方後円墳です。展示にはありませんでしたがいっしょに出土した須恵器片や埴輪の形状から見て5世紀末の中期古墳と見られています。

ただ埋納施設は調査区域外にあると見られるので、詳しい内容は不明です。凝灰岩のかけらが2点出土しましたのでおそらく石棺の一部の可能性が考えられます。

 

資料:Google Earth Pro

発掘された場所は中央の直線的に木々が生い茂っている崖面のすぐ左の畑になっている場所です。(低位河岸段丘面)

 

矢印の左の畑 資料:Google Earth Pro

 

会場で放映された映像からみた発掘現場。崖面のきわにあります。

 

重機の場所が氾濫原。崖面の上の段丘面にぎりぎり乗っかっているようです。

きわぎりぎりに乗っからせ、比高2mを利用して小さいけど大きく見せたのかも知れませんね。

 

当時のヤマト王権に協力、同調した証し、非常に小さいながらも前方後円墳です。

 

発掘時の様子 円筒埴輪が出ているようです。

 

出土した円筒埴輪 突帯(タガ)は3列のようです。この古墳用に作られたと思わせるつり合いの取れた形と大きさだと思います。

左の3点はかなり低い温度で焼かれたようですが、黒斑がないので野焼きではなく、窯で焼かれています。また右の1点はやや高い温度で焼かれ、還元焼成ぎみになっているようです。

 

「蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)」と呼ばれるものの一部です。「蓋(きぬがさ)」は「地位の高い人にさしかける日傘」のことで、傘上部には羽のような立飾りでその威容を強調しています。2個体出土しました。上部の立ち飾り部は線刻で装飾されています。

蓋形埴輪写真全体形状:松阪市 宝塚1号墳出土(松阪市HPより)

 

器財埴輪の一種で盾型埴輪です。2個体出土しました。この埴輪も上部は鋸歯文(きょしもん)のギザギザ、下部は線刻で直弧文(直線と弧線を組み合わせた文様)が見えます。

盾形埴輪写真

全体形状:松阪市 宝塚1号墳出土(松阪市HPより)この埴輪は黒班があり、野焼きです。窯焼きより古い焼き方。

基本は古墳の外側に向けて立てられていて、邪悪なものから古墳をまもる役割があったと考えられます。この時代から邪気を払う慣習があったのですね。円筒埴輪もその役割をしています。

 

盾形埴輪の細片 直弧文が見えます。

 

靫(ゆぎ)埴輪。これもよく出土する器財埴輪の一種。靫は矢を入れておく、背負いの細長い箱形の道具のこと。

【写真】かやふりいちごうふんからしゅつどしたゆきがたはにわ

八尾市 萱振(かやふり)1号墳出土靫形埴輪(大阪府HPより)

 

家形埴輪 2個体出土 この分は入母屋造りでこの上に別に焼かれた上屋根を載せていたようです。

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館[常設展示案内/古墳時代]御所市宮山古墳出土(橿原考古学研究所附属博物館HP)

もう一体の細片。屋根上の堅魚木が見られる。

 

形象埴輪では、巫女(みこ)や武人などの人物埴輪6体、馬や鳥のほか、家、盾、蓋形、靫形埴輪も出土しました。

胡簶(ころく、腰につける矢入れ具)や矢羽は武人、手で坏を持つのは巫女の可能性があります。また、琴を弾いているとみられる珍しい埴輪もありました。

 

人物埴輪 6個体ありますが、細片になっています。

部分的に鼻、美豆良(みずら)、首飾り、坏を持つ手などが確認できると思います。

 

動物埴輪には馬形は2個体。耳やたてがみが見えますが、個体としての復元は難しいようです。

 

鶏形埴輪や水鳥形埴輪も各1体出土しました。

窯で焼いていますが、焼成温度が高くなく経年変化で角が取れてしまっているので、つなぎが難しいのと出土のパーツが足りないようです。古市古墳群のような専門の埴輪集団、土師氏に依頼したものでなく、在地の豪族の中での埴輪担当がいて焼いたような気配を感じます。

しかしながら、その形状は古市古墳群の埴輪に匹敵する多様性を見せているため、ヤマト王権に協力した喜志の在地豪族が埴輪製作を含め古墳全体の指導を受けていたと思われます。

 

不明鉄製品 副葬品の可能性。

 

凝灰岩のかけら 石棺の一部の可能性。後円部は発掘区域外でしたので、埋納施設が確認できませんでしたが、おそらく竪穴式石室(横穴の可能性もあり)に凝灰岩の石棺があったと思われます。

 

〈画面をクリックすると拡大します〉

喜志地区に周辺には4世紀初頭の60m級前方後円墳 真名井古墳(消滅)があります。出土品の中の舶載三角縁三神三獣鏡はその特筆すべき出土品です。

つまり、古市古墳群が出現する前からヤマト王権に連合、協力した在地の有力豪族がすでに喜志周辺に住んでいたことがわかります。他に喜志宮裏山1号墳(前方後円墳)や鍋塚古墳(円墳)の4世紀後半の古墳があります。

 

後期古墳には喜志宮裏山古墳2~4号墳(円墳)、終末期の7世紀初頭の宮前山(みやぜんやま)1~4号墳(円墳)や有名なお亀石古墳(方墳)があります。

しかしながらこの地区には中期古墳が見つかっていませんでした。この間をつなぐのが埋没古墳の浮ケ澤古墳になり、しかもとても小さいながら前方後円墳です。

「やっぱり見つかったか。」の感がありますね。よくぞ見つけていただきました。プレスリリースで新聞各社がこぞって記事にしていただいた価値があります。

それともう一つ、百舌鳥古墳群は100年間、古市古墳群(「古市古墳群」と定義されているもの)は200年間、富田林市の喜志地区の古墳は300年間の築造期間を持っているのは特筆すべき事と私は考えています。

写真撮影:2023年5月7日

2023年5月15日 HN:アブラコウモリH

 

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