富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

《リバイバル・アーカイブス》お相撲さんのお墓---北大伴町墓地にて

2014年02月21日 | お墓

今までの中から印象的であったものを2週間ほどリバイバルします。

原本:2014年2月21日

 

私たちの住んでいる富田林市周辺には、お相撲さんのお墓がたくさんあります。

大坂相撲は江戸・元禄期の頃から、 昭和2年(1927)まで存続し、東京相撲と統合し、大日本相撲協会が発足し、現在の日本相撲協会に至っています。

古くから存在する村の墓地に、さりげなくまたは目立って存在するお相撲さんのお墓は、江戸の後期から、東京相撲と統合された昭和2年くらいまでのお墓が多く残っています。

今回、北大伴町の墓地での、力士のお墓をご紹介させていただきます。

 

熊鹿毛(くまかげ)之墓  2014.2.7.撮影

明治の初期、大阪相撲の関脇として鳴らした力士です。河内国石川郡北大伴村に、天保年間あたりに生まれる。

第六代猪名川伊右衛門に入門。明治2年(1869) 大阪相撲 西前頭3枚目 、明治6年(1873)7月 東の関脇(この時点が最高位)

 明治32年10月23日建之 基礎正面 「有志中」

 

 墓碑の左側面にある「従六位 勳六等 深瀬和直 書」の深瀬和直は、明治29年(1896)4月、南河内の旧6郡が統合されて、南河内郡が成立した時の初代郡長です。

同じ明治29年には、河陽鉄道が地元の有力者により設立され、明治31年3月には、柏原―古市が、同4月には古市―富田林間が営業を開始しました。(現在の近鉄南大阪線・長野線)

 

 基礎の上に、「熊ちゃん」

 

 すこし読みづらいですが「神楽山之墓」と彫ってあります。文化十八年(1813)建之。

 

 基礎部分上段に「神楽」、基礎正面には「門弟中」 

*「門弟中」の「中」は、「仲」の意。つまり同じ相撲部屋の仲間で作ったということです。

 

 「荒木戸」の墓 「神楽山」のとなりにある。明治五年(1872)建之。

 

 「玉橋」(真ん中) 天保十五年(1844)建之。基礎正面に「門弟中」、玉橋 平八→大阪番付世話人細字部分(文政十三年(1830)~天保十年(1839)に名を連ねている。

「玉橋 文蔵」の墓(右側)―正面は「釋 教證」寛政七年(1795)建之。

 「絹川 長左衛門」(左側)―正面は「釋 教海」文政九年(1826)建之。基礎正面に「門弟中」

 

 寺子屋の先生のお墓です。(筆子塚) 天明(1781)~寛政期(1801)頃の漢学の先生ですが寺子の指導もされていました。没年文化三年(1806)。(参考①)

 明治5年に学制が公布され、小学校・中学校の今の教育制度の基礎ができる前は、お寺の住職や、神主、町の国学・儒学の先生、あるいは村の有力者が、地元の子供たちを有料で指導していました。今の学校のような全体教育ではなく、先生と生徒がひとりひとり相対して指導する形=個人レッスン(子弟制度)であったため、こうゆうような先生のお墓を生徒たちが建立する形になったのではないでしょうか。

富田林市だけでも50基以上確認されています。中には、「門弟中」「門人中」「弟子中」「寺子中」と基礎部分に彫られているものもあります。師弟制度でありますので、腕白坊主には「破門」もあったのではないのでしょうか。

なお、寺小屋ではなくて、寺子屋ですので念のため。もっと言うと、寺・小屋でなく、寺子・屋。

江戸前期あたりから「よみ・かき・そろばん」を基本に、このような教育が富田林でも行われていたのは驚きです。「往来物」という教科書が元禄期(1683-1704)あたりから出版され、江戸中期以降いろんな書物が出版され、いろんな文化が花開いたのは、このあたりにその基礎があるのではと思います。

今のお子様のピアノ教室みたいな、あるいは茶道・華道のお稽古ごとなどに、寺子屋のその制度は受け継がれているとおもいます。

(参考①:富田林市中央公民館講座 「富田林市史を読む」 大阪府立大学名誉教授 山中 浩之先生の講座より)

 

北大伴墓地 

 石川と合流する手前の千早川の左岸にあります。北大伴地区からは、東側になります。

 

 左(西側)の土手は、河岸段丘崖。この上の一段高い面に北大伴の町があります。

 

 個人墓の墓域の中に、このようなおおきめの川原石のお墓があります。多少形は異なることもありますが、富田林の墓地では少なからず見かけます。

 

 

江戸中期に民衆(一般の農民)に現在のような墓碑が広まるまでの間、きっとこのような川原石を集めたようなお墓があったのでしょうか。

北大伴町墓地には、このような墓碑の原型ともいうべきお墓が存在します。南大伴の墓地にも存在しますが、南大伴はもっと小さい川原石の集まりであるのに対し、北大伴はごらんの通り大きい1個の川原石です。

関係するお家のお墓の中にあり、大事に供養されているのは変わりません。

 南大伴墓地

 

 撮影:2014.2.7. 富田林市北大伴町2丁目 北大伴町墓地にて

*お墓の写真は、貴重な歴史的文化財として撮影させていただきました。

〈参考文献:大西 英利 「河内相撲研究」 河内相撲史談会 発行 2000.11.〉

 2014.2.21. 林 保夫 (HN:アブラコウモリH )


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岸和田城 | トップ | 〈リバイバル・アーカイブス... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

お墓」カテゴリの最新記事