アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

トロッコ問題 

2009年02月08日 | Weblog
   助けなかったら助かった?

 溺れた中学生を助けようと、海へ飛び込んだ会社員が亡くなった。中学生は救助され無事…このような出来事、毎年のようにあります。ほとんどは、溺れていた人は助かっている。状況が全て違うのでしょうが、救助に行かなければ犠牲者はでなかったかもと思ってしまいます。
 助けようとして自分の命を落としてしまう。御家族はどんな気持ちになるか?人として正しいことをしながら、もっとも残酷な結果を返されてしまう。助かった人も、その家族も、どうしたらいいのか…。責任?そんなもの誰もとることなど出来ない。

 この種の事故を聞くたび、私は悩みます。なぜか?「泳げない」からです。毎日プールへ行っていますが、アクアウオーキング。スイミングではないのです。「泳ぎは魚の特許。人間が泳げてたまるか!魚の領域を侵犯してはいけません」という主張を通し続けて60年…。いつも、自問自答するのは、「おぼれている人がいる。私はどうすべきか?」です。
 助けに飛び込んだとしたら…共倒れでしょう。そして、「あのオヤジが調子に乗って飛び込んだので最悪の結末に!」と、非難される…。
 助けなかったとしたら…「あの、オヤジが助けようとしなかった!人!」と、非難の雨嵐でしょう。生きていけませんよ。

 どうしたらいいでしょうか?現在なおというか、そういう場に遭遇しても決心などつかないと思います。本能的にどちらかの行動をとるでしょうけど。
 浮き輪を投入してやれって?そんなに都合良くその辺に浮き輪がありますか!実は、そんな時のために車のトランクに小型船舶用の浮き輪を積んでいたこともありました。それほど、真剣に考えていましたよ。救助のために飛び込む人は、決まって水泳に自信がある人でしょう。そういう人が犠牲になるのですから、「泳げる=救助できる」という式は成立しないのです。

 火事になり、寝ていた孫(8歳)を助けようと、燃えさかる家へ飛び込んだ祖母(81歳)と、そのあとをついていった孫(5歳)が焼死。寝ていた孫は、自力で脱出し、無事だった。結果論ですが、助けにさえ行かなければ皆助かった?
 少し古いが(2001年1月)、山手線新大久保駅でプラットホームから線路に転落した男性がいた。救助しようとした2人の男性が、進入してきた電車にはねられた。3人とも死亡。助けにさえ行かなければ、犠牲者は一人で済んだかも。

 この度の、北海道積丹岳(しゃこたんだけ、1,255m)の事故は…男性(38歳)が、山頂付近で行方不明に。山岳救助隊5人が、雪穴に簡易テントを張ってビバークしていた遭難男性を救助。救助隊と男性が下山していたところ、男性と救助隊3人が雪庇(せっぴ)を踏み抜き、約200メートル滑落。隊員は無事。男性を救助用そりに乗せて引き上げようとした。斜度40度の急斜面の上、風速約20メートルの吹雪で、氷点下約20度という悪天候。約1時間かけて50mほど引き上げた。救助隊員は、疲労困憊。応援を要請することにした。そのため、そりのロープを木にくくりつけていたところ、その木が折れた。そりは、再び滑り落ち、男性は行方不明に。翌日、発見され、病院へ搬送されたが死亡が確認された。最初の遭難から3日目だった。
 この事故…助けられたことにより命を落としてしまったとも…。最初に救出されたときには、「寒さのため意識がもうろうとしていた」ということですから、どうなっていたかわかりませんがね。

 トロッコ問題を彷彿させます。トロッコ問題は、「芥川龍之介の作品で、主人公の良平が泣きながら走った小説の題名は何でしょう?」と、いう問題ではありません。
 トロッコ問題とは…
 トロッコが走行中、ブレーキが利かなくなった。線路の前方に5人の人がおり、このままでは5人ともトロッコに轢かれてしまう。トロッコを別路線に引き込むと、5人を助けられるが、引き込み路線に立っている別の1人を轢いてしまう。トロッコをどうしたらいいか?
 「5人を助けるために、1人を犠牲にするのはよいことか?」という問題。

 功利主義(最大多数の最大幸福)では、「5人を助ける」ということになります。しかし、そうはいきません。還暦パパの考えを言えって?私は、「5人も救うし、1人も救う」です。どうやって?…そ、そ、それは…。そこまで追及しないであなたも考えてください。