一笑に付されるかもしれませんが、おもしろがり屋の私としましては、「チンギス・ハーン=義経」説、ワクワクします。
「その話しなら、何度か書いただろう。自分で、でっち上げた話しじゃないのか」って?今回は、また違う切り口ですよってに…。あと、アンティークマンは、でっち上げはしておりません。まあ「義経記」の影響を受けていますがね。
義経の生涯が悲劇すぎるので…。せめて、生き延びさせたいという、まあ、判官贔屓的心情なんですけれどもね。ハイハイ、「九郎判官源義経」ってことで、初歩的なシャレでした。
義経が大活躍した時期もありました。宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦!
その後平穏な日々…戦ですから平穏じゃないですが、頼朝に追われなくてもよかった時期…で暮らしたのであれば、めでたしめでたしなのですが。
その後が悲運の連続。何とかしてやりたい!昔の人(平家物語を読んだ人)も、そう考えたのでしょう。「義経記」では、自刃したはずの義経が実は生きていた!
「義経記」は、平家物語の後、200年以上も経ってから出されたものですよね。となると、室町時代。
「能」が隆盛を極めた時代なわけで・・・。この200年の間に、たくさんの義経に関する伝説・伝承が形成されたのでしょう。それらをまとめて、「義経記」ができた。民衆の「想像から創造された」ものということが出来るでしょう。ウマイなあ。
どこかで稀代の英雄である義経を生かしておきたかった。義経は、死なずに、北へ向かった。北という漢字は、2人の人間が背を向けて走ろうとするもの。つまり逃げるということ。人は、逃げるとき北へ行くものなのですねえ。負けて北へ逃げるから「敗北」。「敗南」とは言いませんね。義経は南へ逃げ、ハワイでカメハメハ大王になったというのもぉ…まあおもしろいのですがね。
伝説をつなぎあわせると、東北から北海道へ渡らせてしまった。さらに、モンゴルへ渡らせ、相撲取りにしてしまった。ではなく、チンギス・ハーンにしてしまった。
義経は、1189年(文治5年)4月29日(30日という説もあり)、奥州平泉高館の持仏堂で自刃した。首は塩づけにして、43日後に幕府に差し出され、首実検となったそう…いくら塩づけでも43日後では・・・つまり、はっきり義経だと判定出来る状態ではなかった。
どっこい生きていたという話も、そこら辺から急に真実みを帯び始めます!飛脚の足で7日間の距離を43日間かけた?ニセの首がばれないようにする画策(腐らせてしまう)と、とらずしてどう説明しますか?
では、義経は、どういう経路をたどって、モンゴルへ渡ったか?伝説があるところを単につないで、北へ向かうと、次のようになります。
平泉を脱出 ⇒ 東へ向かい、束稲山、物見山、姥石峠を通り気仙沼へ・・・ここから北上(赤羽根峠、遠野、笛吹峠を超えて)宮古へ・・・ほぼ海岸伝いに(岩泉、田野畑、普代、久慈と進み)八戸へ・・・八戸から北西に向かった。八甲田山を越えたか迂回したか。義経は、どちらを選択したでしょうか?
私は、陸奥湾へ出たと思いますが…そして津軽半島へ出て竜飛へ。平泉を出てから7年かかりました。
竜飛では、石川さゆりさんのご先祖さんが歌ってました。
「♪御覧あれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす・・・津軽海峡冬景色~~~ぃ」
義経もきっと口ずさんだでしょうねえ。
バカなこと書いていないで、早く蝦夷に渡らせなさいって? ハイハイ、なんとしてもモンゴルへ行かせますっ!
「その話しなら、何度か書いただろう。自分で、でっち上げた話しじゃないのか」って?今回は、また違う切り口ですよってに…。あと、アンティークマンは、でっち上げはしておりません。まあ「義経記」の影響を受けていますがね。
義経の生涯が悲劇すぎるので…。せめて、生き延びさせたいという、まあ、判官贔屓的心情なんですけれどもね。ハイハイ、「九郎判官源義経」ってことで、初歩的なシャレでした。
義経が大活躍した時期もありました。宇治川、一ノ谷、屋島、壇ノ浦!
その後平穏な日々…戦ですから平穏じゃないですが、頼朝に追われなくてもよかった時期…で暮らしたのであれば、めでたしめでたしなのですが。
その後が悲運の連続。何とかしてやりたい!昔の人(平家物語を読んだ人)も、そう考えたのでしょう。「義経記」では、自刃したはずの義経が実は生きていた!
「義経記」は、平家物語の後、200年以上も経ってから出されたものですよね。となると、室町時代。
「能」が隆盛を極めた時代なわけで・・・。この200年の間に、たくさんの義経に関する伝説・伝承が形成されたのでしょう。それらをまとめて、「義経記」ができた。民衆の「想像から創造された」ものということが出来るでしょう。ウマイなあ。
どこかで稀代の英雄である義経を生かしておきたかった。義経は、死なずに、北へ向かった。北という漢字は、2人の人間が背を向けて走ろうとするもの。つまり逃げるということ。人は、逃げるとき北へ行くものなのですねえ。負けて北へ逃げるから「敗北」。「敗南」とは言いませんね。義経は南へ逃げ、ハワイでカメハメハ大王になったというのもぉ…まあおもしろいのですがね。
伝説をつなぎあわせると、東北から北海道へ渡らせてしまった。さらに、モンゴルへ渡らせ、相撲取りにしてしまった。ではなく、チンギス・ハーンにしてしまった。
義経は、1189年(文治5年)4月29日(30日という説もあり)、奥州平泉高館の持仏堂で自刃した。首は塩づけにして、43日後に幕府に差し出され、首実検となったそう…いくら塩づけでも43日後では・・・つまり、はっきり義経だと判定出来る状態ではなかった。
どっこい生きていたという話も、そこら辺から急に真実みを帯び始めます!飛脚の足で7日間の距離を43日間かけた?ニセの首がばれないようにする画策(腐らせてしまう)と、とらずしてどう説明しますか?
では、義経は、どういう経路をたどって、モンゴルへ渡ったか?伝説があるところを単につないで、北へ向かうと、次のようになります。
平泉を脱出 ⇒ 東へ向かい、束稲山、物見山、姥石峠を通り気仙沼へ・・・ここから北上(赤羽根峠、遠野、笛吹峠を超えて)宮古へ・・・ほぼ海岸伝いに(岩泉、田野畑、普代、久慈と進み)八戸へ・・・八戸から北西に向かった。八甲田山を越えたか迂回したか。義経は、どちらを選択したでしょうか?
私は、陸奥湾へ出たと思いますが…そして津軽半島へ出て竜飛へ。平泉を出てから7年かかりました。
竜飛では、石川さゆりさんのご先祖さんが歌ってました。
「♪御覧あれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす・・・津軽海峡冬景色~~~ぃ」
義経もきっと口ずさんだでしょうねえ。
バカなこと書いていないで、早く蝦夷に渡らせなさいって? ハイハイ、なんとしてもモンゴルへ行かせますっ!