アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

静御前への思いを「成吉思汗」に込めた

2024年11月23日 | Weblog
 義経主従は、竜飛から蝦夷(北海道)にわたり、松前に上陸した。そして、日本海の海岸伝いに北上。檜山支庁乙部町に。 乙部町には、義経伝説のほか、義経を追う静御前が身を投げた姫川伝説もあります。乙部町には、「九郎岳(くろうだけ 1,017メートル 九郎は義経の別名)」があります。もちろん「姫川」という川も流れています。

 北海道内には、およそ120箇所の義経ゆかりの地があります。義経は、ひたすら日本海側を北上し続けたのではなく、太平洋側である日高管内へも行っています。
 平取町には、義経神社、義経公園、義経資料館があります。

 札幌に着いた義経は、これまで家来に持たせていた大判、小判を手稲山に埋めました。大判小判は蝦夷地では必要がなかったことと、家来が疲労の極致に達していたからです。
 これが、手稲山の義経埋蔵金伝説となりました。実際に埋蔵金を探していた人がおりまして、マスコミで話題になりました。

 そしてとうとう、稚内(ワッカナイ)に到着。「ワッカナイ?何処にあるのかワッカナイ(分からない)」現在、日本の最北端が稚内の宗谷岬です。宗谷岬近くの海岸には、「義経試し切りの岩」があります。
 宗谷岬から樺太(サハリン)へ。北上して間宮海峡を渡り、ロシアに上陸。アムール川を舟で上った。チチハル(満州)を経由して、とうとう、モンゴルへ入ったのでありました。

 チンギス・ハーンを名乗ったわけですが、漢字表記を、「成吉思汗」としました。チンギス・ハーンの発音に合わせて漢字を当てはめたのですが、なぜこの四つの漢字にしたのか?

 義経の妻の静御前は、白拍子(しらびょうし:平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞、それを演ずる女性)でした。
 白拍子の衣装は、「水干(すいかん:平安装束で、いわば簡素な服)」で、通称「汗(かん:サンズイは水を表し、干は日照りですから、雨の日も晴れの日も着られるということかな)」です。
「吉成りて汗に思う」つまり、「成吉思汗」。静御前への思いをその名に託したのです。
 成吉思汗となった義経は、抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一しました。そして、中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げたのでありました。

「義経ツアー」におつきあいくださり、ありがとうございました。