箱根へ修学旅行にきた女学校の生徒が、つり橋の上で記念の写真を撮ることになった。つり橋が揺れたのに驚いて生徒が騒ぎ、振動がますますはげしくなった。橋は生徒を載せたまま渓流に墜落し、おおぜいの死傷者を出した。
これに対する世評は…「監督の先生の不注意だ」「抵抗力の弱い橋を架けておいた土地の人が悪い」
しかし、考えてみると、この先生と同じことをして無事に写真をとって帰って、生徒やその父兄たちに喜ばれた先生は何人あるかわからない。この橋よりもっと弱い橋を架けて、最大荷重についてなんの掲示もせずに通行人の自由に放任している町村をよく調べてみたら日本全国におよそどのくらいあるのか見当がつかない。
この文章、昭和10年…つまり、77年前に寺田寅彦が書いているのです。3.11にかかわる一連の問題と似ていませんか?ずうっと読んでいくと、スバリ次の記述に遭遇します。
大津波が来ると、ひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも、繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。
あすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。
生きているうちに一度でも金をもうけて三日でも栄華の夢を見さえすれば津波にさらわれても遺憾はない…そういう人生観をいだいた人たちがそういう市街を造って集落するのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬ難しい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたりそらしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりもいっそう難儀なことであるかもしれないのである。
77年前にこのように書いている人がいた。今、五百旗頭真さん(東日本大震災復興構想会議議長)が引用したこともあり、この寺田寅彦の随筆「災難雑考」が読まれている感じがしますが…(そうでもないかな)。
原発再稼働は、「いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配…」ですよ。寅彦が現代にいたら、もちろん原発再稼働には反対したでしょう。「いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配…」は、思いと逆のことを言っています。
寅彦は、「災難雑考」の締めくくりでどう書いているか?
「いろいろと考えてみたが、結局なんの結論も出ないようである。一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑である。この疑いを解くべきかぎはまだ見つからない。これについて読者の示教を仰ぐことができれば幸いである」
「一抹の懐疑」は、懐疑を通り越して、「悲観的科学的災害防止不可能論」になっております。
私は相変わらず、原発は撤廃すべきと考えています。しかし、とりあえず、米を食べながら原子力発電をなくす方向で縮小させていこうということなら、再稼働に賛成します。寅彦に、「オレの書いたことを誤解するな」と、言われるぞって?
いつ来るかもわからない津波の心配よりも…風力、火力、太陽光、波力などなどの発電を増やして原発に頼らなくてもいい状況をつくるのがいい…。そうこうしているうち津波が来たらどうするんだって?
うーん!こ、来なかったらどうするんだ…。
これに対する世評は…「監督の先生の不注意だ」「抵抗力の弱い橋を架けておいた土地の人が悪い」
しかし、考えてみると、この先生と同じことをして無事に写真をとって帰って、生徒やその父兄たちに喜ばれた先生は何人あるかわからない。この橋よりもっと弱い橋を架けて、最大荷重についてなんの掲示もせずに通行人の自由に放任している町村をよく調べてみたら日本全国におよそどのくらいあるのか見当がつかない。
この文章、昭和10年…つまり、77年前に寺田寅彦が書いているのです。3.11にかかわる一連の問題と似ていませんか?ずうっと読んでいくと、スバリ次の記述に遭遇します。
大津波が来ると、ひと息に洗い去られて生命財産ともに泥水の底に埋められるにきまっている場所でも、繁華な市街が発達して何十万人の集団が利権の争闘に夢中になる。
あすの米びつの心配のほうがより現実的であるからであろう。
生きているうちに一度でも金をもうけて三日でも栄華の夢を見さえすれば津波にさらわれても遺憾はない…そういう人生観をいだいた人たちがそういう市街を造って集落するのかもしれない。それを止めだてするというのがいいかどうか、いいとしてもそれが実行可能かどうか、それは、なかなか容易ならぬ難しい問題である。事によると、このような人間の動きを人間の力でとめたりそらしたりするのは天体の運行を勝手にしようとするよりもいっそう難儀なことであるかもしれないのである。
77年前にこのように書いている人がいた。今、五百旗頭真さん(東日本大震災復興構想会議議長)が引用したこともあり、この寺田寅彦の随筆「災難雑考」が読まれている感じがしますが…(そうでもないかな)。
原発再稼働は、「いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配…」ですよ。寅彦が現代にいたら、もちろん原発再稼働には反対したでしょう。「いつ来るかもわからない津波の心配よりもあすの米びつの心配…」は、思いと逆のことを言っています。
寅彦は、「災難雑考」の締めくくりでどう書いているか?
「いろいろと考えてみたが、結局なんの結論も出ないようである。一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑である。この疑いを解くべきかぎはまだ見つからない。これについて読者の示教を仰ぐことができれば幸いである」
「一抹の懐疑」は、懐疑を通り越して、「悲観的科学的災害防止不可能論」になっております。
私は相変わらず、原発は撤廃すべきと考えています。しかし、とりあえず、米を食べながら原子力発電をなくす方向で縮小させていこうということなら、再稼働に賛成します。寅彦に、「オレの書いたことを誤解するな」と、言われるぞって?
いつ来るかもわからない津波の心配よりも…風力、火力、太陽光、波力などなどの発電を増やして原発に頼らなくてもいい状況をつくるのがいい…。そうこうしているうち津波が来たらどうするんだって?
うーん!こ、来なかったらどうするんだ…。