わたしのこどものころは、着るものは母がすべて手づくりしてくれました。
パンツやシミーズ、ブラウスやスカートやワンピース、体操着、冬のコートや手ぶくろと帽子まで。
ほんの40、50年まえまでは、衣服は家庭のなかで、家族のためにつくられていたのです。
たべものもそうですが、だれかがだれかのためにつくったものと、そうでないものとは、ちがいます。
着るものに、気もちがこめられています。
いまも母のつくった衣服の感触をわたしの皮膚が覚えていてむねがきゅーっとなるほどです。
まるで母のつくった衣服にいのちが宿っているように感じるのです。
かつてのにっぽんには、じぶんたちのものはじぶんたちでつくる、手しごとのある簡素な暮らしがありました。
わたしたちの手は、つくる手にもなれるのです。
手しごとをちくちくしていると、瞑想しているようなこころもちでゆたかに感じます。
わたしのからだの野生が、ものをつくりたいのです。
わたしたちはいま、手を使ってなにかを生みだしているでしょうか?
お金をだせば簡単になんでも買えます。
けれどもこころゆさぶられるような、気もちのいい衣服がありません。
わたしはじぶんの衣服をつくりはじめました。
母がそうしたように。
手でものをつくることは、本来わたしたち人間の原初の手の働きでもあります。
わたしのいのちをつつむ、1枚のもんぺをじぶんの手でつくると、わたしの暮らしそのものが、愛おしむものになります。
そう、暮らしを紡ぐことは、手でみずからの暮らしにひつようなものをつくることなのでしょう。
種まきびとの絵日記 はるなつあきふゆ
早川 ユミ 地球丸
より抜粋
前にお財布を作ってもらった記事を書きました。
だれかのためにつくったもの
まさにその感覚が伝わったから、わたしはお財布を手にするたびに嬉しくなるのです(笑)
けれどこの感じる感覚もいまの人は鈍くなってる気がします。
機械的な社会、人工物の世界の中では必要のないものだからかもしれません。
お金だけのやり取りには、こころは必要のない感覚。。。
昔々、おばさんに頼まれて雑巾を縫ったことがあります。
従兄弟が保育所に持っていく雑巾でしたが、おばさんはミシンが使えなかったのです。
普通の雑巾じゃあ面白くないなぁーと怪獣かなにかをミシンでステッチしたのですが、従兄弟はその雑巾を気に入ってくれたらしく保育所に持っていきたくないと言ったとか、そんな後日談のうる覚えがあります。
生活のすべてをまかなえなくても、何かひとつ自分の手をつかってうみだしてみませんか。
自分ために
家族のために
愛するだれかのために