デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



菩薩交脚像(クシャーン朝2世紀、ガンダーラ)

個人的な考えだが、仏教は仏像が作られ始めた頃から自力本願から他力本願の信者が増えだしたのではと思っている。ゴータマ・ブッダが入滅し400年近く経てば信者の増加し社会も変化してくる。ゴータマ・ブッダの教えを実践する修行僧や修行僧を直接援助する居士や優婆夷はともかく、在家信者としては目に見える形のものに祈ったり拝んだりする方に信仰のかたちが変化せざるを得ない時期が2世紀ごろだったのかもしれない。

仏像が作られる前は仏舎利信仰が盛んであった。仏舎利を収めた仏舎利塔の形がのちの仏像へと変化していく過程をダイジェストではあるが、東京国立博物館でも学べたと思う。またいつかこちらの本を読み返してみたく思う。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




楔形文字粘土板文書

 

楔形文字の文書(もんじょ)なんて外国の博物館の所蔵品が日本で展示される特別展くらいでしか目にできる機会などないだろう。子どもの頃なら遠足で古代の博物品を見せられても何もおもしろくなく寧ろ早く遠足終わって遊びたいと思っていた。しかし今となってはこういった博物品が旧約聖書が形になってくるはるか前の時代から存在し、メソポタミアの地で人々の営みがあったことを示すものであること、それが日本でも(決して多くの場所ではないにしろ)見れるということがこんなに貴重なことであるとは思わなかった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )










東洋館には古代エジプトの博物品も展示されていた。まさか外国の博物館の名を冠した特別展以外の機会で、古代エジプトのミイラと容器が見れるとは思わなかった。


セクメト女神像

アメンヘテプ3世の時代のもの。アメンヘテプ3世といえば確かツタンカーメンの祖父に当たるファラオじゃなかったかと思う。アメンヘテプ3世の次のアメンヘテプ4世(アクエンアテン)時代に宗教改革に失敗し、その余波がツタンカーメン治世時代を襲ってしまった歴史の経緯は時々テレビでツタンカーメンの財宝とともに紹介されることがある。
アメンヘテプ3世の時代はエジプトが絶頂に達した頃で、セクメト女神像もその時代に大量に作られたのだそうだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




銀製耳杯・鍍金支座


こういった豪華な容器を見ると、司馬遷の『史記』にある漢王朝成立のときの劉邦のブレーンだった人物の言葉が頭をよぎる。

高祖(劉邦)は帰還して、宮殿や宮門の壮麗なのを見てはなはだ怒り、蕭何(しょうか)にいった。
「天下は、ものぐるおしく戦いに苦しむこと数年、その成敗はまだわからない。それなのに、どうして度を過ごした宮殿などをつくるのか」
 だが、蕭何が、
「なるほど、天下はまだ定まっておりません。ですからこそ、壮麗な宮殿をつくりあげるべきです。かつまた、天子たるものは四海をもって家となさるべきです。壮麗でなければ重々しい威厳がありません。また、わが後世の君主がこれ以上壮麗になさる必要がないようにしておくのです」
 というと、高祖は悦んだ。
  『史記(上)中国古典文学大系10』(平凡社)野口定男 訳
『史記』の「高祖本紀」のこの箇所を読んだ時、なんの逸話だったか記憶がおぼろげではあるが、戦勝国の権限を委任された者を迎える時に、敗戦国側は「我々にはまだ力がある」ということを態度及び建物や部屋の威厳でもって示すことが戦後処理の結果を大いに左右するという記述を思い出した。刀や銃で傷つけあうことのみが戦ではないと展示を見て思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




甲骨文字




教科書や図版にあるものじゃない本物の甲骨文字を見れるとは。東洋館は今自分が見ておきたい考古学的資料が多かった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




動物形竿頭飾(どうぶつがたかんとうしょく)



春秋戦国時代の剣

青銅製の剣だが、春秋戦国時代にこの殺傷力のありそうな剣がつくられた。戦争が剣をつくらせるのではあるが、この時代の時点でこのような剣をつくっていたことに驚く。
秦の時代には現在でいうクロムメッキを施された剣もつくられていた。詳しい製法はまだ研究段階だが紀元前の段階でおそるべき技術力だ。


龍文方鼎(りゅうもんほうかなえ)の内側



龍文方鼎

殷の時代の祭祀や儀礼の神前にささげる肉料理を乗せるためのもの。左右対称に龍が彫られているのがわかる。二匹の龍の間に動物の頭部が簡略化されたかたちで表現されている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




饕餮文三犠尊(とうてつもんさんぎそん)

世界史の教科書やそれに不随するような資料集に載っていそうなものが東京国立博物館にはたくさんあった。
饕餮文三犠尊は古代中国の殷の時代のものだという。饕餮とは目を見開いた獣の顔のような図像と解説にあった。改めて初めて知る言葉って無数にあるのだと思った。ちなみに尊は儀式に用いる酒や水を入れる容器の意味だそうだ。
秦の時代は殷よりも700年くらいあとだが、殷の時代の青銅器でこれほどまでの装飾が施されているのなら、のちの時代に兵馬俑の精巧さが実現するのも分かる気がする。







まさか古代の弩機まで展示されているとは思わなかった。春秋戦国時代、矢を飛ばす距離や威力の違いは戦力の差を生むものだったといっても過言ではないだろう。弩は狩りにも使われているほど強力な武器だが、これを戦いで有効に使ったのが秦だった。博物館に展示されているのは漢の時代の弩機である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




定武(ていぶ)蘭亭序(呉炳本)




三国志よりあとの東晋の時代、王羲之(おうぎし)という政治家・書家が活躍した。
現在の中国浙江省紹興市には王羲之ゆかりの蘭亭という観光名所がある。その蘭亭で353年(永和9年)に宴が催され、多くの詩人が詩を創作した。蘭亭で創作された作品をまとめたものに王羲之は序文を付したが、その序文(蘭亭序)は後世とくに唐の時代に大いに評価され、また蘭亭序の王羲之の書体もそののちの書家たちが手本とするものとなり、中国の「書」自体が芸術に昇華される礎ともなっている。
書体や書道については正直なところ、数年前まで旅行ガイドブックを見るまでは関心がなかったが、東洋の歴史の本を繰るうち書家や皇帝が自ら筆をとって書いたものが刻まれたり彫られたりして石碑や扁額の形で残っていること、とどのつまり字が残っていることのすごさが漸く最近になって分かってきた。
東京国立博物館の東洋館には拓本が展示されている部屋があった。そこでまさか唐代の欧陽詢が王羲之の書体を臨書した代表的なものの拓本を見れるとは! これを見れただけでも望外の喜びだった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




東京国立博物館

博物館の構内には本館や特別展が催される平成館のみならず、東洋館や表慶館、法隆寺宝物館、黒田記念館などいくつもの建物がある。丁寧に見て行けばとても一日で回れるものじゃない。
なので東洋館と本館と平成館をまわることにした。


ブレているが画像石の説明



上段の中央に西王母。中段には一頭立ての
馬車に乗る人物。下段には狩猟の場面。

後漢時代に作られた画像石。まさか東京に来て西王母の画像を見ることができるとは思わなかった。西王母は陰の気の精である仙女で不死の薬を持っているがこの画像では薬を捧げられているかのように見える。ちなみに西王母の持つ不死の薬は羿(ゲイ)に下賜されたものの羿の妻の嫦娥が盗んで飲み、嫦娥は月へ出奔してしまったという神話がある。





上部にヒキガエル、下半分に大禹

さらに夏王朝の祖・大禹の画像まで見れるとは。紹興市の会稽山大禹陵の大きい像を思い出した。
工事のための鋤を手にし笠を被っている姿はいかにもという感じだ。禹は治水工事を成功させ国を富ませたが、その統治はのちの支配者や思想家にも多大な影響を及ぼし、現在でも尊敬されている。





上段に西王母。中段に周公旦と成王(せいおう)。

周公旦(しゅうこうたん)といえば忠臣の鑑みたいな人物で、孔子が高く評価しているのも頷ける。統治システムに儒教が根を下ろす漢の時代はなおさらその忠義振りが手本にされたのかもと想像逞しくしてしまう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




上野公園へのこの横断歩道も久しぶりだ


東京国立博物館で開催の特別展のチケットを買って博物館へ。



東京国立博物館


博物館を正面にして右のベンチで朝食を摂っていると立像があるのが目に入った。


 


 



野口英世銅像だった。昨年、福岡伸一氏の著書のなかで描かれている野口英世の実像を読んだせいか、学級文庫にあるようなまんが偉人伝の神話精神が具現化したもののように映った。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »