デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



工事用フェンスの上にカササギがいた。

あとで知ったが韓国の国鳥だという。韓国の呼び名はカッチ。




殯殿(ひんでん、もがりどの)に来た。
ここは王や王妃が逝去すると棺が安置される場である。郊外(城外)の王陵に埋葬された後は、宮殿の魂殿に位牌が祀られる。そこで一定期間葬儀が行なわれ、位牌は宗廟に祀られることになる。


人の少ないところを
選んでの撮影のようだ













泰元殿は景福宮の殯殿として、交慶殿は魂殿として建てられた。周辺には恭黙斎、永思斎などの葬儀用建物もあって一郭をなしていたが、日帝時代に撤去されたこともあり、一時期は青瓦台の警護部隊が駐屯していたこともあった。
2006年にこの一帯の復元工事が完了し、本来の姿を取り戻した。



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2019年、台湾がアジアで初めて同性婚を法制化した。東南アジアではタイが初だ。
時代はどんどん変わる。


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勤政殿の北側

青空が徐々に現れ始めた。


思政殿への門だ







思政殿(サジョンジョン)








千秋殿(チョンチュジョン)

勤政殿の北には国王が執務や研究を行なった思政殿、千秋殿がある。
今となってはよく思い出せないが、なぜか王や王妃のための寝殿を後回しにして慶会楼の方に行った。


慶会楼(キョンフェル)



1階を石柱で、2階を吹きさらしの大規模空間となっている。宴会や外国施設の接待に使われた。










景福宮は日韓併合後の1915年に施政5年記念朝鮮物産共進会、1929年9月~10月に総督府主催の施政20周年記念行事として朝鮮博覧会が開催された歴史も持つ。
朝鮮博覧会では景福宮の北半分がその会場にあてがわれたが、宮内の住居部分のほとんどを撤去し、博覧会用の建物が新設された。慶会楼は博覧会会場の休憩所として使われた。



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監督はドラマ「ツインピークス」シリーズで知られ、私もシリーズを前のめりになって見ていた。
長編映画では「エレファント・マン」、「ワイルド・アット・ハート」を初めて見たとき鮮烈なものを覚えたし、「ストレイト・ストーリー」にはほのぼのした雰囲気の中でラストにじわっと感動した。
監督の描く世界はちょっとしたアナザーワールドで、ひょんなことから足を踏み入れることができそうに思ったことも少なくなった。
偉大な映画人がまた逝った。ご冥福をお祈りいたします。


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勤政門(クンジョンムン)と左に北岳山

景福宮(キョンボックン)は李成桂により朝鮮王朝が建設された3年後の1395年、開城から今のソウルへの遷都の翌年に創建され、正宮として使われることになった。

勤政門

勤政殿は国家の重要な儀式や中国からの使節との接見が行なわれた朝鮮王朝の心臓部であるが、勤政殿の南に建つ勤政門はその門楼である。

光化門の方を振り返る。
景福宮の南には現代的な
ビルが建ち並んでいる。

この装飾の細かさ…


勤政殿(クンジョンジョン)

勤政門から朝廷へ。石畳を敷いた朝廷に入ると、一段上がった御道、王の道がある。その両端には文官武官が階級別に建つ位置を示す品階石が並び、奥に勤政殿が建っている。



くりかえすようだが勤政殿は国家行事を行なった場で、前面の石畳を敷いた朝廷とともに王の即位式や文官武官との朝会、外国使節との接見に利用された。二段の月台(基壇)の上に殿は建ち、屋根を二層に架けている。
韓国最大の木造建築であり、軒や梁は緑と紅を基調としてそこに芥子色と青を織り交ぜ、さらに斗栱(ときょう)屋根の先を支えるために柱上に組まれる木組み)の部分には、緑と紅で雲形をしたような絵板があしらわれている。
















遷都から約200年後には文禄の役(壬辰倭乱)に乗じた混乱で、景福宮も王が去ったら奴婢たちの略奪に遭い火が点けられ建物の大半が焼失、そのまま放置された。
宮殿は文禄の役から約270年後の1867年に興宣大院君(フンソンデウォングン)が再建した。その子・高宗(コジョン)が、1868年から景福宮を正宮として使い始めた。



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朝日に映るフードウェスタ
 in 益山(イクサン)横断幕

2025年になりました。本年もよろしくお願いいたします。


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