デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



興福殿





再び慶会楼






慶会楼は1929年9月~10月に朝鮮博覧会会場の休憩所として使われたことはこちらですでに触れたが、会場の入場口は景福宮の東側にされた。その入場口から会場のメインストリートが伸びていたが慶会楼はその突き当りになっていた。この方向からの画像なら当時の来場者の目に映った感じかもしれない。


主に仏事を行った含元殿





交泰殿(キョテジョン)


康寧殿(カンニョンジョン)


康寧殿は王のため、交泰殿は王妃のための寝殿だった。夜がふけると王は交泰殿に通った。



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スティーブン・キング作(山田順子 訳)『スタンド・バイ・ミー』(新潮文庫)読了。(本に所収されている『マンハッタンの奇譚クラブ』は未読)

日本語訳バージョンを出すのに際し、邦題では『スタンド・バイ・ミー』と改題されているが、原題は The Body で意味は「死体」である。
よく知られているようにこの中編小説はロブ・ライナー監督によって映画化され、1986年に公開(日本では1987年)された。小説の方が改題されたのは、映画と絡めて本を多く売りたかったからではないだろうか。

映画「スタンド・バイ・ミー」は私も見たことがあるし、作品として悪くないと思っているが、映画のイメージが強いこともあったのだろう、今回読んだ小説『スタンド・バイ・ミー』には違和感を覚えた。
映画はベン・E・キングの名曲「スタンド・バイ・ミー」をモチーフに作られているように思うが、原作は映画とは根本的な何かが違う。違和感を覚えたのはおそらく Stand by me というフレーズが小説の中では一切登場しないのではないか?と思わざるを得ないところにあるだろう。
まさかとは思うが、PENGUIN READERS版 The Body での Hailstones の章

‘Stay with me, Gordie,’ Chris said in a low, shaky voice, ‘Stay with me, man.’
‘I'm here.’
‘Go away now,’ Chris said to Ace, and he was able by some magic to get the shaking out of his voice. He sounded as if he was giving insructions to stupid child.


この場面で原作では Stand by me と言ってたりして?、などと邪推してしまった。だが万が一、原作の小説で Stand by me のフレーズが用いられていたら、それはもう作品として台無しだろう(笑)。
とどのつまり、 Stand by me というフレーズは小説の中心テーマどころか全体を表すものでもないし、ピンポイントで鮮烈な印象を残すような場面ですら用いられていなさそうだ。

では、タイトルが小説の全体像を表さないなら、作品のテーマってなんなのだろうと考えた。その結果、作品では子どもの頃に見た怖い夢や、少年の「死体」をめぐる強烈な体験からのトラウマといっていいほどの怖い夢はそれ自体が戦慄でありホラーで、それは自分の中から否応なしに湧いてくることそれ自体が恐ろしいことだ、といっているに過ぎない、と思うようになった。
いっているに過ぎないと書いたものの、描かれている内容自体は恐ろしいことであり、映画のような懐古とは程遠い。小説が発するものは「レイ・ブラワーの目」に雹が降る夢だけでなく、水中の手に引きずり込まれる夢が進路という名の人生のリアリティの隠喩も持ち合わせそれが死体探しの冒険に出た四人とそのうちの二人の末路に容赦のない現実を指し示していること、レイ・ブラワーが持っていたであろうバケツにこだわり大人になってもバケツを探しに行きたくなる個人的な執着は共感能力に乏しい他人には決して理解できないだろうこと、これらは混然一体となって大人になった語り手と読者に恐怖を間歇的に突きつけることに他ならない。
これはある意味、作家の初期作品『呪われた町』のような恐怖の対象がはっきりしていて戦いようがあるような恐怖とは異なり、ある意味最も性質(たち)の悪い戦慄でありホラーなのだ。この作品の凄味の正体は自分の中から否応なしに湧いて出てくるもののなかにあるのではないだろうか。
よって改題でつけられた『スタンド・バイ・ミー』というタイトルは作品本来のテーマからすると逸脱、作品の全体像や中心テーマの体をなしていないのでよろしくないのではないかと思う。



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資善堂の基壇と礎









資善堂と目にしたとき某化粧品メーカーのことかと思ってしまったが、落ち着いて読んでみれば全く違った。
解説の通り資善堂は王世子と世子妃の居所だったので、この辺りは東宮の領域だった。
15世紀からあった建物ながら20世紀に入り朝鮮の国権が失われると日本の東京に移設され、美術館として使われたとは…。しかし関東大震災で建物は全焼し、基壇と礎だけが残された。上の画像の基壇と礎は1995年に再び韓国に搬入されたものだ。


香遠亭


左に興福殿と右に後宮領域


後宮領域の緝敬堂


この一帯は後宮と宮女たちのための後宮領域だ。寝殿として使われた幾多の殿閣と複雑な行閣は殆んど無くなり、現在は咸和堂と緝敬堂だけが残っている。
この建物が現存するのは日本が朝鮮総督府博物館を運営し、その事務室として使うために壊さなかったからだという。


興福殿

晴れてきた



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香遠池と香遠亭

もう一度神武門から入城した。


香遠池と香遠亭を少し見たあとその北側の建物に行ってみた。現地では気付かずに、また帰国してから潜在的に「見ておいてよかった所に、行ってたんだな」と思ってしまった建物だった。そこは乾清宮だったのだ。









乾清宮は1895年10月8日未明に三浦梧楼が日本守備隊や公使館警察などと糾合して実行部隊を王宮に侵入させ、閔妃(ミンピ)こと明成皇后を殺害した現場となった建物である。2007年に復元された。
中も特別公開するときがあるらしく、こちらの動画で中の様子が分かる。










1895年閔妃(ミンピ)が殺害された事件は韓国では乙未事変(ウルミサビョン)といわれる。
日本側は事件を大院君派のクーデターに見せかけようとしたが、事件の一部始終はアメリカ人軍事教官やロシア人技師らに目撃されていた。事件の国際問題化は避けることができなくなり、日本側はやむなく事件の関連者を逮捕し裁判を行なった。しかし事件関係者らは翌年の1896年1月には証拠不十分ということで全員釈放されている。
閔妃殺害事件後、全国的な抗日義兵活動が起こった。親日派内閣がその対応に追われている中、親露派の政治家たちはロシア公使にはたらきかけ、高宗にも王宮からロシア公使館に移るよう勧めた。高宗は勧めに従った。独立門の記事で触れた露館播遷である。



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集玉斎のほうへ


集玉斎

集玉斎については、身も蓋もないがこちらをご覧いただいたほうが早いだろう。


神武門

門の向うに青瓦台が見えたので、つい門から出てしまった。


青瓦台(チョンワデ)



最近(2022年5月)まで韓国大統領府だった青瓦台。
人がたくさんいたこともあるし、自分の関心がなかったり勉強不足もあって入らなかったが、外国人旅行者でも見学できるようである。
今の大統領執務室は国防省庁舎に移っている。なお今の官邸はソウルの漢南洞(ハンナムドン)にある外交部長官公館が尹錫悦大統領の官邸に決まった。


神武門


イベントのスケジュール


見学希望の人が
行列をつくる

神武門からもう一度景福宮の中へ。チケットブースに係員がいない理由がようやく分かった。


なんという
パワーワード(笑)。

「本日は無料です」の標示を見てガイドブックを繰ってこの時にハッと思いあたった。日本でいう盆休みや正月休みのチュソク(2023年のチュソクは9/28からだった)なんじゃないか? 平日なのにやたら人が多かったし、チュソクであれば無条件で無料とは限らないものの、連休だからこそ景福宮のスタッフも休みの人が多くなるし無料にしていたのかも…。また可能性は低いとは思えど、光化門その他の工事が完了していない時期だったから無料だったのかもと考えた。


カササギ



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