デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『カラマーゾフの兄弟』は、あと250ページぐらいで読み終えるが、その前に浦雅春訳のゴーゴリ『鼻/外套/査察官』(光文社古典新訳文庫)の解説を読んだ。『カラマーゾフの兄弟』の中の裁判の場面で、登場人物が引用し弁ずる有名なゴーゴリのトロイカのイメージ(この場合は比喩)について、気になったからである。
ドストエフスキー小説をただ夢中で読み漁っていたころ、その勢いのままプーシキンやゴーゴリの作品に手を出したのだが、そのきっかけとしてドストエフスキーが言ったとされる次の言葉が強く作用していたように思う。

われわれはみんなゴーゴリの『外套』から生れた

作家がそんなこと言ったとなれば、その作家の魂の「親」たる作家ゴーゴリの作品も読んでみようという気にもなろう?
ゴーゴリの作品を当時(19世紀半ば)批評した人物でベリンスキーという大御所評論家がいるのだが、この人は

社会の底辺に位置する哀れな小官吏に注ぐゴーゴリの眼差しを人道的なものと思いこみ、そこから作家の社会的抗議の姿勢を読み取り、リアリズム(写実主義)こそ新しい社会に必要な文学だと主張し
(『鼻/外套/査察官』(光文社古典新訳文庫)の解説より)

たのだが、この色眼鏡を通した見方は20世紀後半までゴーゴリ作品の「真」の言説として、ひょっとすると今でもおすすめの読み方として残っているかもしれない。
ゴーゴリを初読した頃、この読み方に私もどっぷり首まで浸かっていたのだ。当時の社会状況からすれば、ゴーゴリの作品をこういう風に捉えて支持した人は少なくなかったのだろうし、ドストエフスキーもベリンスキーから多いに影響を受けまた世話になっていただけでなく、ゴーゴリをよく読んでいて、ゴーゴリの細部の描写に影響を受けている部分も見受けられるので、上の"生れた"名言が出ても仕方ない。が、しかし現代に至るまでステロ化した評論めいた見方するのはどうなのか? そもそもゴーゴリのリアリズム作品なんてどれだけあるのか?

ひところ日本で訳されたゴーゴリの解説には判で押したように、ゴーゴリ作品は「人目にもつかぬ下級官吏の日常生活をユーモアを交えて活写しながら、その日常にひそむぞっとするような真実を明らかにしている」だとか、「その作品はのちのロシア文学の大きな流れのひとつとなった人道主義的傾向の発端となった」といった文言がならんでいた。読者のほうも、本当かねといぶかりながら、解説に書いてあるのだからそうだろうと、率直な感想を押し殺してきたのだ。どうやら「真実」だとか「人道的」という言葉に人は弱いらしい。ゴーゴリの時代の読者もすでにそうであったようで、毒舌家のナボコフなどは、「真面目な読者たちは、こんにちそうであるように、『事実』と『ほうとうの物語』と『人間味』をひたすら求めていた。哀れむべき魂たち」(『ニコライ・ゴーゴリ』青山太郎訳)と揶揄している。
(上掲書)

正直、痛いところを突かれた感じだが、同時に気分が良くなりもした(笑)。そういやゴーゴリより後の19世紀ロシアの小説で知られたもの、トルストイ『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』他、ドストエフスキー『地下室の手記』『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』、ガルシン『赤い花』その他短編、チェーホフ『六号室』その他短編などの内で、作品の最初から最後まで絵に描いたような人道的な作品ってどれだけあるのだ? そもそも一つの作品を、人道的と判断するだけでも難をきわめるのではなかろうか。
「率直な感想を押し殺してきた」という話題に戻るが、これまでの解説にあったゴーゴリのリアリズム、ゴーゴリの笑い・ユーモアは、結局のところ私には楽しめなかったにも関わらず、ベリンスキーばりの見方だけはスノッブな知識として頭の片隅に残していたんだろうと思う。
これまで幸いにも人前でゴーゴリの「リアリズム」や「ユーモア」について語ることはなかったので、恥はかかないで済んでいたろうと思うが、それにしても、作品がおかしくなかったら無理に笑うことはないんだし、リアルだ!と思わなければ思わないで構わないといったことが、なぜ分からなかったんだろうなぁと自分自身に首をかしげる。
(そういえば、比較的最近のゴーゴリ作品の訳書だが、登場人物名まで日本語の駄洒落をイメージさせる名前で実験的かつ試験的に意訳?したものも読んだことがある。訳者による読者への最大限の気遣いの賜物だとは思うが、いまからすると少々滑稽なものになっている感を覚える)
この根幹には、作家や評論家(解説者)に対して創作の労力や研究成果に対する最低限の敬意以上に、当人にとってはかえって迷惑かもしれない読者が偉い人に対して覚える清廉潔白さのイメージや、無条件に崇めたてる気持ちが働いているのだろうなぁ。卑しいようだが、自分の読み方が作家や評論家のお気に召せば、感激癖でもって命すら投げ出しかねないような(笑)。(逆にいえば幻滅すると徹底して忌み嫌うのかもしれない(笑)。
哀しいかな、違う意味で笛吹かれたら否応なく踊ってしまう特徴(性格?)はどうしようもない。世界中の読書を愛する人々の中でも、おかしいものはおかしいと言える良質な読者は多かろう。しかし私のような者もいることで、救いを感じる人がいれば幸いだ。尤も自戒も込めて、私は今、佐藤優や亀山郁夫、塩野七生らの著書の影響もしくはその反作用を受けて、勢いでこれを書いていることを付しとく。最後は『カラマーゾフの兄弟』から引用して締めよう。

「…ひと時代前の大作家ゴーゴリは、彼のもっとも偉大な作品のフィナーレで、ロシア全土を、未知の目的に向かって突っ走る勇ましいロシアの三頭馬車(トロイカ)になぞらえ、こう叫びました。『ああトロイカよ、鳥のようなトロイカよ、だれがおまえを考え出したのだ!』そして、まっしぐらに駆けるトロイカを前に、諸国民はみなうやうやしく道をあける、と誇らしげに熱っぽくつけ加えております。
 たしかに、みなさん、これはこれでけっこう。うやうやしくあろうがなかろうが、道はあけていただきましょう。
 しかし、わたしなりの罰当たりな意見を言わせてもらえば、天才芸術家がこんな結末を書いたのは、子どもみたいに無邪気でおめでたい理想主義にかられたか、それとも当時の検閲を恐れていたかの、どちらかにほかなりません。なぜなら、その主人公であるソバケーヴィチとかノズドリョフ、あるいはチチコフといった輩にトロイカをひかせるというなら、だれを御者台にすえようが、そんな馬でまともな目的地にたどり着けるわけがないからです! しかもそれは昔の馬で、現代の馬には遠くおよびません。現代の馬はもっとすごいのです……」
 ここでイッポリートの演説は、拍手によって中断された。ロシアのトロイカという表現のリベラリズムが気に入られたのだ。もっとも、拍手を送ったのは傍聴席にいた二、三人のさくらだけだったので、裁判長も傍聴人に向かって「退廷を命ずる」などと脅しをかける必要もみとめず、そうしたさくらをきびしくにらんだだけだった。しかし、イッポリートはそれで勢いづいた。いまだかつて、他人の拍手を浴びたためしなどいちどもなかったからである! 長いあいだ他人に話を聴いてもらえなかった男に、とつぜんロシア全土にむけて発言する機会がおとずれたのだ!
(『カラマーゾフの兄弟4』(光文社古典新訳文庫)p514~p515


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