デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




特定の一族だけの繁栄に肩入れし、それに抗すると容赦ない罰や呪いを与え、人類全体に祝福を与えるつもりなど微塵も無い神を崇め畏れる人たちの物語は、ヨゼフが井戸から上げられた場面まで読了。
「原典」があっての物語なので仕方の無いことだが、正直、物語の登場人物たちがなぜこれほどまでに一族の伝承神話に対して従順なのか、地上における自分の役割というやつを、自主的に、時に嫌々ながらこなそうとするんだろうと思ってしまう。
しかし、小説に描かれている人間の性質というのは、西洋でも中東でも東洋でも変わらない部分も少なくないと読み進めるにしたがって改めて思う。
たとえば横溝正史作品に描かれているような田舎の因習や血縁の因縁も、『ヨゼフとその兄弟たち』に描かれていることと共通点はあるし、横溝正史を持ち出すまでも無く、現代でも恋愛結婚となると花嫁・花婿の家のことで結婚相手に過酷な条件を課して、暗に反対し、それでも破談にできそうになければ、家の神様の違いまで盾にとってまでして、仲を引き裂こうとするようなことは、良きにしろ悪きにしろ、見られる事実なんだから。
それにしても、ヨゼフが井戸から上げられるまでの、神話(天上)で起こる物語と人間世界で起こる物語の「くり返し」の執拗さは、作家熱がなせる業とはいえ、悪意すらあるだろ(笑)。「原典」の事実から逸脱しないための作者の気配りににやにやしつつ、それは感じざるを得ない。
ヨゼフのことを心配して与える父ヤコブやルベンやベニヤミンの再三の警告に対し、若くして祝福の前途が約束され自分の「夢」に有頂天で高慢で厚顔な状態のヨゼフは盲であるし、それはかつて父が「夢」の解釈に注意を払わないまま婚礼の儀に臨んだことと変わりがないという意味でくりかえし。
生業を左手でこなすようなヨゼフが見た自分の夢について腹立たしい気持ちを抱く兄たち。兄たちは観念集合体のお化けの影響で、夢の解釈として「ひょっとして俺たちはこいつに頭をさげる…」と口に出してなお、兄たちは銀銭20枚に相当する品物の代わりに、父親の愛を独占する字を書け教養のあるさかしいヨゼフを旅商人に厄介払いしようとするが、旅商人の長から

「…しかし、本当に、あらゆる階級の人間は支配されますが、書庫の書記だけは別で、書記は自分で自分を支配しますから、あくせく働く必要はない。蘆の筆で字を書くというこの蘆の子が汗水流して働くあなたがたの上に立つ、というような国々もありますからね。いいですか、ひとつ冗談に、この子のほうが主人で、あなたがたはその奴隷だと仮定してみましょうか、わたくしはそういう場合を思い描くことができますよ、想像力がもうすっかり駄目になっているというわけではありませんからな。いや、わたくしは商人です」

と言われても、このように聞かされる兄たちは、ヨゼフの見た夢との関連性を頭の片隅でわかっているかもしれないのに、自分たちの決断で「地上における自分たちの役割」を過去の例に倣いたくなくとも演じてしまう、という意味でくりかえし。
そのエピソードの前(井戸に投げ込まれる前)、ヨゼフは不遜な意志をもちつつも自分のつくる花冠を「完全犠牲」を意味すると自ら口にし、自分が作物の種のごとく死すればこそ復活し繁栄をもたらすこと、それはまるで月が死してまた復活する現象(神話)にも見られ、天上(月や星辰)で起こることは井戸に落とされてなお九死に一生を得たことで復活することにも投影し、そのことの意味がルベンの遭遇する「(天を仲介する)野の男」の口から隠喩を込めぼかしつつも語られる、慄然とさせるような「くりかえし」。

「死んだよ、明らかに」と番人は答えた。「君が聞かせてくれたとおり、君たちが彼を生き埋めにしたのだ、そして、そのあとで彼は盗まれたか、あるいは野獣に引き裂かれたかしたものらしい、――君たちとしては、この事件を父親に報告して、手に取るようによく説明してやり、父親をこの事件に慣れさせるようにする他はないね。しかし、こういうことというものは、いつまで経ってもはっきり納得のいかないもの、慣れるというわけにはいかないもので、むしろ、いつも期待の芽をひそめているものなのだ。人間は秘密に近づこうとして、いろいろなことをするが、祭りもその努力のひとつさ。わたしは、ひとりの若者が花冠をいただき、晴着をまとって、墓のなかへ降りてゆくのを見たことがある。人々はこの若者の頭上で、蓄群のなかの一匹を屠り、その血を若者に注ぎかけた。血は若者の全身にふりそそぎ、若者は五体五感の一切をあげて血を受けとめた。やがて墓から立ち現われた若者は、神々しい存在になって、生命をかち得ていた、――少なくともしばらくのあいだは生きていたのだが、やがてまた彼は墓へ入らなければならなかった、というのも、人間の生命というものは幾度も循環して、何度も墓と誕生とをもたらすものだからだ。つまり、人間は、完成するまでは幾度も生成しなければならないのだ」
「…つまり、ここで起ったことは、血を注がれた若者の話と同じように、単なる遊戯で、祭りなのだ。この事件は実現の発端、実現の試みにすぎないし、今のこの現在はかならずしも真面目に取るべきものではなくて、冗談であり暗示であるにすぎないのだから、われわれはこれを見ながら肘でつつき合って、目くばせをしたり笑ったりしてかまわない。この穴は小さな循環がもたらした墓にすぎないのかもしれないし、君たちの弟も決して完成しきったのではなくて、まだ大いに生成の途中にあるのかもしれない。その点では、この物語全体がまだ生成の途中にあって、すでに完成したものでないのと同じことだ。どうか、この考えを君の分別の胎内に取り入れて、その中で静かに死なせて、そして芽ぐませてくれたまえ。しかし、それが実を結んだなら、父親にも分ち与えて元気をつけてやりたまえ」
「上を見たまえ」…「あの月を見たまえ、照り輝いて進みながら、兄弟たちのために道を開いてゆくではないか。暗示というものは、天上にも地上にも絶えず現われる。愚鈍でなくて、暗示を読み取れる者なら、いつまでも期待して待っているものだよ。…」

全集版で550ページ以上の分量の内に書かれている周到なくりかえしの末の事件のすぐ後に語られる、くりかえしの意味。なんという効果を読者に与えることだろう。
このブログの記事を読んでる方には、何を支離滅裂なことを書いているのだ、と思われても仕方がない。しかし、人間の救われない性質に苦笑し、イロニーとユーモアをもって語られる饗宴の書は、私に豊かな時間を与えてくれていることは確かなのだ。

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