デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



以前に読んだ小説だが、改めて最初から読もうと思ってしまった。とはいえ読み通せるかはわからない。
序章「地獄行」をなぞるだけで、感心せざるを得ないし、どのようにしたら自分の表現したいことを的確な言葉で正確に豊かな語彙を用いて語りつくすことができるのかね?と私自身が到達しえない境地に対し途方にくれたようなものも覚える。私は、こういった作品こそ芸術と思っているのだが、なぜ『ヨゼフとその兄弟たち』が一般書店で手に入らないのか、古書店ですら入手困難であるのか、不思議なくらいだ。
この作品のテーマは、序章「地獄行」を読むだけで分かるようになっている。しかしそれを一言で表現するのは難しい。
人間の遺す物語は後世に「原典」を読む人間によって伝えられるが、その「原典」も当時の人間がすでにあったものを写したものであり補足や注釈が入っているわけであって、

実は本当の「原典」ではなく、かりそめの停止点にしかすぎない

ことを踏まえ、大昔に書かれた物語が今なお時を越えて語りつがれる理由について、マンはノアの時代の「洪水」を例えに挙げてこう書く。

 水量や水路が常ならず、とかく暴威をたくましくしがちだったユフラテの流れが多数の生命を奪い去ったあの大氾濫、また、大旋風と地震とを伴って陸地に押し寄せて宏大な地域を侵したあのペルシア湾の大津浪が一体いつのことであったかは知るよしもない。むろんこのペルシア湾の大津浪があの洪水伝説の元になったとは言えないのだが、これを最後にあの伝説に決定的な材料を供給し、恐ろしくもまざまざと洪水の有様を再現して見せたのだろう。そこで後代の人々には、この大津浪こそまさに伝説の洪水そのものだと思われたのであろう。恐らくこの種の恐ろしい出来事の、最も新しい事例はそう遠い昔のことではなかったのだ。そしてそういう事例が近い過去のことであればあるだけ、われわれは次のような疑問を禁じえないのである。つまり、そういう大異変を自分の身に経験した人々が、果して現在自分の眼で見ている出来事を伝承上の出来事と、だから例の大洪水と混同したとすれば、それはどんな具合にして混同したのであろうか、あるいはそんなふうに混同するようなことが可能であったのかどうか。ところが事実人々は混同してしまったのだ。そして人々が一異変と伝説上の大洪水とを混同したからといって、それは決して不思議ではないし、そういう混同をした人々の精神能力を見くびるいわれは更々ないのである。そもそも体験というものの本質は、何か過去に起ったことが繰返されるという点に存するよりも、それが現に目前に起ったという点に存する。しかしそういう事変が現在化しえたというのは、そういう事変を招来した諸種の事情がいつも現在しているからに他ならない。肉の道はいつの世にも堕落しているのであり、その傍にいかに敬神の心が並んでいようとも堕落の危険はいつもあるものなのである。蓋し人間たちは、自分らのやっていることが神の眼から見るならば正邪のいずれであるのかを知らないのだし、又、自分らには善と見えることも天使たちにはおぞましい悪であるのかどうか、そういうことも知りはしないのだから。哀れな人間の視力は、神を識別することも、又、悪魔のたくらみを見破ることもできないのである。だから神の堪忍袋の緒が切れて天罰がたちどころに至るという機会はいつの世にも存在しているわけだ。それから又、いろいろな徴候から判断して神意の奈辺に存するかを見てとることのできるような、賢明な予防の策を立てて何万人中自分だけただ一人堕落を免れるような賢い智慧深い警世家も、恐らくいつの世にも存在しているのである。――そういう智者たちは、事に先立って自分たちの所有している知識を石板に刻みつけて、将来栄えるべき叡智の種子としてこれを地中に埋め、水が引いたのちに、この書き遺された智慧の苗床から再びすべてが始まりうるようにと、心を用いたのである。この場合、神秘の一切は懸ってこの「いつの世にも」という言葉に存する。この神秘は時間を識らない。そしてすべて無時間的なものは「現に、今ここで」という形式をとって現われるものなのである。
(中略)
 われわれが今ここで問題にしている時間は、番号をつけて過去・現在・未来という順序に並べることのできるような時間ではない。われわれの意図は、伝説と預言とを混同するという神秘によって、時間そのものを消し去ろうというにある。この混同によって「いつか」という言葉は二重の意味を帯びて過去をも未来をも言い表しうるようになるのだし、そこでまた「いつか」という言葉には「現在」に転じうる潜在エネルギーが賦与せられるわけなのである。さればこそ万有回帰という考えも成り立ったわけなのである。

私などは、マンの言に加えて、大昔は平均寿命が短かくも生業を成り立たせるため、また「代」を途絶えさせないために大家族で生活していたことによる伝承力、さらに今はなくとも「昔」というだけで畏怖を覚えたりありがたがったりする人間の性質を挙げたい。それはつまり、後代にいけばいくほど「昔の物語」が保守的で教訓じみているという時の形成、出来事の既視感を潜在化させたことによる、(伝説の)物語を人間の無意識に胚胎させ定着させることに他ならないと思う。
ただし、今に伝わっている、「いつの世にも」という言葉に存している手軽に読むことのできる聖書の物語から、

そもそも体験というものの本質は、何か過去に起ったことが繰返されるという点に存するよりも、それが現に目前に起ったという点に存する。しかしそういう事変が現在化しえたというのは、そういう事変を招来した諸種の事情がいつも現在しているからに他ならない。

ことを読み取るのは困難である。『ヨゼフとその兄弟たち』のテーマは、そういう事変を招来した諸種の事情を明らかにする試みである、といって差し支えないであろう。
この試みは哲学や歴史、心理学でもなすことができるかもしれないが、一つの事項を理論で覆いそのなかで帰結させるだけでは決して表せ得ない、すぐれた小説でないと表すことのできないものであるように思う。

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