デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ひさしぶりのノンフィクションである。

本書で印象に残ったのは、自分にとってかけがえのない人が亡くなりそうな時期(突然死ではないという状態)、死を待つ周囲の騒ぐ様子が、尋常なものではなくなるのは、天皇の親族の場合でも民間人でも変わりがないことだった。それは祖母が他界するまでの間に感じたこととさして変わりがない。
ただ、天皇の場合は刻々と悪化する病状の「個人情報」がメディアを通して全国に流れ、皇太子が「派手な催しを自粛せよ」と言ったわけでもないのに、国民が側が我先にと自粛を競うようなあの現象が起こることが決定的に違う。
本書ではその現象が起こる心理について、

 ここで指摘されているのは、国際社会からも異様にみられるほどの自粛ムードなのである。そのムードは報道の側にある種の自戒を呼び起こすことになったが、しかし報道する側とて自覚していなかったのは、「崩御を待つという心理」であった。それが近代天皇制が生み出した国民の側の異様な心理だという認識はなく、自粛ムードは天皇をしてその存在を現実から切り離す、きわめて危険な発想だとの認識はなかったのである。
 こうした事実は、近代天皇制のなかにあって昭和十年代のファシズム体制が天皇をできるだけ国民には実体のある存在とせずに、皇居のなかに閉じこめて神格化することで、軍事を中心とする指導者たちが自在に権力を私物化していったのに似ている。

としている。
昭和天皇の病状が悪化している報道がなされたとき、子どもだった私は周りの異様な空気に腹が立ったように記憶しているが、自粛合戦のような現象は、実際のところは、生類憐みの令が発令されたら時間とともに理念が忘れ去られて役人の手柄競争となり犬を叩いただけで牢獄にぶちこむような、毛沢東の大躍進政策で「よい数字」を計上しようとして農家を飢えさせてまで穀物を政府に納めるような、あのやりすぎてしまうアジア独特の性格そのものではないかと思った。
もちろん、その背景に「権威」があって、権威を感じているからこその、やりすぎだったのだろう。当時の昭和天皇には人間ではあるもののミステリアスなものというか、大戦の時代の影を引きずった存在特有の権威・畏怖があったといわれればそうなのかもしれない。
その点を踏まえれば、昭和天皇を父にもつ今上天皇(平成天皇)の先帝の病状を思うあまりの自粛ムードで国民生活に支障が出るのはいかがなものか、といった皇太子であった当時の発言は、とても重要でいっそう輝きを増すように思った。
そのほかにもいろいろ、たとえば新天皇が即位するタイミングを見計らって権力を掌握しようとする高官の動き・権力闘争は明治・大正・昭和どの時代にも、日本でも外国でも共通することであるのは分かった。
また、本書には、天皇には一人ひとり個性があって、その個性が時代を反映していることを明らかにしようというテーマも盛り込まれている。天皇に即位して初めて先帝の気持ちが分かったと思いつつも、先帝を否定する宿命を負ってしまう複雑な心境を、天皇も人間であるがゆえに抱えているという記述が印象に残る。時代が新天皇の個性とともにお言葉をつくり、新天皇のお言葉もまた時代を反映したものであると、私に分かるまでは途方もない時間がかかるであろうが、これからのニュースを見る目が少しは変わるかもしれない。

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