デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



アルベルト・アンジェラ著『古代ローマ人の24時間』(河出書房新社)を先月読み終えていたのだが、これは古代ローマのトラヤヌス帝の時代のローマのいたって普通の一日をレポートしてくれるユニークな書である。
考古学から分かってきた当時の人々の生活や習慣は、現代人のそれと驚くほど似ているところと、全く違うところを知るのは本当におもしろいが、私は現代で機械がやってくれることを古代では人間がつまりは奴隷身分の人間がやっていたわけで、労働環境はいわゆる先進国のものではないこと、しかし奴隷は生きることはできたという箇所が改めて印象に残った。

あと、現代のテーブルマナーでは失礼になるとされることが多いようなことも、古代では高貴で文明的な行為とみなされていたという箇所については、正直、現代のテーブルマナー自体が正直無理をしていると思ってしまうこともあり、苦笑してしまった。

 ローマ人のテーブルマナーは、現代イタリアのものと大きく異なっていた。現代のイタリアのレストランで当時のマナー通りに食事をしたならば、皇帝といえども店を追い出されるかもしれない。だが、ローマ人にとってはそれが正しい礼儀作法だった。手を汚しながら手づかみで物を食べ、食べ物のかすはすべて床に投げ捨てる。イセエビの殻も貝殻も、豚などの骨も……すべて臥台の下や前の床に投げ捨てるのだ。げっぷは、たいへん歓迎されていただけでなく、高貴で文明的な行為とみなされていた。実際、当時の哲学者によると、げっぷは自然にかなった行為であり、まさに良識の最たる証拠とさえ考えられていたらしい。

私も食事の際の行儀やマナーをそれなりに習慣として教え込まれた者であるから、来客があったり上役の人間との食事中のげっぷや放屁がつい起ってしまったり、また人様から聞こえたりすることに、どうしても気をとられることがあるのは認める。
ただ、明らかに「聞かさせてやれ」といった恣意的なものでない限り、こういった生理現象が顰蹙を買うほどのものなんだろうか、とは正直思う。食事という、いわば体にとって満足を与えるものに対する最大の賞賛が、げっぷであるという考え方は、いたって自然なものではないだろうか。お行儀よくすることに精神を働かせすぎてそれに執着し、心からの満足を曲げてしまうことは、食事中にあって我慢大会をするような、かえって息苦しいことではないのか。現代のマナーは、「それほどまでに美味しいんだね」と思われることに、あえて苦痛を感じ恥と考えたがる酔狂から発しているのだろうか。
というのも、本に書かれているようなことは、私個人も経験したことがあるから、こんなことを書くのである。国や地域によっては皿に食べ物を残すことが満足を示したり、皿を空にすると延々とおかわりを盛ってくれるところがある。私は直に、食べられることにありがたさを感じるのに加え、もうお腹いっぱいというところまで食べられる満足を得る、また、たらふく食べてもらう接客(もてなし)にウェイトを置いている人が「ここまでもてなしてやったぞ」といわんばかりの満足顔をするのが当然といったような、そういった食事の経験をして、これぞ至福の一形態だと思ったことがあるからだ。それはもう、経験してみろ、としか言えない。

古代の欠点が現代では改善されているすばらしさ、また現代の欠点が古代ではなんでもなかったようなことを、考古学から当時の生活を掘り起こすような本を読むと、いつも考えさせられる。

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