デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



先月末、ユルスナールの一つの画家論から飛躍して、画家論を読んだ時期に幻想文学作品を楽しめなかった、と書いた。
しかし、あれから「ピラネージの黒い脳髄」の所収がある白水社のユルスナール・セレクション5『空間の旅・時間の旅』に、「ボルヘスあるいは「見者」」というユルスナールが行なった講演のテクストも所収されていて、それを読んでみると、なんとか幻想文学について少しは楽しんで読めそうな気になってきた。そして、ボルヘスの『伝奇集』と『砂の本』を読んでみた。
「ボルヘスあるいは「見者」の内容に負うことが大きいが、『伝奇集』と『砂の本』から得た私なりの印象は、いやな思い出と折衷するような実体験のように思った。
というのは、自らの外国での旅の経験の中に、(人によってレベルの差というか感じ方は異なれど)死ぬような思いをしたときに自分の意識で起こったようなことが、ボルヘスの作品に描かれている夢魔のような迷宮的な論理と似ているからである。
私は一日にバスが朝夕一本ずつしか通らない外国のド田舎(駅までは50kmはあったろうか)の夏の夕暮れ時、停留所にいたのに駅までのバスに置き去りにされたことがある。無情にもバスが去った瞬間は、おぃぃ!とただ驚いた、そして駅に戻る具体的方法を模索しだした、歩いて行けたらと楽観的な気持ちになった。
しかし日は沈んでゆき、持っていた1.5リットルの水は減っていく一方、外国でのヒッチハイクはリスクがあることが分かりつつ高速で行く車に合図を送るが「邪魔だ」とクラクションを鳴らされる。広陵で何もない美しい景色が砂漠の如く恐ろしいものに見えてきて、どんな形をとるにせよ、死が迫ってきていると次第に悪い予感が頭をもたげてくる。
やがて現実逃避走る。「これは現実じゃない。夢なんだ。夢なら覚めたらこの窮地は終わるのだ。いや待てよ、この場合、目覚めること自体が死を意味するんじゃないか」。近所が起きだすほどの寝言を叫んでも、悪夢は目が覚めたら終わるが、旅で起こってしまった「最悪の事態という夢」が終わる(目覚める)のはそれは死であって…。

とまぁ、こんな具合である。精神が錯乱したときに起こる奇特な考えが起こったと人間の精神についてある程度理解のある人はそう思うだろうし、最初から「お前、それつくりごとだろ?」と一蹴する人もいるだろう。
しかし、絶望的な状況下に置かれたとき、夢なら覚めてくれ、とか、せっかく出国前に準備したそれなりの旅の意義そのもの自体を捨て去り、自分のちっぽけな人生を数行にまとめようとするような意識が働いたり、自分の意識が無くなれば自分は他人の記憶の断片になるとか、どんな宗教でも死は同じとか、普段考えもしないことが次から次へと自分なかで起こったのは自分の中では事実なのである。
ボルヘスの作品には、人類のシンボルとも言える「言語」でもって、どんな宗教の下に生れてきた人間であろうが、自分にとって最大の頼みの綱が消えうせたときに自分の中で起こる状態を表現しているようなところがあるように思う。
今にして思えばロードムービーの如く、窮地に立った状態から劇的な形で駅に戻ってこれて、そしてホテルまで戻ってこれたあの思い出は、二度と繰ることのできない本のページなのだ。そういう意味で『砂の本』はとても私の心を打つのである。

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