デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ここ数日の間にローマのモンテチトーリオ宮の前に立つオベリスクについて何度か書いたが、今回は太陽の光を受けて指針(影)が指す部分、つまりは時計の文字板に相当する床の規模はどのくらいであったのか、触れてみたい。
日時計の「文字板」の規模は大きな広場ほどもあったという。面積でいえば60m×160m、指針が昼間と夜間の長さが同じになる秋分の日の9月23日にアラ・パチス(平和の祭壇)に伸びるように設計されていた。ちなみにその日はアウグストゥス帝の誕生日であった。
古代ローマ人の一日は、昼間12時間(太陽の位置が最も高くなる正午が基準)、夜間を12時間とされていて、日の出の時間を第一時としていた。よって昼間の1時間は夏と冬とでは"長さ"が異なる。例えば、夏は正午から午後1時まで75分かかるが、冬は44分しかかからない。そういった差については古代の人々も認識していたようで、ズレに対して寛容であり、そのせいか待ち合わせに少々遅刻しても目くじらを立てたりはしなかったという。
ただ、少々のズレには寛容ではあったものの、規則正しい生活をきちんと送っていたのも事実で、アウグストゥスの時代でも、時刻を知らせるからくりを施した水時計をつくり置く上流階級の家はあり、なかには時刻を知らせるためにそのつど笛を吹く係りを家に置いていたところもあった。細かいズレはあっても時刻上の最低限の基準は守られていないと、帝国が成り立たなかったであろうことは想像に難くない。


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