山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

世田谷美術館へ

2025-01-13 16:58:27 | 美術・美術館

久々に、世田谷美術館に行ってきました。
しかし、ちょっと残念な結果に・・・。

以下は、個人的な愚痴になります。

週末は、車を週に1回は動かさなきゃいけないという義務感があり、どこへ行こうかと悩んでしまいます。今日の選択肢は小金井公園か世田谷美術館へ行こうと思い、結局こちらにしました。

たまたまやっていたのが「東急 暮らしと街の文化」という企画展です。
私は独身時代、東急線沿線に住んでいたので、昔の様子なんかがわかるのもいいなと思ったのでした。

ここで、まず出不精の夫を連れ出すのに「あまり遠くなくて、ついでにおいしいものを食べるから出かけようよ」という誘いをかけました。
美術館入館料と食事代は誘った私が出すのが前提です。

美術館は、私が大学生、夫が65歳以上高齢者で800円+1200円の2000円でした。

で、美術館に入る前に、もうすぐ12時になるので、先に併設レストランで食事をしてしまおうと思ったわけです。本当は11時半くらいに着く予定だったのですが、洗濯物を干していてちょっと遅くなってしまいました。
レストランのホームページを見ると、予約はできないとのことでした。
で、もし満席で待つようなら、美術館に入る前に順番をとっておいて、展示を見たあとで食べればいいと思っていたのです。以前はその方法が可能でした。(食べる予定は2900円のランチセット。)

ところが、レストランに行ってみると、もうすでに満席であり、以前のように順番を登録して場を離れることはできなくなったそうで、その場に並んで待たないといけないそうです。
さらに、本日は団体のお客様が20名ほど入っていて、そちらへの料理サービスが優先されるため、一般のお客様への対応はその合間となるので、通常より時間がかかってしまうそうです。

そのような状況でもかまわないということで、すでに3組のお客さんが入り口の前で順番を待っていました。
普通は一般客は80分の制限時間というものがあるそうですが、今日は上記の理由から、その制限時間は設けられていないそうです。
なので、先に入店してたお客様も80分を超える食事時間がかかり、その後、席が空いて入れたとしても、さらに料理がいつ出てくるかわからない状況となるそうです。

つまりは、これから順番を待って食べるということはかなりの困難を伴い続けるということです。全くオススメしないそうです。
簡単に言えば「本日のランチの受付は終わりました」という結論でした。

が~~~ん

実は、何年か前は何回かこちら(ル・ジャルダン)で食べたことがあるのですが、ここ数年はいつ来ても満員で入れません。
この頃、お客さんはどこも多いけれど、働く人が足りないってことですね。

今回は、団体さんが入っていたというのが、タイミングが悪かったです。
祝日ですからそういうことが多いのかも。
個人のお客さんだけなら、ちょっと待てば食べられたのだと思います。

そんなわけで、食べ物で夫を釣ってきたのですが、見事に計画は崩れ去りました。

・・・

で、まあ、昼ご飯は後で考えよう、と思い、美術館の展示を見始めました。

ところが・・・

なんか、意外に展示がわかりにくいというか、東急関係の資料や物品などがいろいろ展示してあり、写真パネルや年表もあるものの、どうもすんなり頭に入ってこないのです。

いちいち文字を読んでじっくり見学できないという、こちらのアホさが原因でもあるのですが、なんか、ああ、こんなだったんだ!そうだったのか!というような発見があまり見出せないのです。

せいぜい「浜美枝は、東急バスの車掌さんをしていたのか」なんてことかな?


入り口のほうの展示は、写真を写している人が複数いたので、撮影OKなのか、と思って私も写してきました。

このように、つり革や切符や電車の模型などが展示してありました。
駅長さんや車掌さんの制服などの展示もありました。
年表は、どの線がいつ開通したとか、東急系のホテルの開業の年なども載っていました。

・・・

ところで、一緒に行った夫はというと、なんか、ろくに内容も見ずにドンドコ奥に進んでいってしまいました。
この男、絵画などを見に来てもまるで関心がなく、あっという間に出口に行ってしまうのはわかっていました。
でも、今日は絵画や美術ではなく「東急線」なのですから、少しは興味があると思ったのです。

ところが、男だから電車に興味があるだろうと思ったのは大間違いで、電車・鉄道への関心は皆無であることが判明しました。
また、東急沿線に建てられた建築物や、作られた街などに関しても、なんら興味がないことも判明。

途中にビデオで映像が流れており、それを見たらちょっと東急線の概要がわかるのでは?と思ったのですが、満員で見づらいので、あきらめました。
年配のオジサンたちがぞろぞろ椅子に座っていて、その周りも人が立っていました。
やはり年配の男性は、昔から現在に至る東急線のことに興味があるのでしょう。

でも、夫は立ち止まりもせずどんどこ先に行ってしまったので、私は空きを待ってビデオを見ることもできませんでした。
その次の展示室は、もう鉄道ではなく、絵画になっており、こちらはさらに夫の興味のない世界です。

東急線に関する展示は結構少ないスペースだったなというのが印象です。
で、そのあとの美術作品なども、なんか速足で見て歩きましたが、夫の姿は見えず、結局出口のところのソファーに座ってまっているのでした。

夫に払った1200円は全く無意味でしたし、私のほうも、夫さえいなければ、もう少しじっくり展示物を読んだり眺めたりできたと思うのですが、できませんでした。後で撮った写真の時刻から計算すると見学時間はたったの20分弱でした。

やはり今後美術館には絶対に一人で行くことにします。

出口を出てからの展示。ここは撮影可能のようだったので、なんだかわからないけれど写してきました。
夫の姿はまたどこかへ消えてしまいました。その先のトイレに行ったようです。

このポスターは、東急沿線で開催された過去の公演などのものなのかな???


何か知っているものはないかな?と思ったら小山実稚恵さんのポスターがありました。
これではありませんが、この人のピアノ演奏会に行ったことがあります。





お子様向けに東急のゆるきゃら「のるるん」が撮影スポットになっていました。

・・・

夫がトイレからでてきたので、階段を上り「かわりゆくもの、かわらないもの」という展示を見ましたが、2階の展示は、いつものことながら、もっとわけがわかりません。
あと、高峰秀子の肖像画が何枚か展示されており、確かに本人に似ていました。

・・・

お昼は結局、夫は地下のセタビカフェは嫌だというし、この辺りには食べたいお店がないし、車でどこかへ行っても休日は混んでいるので、自宅に帰ることにしました。
家で無印の冷凍のグラタン(エビとペンネ・ポテトとベーコン)を食べました。

年を取ると、美味しいものを食べるのだけが楽しみになってきたりするのですが、このごろはなかなかおいしいものにありつきません。先日は「くら寿司」に行ったら、2人で2500円と安かったのですが、あまりにもショボかったです。もっと高くてもいいから、まともなものが食べたいです。

なんか、ぱっとしない休日だったなあ・・・。

やはり気合を入れて朝から遠くの観光地目指して電車日帰り旅行でも行かないと、目新しいことに出会えないですね。

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広島の絵「矛盾の橋」

2024-10-22 21:55:04 | 美術・美術館

先日、東京国立近代美術館の「ハニワと土偶の近代」という展覧会を観に行きました。

そこには、埴輪や土偶をモチーフにした絵画や彫刻などが、時代を追って展示してあったわけですが、この辺りは、戦後の時代の作品になり、かなり現代に近いのものになってきます。

そこで、この「矛盾の橋」という絵を見て、一瞬くぎ付けになりました。

絵の横に表示されている解説によりますと、

高山良策(1937~82) 「矛盾の橋」1954年 油彩 キャンバス 板橋区立美術館

原爆ドームの屋根から首を出しているのは広島の平和大橋
イサム・ノグチがデザインした欄干である。
題名の「矛盾」は、都市復興の一方で遅れる被爆者救済の状況をさすという。
背景に見える丹下健三の平和記念資料館は、ノグチに当初依頼されていた原爆慰霊碑が却下された代わりに丹下案となった当時の話題も連想される。

とのことです。

「被爆者救済」といえば、日本被団協が今年ノーベル平和賞を受賞したという話題も思い浮かぶもののそれはおいといて、私にとってはイサム・ノグチに興味が強くありました。

私は2年前に、札幌の「モエレ沼公園」に行ったのですが、あの公園が「イサム・ノグチ」の設計によるもので、その時にこの人のことを初めて知ったのです。あのピラミッドのようなガラスの建物と壮大な芸術的構造物である公園は、とても印象の強いものでした。

私にとっての興味深い新情報は、
そのイサム・ノグチが、原爆ドームの近くの平和大橋の欄干のデザインをしていたこと。
慰霊碑もイサム・ノグチがデザインすることになっていたが却下されたこと。
でした。

帰宅後に実物の橋を検索してみてみると、この絵のように顔にはなっていなくて、棒の先に丸いのがついているのですが、確かにこの絵に描かれているものでした。(平和大橋

そして、慰霊碑が却下された件について調べてみました。
すると、元々丹下健三が、イサム・ノグチにデザインをするように計画を進めており、イサム・ノグチがかなり魂を込めて慰霊碑の構想を立て、デザインを作っていたものの、広島平和記念都市建設専門委員会が抽象的すぎて難解だと言う理由で反対して却下されてしまったのだそうです。

その慰霊碑のデザインというのが、実は今回の展示の中にありました。

それは、古代の家型の埴輪をモチーフにしたものだそうです。
これに関する記事をweb上で見つけました。イサム・ノグチの慰霊碑創作に向ける想いや、慰霊碑却下の経緯についても記載されています。

「この1点に会いに行こう 
イサム・ノグチの幻のモニュメント模型 実現しなかった広島でのデザイン

私は、このモニュメント模型を今回の会場内で見かけました。しかしその時は、それがイサム・ノグチのものとも知らず、確かに単純すぎるし、美しいものでもなかったので、あまり関心も持たずに通り過ぎてしまいました。ただ、それがあった事、その存在感は印象にあるのです。

そして、この記事を読んでみて、イサム・ノグチが単に原爆の被害者に対する慰霊のみに終わらせたくないという気持ちで設計した、奥の深いものだったのだなと思いました。

この絵はまさしくそれを知らせるために展示されていたものであり、慰霊碑のモニュメントにもその説明が書かれていたはずですが、その時は全然気づかず通り過ぎてしまいました。でも、帰宅後に知ることができてよかったです。

この辺りの展示には岡本太郎の作品も何点かあり、またイサム・ノグチの写真や他の作品もあって、この人たちが昔の埴輪などのモチーフを使って芸術作品を作っていることがわかりました。
岡本太郎の太陽の塔などもそうだったのですね。

イサム・ノグチは、埴輪に対する関心が強かったようですが、モエレ沼公園では、ピラミッドや古墳を思わせるものもあり、不思議な世界でした。
モエレ沼公園(イサム・ノグチについても解説があります。)

広島の原爆ドームは高校の修学旅行で行ったことがあるのですが、ほとんど忘れてしまいました。元々、そんなに長い時間は見学していなかったはずです。

今度広島に行ったら、「平和大橋」や「平和の泉」なども見たいと思います。

東京国立近代美術館

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波打ちぎわの波打ちぎわ(練馬区立美術館)

2024-08-14 07:29:42 | 美術・美術館

練馬区立美術館の「平田晃久 人間の波打ちぎわ」を見に行きました。
1階のエントランスに不思議な黄色いカーテンのようなものがかかっていました。
そのわきを通って階段を上り、2階の建築物の展示を見て下りてきました。
それから、黄色いカーテンの世界を通って1階の展示を見ましたが、
この床の黄色い波打ち際がきれいだったので写してきました。



床に記されている文字は平田晃久氏の言葉だと思うのですが、この黄色いカーテン(波)のデザインは、テキスタイルアドバイザー安東陽子さんという方のものらしいです。

テキスタイルデザイナー・コーディネーターというのは、建築家が設計する公共施設や個人住宅などにテキスタイルを提供する人で、生地・服飾雑貨・カーテン・壁材・カーペットなどインテリア素材の生地の織り方や染色方法・プリントの柄・デザイン・加工を企画設計する職種とのことです。(パソコンで適当に調べた範囲)

この黄色いカーテンの生地も、画像を拡大すると網のように見えて海を連想しました。
真珠の球のようなのは、波の泡にも見えてきれいですね。

建築家・平田晃久氏の建築のコンセプトは「からまりしろ」をつくることだそうです。
「からまりしろ」とは、はっきりと形作られる空間領域とは異なり、「ふわふわとした隙間の錯綜」なのだそうです。

この黄色い波がとてもきれいだったので、
本展の建築の展示よりも先に、この「波打ちぎわの波打ちぎわ」をご紹介することになりました。

この空間にはピアノの音(メロディーではなく一音一音)がゆっくり長く響いていて、不思議な世界を醸し出していました。

このピアノは、ここにいつも置かれているものだったと思います。

会場に響いている音そのものは、このピアノの音というわけではないのかもしれませんが、ここにピアノがあったから、そのような音響効果を取り入れたのかもしれません。

絶対音感のある人だと音程がくっきりと脳にしみこんでしまいそうな感じでした。

なかなか不思議な世界でした。

平田晃久氏の建築展示に関しては、また改めて、後で書こうと思います。

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祈り・藤原新也(世田谷美術館)つづき

2023-01-16 23:32:37 | 美術・美術館

昨日の続きですが、ちょっと時間がないので、とりあえずざっと書いておきます。

この方は、このような書道もされるのですね。
インドの路上で、筆で書き始めたところ、やめさせられることもなくみんな見物していたそうです。

現地の人は、スマホで撮影するようなこともせず、ちゃんと見ているのだそうです。

とてもダイナミックな文字です。

私はこの「まゆげ犬」が気に入りました。

誰かにまゆげを描かれたんですね。そういえば、日本にも昔、人間にいたずらされる野良さんがいたりしました。目の周りに〇を付けられたり。
昔白い野良犬が小学校に住みついていて「ゼロ」っていう名前だったのですが、それもおでこに「0」って書かれてたような気がします。ゼロはいっぱい子犬を生んで、その子犬がかわいかったです。子犬も全部真っ白でした。ゼロは小学生から給食のパンの残りなどをもらって暮らしていました。小学生は子犬を抱いて遊びました。

それはともかく、こういう「まゆげ犬」は、地域の人々にかわいがられている犬で、誰かが餌をやったりしているのです。まゆげを書いた人間とこの犬の親しい関係が見えてくるのです。そしてそういう地域は、貧しいものの平和だったと思います。ほんとにまゆげ犬はかわいいです。
耳はピンとして、目も大きく、鼻は真っ黒で、なかなかいい犬です。

たまたま、このブログの画像に登録されて入っている順に張り付けています。こんな写真もありました。温かい地域のきれいな花など。

この方は、絵も描くのです。東京芸大の人だったんですね。

死ぬな、生きろ。

瀬戸内寂聴さんと親しくされていたそうです。寂聴さんが亡くなる前には、手紙を送ったそうです。



東日本大震災で放射能が漏れて、人々の姿が何もなくなったところで、桜がいつにも増してたくさんの花を見事に咲かしていたそうです。こんなにすばらしく咲いたことは過去30年にもなかったそうです。
ここはセシウムの線量がすごい。その放射能は、植物にとってはホルモン効果があり、花が活性化するのだそうです。

人間にとって危険なものが、このように作用するなんてことがあるのですね。
木にとっては良いことなのか悪いことなのかわかりません。この美しさが放射能のせいと思うと不気味でもあります。

渋谷スクランブル交差点のデジタルサイネージに「死ぬな生きろ」の書が映し出された。その直後に東日本大震災が起こり、それから10年後はコロナ禍に。

私の感想
渋谷のこの人々は、インドにたくさんいた人々と同じようなものだと感じる。
この頃は、外出制限もなくなり、日本全国の観光地にも人々が繰り出した。
人間は、私には蟻やミツバチのように見えることがある。
東京ビッグサイトのコミケの行列をテレビで見たときは、人間という生物がなぜかそこに大量発生している。
いったい何のために群がっているのだ?本当に人間というのは、気持ち悪いほど群れて行動する生物である。

藤原新也氏は、群れる人間が好きだと思う。
昨年のハロウィンのときに、自らコスプレ姿で渋谷に繰り出し、若者たちのコスプレ姿を撮影。
藤原新也氏のコスチュームが「感染防護服」。この中に78歳のおじいさんとがいるとはとても思えない。すごいパワーだ。

雨傘運動って何?

黄君の靴の紐が片方解けている。

という言葉が面白い。ふと気づいたのか。

雨傘運動とは2014年の香港の反政府運動だそうだ。(今調べた)

雨傘運動について勉強しなくては。。。

藤原新也氏は、社会問題や事件にも関心を持っている人である。

金属バット事件の家の写真もあり、何のへんてつもない普通の家でそういう事件(息子が両親を殺害)が起きたとのこと。

この展示にはなかったけれど、オウム真理教についても写真や文を著しているそうだ。

富士山の写真を撮っていて富士山麓のサティアンのオウムに関心を持ったのだとか?

富士山もきれいな景色ではなく、俗っぽい建物の後ろに見えている風景とかちょっと違う視点で撮影されているものが多いらしい。

この他に、アメリカの風景や、門司の風景もあった。父親の臨終直前に笑った写真もあった。

人々の命が描かれていた。

・・・
you tubeに動画があったので載せておきます。

なぜ今、藤原新也なのか#世田谷美術館『祈り』

 

 

 

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祈り・藤原新也(世田谷美術館)

2023-01-16 01:02:06 | 美術・美術館

本日は、世田谷美術館の「祈り・藤原新也」展に行ってきました。
私は、週に1回はクルマの運転をしないといけないので、車でどこかへ行かなくてはなりません。

その行き先の1つが世田谷美術館になっているため、企画展の度に世田谷美術館へ行っています。
だから、特に内容を選んで見にいっているわけではありません。
今回は写真展でした。

藤原新也という人は、1944年に門司市に生まれ、現在78歳で御健在。今も精力的に活動されているようです。

若いころはインドやアジア各地を旅して写真を撮ったそうで、最初の展示はインドのものになります。

まず最初から、インドの衝撃的な写真が並んでいました。

それは、死者を火葬する風景です。日本ではとても考えられないような情景です。

亡骸を燃やしガンジス川へ流す。人の身体は物体として燃える。燃え残った部分を投げる人。

燃やさずに流された遺体を食べる野犬。

砂の上に散らばっている人間の骨。

それらは、なんと衝撃的で残酷なものだと、最初は目を覆いたくなりましたが、そのうち不思議に、人間も自然界の動物なんだと感じました。

よくカモシカの骨やゾウの骨など、自然に息絶えた動物の骨が山や地面に無造作に残っている画像や映像を見ることがあります。

それに対して何も思わない。動物の生命とはそういうものだと思うだけです。

でも、自分たち「人間」に関しては、その亡骸を決して目にしてはいけないと感じ、ましてやその辺に散らばっているなんてことはあってはならないことだと思っています。

それから、それを見たくないということは、「死」自体を受け入れられない。

人間は自分たちが死ぬことをあってはならないことだと思い、そのことにはできるかぎり触れないように生きている。

でも、人間というのは、他の動物と同じく死ぬものなのだということに気づかされ、これが生物としての人間の姿なのだと感じる。

「寿命とは、切り花の限りある命のようなもの。」

この人の写真には、キャッチコピーのような言葉がついていて、それが一層写真の意味を引き立てます。

人間とは、植物と同じとは思っていたけど、私は「切り花」とは思っていなかった。根のある植物と思っていた。でも、根のない植物なのだ。それだけはかないものなんだと感じました。

インドの写真(50年くらい前のもの)に続いて、東日本大震災の写真や様々な写真が展示されており、感じること、思うこと、色々な刺激がたくさんありました。

とてもではないけど、このまま書き続けると夜が明けても書ききれそうもないので、今日はここまでにしておきます。

生きている人間たち、死んでいく人間たち、社会、街・群れ・・・・あまりにも色々なことがありました。

会場は、写真撮影が許可されていたので、幾つかの作品を撮影してきました。また後日ご紹介したいと思います。

 

 

 

 

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グランマ・モーゼス展

2022-02-01 23:24:15 | 美術・美術館

本日は、書くことがないので、1月の中旬に見にいった「グランマ・モーゼス展」のことを書きます。

世田谷美術館で開催されています。

この人は、70代になってから初めて絵を描き始めた人で、それから画家と認められ、100歳まで描き続けた人でした。

それまでは、農家に嫁いで主婦として農作業や家事や手芸をして暮らしてきた人で、絵を描く前は刺繍で風景を描く「刺繍絵」というのを作っていたそうです。

しかし、年を取って刺繍をするのに手が辛くなったため、筆で絵を描くようになったのでした。

それで、多くの絵は、窓から見える田園風景や農作業をする人々や、日々の生活等で、美しく楽しいものが多いです。クリスマスカードのための絵もありました。

たくさんの子どもに孫にひ孫もいて、晩年も子孫家族と楽しく暮らす映像が公開されていました。

世田谷美術館は、元々の画家ではなく、素人のような人が途中から画家になるというような人の展覧会をすることが多いようで、昨年の秋には「塔本シスコ展・シスコパラダイス」もやっていました。
それも見に行ったのですが、ブログに載せないまま日々が経ってしまいました。
シスコさんは日本人のおばあさんですが、すごいパワーで絵を描いた方で、共通するものがありました。

グランマ・モーゼス展の絵葉書を何枚か買おうと思ったのですが、絵葉書はやめてカレンダーを買ってきました。これですと31枚の絵を毎日、日めくりにして見ることができ、欲しいと思うような絵が大部分入っているはずです。

買ってきたころに撮影した画像です。彼女の言葉も載っています。

農家の人々がラズベリーのジャムやメープルシロップなどを作っている絵もありました。

車を買って乗った時の絵や、子どもの頃の夢で王子様とお姫様の絵は思わず笑ってしまいました。

そうそう、世界中の多くの女の子の夢はお姫様になることだったと思います。その気持ちをおばあさんになっても覚えているってすごいなと思います。その絵もカレンダーの中にあります。

31日の絵は、100歳の時に描いた最後の絵で、虹が描かれています。

好きなことはやり続けることですね。

この人、1860年生まれだったと思います。ちょうど私より100年前に生まれたのです。

そして100歳まで絵を描いていて亡くなったのが1961年で、私が生まれたときにはまだご存命だったのでした。

ちょうど自分より100年前に生まれた人だと思うと、何か縁があるような気がします。

70代で絵を始めたのなら、60代の私なんかまだまだ若いですね。

いつまでも楽しく元気に何かに打ち込みたいものです。

会場の出口付近で、この人の年譜を見ていたら、先に息子さんが亡くなっていました。

そうですよね、自分が100年も生きると、息子さんが70代で亡くなったら、子のほうが先に逝ってしまうということですね。

長生きしたら、それだけ悲しみに遭遇することもあるんだなと感じました。

子には親より長生きしてもらいたいものですが、とにかく、好きなことをして楽しくたくましく生きていくというお手本に倣いたいと思いました。

2階では同時に「アート ミュージック」という展示をしていましたが、2階の展示はいつもついでに見るものの、わけのわからないものばかりで、1枚を1秒くらいで眺め、ついつい素通りしてしまいます。

コロナの中で、唯一の趣味である美術館巡りもあまりできなかった昨年でしたが、今年は例年のような頻度で出かけられるかなと思います。

 

 

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ゴッホの椅子に遭遇(式場隆三郎[脳室反射鏡])

2020-10-12 00:19:34 | 美術・美術館

練馬区立美術館の「式場隆三郎 脳室反射鏡」にたまたま行ってみたら、そこで「ゴッホの椅子」に出会ってしまった。

私は、このあまりの偶然に鳥肌が立ってしまったのだった。

というのは、私はつい一昨日「椅子クラフツ文化の社会経済学」という放送大学の科目を勉強し始めたばかりなのだが、そこに「ゴッホの椅子」が出てきたのだった。

その時、「ゴッホの椅子」とは、ゴッホの描いた絵の中にある椅子であることを知った。

ゴーギャンと共同生活をしていた家で使っていたスペイン椅子である。
しかし「ゴッホの椅子」とは、そこに現存した特別な椅子を示すわけではなく、いわゆるその当時のそういうタイプのありふれた椅子を「ゴッホの椅子」と言うのである。

当時の椅子として典型的だったものなのかもしれない。

その椅子というのは、職人が道具を使って手で作った椅子であり、それほど高価ではなく、一般人が使っていたものである。手作業ではあるものの、同じものを多数生産していたようだ。

ゴッホの絵があまりにも有名だから、「ゴッホの椅子」と言われるのであろう。
生木で作られており、背もたれがあり、足が4本あり、座面は藁でできている。

・・・

この式場隆三郎は、ゴッホを日本に広めた人物であり、相当ゴッホが好きだったようだが、中でもこの「ゴッホの椅子」がとても気に入っていたようである。

「ゴッホの椅子」やゴッホの他の絵をモチーフにした柄の浴衣や服が展示されていた。
「ゴッホの椅子」をモチーフにしたデザインは、椅子の柄が重なっていて一見椅子には見えないほど見事だった。これを作ったのは式場氏である。

私は、浴衣もぜひとも欲しいものだと思ったけど、さらには女性のワンピースまで展示されていて、これがまたさらに素敵なのである。

ゴッホの椅子模様の浴衣や服を再現して売るのは無理にしても、手ぬぐいやタオルハンカチやスカーフとか、作れないものかな~~~

・・・

横道にそれたが、美術館の展示の一番最後のところに置かれていた一脚の「ゴッホの椅子」を見たときには、これがあの絵の中の椅子の現物か・・と思ったのだが・・、待てよ、そんなわけないだろうと思って再確認。

式場隆三郎はゴッホの椅子が好きだったが、その実物をコレクションにしていたわけではないのだ。

説明を読むと、昭和39年に浜田庄司が、スペインやメキシコで集めた家具5000点を日本橋三越で展示即売したそうである。

その中にスペインのアンダルシア村のグァディスの椅子というのがあり、それは、無垢材と藁で作られた素朴な、背もたれのある椅子あるが、それが「ゴッホの椅子」と同様のものであった。

では、そこに展示されている椅子がその中にあったもの?
いや、それも違うようだ。

展示即売されたスペインの椅子を元に、木工家の黒田辰秋などが模作し、日本製の「ゴッホの椅子」が作られたとのこと。それを式場隆三郎が大切に使っていたということだ。

そして、式場隆三郎自身が描いた「ゴッホの椅子」の絵も展示されていた。
だが、この絵の中のゴッホの椅子は、すぐそばに展示されているゴッホの椅子とは背もたれの数などが違うので、その絵のモデルになった椅子というわけではなく、似た椅子のようだった。

だが、式場隆三郎が大切にしていたゴッホの椅子には違いないのだろう。

・・・

あ、そうそう、そこで放送大学の授業と「ゴッホの椅子」と、この展示と関連性のあったのが「柳宗悦」である。私は昔からこの人は「リュウソウエツ」と読むのだと思っていたが、放送大学で初めて「やなぎむねよし」と読むことを知った。

展示では、柳宗悦は、式場隆三郎と行動を共にし、影響しあい、深い交流を持った人であることがわかった。柳の木喰の仏像研究に、式場が協力したことなども展示されていた。

放送大学の放送で知ったのは次のようなことだ。
「ゴッホの椅子」のようなものは、手作り部分が多く機械生産と違って生産性が低いが、製作技術を持った職人が労働として多量に生産している。芸術品のように芸術家が個性を出して一つだけ作ったり、装飾や美を追求したりする高価なものでもないのだが、飾り物ではない実用目的の工芸品には「用の美」というものが存在するとのこと。(習ったことをうまく表現できないが・・・。)この「用の美」について分析しているのが柳宗悦である。

「用」とは生活性のことで、生活で用いられる日用品の中に「美」がある。これらの実用的な工芸品は「生活を豊かにするもの、温めるもの、潤すもの、健やかにするもの」であると柳宗悦は言っているようだ。

これはおそらく実際に使う食器などもそうであろう。授業では絣の織物なども例に挙げられていた。

用途も材料も工程も決まっているものだから、そういうことには拘束されている。しかし、同じものを同じように作っても、自然素材を使い、手作りであるがゆえに、完璧でない部分が生まれ、そこがむしろそのものの味わいになり価値となっているのかもしれない。

だから、ゴッホが描いたスペインの椅子も、絵の中で何かとても味わい深いものになっているような気がするので、あの絵もまた魅力があり、式場隆太郎氏も椅子のとりこになってしまったのかもしれない、などと思った。

・・・

私の父は木工職人であった。大正生まれの父は叔父の元に弟子入りして木工の技術を身に着けたのである。だから私にとって木や家具というのはなじみの深いものである。私の勉強机や洋服ダンスは父が作ったものであった。

私が子供のころ、父はよく「室内」という雑誌を読んでいた。父は、美術の勉強をしたことはないが、自己流の点描で、ベニヤ板に油絵もどきの水彩画を描いていた。

そんなこともあり、私は木や家具が好きである。

今日も、どこに行こうかと考え、八王子の村内家具に行こうかと思ったくらいだ。あそこの美術館には素敵な椅子が展示されているのだ。

でも、八王子は遠いので、ふと練馬美術館に行こうと思いついた。まるで知らない内容の企画展だけど、何でもいいやと思ってでかけた。よく行く世田谷美術館はコロナの影響か、企画展は来年までない。

そうして、練馬に行ってみたら、「柳宗悦」や「ゴッホの椅子」が出てきて、本当に驚いてしまった。

この偶然のタイミングは、いったいなんなんだ!?

・・・

この企画展の名前「脳室反射鏡」って意味不明だが・・・

式場隆三郎は精神科の医師だから、脳のことが専門である。反射鏡とは、何かに反応して何かが出てくること? いったい何がどうしてそれが関連して出てくるのか、不明であるが、脳とはそういうものなのか?

だから、私も私の中で、いろんな思いが反射して関連付けられたのでしょう。

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式場隆三郎[脳室反射鏡](練馬区立美術館)

2020-10-11 17:47:23 | 美術・美術館

本日は、練馬区立美術館に行き「式場隆三郎脳室反射鏡」という企画展を見てきました。

実は、私は「式場隆三郎」(1898~1965)という人のことは全く知らず、初めて聴く名前でした。

この方は、精神科の医者であるとともに、文芸や美術に関する活動もさかんに行った人だということがわかりました。

中でも、ゴッホの複製画展を日本各地で開催したことは、多くの日本人がゴッホの絵を身近なものとしたことで、大きな影響力があったと思います。それから山下清の創作活動などにも力を添えて展覧会を開き、こちらも多くの日本人が山下清という人と作品を身近なものとするようになりました。

というのは、私の特に主観的な印象ですが、田舎で育った私が子供の頃に、市内の唯一の会館で、山下清の展覧会が開かれ、親に連れられて行ったのを覚えているのです。それは1960年代だったので、確かにその時代に相当すると思いました。

またゴッホについても、私が子供の頃、実家の居間にゴッホの「跳ね橋」の複製画が額に入れられて飾られていました。その絵を親がどうやって手に入れたのかは、子供の私は知りませんでしたが、やはり時代背景が一致すると思いました。

私が生まれる数年前くらいに、ゴッホ展が日本各地で開かれたようです。私の親は絵画の趣味などはないのですが、当時の流行のような感じで、ゴッホの絵が世間に広まっており、その中で気に入った絵を買うことにしたのでしょう。

そうやって確かにゴッホと山下清は、日本の田舎の一庶民の家庭にさえ浸透していったんだと感じました。

今日、展示の中で、山下清の切り絵やゴッホの絵を見て、子供の頃のことを思い出しました。そして、ゴッホの絵の素晴らしさは当然ながら、山下清の貼り絵も、やはりすごいなと思いました。そして、ゴッホの絵と山下清の切り絵は、細かい色の断片から出来上がっているところが似ているなと感じました。

ゴッホは、精神病になって自分の耳をナイフで切り落としたというのは有名な話ですが、式場隆三郎氏が精神科の医師であるため、専門的な医学の面からもゴッホを研究して書物にもしているようです。

式場隆三郎の写真を見ると、とても素敵な人でした。山下清が描いた式場隆三郎の肖像画はそっくりでした。

式場隆三郎という人は、とても人間としての温かみがあり行動力のある人で、芸術・文化・医学など多方面で功績があった人だと知りました。

あっ、そういえば驚いたことに、若いころの草間彌生についても、その才能を見出し世に出すべく引き立てています。草間彌生も精神病だったのでしょうか?

一種の精神病や狂気や発達障害のような人たちがすぐれた芸術の才能を発揮するということがあるようです。

草間彌生は芸術家として今や超有名で不動の立場にあるではないですか。そんな人も無名な若い頃があって、そのころに才能を見出し開花の手助けをしてくれた人が式場隆三郎だったのですね。

式場隆三郎氏が作った病院は今も子孫に受け継がれ、今は孫の方が病院の院長をしていらっしゃるようです。

書くことは支離滅裂になりますが、式場隆三郎の医学生時代の仲間として、柳宗悦・岸田劉生・武者小路実篤などが居るそうです。私個人としてはこの柳宗悦に最近関心があります。実はこの人が何をしたのかよく知りませんが、名前だけは以前から知っていますので、式場隆三郎以上に時代に影響を与えた人物なのかと思います。

こういう時代に、芸術や文化の旋風を起こす人々というのは、必ず「仲間」というものがあって、その人たちが世の中の関心を高めたりして新しい時代を作っていくのですね。けっしてたった一人でそのようなことを起こすわけではありません。

そう思うと、今この令和という時代には、いったいどういう仲間がどんなことを広げているものなのだろうか、と知りたくなりました。時代が過ぎてからわかるものなのかもしれませんが・・・。

今回はここまでにしておきますが、次の記事では、この展覧会で偶然に出会った「ゴッホの椅子」について書きたいと思います。

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作品のない展示室(世田谷美術館)

2020-08-15 23:22:29 | 美術・美術館

今日は、世田谷美術館の「作品ないの展示室」を見に行ってきました。
新型コロナの影響で、予定した企画展が開けなくなっています。
マスク着用のこと。入り口で検温し、手をアルコール消毒してから、
体温を測っていただき、それから住所氏名と体温を記入してから見学しました。

↓ここは以前も、窓と作品を撮影可能にしていた企画展もありましたが、今日は窓と床のみです。

いつもきれいな、外の景色です。

次の展示室へ向かいます。

ここは大きいです。いつもは分割して使われていたように思います。

普段は、窓が見えることはないのですが、とてもいい感じです。
作品のない展示室が、これだけきれいな美術館は他には滅多にないのではないでしょうか。

建築家・内井昭蔵が設計し、1986年に開館しています。

美術館設計のコンセプトは「生活空間としての美術館」「オープンシステムとしての美術館」
「公園美術館としての美術館」なのだそうです。

庭に、あんな構造物(作品?)あったんですね。

普段この方向から外の庭を見ることはないのですが、とてもおしゃれなんですね。

作品のない展示室は見学は無料なのだそうです。

作品が無いとは言っても、過去に開かれた企画展の内容紹介などが展示されていて、
懐かしいものがありました。

・・・・

せっかくなので、2階の「気になる今度の収蔵品」というのを見ました。
こちらは常設展の入館料が必要ですが、とても安いです。

印象にあるのは1964年の東京オリンピックのポスター4枚でした。

世界の陸上選手たちが走りだすスタート場面の写真や、
水泳選手1人が泳いでいる(水中真正面)写真など、インパクトがありました。
1人の人が担当して作ったようです。

今度のオリンピックでは、今公開されているポスター以外にも、
何かできる予定があったのかなと思いました。

その他にも色々な絵画などの作品があり、解説がついていました。
学芸員の方が9人くらいいらっしゃるらしく、解説を書いた方のイニシャルが
ついていたようです。

2階の展示室は、いつもおまけのような感じで、あまりじっくり見ることがありません。
今日は、1階に作品がないのでこちらをじっくり見ればよかったのですが、
マスクをして階段を登ったら苦しくなって疲れ果ててしまい、
いつものように短時間で通り過ぎてしまいました。

・・・

そのあと、いつもならセタビカフェでガレットを食べるのですが、
新型コロナのこともあり、外食はやめて帰宅しました。

砧公園の木陰、いいですね。しかし、大きな青虫が舗装の上を歩いていてびびりました。

今回は、ソフトクリームもやめておきました。

早く、新型コロナがおさまって、普通のことができるようになると良いですね。

 

 

 

 

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ショパン 200年の肖像(練馬区立美術館)

2020-06-07 01:09:35 | 美術・美術館

 

練馬区立美術館で426日から開催されるはずだった展覧会が、新型コロナの緊急事態宣言でなかなか開催できず、もうだめかなと思っていました。

今朝、ふとパソコンで調べてみると、なんと62日から始まっていることが、わかったのです。そこで、さっそく見に行くことにしました。

 

 

展示物は結構多かったです。

まず、ショパンの肖像画

ショパンってすごい美形だったようですね。特に鼻が高いです。絵画に描かれているのもそうですが、銅像のような立体的なものでも鼻がすごく高くて驚きました。目もきれいですし、口元も品がよかったそうです。そして、演奏中の風景を描いた絵画がありましたが、足がすらっと長くて、こんな人があの美しいピアノ曲を奏でたらみんな虜になってしまうでしょう。デスマスクと左手も残っていました。

一生をピアノの曲の音楽家として花を咲かせ、生きたようです。年上のジョルジュ・サンドと付き合っていたけど破局し、元々身体が弱く、結核で39歳の短い人生を終えてしまいました。ポーランド人。ワルシャワで暮らし、晩年はフランスのパリで暮らしたそうです。

 

展示物は、ショパンの姿を描いたもの。ショパンの曲に対するイメージを描いた絵画。

ショパンが暮らした街や過ごした場所、関係する建物などを描いた絵画。

ショパンの自筆の楽譜。手紙の内容。

日本にショパンの曲が伝来した様子。

ショパン国際ピアノコンクール、出場者について。

ショパンのピアノコンクールのポスター等々、盛沢山でした。

音声ガイドを借りて、その中にも楽曲が流れていてよかったです。

 

 

色々書きたいことも山盛りなのですが、切りがないので、今日は概要のみにしておきます。

628日まで開催されています。か月以上も期間が削られてしまい、もったいなかったですが、開催できてよかったですね。

 

 

 

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奈良原一高のスペイン 展

2019-12-02 01:08:17 | 美術・美術館

土曜日に世田谷美術館に行ってきました。

世田谷美術館は、私の行きつけの美術館で、別に何の展示をしていようと、内容には関係なく出かけて行くところです。

今回は、「奈良原一高のスペイン 約束の旅」という写真の展示をしていました。大部分モノクロです。

この方は、1960年代頃から活躍されている人で、今は88歳くらいになられるようです。

今回展示されている写真は、ちょうど昭和39年のオリンピックの頃にスペインで撮影されたものを中心としていました。

当時制作された写真集に掲載された写真を、美術館展示用に大きくして作りなおしたものだそうです。

この人は、スペインの前にフランスに行っていたようですが、フランスにはあまり魅力を感じず、スペインに行って、庶民の活気あふれる姿に惹かれたようでした。

特に、祭りを楽しむ人々の姿は、展示写真も楽しいものがいっぱいでした。

私も、こうやって人生を謳歌している感じはいいなあと思いながら、写真を眺めていきましたが、この人たちももうこんな活気あふれる若い時代は終わり、もうこの世には・・・

いやいや、考えたら、ちょうど私の親くらいの年代ですかね。

つまり、この写真家奈良原氏もこの時若者で、国籍問わずスペインの街の人々の中に溶け込んで暮らしていたようですが、この人が生きてるんだから、写真の人たちも生きてる人が多いはず。

そう、今も、元気で快活な老人であってほしいなと思いました。

奈良原氏は、東京オリンピックの日本よりも、スペインに関心があったようですね。

そして、闘牛士の写真もたくさんありました。人間が大きな牛に立ち向かうお祭り。

これも、なんとなくわかるような気がしました。晴れ着を着て挑むわけですよね。

危険だとか言われて、今は昔とは少し変わってきているようだけど、やっぱり無くなりはしないスペインの文化?精神?です。

私もフランスよりもスペインのほうが好きな気がするなあ。

・・・

さて、そのあと、セタビカフェでガレットを食べて、それから100円ワークショップで、スペイン風オーナメントを作りました。

これは、紙粘土にタイルを貼って作る飾りなのですが、出来上がったものが悲惨で・・・

すべては、私の美術的感性が無さ過ぎるので、さんざんな支離滅裂作品になってしまったのです。

全然ダメだ~~~

自分の作品みても楽しくない。もう捨てたい!

イメージがわかないから、方向性がないっていうか、そもそもスペイン風っていったいどういう感じ?

そうだ、この失敗を踏まえて、次からはもっとマシな作品を作ろうね。

・・・

そうして、さて帰ろうと思ったら、ちょうど「30分でわかるミニレクチャー」というのを講堂でやるというので、それも聴いてきた。

うんそうか、最初の外に飾ってあったポスターの写真だけど、祭りで若者が4人楽しそうに歩いている。

この女の人たちのワンピース、ファッションがいい感じだ。

この写真は右端の人が半分しか写ってなくて、左側にスペースが空いているけれど、この風の通り抜けるような空間が場の雰囲気を醸し出しているんだね。

・・・

いろんなことをしていたら、もう1日美術館に入り浸り。

砧公園。

この円の中心で声を出すとコダマが帰ってくるところだそうだ。テレビで不思議な現象としてやっていた。

紅葉。

紅葉は逆光で取ったほうが葉がきれいに見えるみたいだ。

美術館を出ると、もうかなり陽が斜めになってきていた。

落ち葉もいっぱいで、もうすぐ紅葉も見おさめかな。

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唐三彩を見た後で

2019-08-18 23:43:54 | 美術・美術館

これは、一昨日の夕刻に撮った写真。

千代田区丸の内。つまり皇居のお堀か。

出光美術館に行った帰りに、夕日がきれいだったから、そっちのほうに歩いていって写したんだけど、どんどん日が暮れて暗くなっていってしまった。

そのあと、適当に歩いていたら、結局東京駅という地下通路入口を発見し、そこに入っていくと、とても東京駅とは思えないような小さな改札口があり、それから延々と動く歩道などを進んで、なぜか出てきたのが新幹線乗り場のほうだったので、ものすごい遠回りみたいだった。そっちは10何番線なんだけど、乗るのは1・2番線で、そもそも1番線のほうが皇居に近いはずなのだ。ずっと反対側までいっちゃったらしい。(ふつうは有楽町駅を使うからすぐ近く)

・・・

毎日暑くて、だいたい最高気温は35℃くらいあって、何をする気も起きないのだが、そんなことじゃいけないと思い、金曜日の午後6時からは、出光美術館の列品解説があるので、頑張ってでかけていった。

今やっている企画展は、「唐三彩」というもので、主に、中国の唐の時代のものである。

三彩というのは、褐色と緑と白でできている焼き物なのだが、これらはお墓に埋められていたものなのだそうだ。

高貴な人が亡くなったときに、あの世に行っても生前と同じように豊かな暮らしができるように、馬に乗った人や召使いや、食べ物や器など様々なものが埋蔵されたのだそうである。

実際に使われるものではないというのは驚きである。

そして、中国のお墓に埋まっていたものが、どうして日本の物になっているんだろうか?というのも正直なところ驚きで、中国で掘り出して売られたものを買ったに過ぎないのだろうけど、日本の出光にこんなにたくさんあるということは、中国や世界にはもっともっとたくさんの数があるのかな?なきゃいけないよね、と思った。

それから、この3色の焼き物は、その後にペルシャなど別の地域にもその流れをくむような作品があり、そして日本の江戸時代にも出現しているという興味深いものであった。

とりあえず、行ったということを忘れないために書いておこう。

・・・・・・・・・・・

今、久々に冷房を消している。外は28℃くらいらしいので、なんとか耐えられるかもしれない。

明日は、最高気温が31℃くらいらしいので、少しは暑さが弱まるのだろうか。

世間では、お盆休みとお盆に続く週末も終わったので、夏休みモードも一段落というところである。

やる気はないけど、また仕事モードに戻らなくてはね。

 

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高橋秀+藤田桜 素敵なふたり(世田谷美術館)

2019-08-08 22:50:39 | 美術・美術館

今日は、書くことがないので、先週の日曜日に行った世田谷美術館の企画展の事を書きます。

今やっているのは「高橋秀+藤田桜 素敵なふたり」というものです。

この人たちは夫婦で、それぞれに独自の作品を作っています。

なんと年齢が90歳を過ぎているらしいです。美術の創作をしている人って好きなことをしているから長生きなのかな。

長年イタリアに住んでいたことがあり、その後日本に戻ってきましたが、イタリアの街中や建築の中にも高橋秀氏の作品が展示されているようです。

藤田桜さんは、長年、絵本の原画を手掛けており、布を切り張りした楽しい作品でした。

入口のところに展示されている高橋秀氏の作品。

ここは、世田谷美術館の見せ場なんです。外の景色と作品が溶け合う素敵な空間。

そして、セタビカフェでランチを食べました。

生野菜はあまり好きではないので、少なめにしてもらいましたが、それでもいっぱい載ってます。

野菜の好きな人には嬉しいメニューかもしれません。

(きっと作っている人が、生野菜の大好きな人なんだろう)

私は、ドレッシングがかかっていない緑の葉っぱは青臭くて苦手。 ドレッシングを持参しようかな。

キッシュと冷たいポタージュが大好きなので、野菜は我慢して食べる。

久々給食の気分だよ。

今、健康のために野菜をいっぱい食べる人が多いらしいけど、近くで食べていた人が、野菜を山盛り残していたので、やっぱりそんなに好きじゃない人もいるんだなと思いました。(実は私も前回は残したのだ。)

有料でもいいからドレッシングを売ってほしい。

それとも、お皿を洗うのが大変だから付けないのかな。

話が美術からそれましたが、2階では「森芳雄と仲間たち」という展示をやっていました。

2階はいつもすっとばして見てますが、その中で気に入ったのは、難波田龍起という人の作品でした。

簡単ですが、この辺で。

 

 

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ある編集者のユートピア(世田谷美術館)

2019-05-18 23:28:28 | 美術・美術館

 

久しぶりに世田谷美術館の企画展に行った。

「ある編集者のユートピア」

小野二郎:ウィリアム・モリス、晶文社、高山建築学校

 

小野二郎は、東京大学・大学院で英文学・比較文学を学び、卒業後、弘文堂で編集者として働く。

その後、仲間と晶文社を立ち上げた。編集者として、多くの本を出版した。

また、明治大学等で英文学を教えた。

19世紀後半にイギリスで活躍したウィリアム・モリスの研究者であり、モリスの構想を日本を舞台に展開させた。高山建築学校での活動も、その1つ。

小野二郎は、ジャズやロックや映画関係の書籍等も出版し、1960年から80年代にかけて出版文化に大きな影響を与えたが、52歳の時、心筋梗塞で急逝してしまった。 

ざっと、このような人らしい。

会場には、小野二郎やその仲間の人たちが関わった、たくさんの書籍が展示されていたが、手に取って中を見ることができないのが残念である。ちょっとどんな本か見ることができたら、もっと面白かっただろう。 

この人が亡くなったのが1982年4月だったと思う。

自分の個人的なことを書けば、私はこの年の5月に、たった2年勤めた会社を辞めて結婚している。それは22歳の時のことだ。4年制大学を出たとすれば、卒業と同時に結婚してしまったような年齢だった。 

実は、18歳くらいの頃は、自分が出版や編集の仕事に一生携わりたいと思っていたくらいだった。ところが、4年制大学の受験は失敗し、短大を卒業し、一応出版社という名の会社には勤めたものの、職工さんのような仕事を2年した後、もう1人で生きて行くのは疲れるからと思って楽な道を選んでしまったのだ。 

小野二郎氏が、このような活動をさかんにしていた時代に、自分は学生だったのだし、その後も、もしもっと熱心に出版の仕事等を続けていたら、私は今もこういう世界に身を置いていたのかもしれなかった。本当は、こういう世界が好きだったのかもしれなかった。 

しかし、もはや何ら関係ない世界に30年以上身を置いている。

失われた自分の年月を感じないではいられなかった。

そして、なんとなくとらえどころのないまま、会場を後にした。 

今日は、講演会があったのだが、1時に整理券配布、1時半に整理番号順に開場、2時開演、3時半終了という日程。いや、この間延びした時間にどうやって対応したらよいのだ?

終わる時間が遅すぎるので、中止にした。

ウィリアム・モリスのユートピア思想等も全然わからないまま帰ってきた。 

セタビカフェでガレットを食べ、ワークショップで、プラ板のステンドグラス風オーナメントを作ってきた。これは100円できれいなものができて嬉しかった。

(モリスのテーブル)

 

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濱田庄司展(世田谷美術館)

2018-08-22 22:53:38 | 美術・美術館
日曜日に世田谷美術館の濱田庄司展に行ってきました。

陶器の展示というのは珍しいです。

美術館に入ってすぐの展示が、とても美しくて目を見張りました。



ここは、いつも外の景色は見えないようになっているのですが、今回はガラスの窓から庭が見えます。

陶器の展示と調和して、とても素敵でした。



ここだけ、撮影がOKだったので、写してきました。

心が洗われるようです。

全体に、とてもセンスのある展示でした。学芸員さんすごい!



これは、いつも撮ってくるアングルなので、とりあえず今回も載せておこう。

この展示は26日までだったかな?今度の日曜日までです。

おススメです。
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