山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

年末近況

2021-12-30 11:11:31 | 日記2021

昨日まで仕事でした。

会社は、リモートワークが普通なので、出勤してくる人はわずかです。
そのため、去年に引き続き、私のいるフロアーは、私が1人で年末の大掃除をすることになっています。

それで、12月の下旬ころから少しずつ取り掛かっていたのですが、昨日は通常の仕事も一段落したため、朝から大掃除にとりくみました。

まあ、大掃除なんて気軽なものですので、それで普通に時給がもらえるわけだから別にいいです。

しかし、新型コロナもおさまっているのですから、社員が出勤して半日くらい掃除をしてもいいんじゃないでしょうかね。

何十人がかりで半日かけてやっていたものを、1人のオバサンがやるっていうのもなんだかなあ~

しかし、社員の多くが出勤すると、ものすごい交通費になるでしょうね。

今は、社員の通勤費は定期代なんかも不要で、在宅勤務手当が月額3000円くらいで済み、あとはたまに出勤した日だけ実費を払う形なので、ずいぶん削減になっていると思います。

私は通勤しても交通費は不要なので、経済的ですね~。

大掃除は、楽だけど、手がガビガビになってしまって、アルコール消毒をするとしみって辛いです。

大変なのはそんなところ。

・・・

それで、昨日は午前中は掃除をしていたのですが、午後は半休にしてしまいました。

夕方から、出勤している人だけで納会をやるらしく、午後から出勤してくる人もいるみたいですが、私は帰省するので、できるだけ人とは接触したくないんですよね。

だから、早々に退散しよう。

大掃除はまだ全部終わっていないのですが、来年でいいです。

汚れやすいようなところ(給湯室・冷蔵庫・書棚・ロッカーなど)は終わりましたが、複合機やスイッチやいくつもあるドアなんかはまだ拭いていないんですよね。

あとブラインドと窓の間にあるスペースも拭いたほうがいいかな?

トイレ掃除や床掃除・ゴミ集めは業者さんが毎日やってくれるし、窓掃除も月に1回くらい業者さんが来るから不要です。

社員の個々の机は不在続きでほこりが積もっているものも多そうですが、それは知りません。

・・・

そんなわけで、自宅の掃除は何もしないのに、会社の掃除ばかりやりました。

今年は、スケジュール帳を買うのを忘れていて、まだ買っていません。

まあ、3月までのページが予備についているので、年が明けてからでいいです。

カレンダーは早めに2つ買いました。米津祐介の「シンプルで味のあるカレンダー」というものと、葉祥明の絵の下にスケジュールがちょっと記入できるカレンダーです。トイレに1つ、自室の机のところにぶら下げます。

その他に、会社にもいっぱいカレンダーがあり、出勤する人が少ないのでもらって行く人も少なく、もらい放題になっているので、もらってきました。こちらは別の部屋にぶらさげます。

・・・

年賀はがきを買うのも忘れており、さっき郵便局で絵入りのものを15枚だけ買ってきました。

5枚入り3セット。

今年は、喪中欠礼がたくさんきていて4枚くらい減らすことになります。

もう送る枚数も減ってきました。

・・・

今から帰省の準備をして、今日中には実家に到着する予定です。

 

 

 

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保谷と谷保

2021-12-29 23:27:10 | 日記2021

この頃、都内近隣を徘徊している私だが、今日は西東京市のことを書いていて気づいた。

それは、西東京市には「保谷」(ほうや)というところがあるが、国立市の「谷保」(やほ)とは、ちょうど文字を逆にした地名になっているということである。

保谷までは行っていないが、最近、保谷のある西東京市に行き、谷保のある国立市に行った。

この偶然の地名の共通点に不思議な気分になった。なんかこの地名に関連性があるのであろうか?

そこで「保谷と谷保」で検索してみると、「保谷と谷保はどう違うのか?」なんていう記事が出て来た。

保谷には西武線が走り、谷保には南武線が走っているそうだ。そうなると西と南の違いか?

いやいやそれもただ言葉だけのことで、JR南武線と西武池袋線なんだから、線名と会社名で関係性のないものだった。

そのような記事を見ていたら、「町田と田町はどうちがうのか?」なんていうのもあって、漢字が逆になっている地名は結構あるのかもしれない。

私は、西東京市では東伏見稲荷神社に関心をもち、国立市では谷保天満宮に関心を持ったが、神社なんてものもどこにでもあるものである。

でも、どちらもかなり主要な神社であろう。

市と市を比べるとそうなるが、では、「保谷」に神社があるのかと思って調べてみると、なんと「保谷天満宮」というものがあることを知った。

しかも、それは菅原道真(推定)を祭ってある学問の神様とのことで、谷保天満宮と共通性があると思った。ご利益としては、合格祈願、学業成就、五穀豊穣、雷除け など。

但し、写真でみると、とても小さな神社で、ほんのわずかな一角にお祀りしてあるだけのものであり、建物のあるような普通の神社ではないのだった。

それでも、名前では「谷保天満宮」と「保谷天満宮」が同等に対応するので、面白いなと思う。

「保谷天満宮」はひばりが丘にあるそうだ。

今度は、西東京市の「保谷駅」に行って、渋沢敬三が建てた「民俗学博物館」のあった場所などを見たり、ひばりが丘の小さな「保谷天満宮」なども見に行こうかと思う。

ちなみに「保谷」は現在は西東京市だが、昔は「保谷市」だった。

西東京市は、田無市と保谷市が合併してできたものだそうだ。「東京23区」の西隣にあるから「西東京市」となったそうだ。それで「保谷市」というものは今は存在しない。

「谷保市」も最初から存在しない。「国分寺」と「立川」の間ということで「国立市」と命名されたからである。

「保谷」も「谷保」も市ではないというのが共通点。

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西東京市、渋沢栄一・敬三関連の展示

2021-12-29 19:11:17 | 旅行・街歩き

今年、日曜夜8時からのNHK大河ドラマ「晴天を衝け」は、だいたい毎週見ていた。

そして渋沢栄一という人には、これまで見てきた他のドラマの主人公以上に親近感がわき、尊敬の念を抱いたのである。

今日は最終回の再放送をやっていたので、もう一度見たのだが、晩年になってもなお青年の頃の意志の強さと変わらぬ行動力に、すごいなあと思うばかりだった。

世の中から一目置かれるような地位を得ても、その上に胡坐をかくような人ではなく、いくつになっても純粋で、常に世のため人のために尽くす人だ。
時々のぞかせる無鉄砲のようなまっすぐな人柄が、ああ、若い時と同じだなあと笑ってしまう。

関東大震災の直後も、危険だから地方に逃げたほうがよいという若者の意見に対し「何のために生き残ったんだ」といって、身内が止めるのも聞かずに、人助けにでかけるという性質。

孫の渋沢敬三によれば、栄一は、よく食べ、よくしゃべる人だったそうだ。それで、長生きをしたのだろう。長生きの系統なのか、敬三の息子(栄一のひ孫)の渋沢雅英氏も90代で今現在も健在である。

・・・

さてさて、前置きが長くなったが、10月の末に西東京市の郷土資料室に行ったところ、たまたま渋沢栄一や敬三に関連する展示に遭遇したので、そのことを書こうと思う。

まさか西東京市に渋沢栄一に関連するものがあるとは思いもしなかった。ここが意外にも渋沢栄一に縁があったのである。

その日、私は所沢街道の六角地蔵尊を見に行ったのだが、歩いて行けるところに郷土資料室があることを知り、ついでに足を運んでみたのだった。

その場所は、新青梅街道のニトリ田無店のあたりから北西へ徒歩数分のところで、廃校になった小学校の校舎の中であった。

まさか校舎の中にあるとは思わず、見つけるのに苦労した。

この日は、「東京、文化財ウィーク」というのぼりが立っていた。
これは文化の日の前後(10/30~11/7)に都内の文化財の公開や企画事業が実施され、都民が文化財に触れる機会を作っているものだそうだ。(今調べました。)

校舎に入り、階段を上って2階に行くと「郷土資料室」がみつかった。

そして、渋沢栄一や敬三に関する展示を見ることになった。

ここで、西東京市というのは、江戸時代から明治に移行するころにも、渋沢栄一やその周辺人物と、政治的・歴史的にも縁があったのだが、このへんの説明はむずかしいので省略する。

簡単に言えば、この地は、埼玉にも通じる場所であったので、拠点となったのだそうだ。

そうして、一番関心を持ったのは、ドラマの最終回で語り手となっていた、栄一の孫の敬三のことである。

この人は、日本で初の「民俗学博物館」を作った人で、その博物館が保谷(現在の西東京市)にあったのだそうだ。

この人は、ドラマでも描かれていたが、生物が好きで、本当はそちらの道へ進みたかったのだが、栄一の息子篤二が廃嫡されたことにより、栄一の望みに従って、孫の敬三が後継者となったのだった。

この人は栄一に見込まれ、すごくかわいがられていたようだし、敬三も祖父栄一を尊敬し慕っていたことがよくわかる。

本人の望まぬ道に進んだとはいえ、実業家・財界人・政治家として日銀総裁や大蔵大臣までやった優秀な人だ。

一方、その傍らで自分の好きな民俗学者としての活動もしている。
元々、生物への興味や関心が強く、収集・整理力に優れていたとのことだ。

そして、1921年(大正10年)ころから、アチックミューゼアムというのを結成し、民具や漁業関係の研究をし、庶民の生活文化の究明をしたそうで、多くの研究者を精神的にも財政的にも援助したのだそうだ。

そして、民俗学博物館創設のリーダーとなり、保谷の地に日本初の野外展示物を含む博物館、研究所を設立したそうである。

この日本初の民族学博物館、本館の当時の写真が展示されていた。
左が収蔵館、右が陳列室、右端に農機具置き場が写っているとのこと。

今は、何も残っていないので残念だが、保谷駅から500mくらいの所、かえで通りに民俗学博物館の説明板があるそうだ。

渋沢栄一の孫だけあって、パワーがあり、色々なことをした人なんだなと思った。

民俗学博物館に関わった人は、渋沢敬三・高橋文太郎・今和次郎という人だそうである。

・・・

この郷土資料館は、常設展示も色々盛りだくさんで、手作り感があり、なかなか見ごたえがあった。

あまり目立たない場所にあるのだが、多くの人が足を運ぶ価値があると思った。

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ぬくぬくのアロエベラ

2021-12-29 00:19:31 | 植物・花・木

夫が数か月前に拾ってきた捨て子のアロエベラですが、ベランダで冬越しさせようと思っていたら、どんどん黒ずんできてしまい、ビニール袋をかぶして冬眠させようかと思ったのですが、やはり凍死する可能性が高いと思って、数日前に家の中に入れました。

幸福の木の鉢の根元にスペースがあったので、そこにアロエベラの鉢を置いたところ、日に日に元気になり、黒ずんでいた葉がどんどん緑になってきました。

最初は内側から元気を取り戻し、外側の葉が一番黒くしおれそうに倒れていたのですが、最近はぴんぴんに立ち上がってきています。

温室に入っているようなものなので、寒さと戦う必要もなくなり、楽に暮らすようになりました。

このアロエベラは、よく見かけるアロエとは違います。

よく外で見かけるのはキダチアロエというものだそうです。

しらべてみると、アロエベラは苦くなく、食用になるもので、ヨーグルトなどに入っている種類だそうです。

キダチアロエのほうが、薬用や美容としては断然効果が高いそうですが、苦くてまずいそうです。

しかし、どっちにしても、家で育てている場合は、観賞用にしているだけで、葉を切って何かにするというようなことはめったにしません。

アロエベラは、あんまり花も咲かないみたいです。

最近、驚いたのは、東京の近所でキダチアロエが花を咲かせていたことです。

この頃、最低気温がマイナスになって、霜がおりたりしているのに、路地で赤い花を咲かせているのです。

そんなに寒さに強いものなのですね。

アロエは、かなり大きく成長しないと花が咲かないとのことなので、鉢植えでは無理で露地植えにしないとダメみたいですが、外だと日だまりになって温かいところじゃないとダメでしょう。

寒さには、アロエベラよりもキダチアロエの方が強いのかもしれません。

ところで、うちはアロエベラを普通の土に植えているのですが、アロエベラ用かカネのなる木用かサボテン用の土にしたほうがよいそうです。

春になったら植え替えましょう。

アロエがあまりにも劇的に元気になったので、別の多肉植物(サボテンの仲間)を一鉢家の中に入れました。

そういえば、買ったときには温室の中にいたのでした。

でも、サボテンは寒さに強いとのことで、30年くらい外で育ててきたのですが、そのせいかちっとも大きくならず増えず、瀕死でやっと生きている感じです。

それを、アロエベラの隣に持ってきたので、こちらも生命力旺盛になってくれたらいいなと思います。

 

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第二車線の三輪バイク

2021-12-27 12:16:54 | 車・運転・道路・駐車場2021

今年もあとわずかですが、ふと自分のブログを見ると、今年は自動車関係のカテゴリーの記事数が例年より少ないことに気づきました。

この頃は、運転上の新体験というものが少なくなったので、いちいち運転中の出来事を書くこともなくなったのが原因かもしれません。

しかし、変わったことに遭遇することがないわけではなく、最近の出来事を書いておこうと思います。

・・・

このあいだ、新青梅街道の第二車線を走っていると、前方にピザを配達するバイクみたいな形の3輪バイクが走っていました。

前の車輪が1つで後ろが2つのもので、荷台の幅が広く、屋根があったかな?ぼてっとした印象のバイクです。

これはピザ屋さんではなく、マックでもなく、営業車か個人のものかもわかりませんが、こういう3輪車は普通短距離区間を配達したりするものなので、スピードも遅く第二車線は走らないと思うのです。

実際、これまでに走っているのを見たことがありません。

それで、やはり速度が40km/hくらいで、遅いのでした。

第二車線をその速度で走られては後ろが詰まってしまうので、結局せき止められた後ろの自動車は、第一車線に変更をして前に出ていったのでしょう。

・・・

私の記憶にあるのは、私の前に普通自動車が1台走っており、その前にこの三輪バイクがノロノロ走っていて、普通自動車がイライラしているらしき様子でした。

そして、対向車線が途切れたとき、この普通自動車がなんと,対向車線を使って追い越しをしてバイクの前に出たのでした。

片側2車線ある道路で、対向車線に出て追い越しをする姿を見たのは、初めてでした。

これは違反になるようです。

本来なら、遅い車は第一車線を走っているはずのところですが、それが第二車線にいた場合、普通は後ろの車が第一車線に車線変更すれば自然に遅い三輪バイクよりも前に進むので、そこでまた第二車線に戻るという形になると思います。

内側から追い越してはいけないというルールですが、車線変更を2回しただけということです。

しかし、第一車線を走っている車も多いので、対向車が居ないときに追い越しをしてしまったほうが早いということで、対向車線を使って追い越しにかかったようです。

なんか「遅いよ邪魔だ、コノヤロー」というふうな、これ見よがしな空気満載でした。

・・・

そのあと、結局私がその三輪バイクの後ろをノロノロとついていくことになったのですが、私は車線変更をするのもイヤなのでちょっと我慢しながらついて行きました。

おそらく後続車は次々に第一車線に変更したものと思えます。

何か所もの交差点通過後に、三輪バイクはある交差点で右折レーンに入り、右折していきました。

私も右折する場合は、早めに第二車線を走っているのですが、この三輪バイクの人もそういうタイプだったのかと思います。

でも、交通ルールでは、遅い車は特段の事情が無い限り第一車線を走ることになっているようです。

そうはいえ、速度の遅いバイクだと、第一車線から第二車線、そして右折車線までを短時間に変更して行くのは難しいのかもしれません。もし私だったら永久に右折できないような気がします。

ところで、ああいう三輪バイクは、どういう種類に入るのでしょうか?

原付バイクだったら、第二車線を走らず、第一車線から2段階右折をすると思うので、原付ではない普通のバイクなのでしょうか?それにしては速度が遅すぎます。

ちょっと調べたところ、排気量などによってさまざまみたいでよくわかりませんが、屋根のついている3輪バイクは、ミニカーという自動車扱いになってヘルメットも要らないものがあり、そうなると普通に右折レーンに入って曲がることになるようです。

それにしても、第二車線を延々とゆっくり走り続けられては迷惑だなと思いました。

 

 

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PCR等無料検査

2021-12-26 12:44:45 | 日記2021

年末年始は、故郷の実家で過ごそうと思っている。

最近オミクロン株の市中感染が始まったそうなので、政府が各所で行っているという無料のPCR検査をしてから帰省しようと考えた。

テレビではしきりに、無料検査場のことを宣伝しているが、具体的なことは全然わからない。

どこで、どのように受けると、どうやっていつ結果が出るのだろう?

場所については、インターネットを検索することで、住所が判明した。

私が行こうと思っているところは、火曜日以外の10時から17時までだそうだ。

とにかく、身分証明書を持って当日そこへ行く以外の情報はない。

どの会場にも共通している情報としては、
PCR検査と抗原検査があるが、どうやらPCR検査については後日結果の書類が送られてくる(紙なのかメールなのか不明)ことがあるそうで、当日にはわからないらしい。
抗原検査は、当日わかるということなのだろうか?

そして、その結果の有効期限は、抗原検査は検査日から翌日で、PCR検査は3日後までだそうだ。

これでは、結果がわかったころには、新たにウイルスが増殖して陰性だったものが陽性になっているかもしれず、あてにはならないということだろう。

ただ、少なくとも検査した時点では、陽性になるほどのウイルスは検出されなかったということだから、それがわかるだけマシだ。

それにしても、PCRの場合は、結果が届くのが翌日なのか2日後・3日後なのかも不明なので、帰省する日から逆算していつ検査を受ければよいのか、決める方法がない。

ということで、受ける場合は抗原検査のほうになるだろうと思える。

きっと会場は長蛇の列になるに違いない。

そんなところに出かけていって、そこで無症状の人から感染する可能性さえありそうだ。

オミクロン株は、感染力がものすごいそうなので、防備のしようもないのであろう。

それにしても、オミクロンはそれほど強毒なものではなく、重症化する割合も低いとのこと。
むしろ、今またすこしずつ増えているのはデルタ株でもあるのだから、そちらのほうも危険だろう。

だが、オミクロンオミクロンと世の中は大騒ぎである。

自分自身はワクチンも打ってあるし、大丈夫かと思うが、うちの実家の母はワクチンを打っていないので、デルタでもオミクロンでもリスクが高く、心配である。

とはいえ、2年も続けて高齢者がたった一人で年を越すのも寂しいだろう。

今年は、料理の負担を無くすために3人分くらいのおせち料理(¥18000くらい)を注文し、大晦日に実家に届くように手配してある。

これも実家母にすると、もったいないなどと言って怒りだすし「高いのにおいしくない」などというのは目に見えているのだが、無断で注文しておいた。

帰省は夫と私と、あと次女も行くかもしれない。
もし私たちが帰省できなくなると、そのおせち料理を実家の母が1人で食べることになってしまうから、今年はぜひ実家に行きたいと思っている。

しかし、母にコロナを感染させたら困るので、せめて抗原検査を受けて陰性結果が出てから行こうと思っている。

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吉祥寺のクリスマスツリー

2021-12-25 19:17:10 | 日記2021

本日は、週に一度のウォーキングをする日なので、散歩に出かけた。

グーブログでクリスマスの写真を募集していたようなので、吉祥寺の街のクリスマス飾りでも写してこよう!

この頃の吉祥寺駅は「ゾウのはな子」の像ができてからは、ほぼこの形に落ち着いているようだ。

大きなツリーなどはないし、それから大掛かりな仕掛けもないみたいだ。

はな子は、まるでサーカスの象のようになっているが、本当はこんなイメージの象ではなかったな。

吉祥寺パルコのところのクリスマスツリー。

今年はちょっとデザインが変わっている。かわいく面白い感じにしたみたいだ。

これはコピスだったかな。これは電気が点くときれいなのかも。

こちらは、東急デパート前。

裏のほうの路地のお店にサンタがいた。

これも路地のお店の前に置いてあった飾り。

カエルは全然クリスマスじゃないけど、いい感じ。

今日の吉祥寺はものすごい人だった。

だいたい若者ばかりである。

人の居ないのを見計らって写真を撮った。

アトレの飾り。

この下で、予約のクリスマスケーキやお料理が渡されていた。

クリスマスというものは、24日の夜から25日の日暮れまでで終わりなんだそうだ。

今日は昨日ほどは混んではいないのかもしれないが、それでも週末だから街にくりだす人は多い。

そういえば、南口のL・L・beanのツリーを撮影するのを忘れて帰ってきてしまった。

・・・

今日の歩数は11350歩。

気温は暖かく、マフラーとコートだと暑いくらいだった。

 

 

 

 

 

 

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今年のクリスマスケーキ

2021-12-25 08:52:09 | 日記2021

今年は、うっかりしていて、毎年同じ店で買っているクリスマスのデコレーションケーキを予約しそびれてしまった。

予約をしておけば、定価より安く買えるし、並ばなくてもよいので、何年間もそうしていたのだが、今年はコロナのこともあって、その店のそばを通ることが滅多になく、パンフレットを目にすることもないまま忘れていたのだ。

12月の初めころには、一度ケーキのことが頭によぎったが、いやまだ早すぎるでしょ、と思っていた。

その後、中旬になって、そろそろ予約をしようと思いつつも、やはり自然にその店の前を通ることがなかったので意識から消えていた。

そうして、いよいよクリスマスが近いなあと気づき、20日月曜日に予約をしに行ってみたところ、予約の締め切りは19日までだったとのことだ。もう予約は不可能で24日の朝一番で並べば、当日分がいくつかあるので、買える可能性もあるのだそうだ。

24日金曜日は仕事は無いが、他に用事もあるし並ぶのは嫌だなと思い、近辺でケーキを売っている他の店を探してみたが、どこも予約は前の週に終了していた。

いや、実はモロゾフだけがまだ予約可能とのことだった。だったらモロゾフで予約しようかと思ったが、紙のパンフレットはなくスマホで確認してくれとのこと。ああ、何でもデジタル化の時代なんだなあと思い、一旦保留。

あとでパソコンを開いて確認した。値段はいつものお店より500円くらい高かった。
まあそれでもいいかとは思ったが、気になるのはモロゾフって普段生クリームのイチゴショートなんか売っていない店だということだ。クリスマスだけそういうのを作るのか?でもそれってあんまり得意分野じゃなさそう。

モロゾフといえば、チョコかチーズでしょう。(私がいつも買うのは、プリンかチーズケーキである。)
かといってクリスマスにチョコやチーズのケーキを食べる気もしないし・・・。

モロゾフだけまだ予約を受け付けているって、それは人気がないからなのか、それとも大工場で作っているから、予約取り放題なのか。

ちなみに、評判はどうなんだろうとネットで調べると、まずくはないがやはりチョコやチーズケーキなどがおすすめだそうだ。

また、某ケーキ屋さんで働いていたという人の意見では、そもそもクリスマスケーキというのは、どの店もどの会社も、急いで大量に用意するため、通常よりも手抜きになって、質の良いものができないものだとのこと。冷凍であらかじめ製造しておいたものを解凍することもあるそうである。

確かに、最後のトッピングは前日にするとしても、スポンジなんかは冷凍や真空パックにして保存してあるのかもしれない。

そんなのを読んでいたら、なんだか面倒くさくなってしまった。しかも、20日の夜にそんなことを調べているのだから、予約をするのは21日になるではないか。

ということで、モロゾフで予約するのはやめることにした。

・・・

クリスマスイブ、ケーキ難民か・・・?

そうだ、コンビニでいいか。

近頃ではコンビニもなかなかおいしいケーキを扱っているそうである。

それにコンビニで買っていた頃もあったものだ。

23日の昼休みに会社に通勤して昼ご飯を買いにセブンイレブンに行くと、デコレーションケーキが売っていたので、これなら24日でも買えそうだなと思った。

家の近くのコンビニでも買えるだろう。

・・・

ところで、そのあとスーパーに行ったら、ケーキ用のヤマザキのスポンジが売っていた。

そうか、金曜日は用事があるので、いちいち買いに行くのも面倒だし、デコレーションケーキを買ったら高いから手作りにするか。

ヤマザキのスポンジとイチゴと生クリームを買った。

そうして昨日、生クリームをホイップしてスポンジに塗り、イチゴを載せた。

できあがりはイマイチ。やはりきれいに飾りつけできないものだ。

生クリームが足りなくて側面に塗ることができなかったので、写真なんか見せられない。

砂糖15g入れたつもりが、三温糖だったからか、なんか全然甘くない。(うちには白砂糖もグラニュー糖もない。)

スポンジはパサパサっぽいのでブランデーでもしみこませてやろうかと思ったが、スーパーにラム酒などは売っていなくて、自宅の梅酒にメープルシロップを混ぜてスポンジの上に浸透。

本当は、シュガーのシロップを刷毛で塗るとその上に生クリームが馴染みやすいそうである。だが、刷毛は魚の照り焼きかなんかをするときに使ったまま適当に洗って放り投げてあったので、ケーキには使えない。

結局スプーンでスポンジの上にかける感じ。これではスポンジケーキではなく、サバランのようになってしまうかも?と思ったが、まだまだ十分にパサパサのスポンジであった。

それで、出来上がった悲惨なデコレーションケーキは、結局材料費だけでも2000円近くかかっているのだが、夫からは「だから変なことに挑戦しないほうがいいのに」との感想。

見た目は悪いが、梅酒がしみった味については悪くはなかった。

だが、クリスマスに見た目は重要で、やっぱりチョコのプレートや、サンタともみの木とローソクがあったら雰囲気が出る。

私のは生クリームとイチゴだけ。

イチゴは680円もしたのを、全部使った。

だが・・・今後もケーキ作りの腕が上がるはずもないので、やっぱり、来年はプロが作ったものを忘れずに予約しよう。

 

 

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先週の迷走2(谷保天満宮の帰り)

2021-12-25 01:15:10 | 車・運転・道路・駐車場2021

谷保天満宮の駐車場を出て、家とは逆の西方向へ進みました。単に左に出るほうが出やすいからです。

それで、予定では、甲州街道をずっと西に進んで多摩大橋通りに右折して、走り慣れた新青梅街道まで出ようと思っていたのです。

地図で調べたところ、それより手前では、右折しても新青梅街道まで南北にまっすぐ通っている道路はなさそうでした。

そして、日野橋交差点では、第一車線を走ると多摩川を渡って左へ行ってしまうだろうからと思い、最初から第二車線を走って行くことにしました。

ところが、なんといきなり矢川駅入り口という交差点で、第二車線が右折専用レーンになってしまったのです。

これは右折しないわけにはいかなくなりました。この道路は途中でわけがわからなくなることは、前夜の地図調査で分かっていたのですが・・・。

南武線の踏切を越えました。

その後「学園通り」という標識がありましたが、学園通りにはいかずにまっすぐ進みました。

そのあと、道路はさらに狭くなり、不安になってきました。ナビは「自宅に帰る」という設定をしてあり、斜め右に進むような案内が出ていたのですが、曲がらずにまっすぐ前の車について行きました。

道路が狭くなって、行き止まりになったりするのが一番不安ですが、前に走る車があれば、どこかに出られるはずです。

あとで地図を確かめると、斜めに右に進む道は「富士見通り」だったようです。そっちに進めば、国立駅の南口に出たようです。

しかし、そちらには行かずに、さらに狭くなった道をまっすぐ進んで行きました。

ここは、スクールゾーンになっていて、平日は車は走れない道路のようですが、日曜なので問題は無いようでした。そして、正面に鉄道の高架のようなものが見えてきました。

この時点で、それがどこなのかまるでわかりませんでした。

高架をくぐると正面に大きなマンションがあり、突き当たって道路が左右に延びているので、右に曲がりました。

それからは、高架になった鉄道を右にして、それにそった道路を走っていきました。

この鉄道が何線なのかも全くわかりません。

それから、少し左に曲がって進んで行くと、右側に駅が見えました。

いったい何の駅なのだろう、とチラッと見ると「国立駅」でした。

そこで、それが国立駅の北口であることがわかりました。

その道は、1週間前に「新幹線資料館」を見に行ったときに歩いた「光町通り」でした。

そうして稲荷神社のある五差路のところに出ました。

知っている場所なので少しは安心しましたが、かといって、その先の道路がどうなっているかは全く知りません。

ナビはここで大きく右に曲がるように案内してきました。斜め右後ろのような感じに右折するわけです。ここを行くと戸倉通りという道路で、その先府中街道に出たようです。

しかし、右折嫌いな私はナビの言うことは聞かず、まっすぐ道なりに進んで行ってしまいました。

そうすると、その道はうねうねと続いていきます。こういうカーブの仕方は大昔からある道なのでしょう。

すると、八小入り口南という信号に突き当たったので、そこを右折して進みました。

そのあたりまでは、今グーグルストリートビューを見て判明したのですが、その後はどの道をどう走ったのか、よくわかりません。本当に迷走です。

そうして、ついに五日市街道に出ましたが、ここでも自宅に帰るなら右折するべきところ、左折してしまいました。それからようやく砂川九番という交差点に着き、そこのファミリーマートに以前入ったことがあったので、道を思い出し、右折して立川通りを北に進みました。

立川通りは、小川橋というわけのわからない交差点がありますが、そこは以前走った記憶があったので間違いなく右のレーンに進んで、そうして青梅街道に合流しました。

ここまでは、本当にヒヤヒヤでした。

その後、青梅街道を東に向かって走っていましたが、この道路は踏切もあり速度が遅いので、小川町という交差点で府中街道に左折して北に進み、やっと新青梅街道の野口橋交差点に出ることができました。

もうここまでくれば本当に安心です。

・・・

あの、中央線の高架の脇を走っていたときは、うちのナビが古いので、実際とは違う道路を示していたのかもしれず、本当に不安でした。

あんな大きな線路は、JR中央線しかないですよね。

しかし、そんなことにも、その時点では思い至らないのです。

まあ、とにかく、走り抜けることができて良かったです。

やはり、迷走は道を覚えるのには一番ですね。しかし、どこを走ったのか不明な部分が多々ありました。

未知・・・道  これは偶然に同音なのだろうか?

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先週の迷走1(谷保天満宮に行くまで)

2021-12-23 23:03:44 | 車・運転・道路・駐車場2021

今年の私の漢字は「道」ですが、本当にわけのわからない道を迷い走ることが多々ありました。

先週は、国立市の谷保天満宮に行きました。

これは、甲州街道を西に向かって走っていって、府中を過ぎて本宿交番前という大きな交差点を過ぎて、その先の左側に谷保天満宮があると記憶していたのです。

そういうわけで、第一車線をずっと走っていけば、谷保天満宮の交差点より数十メートル手前を左に入ると天満宮の駐車場に入れるんだと思っていたのでした。

ところが、うっかりしていました。谷保天満宮の手前に左に入る「国立インター入り口」という日野バイパスへの入り口があったのです。それで、第一車線が左折専用レーンになっていたのでした。

気づいたときは、とっさに第二車線に変更することができず、日野バイパス方面に左折するしかなくなってしまいました。

これは、日野バイパスをそのまま進んで、谷保天満宮とは違うどこか別の遠いところに行くしかないのか・・・

あっけなく、目的地放棄になりそうです。しかし、そんなに簡単にあきらめてよいのか。

すると、左に曲がったあと、すぐに「青物市場東」という交差点があったので、ここを左に曲がってみました。これなら甲州街道に戻れそうだと思いました。

その道は、片側2車線の広くて新しい道路でしたが、ほとんど車が走っていない不思議な道でした。

今、グーグルストリートビューで確かめてみると「都道20号」と書いてあります。(ちなみに数字は同じ20号ですが、甲州街道は国道20号ですね。)

都道20号を進んで「府中西高前」という交差点を左折しました。方角的に甲州街道に戻れるはずです。

走った道をグーグルストリートビューでたどってみると、大山道と書いてあります。

交差点を曲がって直ぐに大山橋という橋を渡りました。この川は「府中用水」というものらしいです。

この道は狭くて、だんだん登り坂になり不安になってきました。

なんでこんな坂なのか、甲州街道はこんなに上に登っていくものなのだろうかと不審におもいました。

道は左にカーブし、そして無事に甲州街道の「西府橋」という交差点に出ることができました。

今、地図を見て気づいたのですが、この大山道という道のすぐわきに南武線が走っているようなのです。車で走ってきたときには右側に線路があったことになりますが、全然知りませんでいた。

これが谷保駅に続いているということですね。

西府橋というのは、下に線路が走っているので、それを渡る橋ということらしいです。

ここを甲州街道に左折するときに、今度は第二車線に入って、無事国立インター入り口の交差点を直進し、谷保天満宮に到着することができた次第です。

・・・

余談ですが、

今道路地図を見ていて気付いたのですが、私は「甲州街道=国道20号」だと思っていたのですが、そうではありませんでした。

「国道20号」は、甲州街道の「国立インター入り口」交差点で左に曲がっていく「日野バイパス」であって、谷保神社のほうに直進する道路は「甲州街道」なのですが、こちらは「都道256号線」と書いてあります。

それで、こっちの甲州街道のほうは、日野バイパスよりも狭く古い道でした。

・・・

谷保天満宮前から、国立の大学通りにまっすぐつながる道路がないのもちょっと残念です。

南武線を越えてさらに北に続く道路が狭く、踏切もあるので、電車が通るときは、狭い道に車が連なっているようでした。

そして、甲州街道から谷保駅方向(北)に曲がる車や、谷保駅方向から甲州街道に出てくる車でこの交差点がゴタゴタするのかなと思います。

南武線が高架になって、そこに広い道路ができたら、すっきりするんじゃないかと思ったのですが、そのような計画が無いかと調べてみたところ、線路の勾配の問題で傾斜が急になってしまうため高架にするのは難しいのだそうです。

そう言えば、迷走してきた大山道はすごい坂で、谷保に向かって土地が高くなってきているのですね。線路は甲州街道の下を走ってきているのに、谷保で高架にするというのは無理な話のようです。

やはり、北側の東八道路を大学通りにつなげるのがいいのかなと思ったのですが、東八道路は日野バイパスにつなげるらしい。(東八道路と南武線の立体交差工事は進んでいるらしいです。)

確かに、それが合理的なようです。

そうなると、やはり国立駅や谷保駅からは、幹線道路にはつながりにくいということになるのですね。

学園都市だから、幹線道路は不要なのかもしれませんね。

 

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今年の私の漢字

2021-12-22 21:09:06 | 日記2021

今年の私の漢字は「心」にしようかと思ったのですが、「道」にすることにしました。

「心」というのは、心臓が不整脈を起こしたりして、自分の心拍に敏感になっているからです。それから今年は、政府やマスコミに対しての「疑心暗鬼」があったり、それとも日本はまともな国で、信用できるものなのなら「安心」なのかもしれず・・・?

それこそ真実はわからず、何もかもが「心」の持ちようでどうにでもなるように感じるのです。

でも、ふとそんなわけのわからない漠然とした「心」よりも、今年自分が関心を持って行動したのは「道」なのではなかったかと気が付いたのです。

これには、you tube での「スーツさん」という青年ユーチューバーの影響が強いのです。

元は鉄道マニアのスーツさんですが、新型コロナの影響もあって、電車には乗らずに自転車で東海道や中山道の旅に出て、「道」や「宿場」、そして「街」「川」「山」「歴史」「地理」「宿泊施設」「食べもの」など、様々なものを紹介してくれて、私はその動画に嵌っていました。

道っていうのは本当に奥が深いですね。

私は都内を軽自動車で、下手な運転をして走っていますが、これまで「~街道」と「~通り」「~道路」の違いというのがあまりよくわからなかったのでした。

しかし「街道」というのは、結局、大昔からの主要幹線道路であって、これは「格」が高いんだ、と思うようになりました。

その後、街道も「新」が付いた広い道路ができたり、バイパスができたりして、色々に変化して旧道との区別があるし、新たに高速道路などもできています。

近代になって人口が増えて新しい経路の道路や通りも色々できたりしたんだなあと思います。それらもまた重要な道路であり、今現在もどんどん進化しているのですね。

鉄道もそうで、新幹線ができたり特急が走ったり、地下鉄が走ったり、トンネルや鉄橋ができたりして、どんどん進化しています。

過去から現代・未来に渡って、人間が移動するための「道」が、古いものあり、新しいものありで、連綿と続いているんだなあと思うと、古いものも新しものも何でも知りたいし、全く興味深いものだと感じます。

スーツさんに影響されて、東海道や中山道で行きたいところも何か所かあります。

東海道は、静岡県の大井川、お茶の産地や蓬莱橋などに行ってみたいです。

中山道は、やはり代表的な宿場町の妻籠や馬籠に行ってみたいなと思います。

それから、終着の京都の三条大橋に行ってみたいなと思います。

それは、いつになることやらわかりませんが、新型コロナがおさまったら旅行に行きたいですね。

それまでは、最近やっているように、都内近辺を自分で移動。自動車を運転したり、自転車に乗ったり、電車と徒歩だったり、色々な方法で移動するのが楽しいです。

車で行くのと電車で行くのを両方やると、その土地がよくわかるなあと思うし、徒歩や自転車など様々な方法で移動すると細かいところもわかるのですね。

今年は、自分なりに色々と知らない街へ行ったり、知らない道を通ってみたりして、行動したなあと思います。

そんなわけで、今年の自分の漢字は「道」にすることにしました。

 

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谷保駅近辺

2021-12-21 22:05:26 | 日記2021

谷保天満宮を見たあと、歩いて谷保駅の方に行ってみました。

神社の鳥居の正面の道を北に向かっていくと、すぐに線路があり、右側に駅舎が見えました。

これが谷保駅なのか~

元々、このへんの地名は「谷保」と書いて「やぼ」と発音していたそうです。神社も「やぼてんまんぐう」だそうです。

しかし、駅名を「やほ」にしたので、このへんの「谷保」はみんな「やほ」と呼ぶようになったそうです。

「やぼ」は「野暮」を連想するから「やほ」にしたらしいです。

電車は、何分おきかに通っているようです。シルバーに黄色っぽい線がついた電車でした。

駅の改札は階段を上がった上にあります。エレベーターもありました。
電車は地上を走っていますので、ホームへはまた階段を下りるということになりますね。

それにしても、ロータリーには車もバスも一台もいませんね。

人も写っていないけど、少しはいました。

まちには人がたくさんいました。

駅前に和菓子屋さんがあったので入ってみました。お客さんも何組かいました。

このお店は「紀の国屋」というようです。

最近、知らない街に行くと和菓子を買ってくることが多いような気がします。

だんだんおばあさんぽくなってきたのかも?

しかし、もし洋菓子店があればケーキや焼き菓子でも買ってくると思うんですよ。

たまたま和菓子屋さんがあることが多いです。
見渡したところ、洋菓子のお店は見えませんでした。

こちらの名物は「相國最中」(しょうこくもなか)という最中らしいです。

この文字読めなかったのですが、さっき調べてみて判明しました。

お店のHPによれば、「相国」というのは中国で最高の位を意味するそうで、お菓子の最高の位を目指す意味で命名したとのことです。

そういえば、店の中で、四角い最中がたくさん売っていました。

実は、私は最中があまり好きではありません。あのパフパフした皮が苦手なのです。
きんつばみたいなあんこだけのお菓子も苦手で、あんこが入っているなら、大福か饅頭かどら焼きみたいな感じの、しっとり・ふんわりしたものに餡が包まれているのが良いです。

ということで、選択肢に最中は無いんですね~

それで、買ってきたのは、上のお菓子。

和菓子って1つが150円くらいなので、安くていいです。

カロリーも少ないから健康的ですね。

・・・

このあと、もっと北に行ってみようかと思ったのですが、神社の駐車場に戻ることにしました。

ここから少し北に歩けば、このあいだ行った国立の大学通りの南の端のほうに、そう遠くはなかったようです。

でも、なんかあちらはあちら、こちらはこちらという、感じがします。

中央線沿線と南武線沿線の雰囲気の違いかな?

駅と神社の間に「門前そば」というお蕎麦屋さんがありました。昔からあるのかもしれません。

入ってみたいところですが、まだコロナのこともあり、外食を控えているので、そのまま通り過ぎました。

神社の前の甲州街道交差点です。

駐車場から出る車は、この写真の軽トラックのようにして交差点の中に出てくることになります。

入るときは、この交差点より数十メートル手前(この写真の左側の方)を左折して入りました。

鳥居前の交差点はT字路で、神社からの車の信号というのは無く、正面は自転車用信号になっていました。

なので、信号に関係なく頃合いを見て、安全を確認して出ていくことになります。

右折は怖いので、またもや自宅とは逆方向の立川方面に向かって左折で出ていきました。

 

 

 

 

 

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谷保天満宮と山口瞳

2021-12-20 23:32:33 | 旅行・街歩き

日曜日は運転の日なので、車で国立市の谷保天満宮に行ってきました。

一週間前にJR国立駅周辺に行ってみて、そのもっと南側に南武線の谷保駅や谷保天満宮があることがわかったので、今度はそっちに行ってみようと思ったのです。

谷保という地名は、以前から車で甲州街道を走っているときに知っていて、この交差点も記憶にありました。このへんでお祭りをしていて道路が渋滞していたこともあったと思います。

でも、ちょうどこの交差点が天満宮の入り口だったとは知りませんでした。
あまりにも道路に近いので「天満宮」という石塔は正面からは撮影できず、変な角度になってしまいました。

平成時代の鳥居をくぐって歩いていくと、その奥に明治時代の鳥居があります。

それから、意外にも階段を下ります。

これは驚きです。
神社というのは普通、平地じゃないとしたら、階段を上がっていくものじゃないですか。
それが、こんな階段を下るなんて、本当に現地に行ってみないと想像もつかないですね。
神社なんてどこも同じようなもんだと思って、行ったふりをしたら、嘘がばれるなあと思いました。

あとでわかったのですが、大昔は甲州街道が下のほうにあったらしいです。しかし、多摩川の流れが色々に変わったりして、渡し場が移動したことから、街道もそれに合わせて移動したのだそうで、現在の車道ができるよりも以前から、甲州街道は神社の上にあって、階段を下る形だったそうです。珍しいです。こういうのを、下り宮というそうです。

そうして、階段を下りると、右側に神社がありました。

おお、牛だ。

そう言えば、こちらは菅原道真、その三男の道武公を祀ってある神社で、梅と牛はつきものなのですね。湯島と亀戸と谷保を関東の三天神というそうで、ここは東日本最古の天満宮だそうです。そんなに有名な神社とは知りませんでした。

菅原道真といえば、学業の神様なので、受験の合格祈願をする人が多いようで、絵馬もたくさんぶら下がっていました。

さらに別の牛や狛犬もいます。

拝殿です。両側にはお酒が奉納されていました。

横の方に回ると拝殿の後ろが本殿のようですが、この赤い格子がきれいですね。

そうして、裏のほうにはきれいな水の池があり、厳島神社がありました。

この辺りは湧き水が多いそうです。先ほどの階段の脇にも滝のようなものがありました。

この池には、このように糸が張ってありますが、鳥から魚を守るためだそうです。

池には鯉ではなく、大きな金魚と鮒のような魚が泳いでいました。

その他、他の建物も色々ありましたが、省略します。
ハトもたくさんいました。放し飼いのニワトリもいるらしいですが、見えませんでした。

おみくじ(開運とんぼ玉根付入り)を買ったら無難なところで、「小吉」でした。
 “ ひとかたに なびくと見せて 青やぎの ゆくえさだめぬ 人心かな ”

根元が1つで二股に別れて2本になっている不思議な木がありました。

・・・

ところで、この神社は最初の交通安全の神様だそうで、自動車のお祓いも得意としているようです。

というのは、明治41年(1908年)8月1日に「自動車の宮様」といわれた有栖川宮威仁親王殿下が、日本で初めてガソリン自動車の“タクリー号”で「遠乗会」(ドライブツアー)をし、日比谷公園から立川まで走って、この神社で安全祈願をしたのだそうです。

それで、車に縁のある神社ということになっているわけでした。

子供向けにこのようなものが設置されていました。当時は、こんな自動車だったのでしょうか?

「有栖川宮威仁親王殿下台臨記念」と記された石碑があります。

「台臨」とは皇族が出席することだそうです。

この梅園で食事をされたそうです。2008年には100周年を記念して当時を再現したような催しが行われたそうです。

私としては、この神社に関しては、何もかもが初耳です。

・・・

ところで、この神社には山口瞳の文学碑があるとのことで、それをぜひ見たいと思って行きました。

というのは、これもまた全然知らなかったのですが、作家の山口瞳は国立に長年住んでいて、この谷保神社がお気に入りの散歩コースだったとのことです。

実は、先週、旧国立駅舎でブックカバー展が開催されていたときに、どうして山口瞳の全集が展示してあるんだろうと思っていたのでした。

国立本店の人の中に山口瞳が好きな人がいるんだろう、くらいにしか思っていなかったのですが、山口瞳は国立ゆかりの作家で、国立についても色々書いているそうです。
実は1つも読んだことがありません。 今度何か読んでみましょう。

山口瞳といえば、昔テレビのCMに出ていたと思います。その印象が強いです。だから名前だけ知っています。

サントリ―のキャッチコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう」を作った人ですね。

それで、梅園の中に文学碑を探したところありました。中央付近です。

↑これじゃありません。「山口瞳先生文學碑」 これは案内版。

↑ こっちが本体です。

台座は地に根差した山を示し、四角い窓は将来を見通せる目を示しているそうです。

四角い窓は口で漢字の山口かと思いましたが、見通せる「瞳」ってことでしょうか。

これを作ったのは「関敏」という彫刻家だそうですが、神社の前の石の牛を作ったのも同じ人のようです。

石碑に記されている文章は「週刊新潮」に連載されたエッセイ「男性自身」の「祭り」の一部だそうです、

「金棒、拍子木、笛が鳴り、万燈を先頭にした獅子舞の道行は近づいてくる、体が天に浮く心地がする、夕方になって豪雨が襲う、神殿で神楽が続いている、あたりが暗くなる、太鼓と笛、
ゆるやかに荘重に軽快に」とのこと。

サインです。

裏にはたくさんの人の名前と、台座のプレートには、

山口瞳先生文学碑建立の会 1997年11月1日  制作 關 敏  造園 鈴木正男

と書いてありました。

梅が咲くと、ここから梅が見えるのでしょう。

というわけで、

私は山口瞳の作品を1つも読んだことがないのに、作家というだけで、関心を持ってしまう人間です。

本を全然読まないのに、自分は本が好きだと思っているのです。

変ですね。

1974年CM サントリー サントリーウイスキー角瓶 雁風呂 山口瞳 ACCグランプリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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東大和南公園あたり

2021-12-19 10:01:14 | 旅行・街歩き

東大和南公園は、戦争で被爆した旧日立航空機立川工場の変電所がある公園です。
というか、そもそも公園に変電所の建物を移設したわけではなく、元々ここが日立航空機株式会社の「立川工場」だったわけで、変電所は何も変わらず、周囲が公園になったということですね。

変電所のことは前記事に書いたので、今日は前回載せていなかった写真を載せつつ、先週の行程を書いてみたいと思います。

まず、いつも車で走っている新青梅街道の奈良橋6丁目という交差点から南に進んで行きました。
ここで曲がるのは初めてです。銀杏通りというようで、確かに銀杏並木が黄色く色づいてきれいでした。

この道はイトーヨーカドーの前に突き当ります。これは調査済みで、今回はこちらの立体駐車場に置かせてもらいました。

駐車料金は無料で、特に駐車券はありませんでした。買い物以外の時間も置かせていただいたのはルール違反かもしれませんが、屋上駐車場はガラガラでしたし、帰りに買い物を5000円以上しましたので問題は無いと思います。

そこから徒歩で、イトーヨーカドーの東側の道路を南に進んで行き、南東側から入って行きました。

最初パソコンで場所を調べたときに、こちらに公園の駐車場があるのを見つけたのですが、駐車台数が少ないのと、グーグルマップやストリートビューでも入り口がイマイチわからなかったので、結局やめました。

現地に行ってみると、東側の公道から駐車場に入るのではなく、一旦公園の方向(西)に道を入ってから右側に駐車場入り口があることがわかりましたが、見ると既に満車となっていたので、ここを選択しなかったのは正解でした。次回に行くとしたらもっと早い時間に行かないと置けないでしょう。

車で知らない場所に行こうとすると、本当に何時間も予備調査が必要となり大変です。

その先は、このように紅葉のきれいな道を西に向かって歩いて行きました。

右側には広々としたグラウンドがありました。

画像はありませんが、陸上部の学生集団がジョギングをしたりしておりました。

シートを広げている人もいます。

林もあっていい感じです。

グラウンドを突っ切ると近いのですが、運動の邪魔になるので、西の端まで歩き、それから北に向かって変電所まで行きました。

変電所の前は、何かデザインされた舗装もされていて、周囲はススキが植えられたりしてきれいです。

そういえば、この変電所は被災後も平成5年まで現役で働いていたので、傷だらけとはいえ廃墟のマイナスオーラが無いのかもしれません。窓ガラスがきれいなので、荒れすたれていない感じ、むしろきれいなイメージさえ醸し出しているのです。

変電所2階のデッキから見下ろした公園。ケヤキの木や、他の木の配置もきれいですね。

西側の窓から写したものです。空に鳥の群れが飛んでいたから写したのだったと思うのですが、ここに写っている木がたぶん広島で被爆したアオギリの木の2世なのではないかと思います。

これは外で写したのですが、窓からはこの木の上のほうが写ってたんじゃないでしょうか。

葉が枯れているので、絵にはならないのすが、ここに広島の被爆2世のアオギリという説明があったので写してきました。

写真の中の説明書きは読み取れないので、被爆2世のアオギリについてネットで調べてみると、広島市の情報が載っていました。

アオギリは広島の爆心地から1.3kmの旧広島逓信局の中庭にあったもので、原爆により、爆心地側の幹半分が熱線と熱風で焼けえぐられてしまったものの、樹皮が傷跡を包むようにして成長し生き続けたそうです。

それを1973年(昭和48年)に平和公園に移植し、その木の実から出た芽を「被爆2世のアオギリ」として、希望する全国に配布したようです。

そういえば、都内の別の公園でも被爆2世の樹木(青桐ではなかったかも?)を見かけたことがあるような気がします。

建物写真では同じようなものですが、こちらには見学者が何人か写っています。

ちょうど密にならない程度の見学者が途切れなくやってきていました。

年齢層は高めの人が多く、やはり男性が多めのようでした。

しかし中には男の子を連れた若い夫婦の家族もいて、奥さんのほうもスマホで建物の内部を撮影したり、子供に説明をしたりしていました。

近隣の小学校などは学校教育の一環として、きっと見学する機会を作っているのでしょうね。

入館料は無料ですが、募金箱があったので100円だけ入れてきました。

こちらの建物の改修費用はふるさと納税による寄付を活用したとのことです。

建物の右側には畑や花壇などが作られており、皇帝ダリアが咲いていました。

さらに裏に回っていくと、工場で使われていたであろう電線や部材がオブジェになってきれいに配置されていました。

桜の木もかなりの老木のようで歴史を感じます。

あれはいったい何でしょうね。

戦争でどうこうというマイナスイメージではなくて、かつての工場で使われていたものが、今はオブジェになって再活用されているところが、すごいプラス思考だと思います。

そうして、最初に載せた写真ですが、木の向こうに見えるのが変電所の建物です。

こちらが公園の北西側にあたり、写真の右方向には体育館やプールなどがあります。

今、地図を見て初めて知ったのですが、こちらのほうは「桜ケ丘中央公園」というらしいです。

つまりつながっているわけですね。

どうもこちらからのほうがイトーヨーカドーに近そうだなと思って歩いていくと、北側に公園出入り口があり、なんとすぐそばにイトーヨーカドーがありました。

なんだ、こっちから入れば変電所に近かったんですね。
この道路が桜街道というようです。

そうしてイトーヨーカドーで買い物をして帰りました。

道路の向かい側にニトリや他の商業施設があり、ニトリでカーテンの小物を見たかった(イトーヨーカドーで探したが無かったから)のですが、横断歩道がすごい遠回りだったのであきらめました。

今度はそちら側の駐車場に車を置いて買い物をしてみましょう。

さてさて帰りですが、立体駐車場から桜街道に出るときに、右折嫌いな私は左折しました。

ここはT字路だから右折は簡単だったはずで、そうすればその先左折で銀杏通りに戻れたのに・・・

桜街道を西に芋窪街道に出て、ここは右折でモノレールの下の道路を新青梅街道に向かったのですが、第一車線を走っていたら、いきなり車線が左方向に別れて行ってしまいました。

これが、昔の芋窪街道か。

それで、北西を向いた状態で斜めに新青梅街道と交わっているので、ここでも右折をせず、直進もしたことないし、結局左折してさらに自宅とは逆の西に向かってしまい、ガソリンが無かったので武蔵村山の出光で給油し、それから結局瑞穂町のジョイフル本田のところまで行き、そこでやっと知っている道なので、ぐるっと回って東に向いて帰ることができたのでした。

ああ、疲れた。行き方はよく調べるんだけど帰りのことは考えてないんだよね。

イトーヨーカドーで買ったポッキーとプリッツとカフェラテを車の中で信号待ちに食べつつ空腹を満たしました。

昼ご飯は帰宅後(夕方)、イトーヨーカドーで買った稲荷ずしを食べました。

夕飯はイトーヨーカドーで買ったハンバーグを食べました。 完

 

(1週間経ってやっと先週分の記録終了。今日もどこかに行かなくてはならぬ。

マイナス2℃だった気温も今は5℃になっているので、道路の凍結も溶けたであろう。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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戦災建造物「旧日立航空機立川工場変電所」

2021-12-18 08:53:42 | 旅行・街歩き

この建物は「旧日立航空機株式会社変電所」で戦災建造物として東大和市の指定文化財となっています。(一般的には「旧日立航空機立川工場変電所」と言われているようなのでタイトルそちらに変えました。)

空襲跡がそのまま残っているこの建物が都内に存在していることを、ネットサーフィンをしているときに、偶然知りました。そして、建物内を見学できるのが、水曜と日曜だということを知り、先週の日曜日に急遽出かけていきました。

この一帯は、当時大規模な軍需工場があり、飛行機のモーターを作っていて、多くの人が働いていたそうです。そのため昭和20年に3度の空襲に見舞われ、この建物の周囲は壊滅状態となり、多くの犠牲者が出たそうです。

この建物の外壁についているボコボコのへこみは、空襲による銃弾のあとで、コンクリートが崩れている部分もあり、ひどい状況だと感じますが、当時としては、他の建物が跡形もなく破壊された中で、この建物だけが壊れずに残っていたということになります。

そして、その後もこの建物は使われ続けていたそうです。

戦争で被災した建物としては、広島の原爆ドームが有名ですが、その他にはあまり聞いたことがありません。この建物についてもまるで知りませんでしたが、西の原爆ドーム、東の変電所というくらい貴重なものらしいです。

なぜそのようなものの存在を、これまで知らなかったのだろうかと思ったのですが、東大和市が平成7年に市の文化財(史跡)に指定し、保存改修工事を行い、令和2~3年に老朽化に対応して屋上改修・外壁補強・耐震補強をしたため、壁の崩壊を防ぐことができて2階への立ち入りができるようになったとのことです。

ということは、つい最近になって完璧な見学ができるようになったということなのですね。

これもやはり、新型コロナの影響があり、大々的に情報が出回らなかったのだろうと思います。

このコロナ禍において、どれだけ多くのコロナ以外の情報が閉ざされてきたのでしょうか。

それでも、こうやって戦争を伝える文化財をしっかりと保存してくださる活動が進められていたことに感謝します。

・・・

さて、では先週の見学行程に沿って振り返りたいと思います。

この変電所は、都立東大和南公園にあるとのことで、まずは南東方向から公園に入っていきました。

少し歩くとグラウンドがありました。その向こう側に見える白い四角い建物が変電所のようです。
この写真はそれがわかっていて撮影したのかどうか、記憶がありません。

グラウンドを超えて近づくと、ここで明らかにそれが戦災建造物の変電所であることがわかりました。

特に囲いなどもされていなくて、普通の風景の中に溶け込んでいます。
近くにはテントを設置して、その中で休日をのんびり過ごしている人もいて、普通の公園風景でした。

さらに近づきます。

このような建物を、何の予備知識もなく見た場合は、不可解な異様さを感じるかもしれませんが、ただ古くてボロい建物が何であるの?と思うかもしれません。

あるいは、写真だけ見たのであれば、現代の平和ボケした日本人には、この丸いへこみ跡がデザインされた模様に見え、割れたコンクリートも一種のデザイン的な設計によるものかと思う可能性さえあります。

自分が、実際にここに行って建物を見て、確かにすごい空襲を受けたんだなとは感じましたが、今現在そこで恐怖がこみ上げてくるというようなわけではなく、この地で多くの人が重傷を負ったり亡くなったりしたのだという気味の悪さはありませんでした。

それは、あまりにも年月が経っているからなのか、私に霊感がないからなのでしょうか。

そうして、入り口から中に入って行きました。

まず最初に、すぐ右側にある蓄電池室を見ました。

このように、蓄電池がたくさん置かれています。

この部屋の壁に外から貫通する穴が空いていて、外の光が中に差し込んでいました。

そのあと、視聴覚コーナーで、昔この工場で働いていた人たちの体験談のビデオを見ました。

時間は15分くらいで、80歳くらいのおじいさんやおばあさんが語っていました。

あるおじいさんの話では、その日交代制で働いていて、自分は休みだったとのこと、空襲があって外に出てみると、工場が爆撃され、そちらのほうから、けが人が血だらけで歩いてきた姿を見たそうです。

その後、遺体がたくさん並べられていたりしたそうです。御遺体は意外にも悲惨な状態ではなく、それは人によってきれいに整えられたためであり、蝋人形のように見えたとのことでした。

あるおばあさんの話では、自分が入るはずだった防空壕に入れず、別の防空壕に入ったら、自分の入るはずだったほうの防空壕が爆撃されて中の人が亡くなったので、もし本来の防空壕に入っていたら自分は今存在しなかったと言っていました。

体験談を語る人に女性が多いのは、当時軍需工場で働いていた若い女性が多かったということに驚きました。犠牲者も男性ばかりではなく女性の数も多いようです。

工場敷地内に防空壕を作っても何の意味もないとのことです。

当時としては、爆撃後に形の残っていた変電所は、幸いにして傷を負わなかった建物という認識だったそうです。

・・・

それから、工場の歴史や空襲についての展示を見ました。

こんな爆弾が落とされたようです。

ここの工場では、このような飛行機のエンジンを作っていたとのことです。

これは、なんだったか?撮影可と書いてあったので写してきました。
ちなみに、建物の入り口に「撮影可」と書いてあったので、内部はすべて撮影可能です。

工場は戦後、社名変更などしつつも平成5年まで操業が続けられ、空襲の打撃が少なかったこの変電所と給水塔は、戦後も使われ続けていたそうです。

その後、工場が移転しこの一帯は公園となりました。
変電所は壊される予定だったものの、市民グループや元従業員の方々の運動により保存されることとなりました。

給水塔は場所が離れていたため取り壊されましたが、一部分が変電所のそばに保存されています。

・・・

展示を見たあと、2階に上がって行きました。

階段を上がって行くと、まず仮眠室が展示されていました。

2階はこんな感じでした。

配電盤です。

上の写真の一番左の部分に銃弾が当たった痕がありました。

それでも動いていたので使われ続けたようです。

電力の流れの説明がありますが、難しいです。

当時ここから9個の工場に電気が分配されていたらしいです。

壁も破壊されています。

奥の部屋はこんなになっていました。
パンフレットの平面図には油入遮断器と書いてあります。

2階の階段のところの窓から見える公園の風景がとても綺麗です。

正面のデッキから外を見ると、周囲の公園と、南西側には大きなマンションが見えます。

この変電所は、長い年月、時代の流れを見てきたのでしょうね。

南側正面。デッキのコンクリートが破壊されています。

南東方向には外階段があります。

当時は、2階が事務所だったそうで、建物内の階段のほかに、外から直接に出入りできるようにもなっていたそうです。(現在は使用不可)

外から見ると、階段はこのようになっています。

↑建物東側。

↑正面入り口左側に給水塔の一部分が展示。

↑裏側です。 飛行機ではなく鳥が飛んでいました。

東側に慰霊碑がありました。
これができたのは戦後50年のときで、社名が「小松ゼノア(株)」になっていて、その構内に建てられたそうですが、その後この公園内に移設されたそうです。

東側、少し離れたところから。

多くの人に見てもらいたいものだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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