群ようこの「またたび読書録」の中の「ネガティブでドメスティック」を読んだ。
これは「ちぐはぐな身体」(鷲田清和)を読んで、発想をふくらましたものである。
私は、「ちぐはぐな身体」を読んだことがないので、ここに載っている、その抜粋のごく一部しか知らない。
そして私は「ネガティブでドメスティック」を読んで発想を膨らませる。
「ちぐはぐな身体」の抜粋には、「自分の体は、その痛み等は自分にしかわからないので、自分に最も近く自分自身のものだが、自分の後ろ姿や身体の内部は自分で見ることができず、意外に知らない」というようなことが書いてある。
これは同感である。私もこの度「肩関節周囲炎」というものになって、いったい肩関節の中がどうなっているんだ?と思うが、レントゲン写真に映るわけもなく、私自身もお医者さんも、実際のところはわからない。お医者さんは専門家なので、多少は何かわかっているのかもしれないし、私自身は誰よりも痛み具合がわかるけど、痛いだけで、何がどうなっているかわからない。理学療法でマッサージをしてくれる方々は、どこが固いだの凝っているだの、筋肉が細っただの、私以上にわかる部分もあるようだけど、どこを押すとどのくらい痛いかは、私だけにしかわからない。そこで、どうすると痛いです、だのと伝え、情報を総合しようとするが、結局のところ、私の身体についてわかっている者は私自身を含め、誰もいない。
整形外科の病気というのは、体型や骨格に関係している。ストレートネックだと肩コリになってしまうし、なで肩・いかり肩によって筋肉の張り方が違う。骨盤がゆがんでいると腰や膝が痛くなるらしい。筋肉質の人や筋肉のない人によって、症状も違う。
そうなると、持って生まれた体型が病気を決める。
そして、マッサージ師や指圧師の前に投げ出された身体は、もうごまかしようがない。ゆがみもわかるが、贅肉がどれだけついているか、どれだけ短足なのかも一目瞭然である。
「ちぐはぐな身体」には「ファッションって何?」というサブタイトルがついているらしく、身体の怪我や病気のことよりも、服装のことが書かれているらしい。
ファッションも、第一に持って生まれた体型が問題だ。
「ネガティブでドメスティック」な体型とは、「背が低い」「なで肩」「短足」で着物が似合う体系だそうだ。群よう子さんは、それであるそうだ。
そのため、なかなか格好よく着こなせる服がなく、自分で気に入って買ったコートも、あらためて鏡に映して見ると、その服に本来意図されたステキさとはちがうので、人目を気にして、箪笥の中にしまっているそうだ。
わかるわかる。
私はその前に、人目を気にして買うことさえできないだろう。
「人目を気にする」というのは、はたして自分の幸せになるんだろうか。
最近、電車の中ですごく太った若い女性が、ミニスカートやホットパンツ履いていたりする。あんな太い足を丸出しにしなきゃいいのにと、ついつい見てしまう。一方、ものすごくきれいな足を披露している美人もいる。
しかし・・・
「ネガティブでドメスティック」を読んでみて、あの太った女子もミニスカートを履きたくて履いてるんだからいいじゃないか、と思えるようになった。
ファッションは、きれいな足の人だけの特権ではない。どんなに世間の人が変だと思おうと、自分が楽しめればいいのではないか?多少見苦しいからといって、誰も被害をこうむるわけではない。
そして、本人だってそれが似合っていると思っているとも限らないのだ。承知の上なんだろう。むしろ、ミニスカートやホットパンツのほうが、太すぎる足には履きやすいのかもしれない。丈が長いと足の太さが邪魔してしまうのかも?
人には人の事情があるのだ。
服を買いにいくときに、1人で行かない方が良いと言う人がいる。試着した時に、別の人が後ろ姿を見てあげたり、客観的な感想を述べて、買うか買わないかの的確な判断を促すことができるからだそうだ。
以前、その人と買いものに行ったら、安っぽいとか、後ろ姿が変だとか、太って見えるとか、足が短く見えるとか言って、結局買いたい服を買うことができなかった。
それってどうなの?後ろ姿が多少変でも、鏡に映る自分の前姿が気に入れば、それはその人の幸福ではないのかな?
格好良く見えないのは本人にはわかっているのだ。本人が妥協しているんだからそれでいいのではないか。
どんなに他人が似合うとかステキだとか行っても、自分の好きではない服を着ても幸せにはなれない。安っぽいといわれたからって、高級な服を買う金もないし、無理して予算オーバーした服を買ってどうする?
基準の高い人間と買い物をするのは嫌だなと思った。
そうだ、人には人の体型的、金銭的都合がある。自分の好きなようにファッションを楽しみたい。
これは「ちぐはぐな身体」(鷲田清和)を読んで、発想をふくらましたものである。
私は、「ちぐはぐな身体」を読んだことがないので、ここに載っている、その抜粋のごく一部しか知らない。
そして私は「ネガティブでドメスティック」を読んで発想を膨らませる。
「ちぐはぐな身体」の抜粋には、「自分の体は、その痛み等は自分にしかわからないので、自分に最も近く自分自身のものだが、自分の後ろ姿や身体の内部は自分で見ることができず、意外に知らない」というようなことが書いてある。
これは同感である。私もこの度「肩関節周囲炎」というものになって、いったい肩関節の中がどうなっているんだ?と思うが、レントゲン写真に映るわけもなく、私自身もお医者さんも、実際のところはわからない。お医者さんは専門家なので、多少は何かわかっているのかもしれないし、私自身は誰よりも痛み具合がわかるけど、痛いだけで、何がどうなっているかわからない。理学療法でマッサージをしてくれる方々は、どこが固いだの凝っているだの、筋肉が細っただの、私以上にわかる部分もあるようだけど、どこを押すとどのくらい痛いかは、私だけにしかわからない。そこで、どうすると痛いです、だのと伝え、情報を総合しようとするが、結局のところ、私の身体についてわかっている者は私自身を含め、誰もいない。
整形外科の病気というのは、体型や骨格に関係している。ストレートネックだと肩コリになってしまうし、なで肩・いかり肩によって筋肉の張り方が違う。骨盤がゆがんでいると腰や膝が痛くなるらしい。筋肉質の人や筋肉のない人によって、症状も違う。
そうなると、持って生まれた体型が病気を決める。
そして、マッサージ師や指圧師の前に投げ出された身体は、もうごまかしようがない。ゆがみもわかるが、贅肉がどれだけついているか、どれだけ短足なのかも一目瞭然である。
「ちぐはぐな身体」には「ファッションって何?」というサブタイトルがついているらしく、身体の怪我や病気のことよりも、服装のことが書かれているらしい。
ファッションも、第一に持って生まれた体型が問題だ。
「ネガティブでドメスティック」な体型とは、「背が低い」「なで肩」「短足」で着物が似合う体系だそうだ。群よう子さんは、それであるそうだ。
そのため、なかなか格好よく着こなせる服がなく、自分で気に入って買ったコートも、あらためて鏡に映して見ると、その服に本来意図されたステキさとはちがうので、人目を気にして、箪笥の中にしまっているそうだ。
わかるわかる。
私はその前に、人目を気にして買うことさえできないだろう。
「人目を気にする」というのは、はたして自分の幸せになるんだろうか。
最近、電車の中ですごく太った若い女性が、ミニスカートやホットパンツ履いていたりする。あんな太い足を丸出しにしなきゃいいのにと、ついつい見てしまう。一方、ものすごくきれいな足を披露している美人もいる。
しかし・・・
「ネガティブでドメスティック」を読んでみて、あの太った女子もミニスカートを履きたくて履いてるんだからいいじゃないか、と思えるようになった。
ファッションは、きれいな足の人だけの特権ではない。どんなに世間の人が変だと思おうと、自分が楽しめればいいのではないか?多少見苦しいからといって、誰も被害をこうむるわけではない。
そして、本人だってそれが似合っていると思っているとも限らないのだ。承知の上なんだろう。むしろ、ミニスカートやホットパンツのほうが、太すぎる足には履きやすいのかもしれない。丈が長いと足の太さが邪魔してしまうのかも?
人には人の事情があるのだ。
服を買いにいくときに、1人で行かない方が良いと言う人がいる。試着した時に、別の人が後ろ姿を見てあげたり、客観的な感想を述べて、買うか買わないかの的確な判断を促すことができるからだそうだ。
以前、その人と買いものに行ったら、安っぽいとか、後ろ姿が変だとか、太って見えるとか、足が短く見えるとか言って、結局買いたい服を買うことができなかった。
それってどうなの?後ろ姿が多少変でも、鏡に映る自分の前姿が気に入れば、それはその人の幸福ではないのかな?
格好良く見えないのは本人にはわかっているのだ。本人が妥協しているんだからそれでいいのではないか。
どんなに他人が似合うとかステキだとか行っても、自分の好きではない服を着ても幸せにはなれない。安っぽいといわれたからって、高級な服を買う金もないし、無理して予算オーバーした服を買ってどうする?
基準の高い人間と買い物をするのは嫌だなと思った。
そうだ、人には人の体型的、金銭的都合がある。自分の好きなようにファッションを楽しみたい。