久々に昼休みに外食をしてみることにした。
多くの客は1人の人も多く、ただ黙々と食べているだけだから問題はないが、アクリル板の向こうから話し声が聴こえてくる。やはりしゃべる人はしゃべるようだ。マスクをしているのかどうかは不明。
久々に昼休みに外食をしてみることにした。
3月28日のこと、桜を撮影していたら、空に白い帯が見えた。
おや? なんかすごい雲だ。
この日は、まだ桜は満開になっていない木も多かったが、雲といっしょに撮影してみた。
見事なくっきりした帯になっている。
棒のような雲だ。
雲の全体像を見てみると・・・
東のほうから、放射状の帯が広がってこっちに向かってきていた。
普段は、西の空に このような雲が見えることが多いのだが、東からは珍しい。
この日は青空でよかった。
この頃、雲が多くてなかなか青空が見えないので、晴れてくれたらよいなと思う。
もうすでに満開になっているけれど、週末まで散らないでおくれ。
早くも桜が満開になりました。
昼休みに写真を撮ってきました。
その中で、一番きれいに写ったかなと思うアップの写真を載せます。
本当に桜っていうのは、近くで見ても遠くから見てもきれいなものですね~
昨日、昭島のモリタウンの中にあるイトーヨーカドーで食料を買って帰って来た。
昭島へはワダスメモリーの並木を見に行ったのだけど、いくらかでも買い物をすると、駐車場が3時間無料になるからだ。
そこで、買ったのが「長崎ブリュレカステラ」というもので、紙の箱に入ったカステラだと思ったのだが、売り場に、プリンがカステラにくっついてるみたいなことが書いてあったのは記憶している。
それを帰宅してから、テーブルの上に放置してあった。近々おやつにすればよいと思っていたのだ。
そして、今日の夕方になって、じゃあ開けて食べてみようかと思い、開封した。
その時、中からアルミの容器に入った四角いプリンみたいなものが出てきて驚いた。
私は、普通の文明堂のカステラとか長崎カステラみたいなものを想像していたからだ。
箱の裏側を改めて見ると「要冷凍 -18℃以下で保存」と書いてあるではないか!
購入後は冷蔵庫に保管し3日以内に食べるようにとのことである。
それを何と、常温で24時間以上も置いてしまった。
そう言えば、売り場のあれは冷凍庫だったのか。
高さが低くてガラスの蓋などがないショーケースの中に平置きになっていたのだ。
そのそばの別のケースにはサンドイッチやお寿司なども売っていて、いなり寿司とあなご寿司も買ってきた。
どう間違っても常温ではなく、せめて冷蔵だと思っていれば帰宅後に冷蔵庫に入れていたはずなのだが・・・。
本当にボケボケである。
そういえば、だいぶ前にも、豆腐チーズケーキみたいなのを常温保存だと思って何日も食卓のそばに放置しておいたら、食べようとしたとき要冷蔵と気づき、捨てるしかなかったことがあった。
それも豆腐・厚揚げ・がんもどきのようなものと同様に、冷蔵のケースの中に売っていたのだから、要冷蔵に決まっているのに、常温だと思い込んでしまったのは何故だろう?
今日のブリュレカステラは、1日くらいおそらく大丈夫だろうと思い、あわてて1時間くらい冷蔵庫で冷やしてから食べてしまったが、腐ってはいなかったようだ。
ものすごく甘かったし、プリンの部分も一度火が通っているお菓子だから大丈夫だろう。
もう1日置いたら絶対にダメだったと思う。
・・・
お店の売り場のケースは、ネットで調べてみると「平台冷凍オープンケース」というものらしい。
最近は、コンビニのアイスや冷凍食品も、蓋がないケースで空気中に開放されている。
スーパーでは、冷蔵庫と冷凍庫が並んでいると、どっちがどっちかよくわからない。
冷凍は触ったら冷たいからわかりそうなものだが、鈍感なオバサンにはわからないのだった。
そして、昭島から我が家までは1時間半くらいかかるので、一応保冷機能のあるマイバッグに、冷えた缶ビールなどといっしょに入れて来たのであるが、紙の箱の表面が温まってしまったのだろう。
そして、この箱自体が冷凍食品ぽくない雰囲気を醸し出していたのであった。
ブリュレってそういえば、レストランの料理で、デザートを選ぶときに選択肢の中にあったりするものだったな。
焼きプリンみたいなもので、表面がすごく甘いやつである。
私は甘いのが苦手なので、すぐにおせんべいのようなものを食べて中和しなければならない。
そこで、コロナになったときに東京都が送ってくれたダンボール箱(まだ未開封)を開き、柿の種を食べようと考えた。
そうして、開けてみると、なんと柿の種ではなく、不二家のホームパイが4袋入っていたのであった。
ダンボールの自宅療養用食料は、夫と私の分2セットを送ってくれたのだが、療養中に開けたひとつは柿の種4袋(小袋6個入り)が入っていて、第一にそれを食した。
もう一つのほうのセットも同じものが入っていると思いこんでいたら、こっちは違った。夫はきっとホームパイが好きだから、これから喜んで食べると思うが、私は柿の種のほうが好きだ。
それで、ブリュレカステラの甘さの中和剤が無くて残念だった。
昭島のワダズメモリー並木です。
先週見に行ったときに、まだ満開になっていなかったので、今日また見に行ってきました。
ほぼ満開になっていました。
つぼみもまだありますが、早く咲き始めた木は、花びらが落ち始めているのもありました。
今日は、ちょっと雲が多く、写真に写すと白い花がまるで雪が積もっているかのように見えます。
青空だったら、また雰囲気がずっと明るかったかもしれず、ちょっと残念です。
それにしても、私はこの並木がとても気に入っているのです。
アウトドアビレッジの前あたりの並木は、花つきが見事です。
それにワダスメモリーという木は本当に樹形がきれいですね。
なんと美しい姿なのでしょう。
↑ こちらは、フォレストイン昭和館のほうの道ですが、先週みたときにまだ花が全然咲いていないなと思ったところ、今日も花がとても少ないので、よく見てみると、つぼみさえもついていない木がたくさんありました。
かろうじて見栄えのするところを撮影してみましたが、なぜ花がついていないのか心配です。
木が弱っているのか、それとも剪定の問題なのかわかりません。
ふたたびアウトドアビレッジの方に戻りました。
ふんわりふさふさです。
このあたりから、走っている車を入れて撮ってみることにしました。
なるべく、きれいな色の車がいいかな~
これは最初に載せた写真ですが、今回の代表作としました。
きれいに並ぶ木たち。この辺は早く咲く始めたので、だんだん花びらが落ち始めています。
「ワダズメモリー」と書いてありますが、一般には「ワダスメモリー」と言われているようです。
タムシバの園芸品種。
花は葉が出る前に咲き、白色の大輪で芳香があります。
若木のうちから開花します。 モクレン科
と書いてあります。
このへんを歩いていると、本当に花の匂いがします。
数年前、初めてここにやってきたときに、何かお菓子の香料のような匂いがすると思ったのですが、
やはりこの花の香りで、今回も匂いました。
あまりこの花を求めてやってくる人はいないようなのですが、
私はワダスメモリーの魅力に惹きつけられています。
この花の並木は、他にはあまり見つかりませんが、もっと増えてくれたらいいなと思います。
駅の近くに来ると、残念ながら花が少なく、そして樹形がおかしいと思ったら、枝がかなり剪定されてしまっていました。
道路側に伸びすぎると車のじゃまになってしまうので、切らないといけないのでしょうけど、本当に残念です。
こういう街路樹はかなり土地に余裕を持って植えないとせっかくの良さが失われてしまいますね。
日本は狭いから難しいのかもしれません。
そして、とてもきれいな樹形なので、新緑の季節になったらまた緑の葉におおわれた並木も素敵かもしれないなと思いました。
今度は夏に来てみましょう。
先週、返却を大幅に超過していた3冊の本(結局読まなかった)を図書館に返しに行き、代わりに1冊の本を借りて来た。
それはたまたま書棚の中に目に留まった「巴里に死す」だった。
その書棚は日本の小説家の棚で、そこがたまたま芹沢光治良のところだったのだろう。隣には「人間の運命」がずらりと並んでいた。
そこで、思わず高校時代のことを思い出し、「巴里に死す」を手に取った。
なぜか迷いもなくそれを1冊だけ借りてきた。
普通だったら他にも何か本を探して3冊くらいは借りてくる。
・・・
私は、いつになくスムーズに「巴里に死す」を読み進んだ。(ふつうはすぐに挫折する)
そうして、数日前、このブログに、芹沢光治良の作品と高校時代の思い出について書いたところだ。
それは、卒業というテーマに対して、高校時代のことが記憶によみがえってきたからであった。
・・・
私は昨夜「巴里に死す」を読み終えた。
小説は読み終えたが、そのあと付録・あとがき・解説などがたくさんついていて、そちらはまだ途中である。ページにすると本の4分の1くらいだが、文字が小さく詰まっているので、もしかしたら小説本体くらいの量があるのかもしれない。
大江健三郎の解説のところにきて、あまりに長そうなので一旦止まり、最後の年譜を眺めていた。
芹沢光治良と言う人は、いつまで生きていたのだろうか?
1993年(平成5年)3月23日。老衰のため96歳で亡くなったということがわかった。
!!!
偶然にも、私がこのブログに芹沢光治良のことを書いた日は3月23日であった。
私はその時、この日が命日であるとは全く知らなかった。
このような偶然が、私には多すぎるのである。
・・・
ついでにわかったことは、私の高校時代には芹沢光治良氏は全く健在の現代作家だったということだ。
そして、思い出したのは、この人が静岡県沼津の人だったということだ。
私は沼津の出身ではないが同じ静岡県出身であるので身近に感じる。
そして、芹沢光治良について関心を持ったのは、高校の演劇部の顧問の先生の影響だ。この先生はどこの出身だったのか記憶がないが、私の地元の人ではなく、アパートを借りて一人暮らしをされていたのだった。
しかし、おそらく静岡県内のどこかの出身だったのだろう。それで、県立高校に赴任してきたということだ。先生も芹沢光治良が沼津の人であるということで読んでいたのかもしれないなと思った。
先週の日曜日に昭島を歩いて見たことの記録です。
昭島駅前の通りを北に進んで、そこから左に曲がりクリタ開発センターや昭和飛行機の前の道路を西に向かって進んで行きました。
目的地は昭島市のエコパークというところです。ここは2月に梅が咲いているとのことで、車で行ってみようと思った場所なのですが、駐車場がどんな感じか不明だったので、あきらめたところでした。
どうやら歩いていけそうだと思い、西に向かって突き当たったら北に向いて歩いていけばいいんだと考えたのですが、やはり歩くと結構な距離でした。
多摩川上水を渡ると、湯楽の里という温泉施設があり、それから何かの線路の踏切があり、さらに進むとやっとエコパークがあったように記憶しています。
まず、発見したのが「昭島市環境コミュニケーションセンター」でした。ここに公園の駐車場があるのかなあとグーグルマップなどで2月に観察してみたのですが、不明だったのです。
日曜日でも門は空いていますが、ここから入る気配はありません。
近くにこんな石碑がありました。
「「堀向」と言われるこの地は昭和10年代後半(1940年頃)における飛行機製造会社の社宅建設を契機に発展し、一帯は一大住宅街となり商店街もできました。
しかし、米軍横田基地の航空機騒音のため昭和40年(1965年)頃から「集団移転」等を余儀なくされ、570戸といわれる多くの住民がこの地を離れました。
それから40年以上の時を経た今、本施設開設にあたり、この地の歴史をここにきざみます。
平成3年(2011年)3月 昭島市 」
と記されています。飛行機製造会社というのは昭和飛行機のことでしょうか?
このへんを歩いていて、休日だからか飛行機の騒音は特に聴こえませんが、小型飛行機が低空真上を飛んでいくのは何度も見ました。
ここに昔は人々がたくさん住んでいたのか、と驚きました。集団移転してからずっと何もなかったみたいで、10年くらい前にこれができたようです。
私の持っている道路地図帳は、10年以上前のものなので、このへんのものは載っていません。
それから交差点に差し掛かり左に曲がると別の入り口がありました。こちらも環境コミュニケーションセンターの出入り口ですが、ここから粗大ごみなどを持ち込めるようになっているようでした。
さらにすすむと、エコパークの駐車場がありました。↓
公園利用者はここに無料で駐車できるようです。日曜の午後ですがまだ空きはありましたので、私でも大丈夫そうでした。
さらに進むと、公園がありました。写真の左側にはドッグランもあり犬たちが遊んでいました。
こじんまりした公園で、あまり人もいないので、駐車場は満車にはならないようです。
梅の花が咲いていた形跡はあるかな?と思ってみると、梅ではなく寒緋桜のようなものが咲いていました。
多くは濃いピンクですが、ちょっと薄いのが2本くらいあり、こちらのほうが先に咲いていたようです。
家族連れなどは、遊んでいました。
2月にグーグルマップで観察していたときに、もう1つ駐車場があるように見えたのでそっちに行ってみました。
こちらのほうはスポーツ施設になっているようです。
そして、こっちにも駐車場があり、こちらも空きがありました。
私の関心事は、もしこれらの駐車場が満車の場合は、この前面道路が通り抜けられるのだろうか?ということでした。それが恐ろしくていきなり車で現地に来ることができないのです。
地図ではこの道路の先は玉川上水で行き止まりになっているかのように見え、そのまま進めるのかどうなのかわかりませんでした。
道路は突き当たって右に進むと、左側に上の写真のような橋があり、この橋を渡るとT字路になっていました。
左は通学路で狭いようでしたが、ここを行けば元の道にでたのかもしれません。
右に進むとまた左に曲がる道路があり、そちらは広いようなのでそちらに歩いて行きました。
この道路が南に向かっているので、そこから西武線の線路下を通って進み、その後左に進むと昭島駅のほうに戻れることがわかりました。
上の写真の橋の下は、下の写真のように玉川上水になっています。
自然が残っていていい感じです。
車で来ても大丈夫なことは分かったのですが、わざわざもう一度車で来て見るほどのところでもないようです。
むしろ、来る途中で発見した「湯楽の里」という温泉施設に行ってみようかと思いました。こちらには駐車場も完備されていて、たくさんの車がとまっていました。
娘が帰ったので臨時に出していた布団を今日になって片づけた。
布団は夫の部屋の押し入れに収納してあったのだが、臨時の布団を出し入れするときに、そのがあまりにもめちゃくちゃなのに驚いた。
布団の間に、ハンガーにかかったままの夫の服が積み上げられてつぶれているではないか。
パジャマや部屋着みたいなものはそもそもハンガーにかける必要もないものではあるが、まあそんなところに積みあがっていても支障はない。
それに対して、ワイシャツや、ベルトが通ったままのズボン等、これは前職で使っていたものだろうから3年以上は前のもので、今後使う予定もなさそうだが、あまりにもひどい状況。
先日、何でこんなになってるんだ?と聞いたら、ぶら下げる場所が無くなったからだと言っていた。
その他に、オーディオ関係のわけのわからない重いものの入った箱や袋も布団のスペースの方に進出してきていて、布団を取り出すのに苦労したのだ。
押入れの半分が夫の道楽のための物品で溢れかえっているが、布団を取り出そうとするとそれらが崩れ落ちてくるのである。
今日は、娘の使った布団を収納するついでに、押入れの中の布団やカバー類を整頓して入れ直し、古いカバーなどは廃棄することにしたが、全部の布団を一旦取り出して、きれいにたたんで、カバーなどをかけ直したりしていたら、心臓はドキドキしてくるし、腕は筋肉痛になるし、並でない体力の消耗なのである。
この頃、心臓が以前のように脈が飛ぶのではなく、走った後のように早く打つことが多くなったような気がする。これはコロナ後遺症なのか?それとも運動不足のせいなのか?老化のせいなのか?
布団の在庫を調べてみると、今夫婦で使っているもの以外には、冬掛けは1枚しかなく、敷布団3枚にマットレス2枚と敷くものばかりが多い。
あとは長方形のこたつ布団があり、これは大きいので掛け布団の代わりにはなるが、これはたぶん使うことはない。
掛け布団は以前古いのを廃棄(まだベランダに・・・)したので減ったのだが、マットレスは夫が数年おきに買い替えて古いのが溜まっていく。へたると腰が痛くなるのだとか。
それらも捨てたいところだ。だいたい狭小住宅なので、せいぜいあと1枚くらいしか敷くところがないのだから。
1つのマットは重くてブルンブルンしているので、本当に運ぶのが大変である。
ハンガーにかかったまま放り込まれていた夫の服は外して畳んだものの、とりあえず、また押入れの布団の上に置いておくことにした。
もう知らん。
今日は、車でイオンにでも行こうかと思っていたが、こんなことをしていて時間が過ぎてしまい、肩こりと腕の筋肉痛が激しいので、外出はやめようかと思う。
そもそも車でイオンに行かないといけない用事などは何もないのだから。
天気もイマイチだし、今日はまた本でも読むかな。
あとは、食器洗いくらいだな。
一昨日の夜、また娘が早朝出勤のために我が家に宿泊していきました。今回も4時起きで5時の電車に乗りました。今年の早朝出勤はこれで終わりだそうで、もう来年までは泊まりに来ない予定です。
ただし、また同居人などがコロナに感染したり濃厚接触者になった場合は避難してくる可能性もありますが、早朝出勤ではないので朝はゆっくりです。
昨日は、娘に合わせて私も4時に起きると、その後はやはり眠くなってしまい、仕事が休みだったので、午前中に2度寝してしまいました。それから、昼にラーメンを作って夫と食べたら、午後もまた急に眠くなってしまい昼寝をしてしまいました。
目を覚ますと夜の7時半で驚き、急いで肉野菜炒めを作って間に合わせました。
どんだけ寝たら眠気が消えるのだろうか?
昨夜は昼寝をし過ぎたこともあり、夜は本を読んでいて2時頃寝ましたが、今朝は夫出勤のため、私は6時過ぎに置きました。睡眠時間は4時間くらいなので、やはりもう眠くなってきました。
かといって、ここで二度寝するとまた昼まで寝てしまいそうです。
いったいどうしたら良いのだろうか
眠い眠い・・・
私の人生のうち、一番楽しかった学校生活は高校だった。
高校では、演劇部にいた。演劇部で親友もできた。演劇があったから高校が楽しかったのだろう。
演劇は総合芸術である。高校生のころ文学にも目覚めた。その当時は読書もよくした。
演劇部の顧問は、大学を卒業したばかりの新任の女性の先生だった。私たちと7~8歳くらいしか違わないのだ。
その先生は現国の先生だったかな?古文の先生だったかな?授業でも教わったように記憶している。
演劇をしている人間である私たちは、一種の「あくどさ」や「野蛮さ」があると感じていた。
しかし、この先生にはそういうものがいっさいなく、「灰汁」が足りないのだった。
演劇をするタイプの人間ではないね、と思っていた。
それは悪い意味ではなく、何の嫌味もない先生で、顧問として私たちをよくサポートしてくれた。
先生は、ものすごい偏差値の高い国立大学を出ていた。その受験科目の多さにびっくりして、相当優秀なんだなと思ったけど、先生は和やかでやさしく謙虚であり、プライドの高さなどはみじんも感じさせなかった。容姿もそこそこきれいだった。
卒業式の日は、参列して一連の内容が進んで行ったが、特に悲しくはなかった。
そうして退場するときに、この先生の姿が目に入った。なぜか急に涙があふれてきた。
私たち卒業生は、胸にピンクの造花をつけていた。
今でも記憶に残る一瞬。
胸にピンクの造花を付けた自分が、演劇部の顧問の若い女性教師に見送られて、胸が熱くなった。
それは演劇部の仲間もみんな同じ思いだし、先生にとっても初めての教え子だったんだということを実感した。
普段は何も感じなかったのに、そこで初めて、先生と自分たちの絆を感じたのだった。
・・・
今、私は「巴里に死す」という小説を読んでいる。
この作者は芹沢光治良である。「巴里に死す」という題名は、なぜかあまりにも有名だと思っているが、その内容については知らなかった。この題名を知ったのは高校時代に違いない。
そして、演劇部の顧問のその先生は、当時「人間の運命」を読んでいた。
これは10巻くらいあったような気がする。おそらく先生は全部読んだのだろう。
私も真似して読み始めたが、たぶん2~3冊くらいで挫折したような気がする。
これを今から読んでみるかな?
「巴里に死す」についてみていたら舞台は1920年代のパリの話だそうだ。
なんと、今から100年も前のことだ。書かれたのは1943年だそうだ。
手記には主人公の心理が書かれていて、ああそういえば、高校の頃は、こういう心理描写みたいな文が好きだったなと思い出した。
恋愛は精神を高めるものでなくてはならず、人は常に向上心を持たなくてはならない、と若いころは想っていた。
しかし、今は、向上心などみじんもなく、何かおいしいものを食べたいとか、楽しいことはないかとか、そんなことばかり考えて生きている。
病気をしないで長生きしたいとか、安全に暮らしたいとか、そういうことを求め、精神の向上などはどこかに忘れ去ってしまっていたのだ。
日常にまみれ、ただ生きてるだけのオバサン(ばばあ)になってしまった。
先生はどうしているかな?もう70歳に近いかな?
先生は、私たちの卒業後まもなく教師を辞めて結婚されたそうである。お子さんもいる。
ご主人の転勤で海外で暮らしたりもしたそうだ。
この小説が書かれたのは今から80年も前だが、私が高校生の頃はまだ33年くらいしか経っていなかった。
「人間の運命」だって、当時はそんなに古い長編小説ではなかったはずだ。書かれてから10年も経ってなかったようだ。
今、あのころ読みそびれた本を読み始めるなら、半世紀も元に戻って、高校時代からやり直すって感じである。
昨日、久々に昭島のモリタウンから近隣地域を歩いてみたところ、以前空き地だったところに大きなビルが建っているのが見えました。あれは何なんだろうと近づいてみることにしました。
近付いてみると、この道路の両側に、同じようなデザインの建物が建ち、その建物と建物が道路の上の空中建物通路でつながっています。(その様子の画像は撮りそびれてしましました。)
まずは、右側の大きな建物です。↓
この建物が何物かを見てみると、「KURITA」と書いてありました。
この建物を取り巻いている管のようなものは何なんだろう?と思いました。
どう見ても「水道管?」に見えます。
これはデザインなのかな?それにしても不思議です。
道路の上を渡り廊下でつながっている左側にある建物が下の画像です。
建物の中には、なにやら色々な機械設備が並んでいます。やはり配管などが多いです。
こちらの建物の周囲も配管のような管が取り巻いています。
別の角度から見ると、上の画像のような姿です。
周囲を取り巻いてる管は、拡大するとやはり水道管のようですね。
帰宅してからこの会社について調べてみました。
wikiによれば、以下の通り。
「 栗田工業株式会社(くりたこうぎょう、英: Kurita Water Industries Ltd.)は、東京都中野区に本社を置く、半導体や液晶などの製造に欠かせない超純水を製造する水処理装置・水処理薬品の製造・開発を行なう企業である。水処理専業としては国内最大手。東証一部上場。」
なるほど、やはり周囲の管は水道管(水管というべきか?)だったのですね。
それから、この昭島のことについて調べてみると、新たな研究開発拠点として昭島に「新開発センター」が開設されるということでした。
これまでは、栃木県下都賀郡に「クリタ開発センター」があったそうですが、老朽化のためそちらを廃止し、昭島に移転するとのことで、最新鋭の設備や分析機器類を有する開発環境の整備するものだそうです。建設費用は300億円だそうです。
この建物の存在感もすごいものですが、さすがに水処理などを手掛ける大きな会社なのですね。
昭島というところは、駅前は人々が買い物をしたり楽しんだりする商業娯楽スペースになっていて、アウトドア的な自然の風合いっぽい雰囲気のものが多いと感じますが、そこから西に進むと、このあたりは他にも企業の大きなビルがいくつも建っていて目立ちます。
このへん一帯は工業地域なのでしょうか?ちょっと離れたところにマンションは見えますが、一戸建てなどは無く住宅地域ではありません。
クリタ工業の隣が昭和飛行機、その他に東京システム運輸・旬菜デリ・IHI等いろいろな企業の建物があり、また違った空気を醸し出していました。
昨日、自宅近所でモクレンが咲いていたので、昭島のワダスメモリーの並木を思い出しました。
そういえば、そろそろ咲く時期ではないでしょうか?
それで、今日、昭島に様子を見に行ってみました。
まだ、ちょっと早かったようです。たくさん咲いている木でも上の写真くらいでした。
これが満開になると真っ白できれいですね。すべての木に、つぼみがたくさんついていました。
ワダスメモリーというのは、コブシとタムシバの自然交雑種で、和田さんの苗場で生まれた品種なのだそうです。
ここの木に札がかかっていて、私は昨年まで「タムシバ」がこの木の名前だと思っていました。
ワダスメモリーが木の種類とは思っていなくて、何かの記念にここに並木を作って、その名前なのかと思いこんでいたのです。
今日、初めて「ワダスメモリー」というのが木の種類の名前であることを知りました。
しかも、以前は「ワタズメモリー」だと思い込んでいたのでした。
ワダスメモリーという木は、樹形が整ってきれいなのだそうです。たしかに、一つ一つがきれいですね。
花の1つ1つは、そんなにきれいではありませんので、その点やはり桜には負けるのでしょうか。
それでも、昭島のワダスメモリーは見に行く価値があると私は思っているのです。
また、来週行ってみようかと思います。
追記:3/23
ここの木についている札は「ワダズメモリー」となっていたようです。
しかし、ネットで検索すると、この木の名前は一般に「ワダスメモリー」と言うようです。
Sをスと発音するのかズと発音するのかわかりません。
「ワダ」はとにかく「和田」だということを知ったので、覚えやすくなりました。
今朝の娘は、昨日より1時間遅く5時40分ころ出勤していきました。
これで、今夜は職場から自宅に帰るそうで、荷物をまとめて持って行きました。
しかし、明日も仕事です。2週間くらい休みがないようです。
来週も早朝出勤のため、一晩泊まりに来るそうです。
仕事がんばっているようですが、とにかく健康だけは気を付けてもらいたいものだと思います。
・・・
娘が出勤した1時間後の6時45分頃、夫が出勤していきました。
その後、私はアタマが痛くなってきたので、再び寝ることにしました。睡眠不足です。
2度寝して起きたら10時を過ぎていました。
・・・
なかなか出かけられないものです。
今日もまた遠くへは行けず、ちょい乗りで、今週は2回運転して30kmというところ。
明日は、どこかへドライブしたいと思います。
・・・
今日は、自転車で近所の公園に行ってきました。
色々な花が咲いていました。
特にモクレンが満開でした。チューリップみたいな花がいっぱい咲いていました。
こんなのですが、なんかあんまり良い写真がないので、残念です。いっぱい撮ったのですが、いまいちでした。
桜も咲き始めていました。
その他にも色々な木や花を撮ってきたのですが、あまり良い画像がありません。
・・・
明日で彼岸のお休みもの終わりです。
週末はあまり有意義な時間を過ごせなかったので、明日こそは時間を有効に使いたいものです。
さて、お風呂に入って寝よう。
ちなみに、先日の震度4の地震の時にはお風呂で髪の毛を染めている最中で、アタマにヘアマニキュアをつけて湯船に浸かっていましたが、急に逃げることもできず、ユニットバスの中ならかえって倒れるものもなく安全だろうと、そのまま湯の中で温まっていました。
すると2度目の揺れがぐらぐらと長く続き、風呂の湯がゆさゆさ波打って、船酔いしそうになりました。
そのまま時を過ごし、その後普通に髪の毛を洗って出てきました。
夜遅くお風呂に入るのも問題かもしれませんが、早く入ったからって、その時間に地震が来れば同じことですね。
今年は、相変わらずのコロナに、地震に、そして戦争まで起きてしまいました。
戦争が一番いやだなと思います。自然災害なら誰も恨まないけど、人が人を殺すなんて最悪です。
今年は様子がおかしいです。何か変な力がはたらいているみたいです。
早くこんな状況から脱したい。
外は花が咲き乱れ、春がやってきているというのに、人間社会はわけのわからないことばかり。
うちにはJTBの旅行券がある。もう何年も前にもらったものなので、早く使いたいのだが、コロナ禍の世界になってしまって、なかなか使えないままになっている。
この度、私たち夫婦は新型コロナに罹患したので、自然免疫もつき旅行にでも申し込もうかと考えた。
自然感染して治癒した場合は、3回目のワクチンを接種したのとほぼ同じ状況、いやそれ以上に人との感染リスクはないと考えてよいだろう。
ところが、旅行申し込みサイトを見ると、ワクチン検査パッケージというものの条件が載っていて、それによると、2回のワクチンを打ってから2週間が経過していることというのが条件である。
今や、多くの人が3回目のワクチンを打っており、2回打っただけでは半年以上も経っているので、全く関係なさそうである。それでも2回で良いのならば、ワクチン履歴を見せればよいので、それでOKであろう。(いずれはブースター接種が条件になりそうだ。)
昨年夏のワクチンなんか意味がなさそうだけど、それで良けりゃ問題ない。
しかし、旅行参加の条件にはもう一つ、PCR検査か抗原検査で陰性というのが書いてある。こちらの方も同時にクリアしないといけないのだろうか?
読んでみると、こちらは出発前に個人で自費で検査を受けなくてはいけないそうだ。その場合、自分で検査してくれるところを探さないといけないらしい。
そこで、ちょっと探してみたのだが、そのへんのクリニックで受けるとPCR検査は2万円はするみたいなのである。
これでは、旅行費以外に莫大な金額がかかってしまい、あまりにも不経済である。検査にこんな費用がかかるのではパッケージ旅行には行けない。
(ちなみに、先日の東京マラソン参加者は、全員がPCR検査陰性だとテレビで言っていたが、みんな2万円もかけて検査してたのかな?)
もしかして、2000円くらいの抗原検査キットみたいなので、自宅で検査するのなんかでも良いのだろうか?
そのあたりがわからないし、ワクチンと検査の両方必要なのか、片方でいいのか、また感染した人の場合はどうなのか?そんなことを質問したいと思い、問い合わせ電話番号を探してみた。
そうしたら、電話の受付は平日の9時半から5時半までなのだそうだ。
な、なんと、旅行会社がお役所のような営業時間である。
普通、交通機関や宿泊業など観光に関連する会社は休日もやっているのではないだろうか?
こちらも平日の昼間なんかは仕事をしているのでなかなか問い合わせる暇はない。
ワクチンや検査が必要なのは、JTBのみならず他の旅行会社も同じなのか、調べてはいない。
自力で勝手に電車と宿を取り観光すれば良いのだろうが、現地の交通網や土地勘がないのでなかなか大変なので、パッケージ旅行に参加して連れてってもらえるのがいいなと思っている。
JTBの金券があるから、他の会社ではなく、どうしてもJTBでしか使えないし、困ったことだ。
これまでも、デルタが消えたタイミングなどで何度もJTBで参加できるものを探したことがあるのだが、いつも頓挫してしまっている。
これはというような旅行の催行状況を見てみると、催行中止が並んでいるが、やはりPCR検査が必要との条件をクリアしてまで申し込む人が居ないのでは?と思う。
保健所などの見解でも、一度感染したからといって抗体ができたから安心とは認めてくれず、さらにステルスオミクロンやデルタクロンなどの変異種に感染する可能性があるので、罹患した人と罹患していない人の対応の差はないということで、相変わらず手の消毒やマスクなどもしっかりせよとのことであった。
オミクロンに感染した人でも、なぜか3か月後には武漢株に対応したブースター接種をして、さらに抗体価を上げなくてはならないとか、まるでわけがわからない。感染した場合は、治癒後ワクチンを1か月くらいは延期するという、ワクチン日程基準優先。ワクチン様様。
感染した人間にワクチンなんかもう不要だろ~~~
武漢型ワクチンはオミクロンに対しては効果が下がると言いながら、実際にオミクロンに感染した人に対して、さらに旧式武漢型のワクチンを打つってどういうことだ?
ワクチンを何度打っても感染するし、人にも感染させるし、実際にコロナに感染してもまた別の変異に感染するのだから、何をやっても意味がないということか。
直前の2万円(+初診料2000円)もするPCR検査だけが意味があるとでもいうのだろうか?
PCR検査が必須だったら、そんなお金はないので諦める。
今日も旅行計画で午前中を費やしたが、JTBでなんとか参加したいコースがみつかりかけたものの、陰性証明等の参加資格についてはっきりわからず、問い合わせもできず、悶々とした気分が立ち込めただけで終わってしまった。この3日間も問いあわせ不能で火曜日にならないとダメだ。うんざりする。
そこで、ブログに書いて憂さを晴らし、これから午後の行動を考えることにする。
・・・
追記
その後、ワクチン検査パッケージについての法律みたいなのを調べてみたら
「ワクチン又は陰性証明」ということで、どちらか一方でOKということがわかった。
今のところ、2回のワクチン証明のままになっているみたいだから、うちはそれで行けるが、2回のワクチン後半年もしないうちに感染発病している私たちの例からも、昨年の2回のワクチン履歴を旅行参加資格にする科学的根拠は全くないことは明白である。
だから、もうこんなもんどれもこれも要らないだろう。
無症状で発病してない人なら旅行に行かせてくれたっていいだろうにと思うわけだ。
国は単に国民にワクチンを3回も4回も打たせたいだけなんだろうよ。
私は2回目のワクチン後に不整脈になり、それが半年続いて今は治っているので、もう2度とワクチンは受ける気はない。
ワクチン打つか、高額PCR受けるかって、それが旅行の条件かって、いいかげんにしてくれ。
数日前、10代未満の基礎疾患のない子どもが新型コロナで亡くなったというニュースがあった。
テレビの報道では、その内容はごく大雑把なものであり、印象としては、
“基礎疾患のない子どもでもコロナが重症化して亡くなる”
“これは第一例目だが、子どもにコロナが感染拡大している状況下では、今後増えていく可能性が高い”
だから、 “今勧めているワクチンを急いで打った方が良い”
という方向へ導くかのようなものだった。
しかし、その詳細についての説明をyoutubeで見て驚いた。
【コレが真実!】基礎疾患のない「10代未満の未就学児」・・これでコロナで亡くなったと言えるのか?非常に疑問
「10歳未満の未就園児」という発表はなんなんだろうか? 幼児なのかな?と漠然と思っていたら、10か月の赤ちゃんだそうだ。せめて「1歳未満の乳児」くらいの報道があってもよかろう。
そして、1度熱が出て下がっていたが、数日後に呼吸がゼイゼイしているので、医療にかかったもののその直後に亡くなったなどと言われていたが、
保健所に連絡してもなかなか医療を紹介してもらえず、やっと診察してもらい薬をもらって自宅に帰ったが悪化し、再度診てもらおうとしたら土曜日なので他の病院へ行ってくれと言われ、別の病院を探して行ったときにはもう手遅れだったということである。
これは、手を尽くして治療したが病気の悪化が食い止められなかったというものではなく、あきらかに適切な医療を受けることが出来なかった結果、病気を悪化させてしまったという状況で、人災である。
普通の風邪だって肺炎を起こす赤ちゃんはいるし、そういう場合は入院して治療を受ける必要がある。
私も0歳のときに、ただの風邪で肺炎になり入院したことがあるし、私の孫も生まれてすぐ風邪をひき母親が付き添ってしばらく入院していたことがあった。
赤ちゃんが肺炎を起こすことは多く、普通はすぐに入院させるはずである。
もしコロナが2類でなければ、普通に処置してもらえたはずだ。
母親も新型コロナに感染していたというので、母子一緒に小児病棟の個室に入院できたらよかっただろう。
テレビで放送すべきは、このような小児のコロナ対応の欠如の実態を示し、今後どうしたら改善できるかを世に訴えることだと思うが、そのような報道は見たこともない。
この頃のテレビニュースは、知るべき事実がきちんと伝えられていないし本当におかしい。
何か闇の力が働いているようである。