山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

旅行ガイドブックについて

2024-10-17 18:22:06 | 読書

「東京の流儀」について書くのはいよいよこれでおしまいです。

最後は「ガイドブック」について書かれていました。福田和也氏は、日本の旅行ガイドブックは、飲食店や土産物のことばかり載っていて肝心な現地のことが紹介されていないと述べています。

これは全く同感です。

福田氏が言うには、海外のガイドブックは、ショッピング情報などはほとんど載っていなくて、その観光地の歴史などがしっかり記載されているとのことです。

外国人が作ったガイドブックはそうなのですが、日本人が作ったガイドブックはショッピング情報誌みたいになってしまい、読むところが何もないようなものになっている。

それはそれを利用する日本国民がそういうものを求めているからでもあるのだろうとのこと。

私は日本の出版社の作ったガイドブックしか見たことがないし、海外にもほとんど行かないので、最近は日本の観光地のガイドブックしか買ったことがないのですが、まったくショッピング情報しか載っていないのでがっかりします。

肝心な歴史的な見学場所については、ほんのわずかしか載っていません。

あとは美味しい食べ物の写真やそのお店ばかりがならんでいます。土産物もそうです。

それからテーマパークみたいな、後でできた商業施設的行楽地に関しては大きく取り上げられています。一昨年行った北海道のガイドブックがそんな感じでした。

これがなぜかと考えたことがあるのですが、結局、ガイドブックって商業施設の広告にしか過ぎないんだと思うのです。広告のページではないにしろ、なんかお金でももらっているんやないでしょうか?本の購入者から得られる書籍代よりも、記事にした商業施設からお金が流れてるんじゃなかろうかと思うほどです。今時、あんまり本も売れないですが、そうなっていれば売れなくても元は取れるし、そして最近は旅行のガイドブックに商業施設のクーポンなんかが付いているみたいですね。

まったく、中身の空っぽの日本人と日本人社会ですよね。

このあいだ、山形駅の周辺を観光したんですが、山形城と博物館と最上義光歴史館と旧山形県庁舎はすばらしいんですよ。そしてこれがほぼ無料なんですね。博物館だけ有料でしたけどすごく安いです。これらについては、パンフレットなどに、なぜかあまり詳しい案内がありません。結局、観光客が見学しても収入にはならないんでしょう。

一方、七日町の「御殿堰」や十日町の「紅の藏」は、なんかとても楽し気な観光スポットとして紹介されていました。でも行ってみたら、ただの商業施設だったんですね。

ランチを食べるという目的は達成できましたけど、それ以上にあちこちで飲食をする必要はないし、土産物を買う必要もなかったので、立ち寄る意味がありません。ただ小ぎれいに整備されて、それらしき雰囲気にこしらえてるっていうだけの場所なのです。でも、こういうところに観光客を呼び込まないと、収益があげられないのでしょう。

いやいや、山形城や旧県庁舎や最上義光歴史館は、見学料を払っても充分な価値があるものでした。でも、あれは税金で成り立っているっていうわけか。

まあ、そんなわけで、日本という国は、中身の空っぽな商業主義で成り立っている社会なのでしょう。

ただ、福田和也氏は、日本のガイドブックに折り込み地図が付いているのは不要だって書いてあったんですが、私は地図は大歓迎です。ガイドブックについている地図は本当に重宝します。グルメの記事なんかはあまり見なくても地図はよく利用します。

それについては、日本人の作るガイドブックは気が利いてるなと思いました。

福田和也氏は先月お亡くなりになってしまったんですが。最近のクーポンだのポイントだのってものに支配されているお店については、きっと嘆いていたんじゃないかと思います。

本当に価値のあるものを見極めて、きちんと対価を払って、目先の損得に振り回されることなく、落ち着いて生活したいものです。

コメント

「東京の流儀」読中感

2024-10-16 21:16:54 | 読書

本を読み始めても、だいたい途中で投げ出してしまう私ですが「東京の流儀」はもう少しで読み終わります。先週は帰省の行き帰りに電車の中でも読みました。ざっと読み飛ばしていたので、途中で思ったことも書かずに進みました。

そこで、全体的に感じたことを書きたいと思います。最初に感じたように、この人は私とほぼ同じ年齢であり、しかもこの本は20年くらい前に書かれたものですから、40代の人間が書いたものなのに、妙に老成しているのです。

それゆえ、この人が保守派の論客と言われている理由がわかります。変化を好まない、昔ながらのものを愛する傾向なのでしょう。

その中で、新しい店が出来たら早速行ってみるとか、そういうことはしない方が良いというようなことが書いてありました。

人間も中年くらいになると、だいたいどの店が良い店なのか知っており、自分のお気に入りの行きつけの店というのがある。それはもう変化しない定着した安定した価値観の持てるお店なので、いまさら新しい未知の店ができたから行ってみようなんてのは、彼にとっては、ミーハーのやることなのでしょう。

それを考えると、私は今になって、色々な店に行ってみようと思うようになったばかりで、ずいぶんミーハーになったもんだと思います。むしろ子育てをしていたころは、そんなことをしていられないので、近くにあるファミレスみたいなお店にしか行かなかったのです。

自分で自由に動けるようになったのが、もう60代に近くなってからなんじゃないでしょうか。それでも、いまさら老舗みたいなところへは踏み込めないので、ちょっとしゃれたファミレス系カフェくらいしか行けません。寿司屋も洋食も和食も、すかいらーくグループばかりですね。あとはせいぜい星乃珈琲くらいです。

やっぱり、人間の程度が違うんでしょうね。食器も安物だし、伝統的に価値のあるものってのを、一生使わずに終わるのかな。

福田和也氏は、老舗の理容室で髪を切り、昭和天皇と同じメガネ屋でメガネを作り、そういうものにあこがれたのかな。それが保守派と言われる理由でしょう。
一方、多くの人は、古めかしい物よりも新しいものを求めるような気がします。

でも、確かに古くからずっと続いているものの良さっていうのは、否定できません。

私も還暦過ぎてから特に日本の伝統的な文化や歴史などが良い物だなあと思うようになりました。食べものも和食が良いし、昔の日本建築や庭なども素晴らしいと思います。

そうして、そういうものを安定して愛する人間には、それなりの人間の深みみたいなものがあるのですね。

ちょうど、先週の土曜日の朝、テレビを見ていたのですが、テレ朝で市川右團次さんが下田を歩いているのをやっていました。

この市川右團次さんって、私は名前も知らなかったのですが、すごい濃い立派な顔立ちで、それに日常的な立ち居振る舞いがサマになっていて、人とのやり取りや話し方もきちんとしているし、朗らかだし、板についているのです。一体この人はなんなんだろうと思ったら歌舞伎役者でした。

歌舞伎の人っていうのは、本当にそういうものなんですね。舞台ではあんなに大げさな演技をしているのに、テレビドラマに出ても自然な演技が普通にできるし、人との応対もいい感じなのです。

お寺の住職さんと話をしたり、神社や寺で神仏に手を合わせたりするのも、やはり格式がきちんとしとている。それから、中高の同級生が経営している海の見える素敵なホテルに寄ったのですが、そこでは元同級生と気楽に話して、あとビールのお店のマスターなどとも親しくやり取りをしている。誰に対してもきちんとした礼儀があり、それでも緊張はさせないで楽しくお話ができる。こういう人って、どこへ行っても気持ちよく、恥ずかしくない人ですね。

私なんか、無知で世間知らずでありながら、卑しい心を持っていて、あれが損しただのどうしただの、高すぎるだのなんだのと、どこへ行ってもそんなことを考えているし、神社でお参りをするにも、お辞儀ひとつまともにできません。本当に恥ずかしい人間です。

そうして、その番組の中で、昔からずっと続いていて変わらない昔建てられた建物や庭などは、やはり依然として素晴らしく揺るがない、と言うようなことを言っていました。それが文化であり伝統というものなのでしょう。

その思いは、まさしく福田和也氏が書いていることと一致していると感じました。
そうして、この市川右團次さんという人は、1963年生まれで、現在還暦なんですが、なんとこの人もまた慶應義塾大学の法学部政治学科を出ておられるとのこと。下田でホテルを経営している女性の友人の方も慶応の中高の同級生でした。

また、慶応繋がりか、福田和也氏と同じ大学だ、と驚いた次第です。

本を読んだ印象では、福田和也氏は、全体的に風流人っていうのか、まあテーマがテーマなだけに、東京に住む一流オジサンの随筆ってところかな。「男の隠れ家」「プレジデント」(歯医者さんでたまにちら読みしています)の世界かな~。

コメント

また繋がっちゃった(福田と米倉・米倉と泉・泉と石破)

2024-09-29 09:20:26 | 読書

福田和也氏の「東京の流儀」を読み進めています。
最近読んだのは、氏が40才を超えて銀座の「米倉」という理髪店を始めて利用したという話です。
この米倉という床屋さんは、有名な一流の床屋さんらしく、なかなか、そんじょそこらの人間ではお客になれないような老舗だということがわかりました。

この人は、洋服や靴も海外のなんとかいう有名ブランドのものしか身に着けないのだそうで、男性もだんだん出世してくると、そういうふうになって来るんだなあ~と思いながら読んでいました。

ところで、「米倉」という床屋さんに興味を持ったので、検索してみました。
そうしたら、泉麻人という人(作家・コラムニスト・気象予報士)が、2021年3月に、この米倉で散髪をしてみたという記事が出て来たのです。この人はその時もうすぐ65才になるところでした。

内容はここに。→(銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~あこがれの「米倉」で床屋談義

米倉は現在支店が数店舗ありますが、元は1918年に「米倉近(ちかし)」さんという人が創業した理髪店だそうです。記事にもあるように松下幸之助や野坂昭如も利用していたとのことです。

理容米倉HP

・・・

で、次に、泉麻人という人のことを調べてみました。顔はテレビで見たことがあるような気がします。
そうしたらなんと、この度、自民党総裁になった石破茂氏との対談の記事がでてきたのでした

内容はここに→(中央公論「今だからできるアノ話」石破茂×泉麻人

それを見ると、石破茂と泉麻人は慶応高校2年のときの同級生なんだそうです。
この記事は、2013年1月8日のもので、石破さんは幹事長だった頃ですが、37年ぶりの同席対談ということでした。中央公論社の2013年2月号に記事が載ったようです。

そうして、泉麻人氏は慶応義塾大学商学部の卒業、石破茂氏は前記事に書いたとおり法学部の卒業です。

・・・

これにてわかったこと。

・石破茂・泉麻人・福田和也の3人は慶応義塾大学の卒業生であり、石破と泉は慶応高校の同級生である。福田和也は3才くらい年下である。

・福田和也と泉麻人は、銀座の老舗理髪店「米倉」で散髪していた。
最初の利用は、福田和也は40代、泉は60代であり20年程の年月差はあり。

ちなみに、石破さんが散髪している理髪店は、たぶん議員会館B2のお店だと思います。
女性の理容師さんが散髪している写真記事がありました。議員会館は石破さんらしい。

 

追記

石破茂を検索していたら、
石破さんが「鉄オタ」であるという情報がありました。
これも面白そうなので、今後調べていきたいと思います。

コメント (2)

蕎麦屋について

2024-09-27 18:57:01 | 読書

福田和也氏が「東京の流儀」でそば屋について書いています。(「心伸びやかになる蕎麦屋」)
ここで出てきたのが、「神田のやぶ」「室町の砂場」「銀座のよし田」です。
私はどれも行ったことがありません。
ウェブ検索してみたところ「神田のやぶ」が、なかなか広くてきれいなお店で誰でも食べられるようなので、行ってみたいなと思いました。

それで、夫に話してみると、「神田のやぶ蕎麦はとっくに無くなった」などというのです。
サイトがあるんだから、お店がないなんてことはありません。9月はナスの冷やしそばが季節の特別メニューになっていておいしそうだなと思いました。

しかし、なんで夫が「もうない」などと言ったのかと思い、調べてみたところ、神田の藪そばは、2013年2月19日に、それまでのお店が火事で焼失してしまったのでした。
そういえば、当時のニュースで、老舗のお蕎麦屋さんが火事で焼けてしまい、伝統の味をひきつぐ濃縮つゆである「かえし」も失ってしまった、という内容を聞いた記憶があります。
その後のことは知らなかったのですが、翌年の10月20日に、再建した新店舗で営業を再開したのだということがわかりました。そうすると、もうすぐちょうど10年になるようです。

新しい店舗は、耐火・耐震性の鉄骨作りだそうです。以前の古い建物は1923年築の数寄屋造りで.東京都の歴史的建造物に指定されていたようですが、古さゆえに天井の配線がショートしたのが出火原因だったようです。怪我人などはいなかったそうでよかったです。

焼失した建物はそのとき築90年だったということになりますね。
2014年に再開したときに社長は70才だったそうですが今は80才ですね。

福田和也氏のこの文は、2004年ころから書かれているので、このときはまだ火事にもならない古いお店だったわけですね。

とにかく、現在は建て直されたお店で、伝統の味が引き継がれていて良かったです。

・・・

別の話ですが、このあいだ立憲民主の原口さんがユーチューブで話していたのですが、最近、長野の老舗そば屋「戸隠そば」が倒産したんだそうです。原因は新型コロナによる業績悪化だということですが、400年も続いてきた老舗がなくなるのは本当に残念なことです。

だから神田の藪そばが健在なのは嬉しいです。
東京はそれなりに人間が多いから大丈夫ってことなのか、やはり人口減少・一極集中だと地方の伝統を守ることは難しいのかもしれません。

・・・

次に「室町の砂場」ですが、これはウェブ検索するとのれんのかかった由緒ありそうなお店が載っていて、ちょっと入りにくいかな?と感じたりしました。こちらも行ってみたいです。

「砂場」という名前のお蕎麦屋さんは色々なところにあり、のれん分けされたものかもしれません。
そういえば「藪そば」の店も多数あり、こちらは黒いそばですが、一方「更科」は白い蕎麦の店という程度の認識はあります。私はどちらかというと黒いそばが好きです。

・・・

それから最後に「銀座のよし田」ですが、こちらはどうも大衆的なお店で、日本蕎麦という形にとらわれないお店のようです。コロッケ蕎麦が売り物なのだとか。
ウェブで検索すると、ぐるなびなどにも出てきます。

福田氏が書いているところによると、ここで資生堂の福原さんにも会ったとのこと。福原さんて誰?と思って検索してみると資生堂の福原義春社長のことでした。
この方は2023年8月30日、つまり1年くらい前に逝去されていました。

また、福田和也氏は、諸井薫も、よし田が好きだと書いていて、実は諸井薫によし田そば屋を教えてもらったのだそうです。
ここでも「諸井薫」って誰?と思って検索してみたら「本多光夫」の別名だということがわかりました。本多光夫という名は知っていますが、作家・編集者・エッセイストの場合の名前で、諸井は文筆家としての名前だとのこと。作家・エッセイストは文筆家ではないのでしょうか?区別がわかりません。

この方は、2001年に逝去されていますが、諸井さんのお葬式のときに、よし田の人たちが参列されていたと、福田氏が書いてありました。

そば屋について色々と思いを巡らすことも楽しいです。

・・・

私は日本蕎麦がかなり好きです。
それで、この頃思うことなんですが。多くのファミレスだのチェーン店だの、各種の外食産業では、最近はやたらにポイントだのライン登録だの面倒くさいことが多すぎます。

だから、そんなものが関係のないお店に食べに行きたいんです。
そうすると、お蕎麦屋さんというのは、結構昔ながらの個人のお店が多く、会員登録とかそんなことがないのが良いのです。
お蕎麦屋さんっていうのは、支店とかグループ会社ではなく、「のれんわけ」でしょう。
そういうお店がずっと残って行ってほしいと思うのですけど、そうなると家業を引き継ぐ跡取りが必要なのかもしれません。

でも、ぜひ現代のようなパネル注文やロボットによる配膳やセルフレジなんかではなくて、人間に注文して、人間が作った昔ながらの日本蕎麦を食べたいなあと思うのです。

「てんや」なんかで天ぷらそばを食べていますが、今後は普通のお蕎麦屋さんに行くのを増やそうと思います。

コメント

衝動買い「広域思考」

2024-08-14 23:11:21 | 読書

今朝、you tubeを開いたらスーツさんの所沢駅の動画があったので見てみた。
その中でスーツさんやがみさんなど4人が執筆した「広域思考」という本が最近出版されたことが宣伝されていた。
行動範囲を広げるといいことがあるよ、という内容らしい。

ちょっと読んでみたいなあ~と思い、よし、アマゾンで買ってみよう!と思った。

ユーチューブから、アマゾンサイトに飛ぶようになっていて、探す必要もなく、すぐに注文できるのだ。

これは、衝動買いだな、と思ったけど、衝動買いでいいじゃないか。
それにスーツさんの面白さは、すでにyou tubeで知っているのだから、この本がつまらないわけがないだろう。

ということで、迷うことなく注文をしたのだ。

そうしたら、なんと、今日中に届くというのだ。

普通は、翌日に届くだけでも驚いてしまうのだが、今日中に届くなんて、早すぎるではないか。
いったいどうなってるんだろう?運送業の人(クロネコ)に無理がかかるんじゃないだろうか?

ビックリ仰天だけど、届くんなら届くで早いに越したことはないので、嬉しいことだ。

そうしたら、本当にすぐに「発送しました」となり、午後には「配送中」となり、そのあと忘れていて、夜の8時頃ポストを見に行ったら、既に届いていたのだった。

すごいスピード。

それで今、前書きだけ読んだところで、あとはパラパラとめくってみたんだけど、なかなか面白そうである。

私もこれからは、日帰りで宇都宮餃子を食べに行ったり、浜松餃子を食べにいったり、ヤマハの楽器博物館(?)を見たり、御殿場に行ったり、松本城に行ったり、軽井沢に行ったりしたいものだな~と思う。

まだ、読んでないんだけど、きっとそういうことでしょ。

行動することを後押ししてくれそうな本だな。

私は今、静岡県の実家と、東京都の自宅を行ったり来たりしていて、その途中でふらふら道草食ったり外食したりして楽しんだりしつつ、これは結構移動できるもんだと思っているのだけど、そんな感覚で、四方八方の別方向に移動することはもちろん可能であり、知らない地域に行ってみたいものだなと思っている。

その他に、この本からは、色々なヒントを教えてもらえそうだけど、
今夜は昼間やりきれなかった仕事(在宅勤務でサボっててはかどらず)をやらなきゃならないので、読むのは明日以降にすることにする。

お盆だというのに、結構急ぎの仕事もあるから、明日も頑張らねば。

では、今日の分の仕事を片づけてから寝ます!

所沢駅が信じられないほど豪華になっていた!

コメント

「あれから」を読んだ

2023-11-18 23:00:43 | 読書

昨日、矢口敦子という人の「あれから」という小説を読みました。

これは、図書館に本を返しに行って、超速で代わりに借りて来た物です。
現代小説の棚の中に「あれから」という題名を見つけたのですが、それはまさしく夏目漱石の「それから」を連想したからでした。

「あれから」っていったいどういう内容なんだろう?と興味を持ったのです。

全くの予備知識なし。
昨夜、遅くになって読み返してみると、物語の展開がどうなっていくのだろうと、もう興味津々でどんどん読み進んでしまいました。

夏目漱石の「それから」とは何の関係もありませんでしたが・・・。
ああ、読書というのは、娯楽なんだ、楽しい物なんだ。
小説というものの本質はこうでなくちゃいけない。これが本来の姿であって、努力して読み進むものではないのですね。

しかし、そのまま読んでいると朝になってしまうので、仕方なく中断し、そして寝て起きて、朝また2時間くらい読んで、それから車の運転をしないといけないので出かけて、帰宅してから夕飯の前までにまた読んで、ついに読み終えました。

出来事の真相がわかったし、過去の出来事による連鎖や、1つの出来事によって変わってしまう人生など色々感じることも多かったです。

証券会社が倒産するような時代があり、少なからず影響されて行く人々。痴漢の事件などもあり、じっさいに世間で話題になっている色々なことが出てきました。

確かに世相が表れていて、その中で生きていく人々の姿が描かれていました。

最初に読み始めたときは恋愛物かと思いましたが、ミステリーなのか推理小説なのかということが判明。とても読みやすく、ぐいぐいと惹きこまれてしまいました。

この人の他の作品も読んでみたくなりました。

 

コメント

「変容」を読み終えた

2023-10-18 00:06:53 | 読書

長らく読みかけになっていた伊藤整の小説「変容」を今夜やっと読み終えた。

これは、だいたい月に1度、帰省するときに電車の中で読んでいたので、もう何か月も経ってしまった。

今回は、帰省するときに本を持って行かなかった。

近々、広島方面に旅行に行こうと思って、「変容」ではなく、旅行のガイドブックを持って行ったからだ。
「変容」は結構分厚いので家に置いていった。

残りは、あとわずかだった。それを今夜家で読んだ。

前山咲子が亡くなったところまでは読んであった。
今日読んだところは、その葬式からである。

その後の展開には驚いた。歌子までが亡くなったからだ。

この小説、どのように終わるのだろうかと思っていたら、かなりの大きな動きであった。

そうして、歌子の娘を女中と一緒に引き取るという選択。

そして、最後の場面は、またこれまでに縁のあった女性のところに往訪。。。

男と女の性や情というものが、年月を経て描かれている。

それらの人々の人生や仕事なども当然のことながら付随している。自分の保身もある。

そんな人間の姿がよく描かれていると思う。

作者の「あとがき」によれば、この小説は連載だったので、人物も事件も即興的に作り出されて最初は苦労がなかったが、不安定なものがつきまとい、あとで何度も加筆訂正が必要だったそうだ。

行き当たりばったり的な部分もあったのかな?
しかし、明らかに後半の方が動きがあって面白いように感じる。

60歳近い年齢の男の画家が主人公であるが、私もアラカンのオバサンなので、この年齢の人生をはかり知ることのできる者であり、これは私が読むにはちょうど良い内容だったようだ。

ただ、ざっと読んだだけなので、もう一度じっくり読んでみても良いなと思っている。

何を書いているんだか、意味不明だと思いますが、あしからず。

機会があったら、内容について、詳しく書こうと思います。

コメント

ねむ~い

2023-09-06 23:22:58 | 読書

今夜も夜11時にして眠くなってきた。実は9時ごろから眠いのだ。

今朝は暑くて6時に起きてしまった。今はそれほど暑くなく、エアコンを送風にしている。

相変わらず、何も実行に移せずに時間だけが過ぎていく毎日だ。

まだ8月の出費のまとめもしていないし、銀行口座の引き落とし総額も調べていない。

色々やるべきことはあるのに、何もしていない。

トイレの床に髪の毛がいっぱい落ちていたなあ~

換気扇のフィルターも油で真っ黒になっているから、取り換えて掃除をしなくては・・・

要らない本を捨てる。

写真を整理して、昔のネガをデジタル画像にしないといけない。

何も進んでいかない。。。

・・・

今朝は早く目覚めてしまったので、伊藤整の「変容」のつづきを少し読んだ。
そう、まだ読み終えていないのだ。半分ちょっと超えたくらい。

今年はこの分だと3冊がよいところだな。(今2冊目)

読書ってのは、それなりの時間を買い取らないと、進みようのないものである。

絵を描くっていうのもそうだろう。

「変容」の主人公の職業は画家である。国文科を出て画家になれるのかな?
日本画家みたいだが。。。

日本の近代の西洋画家は、やはり結構芸大出の人が多い。それだけやはり描写の技術が必要だったのだろう。そんなことを思ったりした。

ちょっと浮世の画家を思い出した。イシグロカズオだっけ、あれは途中まで読んでどこかにやっちゃった。

画家の絵っていうのは、何もかもが芸術なわけじゃない。

私は竹久夢二はあまり興味がなかったんだけど、モディリアニと共通点があるとは知らなかった。モディリアニは好きなほうだった。

・・・

伊藤整は女をよく描いている。女が年老いていくその変化。容姿の変化のみならず、その社会的地位や人間像なども良く分析している。そう、私がこの作家の好きなところはそういうところだ。

伊藤整は「新心理主義」だと自ら言っていたらしいが、新心理主義とは何なのかよくわからない。

若い詩人の肖像の最後は、
「自分の心の内側の働きはまだオレに分かっていない。そこには闇の中に閉じこめられた複雑な機械のようなものがある。そしてそれがオレにはまだ分かっていない。そこをのぞいてみるのは怖ろしいことで、今のオレには出来そうもない、と私は思った。」
で終わっている。

彼はその後、それを追求したに違いない。

そうして晩年に書いたのが「変容」なんだから。

でも、それを読むアラカンのオバサン、私にはまだ何も分かっていない。

コメント

伊藤整に関する関心

2023-08-20 00:29:30 | 読書

私は、自分が10代の頃に好きな作家だと思った伊藤整のことを、自分が生きているうちにもっとちゃんと知っておきたいと、この頃思うようになった。

それで、今年は伊藤整の小説を順に読んで行こうと思ったのだが、老眼がひどくて文庫本の小さい文字を読むことができなくなってしまっており、そうなるとこのあいだ買った小学館の P+D BOOKS しか読めないことがわかった。

「若い詩人の肖像」があるのだから、伊藤整の他の作品もそろっているのだろうと思い込んでいたら、そうではなく「変容」だけしかないことがわかった。

それで、しかたなく「変容」を購入して今読んでいる最中だ。

この作品は、伊藤整の晩年の作品らしく、おそらく60歳を超えてから書いたものらしい。それで、内容も熟年の主人公になっており、思えば私もアラカンなのだから、読者としてはちょうど良い年齢なのかもしれないなあと思う。

・・・

この「変容」の主人公は画家である。それで、絵についての感性を書いてある部分もあり、伊藤整は絵画に対しても関心のある人だったのだなと感じたりして嬉しい。
私は若いころには美術には特に関心はなく、上京してから友人に誘われて美術館に行ったりしたことで、絵画に関心を持つようになったが、頻繁に絵を見るようになったのはここ15年くらいのことなのだった。

それから、このあいだ読んだ「若い詩人の肖像」では、英語のできる主人公「私」が小樽で外国人夫婦の家に日本語を教えに行く場面があることを発見した。夫に日本語を教えるのために通っているのだが、夫人は日本語を覚える気は全くなく、ものすごい速さの英語でべらべらしゃべり、色々なことを訴えてくる。日本の生活にストレスを感じているようだった。「私」は毎回、夫人の主張を聞くことに徹するのだが、その中には日本人のお手伝いさんが英語を理解しないので意思が通じず困るとのこと。それで、今度は女学校を出た英語のできる女子を探してやり、お手伝いさんにするのだが、そうしたところ、むしろ英語の分からなかった女中のほうがましだったと夫人が嘆いたという場面があった。この体験は笑ってしまう場面でもあった。

ああ、そして、これは私が20年くらい前に、日本語ボランティアをやっていた頃にも通じるものがあった。言葉が通じず異文化の中で暮らす外国人にとっては、言葉を覚えることよりも、自分の思いを理解してくれる人がまず必要なのだ。そして、女中は言語が通じるからといって役にたつわけではない。

この本質を、伊藤整は「若い詩人の肖像」の中に既に書いてあったのだが、私が最初にそれを読んだときには、私はまだ日本語教師や日本語ボランティアなどに関しては全く関係のない人間だったので、何も記憶にとどめなかった。私は知らずに40代になってから数年間、日本語を教える人となった。今になって、伊藤整が日本語を教えていたことに驚き、その内容に共鳴する。

色々な共通点を発見するのは嬉しいものだが、ふと、伊藤整って車の運転はしなかったのかな?と思った。もししていたら、これもまた同様の感覚を書き記してくれていたかもしれない。

でも、思うに、昔の人って車の運転なんかしない人が多いだろう。

そういえば、だいたいどのくらいの年代の作家ならば車の免許を持っているのだろうか。
クルマの運転をする作家が書いた小説の中には、そういう場面があるはずである。

そうなると、石原慎太郎くらいの年代の人なら、本人が運転をしていたということであろう。

現代人ならば、村上春樹とか車の場面がいっぱい出てくるし、荻原浩も車はよく出てくる。
現代人は当然として、一番古い作家ではどのあたりから運転場面が小説の中に出てくるのかな~とちょっと興味が出て来た。

そういうのって、かたっぱしから作品を読まないとわからないだろうから、自分にはできないので、すでに研究しているものはないのかな~。

 

 

 

 

コメント (2)

小平霊園・伊藤整の墓

2023-06-24 21:13:16 | 読書

そういえば、本日は自分にとっては重要な出来事がありました。
小平あじさい公園を見たあと、小平駅の反対側のすぐ近くに、小平霊園があったことを思い出したのです。そこには、伊藤整の墓があるとのことで、急遽思い立って見に行ってきました。

伊藤整のお墓が小平霊園にあることは、以前からネットで調べて知っていました。
そして、新青梅街道を車で走るときは、いつも小平霊園のところを通るので、そこにあるんだなあとは思っていました。

しかし、なかなか霊園の中に入るというのは、自分の個人的関係者の墓参りでもなければちょっと気が引けます。

しかしながら「霊園」というのは、一種の公園ということです。(これは放送大学で公園のことを勉強したときに知ったのですが、霊園というのもちゃんと法律で公園の部類の1つというものになっているので、誰が入っても良い場所なのだそうです。)

霊園の入口には園内の墓地の区画番号を記載した地図が掲示されています。
ネットで調べると、有名人のお墓の番号が記載されていて写真も載っているサイトがあるので、それを参考に場所を確認して入っていきました。

伊藤整の墓は、区画4というところにあり、私は正門から入って行ったのですが、右方向の南門を更に越えたエリアにありました。そこまでは、かなりの距離で、小平霊園って本当に広いなあと思いました。

確かに、霊園北側の新青梅街道を車で走っていても、結構な直線距離があります。

正門から入ってすぐは、結構大きな囲いを持った墓石が並んでいました。私は右へと墓地の端っこのほうを歩いて行ったのですが、合同葬の場所があったり、児童施設などで亡くなった子供たちの合同のお墓があったりしました。身寄りのない子供たちの合同慰霊碑には、鯉のぼりなどが飾ってありました。
親もいない上に、子供のうちに亡くなってしまうなんて気の毒ですね。

墓地は広くて、たまにお墓参りの人が居ますが、それでも人けのないところが多く、怖くはないものの、こんなところを1人で歩いていてもいいものなのか、いいんだよね、と確かめる気分でもありました。

しばらく歩くと墓の手入れをしている業者さんのような人の姿をみつけ、ちょっとほっとしました。

・・・

しばらく歩くと南門のところに着きました。南門は通り抜け通路になっているようで、地元の人たちが自転車でびゅんびゅん通過していきました。
その通路を渡ると、まもなく目的の区画4というのがありました。伊藤整氏のお墓は4-9ー36でしたが、10と言う表示をみつけました。どのように番号がならんでいるのかわからないのですが、隣の列だろうと思って墓石を眺めていくと「伊藤家」というのが見つかりました。

上の写真の右から6個目になります。この辺りのお墓は、各家の境界線などはなく、道などもなく、芝生の上に列になって同じような形状の墓石がならんでいました。
私はこのような霊園を見たのは初めてで驚きました。

お寺のお墓の場合は、各家の区画や通路がはっきりしているのですが、霊園となるとこういうものなのですね。

「伊藤家」とは書いてあるものの、万が一別の伊藤家だったらと思い、お墓の側面を確認すると「昭和三十八年 伊藤整建之」と書いてあったので、確かに間違いがないことがわかりました。

そうか、これは伊藤整自身が生きているうちに建てたお墓なのですね。
伊藤整が亡くなったのは昭和44年11月(64歳)なので、このお墓を建てたのはその6年前の58歳の時ということになります。ということは、伊藤整は自分の入るお墓を知っていたし、ここへも来たことがあるのでしょう。

これは伊藤家のお墓なので、伊藤整1人が入っているわけではなく、ご家族も埋葬されているのかもしれません。

今はお墓参りの時期でもなく、命日でもないので、花などはなく、枯れたお花が1本ずつくらい挿さっていました。

一応手を合わせてきましたが、私のような無関係の人間が生花をあげるのも変ですよね。

そういえば、霊園に入る前に驚いたのですが、墓石・花屋さんがずらずら並んでいて、2束の生花が水を張った墓参りの桶に入って店頭にならんでいるのでした。その桶にはお店の名前が書いてあり、おそらくそこでお花を買うとそれを持ってお墓に行って、帰りに返せばよいようです。お店の中にテーブルと椅子など休憩する所が用意されている店もありました。花は1600~1800円くらいだったかな?田舎に比べるとちょっと高いように思いましたが、手ぶらで墓参りができるので便利ですね。桶には苗字が書いてあるものが店にならんでいたりして、それは固定客(墓石などをその店に注文して建てたのか?)のものをお店が預かっていて、墓参りの度に利用するのだと思います。

お墓産業というのか、霊園産業というのか、こういうのも田舎の人間には見たこともないものでした。

でも、霊園の場合は、無宗教なので法事などをしなくてもよく、管理費だけ払えばよいので経済的ですね。

都営霊園当選者のための何とか、と書いてある石材屋さんもあったので、やはり抽選で当選しないと墓地が買えないようです。

・・・

私はなぜこの作家のお墓に来たのか?

伊藤整というのは、なぜか私にとって特別な作家なのです。

それは、「若い詩人の肖像」を高校生の時に読んで惹きこまれたからでした。

今年になってもう一度読んでみて思ったことは、
若いころ伊藤整は詩人になろうとしていて、自分の詩の才能について意識したり分析したりしていた。

詩人として作品を出したり活動したりするうちに、周囲の詩人の才能や特質などについて誰よりも鋭く認識し、その中での自分の詩人としての才能や特質や位置づけも認識していた。

それから、伊藤整は自分の詩の限界を自覚しはじめ、むしろ小説の要素に向いていることに気づくのだ。

それから、結局伊藤整は何が優れていたかといえば、やはり人の作品を分析できるということだったのだろう。

小説家でもあったが、文芸評論や翻訳などで能力を発揮した人ではなかったのだろうか。

私はあまり伊藤整の手掛けたものを読んではいないので、わかったようなことは言えないのだけど、そのように思う。

若い詩人の肖像を読み直してみて、詩人として世に出たけど、違う方向に進んで行く気配が描かれていることがわかった。

人は自分が願った方向には進まないけれど、自然に自分に適した方向(自分の才能のある方向)に進んで行くものですよね。

(老眼で小さい文字が読めなくなったので大きな文字の本を買った。)

最後に、霊園の端にも咲いていた紫陽花。

 

 

 

 

 

 

 

コメント

伊藤整のこと

2023-03-25 23:06:16 | 読書

1か月ほど前に、伊藤整の「若い詩人の肖像」をアマゾンで注文し、ぼちぼち読んでいる。
この作品は、私が高校の頃に読んだもので、かなり影響を受けたものだ。
それをもう一度読み直す気になったのは、以前にも書いたのだが、昨年10月に小樽に旅行に行って、伊藤整の故郷であることを思い出したからだった。

読み始めてみると、高校時代に全く知らなかった小樽という土地の情景が、より具体的に連想されるのだった。余市も出てくるし、余市と小樽の間にある蘭島という駅のことも思い出した。

登場人物で、印象に残っていたのは、小林多喜二・川崎昇・重田根見子だったが、蘭島は主人公が重田根見子と歩いたりしている場面があり、ああ、あの駅のところかと思い出すことができた。

この作品は、伊藤整の私小説であり、ほぼ自伝のようなものらしい。小林多喜二などは実名であり、重田根見子も、ネットでちょっと検索してみたところ、実在人物の名前も解明されているようである。
主人公が一番信頼を置き親しくしていた川崎昇に関しては、私も高校時代に実在の人物名を探そうとしたことがあったが、みつからなかった。

主人公は、インテリであり、英語の成績が優秀で、詩の才能があると自負しており、容姿も悪くはないと自覚していて、自分が客観的に人や若い女性等からみたらどんな感じだろうと意識し、結構プライドも高いわけなのだが、小心なところもあって、そういう人間像を自分自身で分析しているあたり嫌味には感じないのである。

重田根見子が橙色の湿った肌をしているという表現は、高校時代に読んだときから印象にあり、いったいどんな肌なんだ?とイメージがつきにくかった。今回も同様だが、元々主人公は根見子のようなタイプの女性が好きだったわけではなく、色白で目の細いどちらかといえば和風な感じの女性が好きだったのに、成り行きによって根見子と付き合うようになり根見子を恋人としたということが再確認できた。

根見子は目が大きく、顔のパーツがはっきりしていてどちらかというと洋風な感じなのかなと思うのである。そういうタイプを主人公が元々好きだったわけではないものの、それはそれで美しいと思っていたようだ。それが、恋人関係が悪くなってくると途端に、足が短いとか肩が角ばっているとか欠点が見えてくるというのもよくあることかもしれない。若い男性は、1人の女を恋人にしていると、他の女性との関係は発展する可能性がなくなる、というつまらなさも感じてしまう。

現実はそんなものだろう。そうして破局がくるのだ。

当時の小樽は都会なんだなと思う。銀行があり高等な学校があり、私が育った静岡県の田舎とは比べ物にならないくらい経済や文化が発達していたのだ。
小樽は、昨年秋に行ったときには、昔の偉大なものは皆観光の材料に変化しており、ぼったくり観光地となっていたのだ。

でも、過去に栄えていた小樽というのは、腐っても鯛というか、やっぱり人を引き付けるもののある土地だなと感じる。あの運河や古い立派な建物等、そんぞそこらにある物じゃない。

昔の風景は今とは全然違うだろうけど、地形や大通りなどがすっかり変わるわけもなく、昔の面影が残っていたに違いないのだ。伊藤整たちは、あの小樽駅に電車で降りて道を歩いて学校に通っていたのだと思う。

そうして、そういえば、伊藤整って東京ではどこで暮らしていたんだ?と思いついた。小平霊園にお墓があるんだけど、家はどこだったのか?

ネットで検索するとすぐにわかった。杉並区久我山だそうだ。なんだ、結構近いじゃないか。
そっちのほうが、遠い小樽を連想するよりもずっと簡単だし、やる気になれば、散歩もできそうである。もっと別の作品を読んでみたら、都内の地名も出てくるかもしれない。

それから、色々検索していたら、伊藤整ノーベル文学賞なんていう言葉も出てきて何のこと?と思った。そうしたら、伊藤整がノーベル文学賞の候補と期待されたこともあったようなのだ。

そして、文学者には生前注目されるが死後には注目されない人と、生前は注目されないが死後に注目される人がおり、伊藤整の場合は前者であって、残念ながら、死後は注目されなくなったようである。そういえば、生前は「チェタレイ夫人の恋人」裁判で話題になっており、むしろ本人の作品よりも、こちらの翻訳で話題になっていたのだろう。

伊藤整の誕生日は、1月16日で私の誕生日と近いのだ。だから波長が合うのかと思ったら、村上春樹の誕生日が1月12日で、こちらも近かったのに全然波長が合わないのだ。どちらも山羊座なんだけど。しかも伊藤整は英語が得意なのに、私は英語学習障害者で全然正反対だった。伊藤整を見倣って高校時代に英語を頑張ることが出来ればよかったのに・・・。元々才能のないものはダメなのだろう。

伊藤整は64歳のとき(11月15日)に胃がんで亡くなったそうだ。その年齢では、私もあと1年半くらいしかない。私はまだまだもっと長く生きるつもりなんだけど、読書をするなら今のうちにしとかないと、何もしないうちに人生が終わってしまうかもしれない。せめて人が書いた小説を読むくらいのことはできるだろう。

 

コメント

「あの日に帰りたい 駐在日記」(小路幸也)を読んだ

2022-05-09 23:34:50 | 読書

ゴールデンウィーク中に小路幸也と言う人の「あの日に帰りたい 駐在日記」という小説を読みました。

これは、図書館の閉館間際にあわてて借りてきたもので、目の前にある本を適当に選んできたものです。

題名に興味を持ったからこれになったのでしょう。

神奈川県の小さな村のようなところに赴任した駐在さん夫婦とその土地の人々との出来事が、駐在さんの妻の日記に綴られているという形です。

一言で印象を言えば、素人が書いたような物語だなと思いました。

駐在さんの妻は、外科医にしては、あまりにも素直で平易な心を持った人で、簡単な日常会話のような言葉で記されています。

内容も、滝に身を投げて自殺したとされる指名手配の人が、目撃情報だけでその当人と断定されるような筋書き。

そんなことで、本人が特定できるわけがなかろうと、現実との乖離を感じてしまうのでした。

猟銃を持った人の脅しをやめさせるために、元刑事で射撃の上手な駐在が、銃をかすめて打って解決するなど、それもあり得ない。そして、発砲したのはどこかで何かを熊と間違えたことにして報告するなど、そんなことが罷り通るわけないです。

数々の非現実的な詰めの甘い設定に、なんとなく興ざめしてしまい、いやいや、これは子ども騙しみたいな小説だからそれでいいんだろうと思うわけでした。

その他にも、突っ込みどころ満載な伏線の設定や物語の展開ですが、まあ、娯楽小説というところで、テキトーな連続テレビ番組にでもしたら面白いかもしれません。

この主人公は、元外科医だったけど、どうして右手を怪我して動かなくなってしまったのだろうか?

駐在さんは、高卒でよく刑事になれたものですが、その後、僻地の交番のお巡りさんになったのは何故なのでしょうか?

指名手配で滝に自殺したとされた人は、本当はどこかにいるのか?

猟銃騒ぎを起こし、村を出た登場人物と劇団をやってるホステスは、その後どこへ行ったのだろうか?

他の様々な登場人物たちも、その後はどうなるのだろうか?

この物語は、今後も色々な不明点を展開させて続編が作られていけそうです。

そういうことも計画済みなのかもしれません。

2019年9月発行。書下ろし。

裏表紙を見ると、既に「駐在日記」というのが発行されていたみたいなので、この物語の前の出来事やいきさつが載っているのかもしれません。

・・・

例えば、絵には画風というものがあり、緻密な絵もあればパステル画のような絵もあります。

文にも様々な文体や構成があるのでしょう。

この小説は、絵に喩えればパステル画のようなものかもしれません。

そして、全体的に平和な世界ですが、時にヒヤヒヤドキドキすることもあり、面白いと言えば面白いかもしれません。

私が最後まで読み終えたということは、面白かったということでしょう。

 

 

コメント

高校時代の記憶

2022-04-08 00:41:02 | 読書

この頃、年を取ったせいか、昔のことを思い出す。

最近は、たまたま図書館で「巴里に死す」を見つけて読み始めたのだが、もしかしたらそれがきっかけかもしれない。

東京に越してきてから住んでいた家のそばに、天理教のお寺があった。(あれはお寺というのかな?)
芹沢光治良の「人間の運命」では、天理教のことが書いてあるという記憶があったので、なんとなく意識してその前を通っていたが、今思うと、一度もそこに出入りする人々を見たことはなく、そして、私の人生の中で天理教の人には会ったことも話したこともない。
全く存在感がない宗教だった。ただ、そこに建物があり、門に「天理教」と書いてあったことだけを覚えている。

あれは、私が20代の頃で、高校を卒業してからはまだ数年しか経っていなかったのだ。だから記憶も新しかったのだろうけど、それ以来、天理教に関する物事に遭遇したことは一度もない。

天理教はともかく、「巴里に死す」を読んでいると、主人公の伸子が結核でスイスのサナトリウムで療養している。あの時代は、結核をそうやって治すしかなかった。特に治療法もなく、寒いところでなぜか窓を開けっぱなしにしている。冷たいきれいな空気を吸っていると良いということだったのか。そして、治る人もいたし治らない人もいた。が、治らない人も多く、不治の病と言えた。

結核は人に感染するが、感染した人が急に亡くなるわけではないし、感染しない人もいたようだ。感染しても慢性的に病状が進んで行き、重症にならなければ快復するが、数年のうちに次第に悪化していくとほぼ助からない。恐ろしい病気ではあるが、今の新型コロナほど厳重に隔離などはしていなかったようである。

結核患者が妊娠したら、堕胎したほうが良いと考えられたのは、患者の体力が消耗してしまうからで、子どもが感染するからということではないようである。生まれたあとも、母親が育てることはできず、人に育ててもらうのは、子供への感染を避ける意味もあるものの、母親が自分の結核を治すことに専念しないといけないからだろう。

それで、「巴里に死す」を読んでいたら、スイスのサナトリウムの場面で、私はトーマス・マンの「魔の山」を思い出していた。あの本は文庫本でものすごく厚い本だった。それを夏休みかなんかにかなり読み進んだものの、結局最後までは読まなかったと記憶している。

しかし、あの「魔の山」は何で読み始めたんだろうか?と思う。

それで、今回「巴里に死す」の後ろについている大江健三郎の芹沢光治良についての文を読んでいたら「魔の山」のことが書いてあった。やっぱり連想するのが当たり前なのだろう。

それから、「巴里に死す」の中で伸子が、ジイドの「狭き門」のことを書いているが、その前から、私は「伸子」の精神が、ジイドの「狭き門」の主人公女性と共通していると強く感じていた。

私はジイドの「狭き門」も読んだことがあるが、なぜそれを読んだのかも不明である。これは実家に世界文学全集があったのだが、読まなかったものも多々あるなかでどうしてもこれを選んだのだろう。

当時私は芋蔓式読書法をしていて、読んだものの中に出て来た小説を読み、またそれに関連した小説を読むと言うのをしていたのだった。

私は「巴里に死す」を読んだ記憶は全くないが、ここから芋蔓に「魔の山」や「狭き門」が出てくるのだ。まさか「巴里に死す」を読んでいたわけではないとはおもうのだが・・・。

あ、そうだ。今回はそのことを書くつもりではなかったのだ。

私は当時、2階の自室の窓際の屋根の上にクロッカスの球根を1つ育てていた。そのクロッカスには「シルビエ」と言う名前を付けていた。クロッカスは紫で白い線のある花を咲かせた。ふっくらとした花びらを開き、中には黄色いめしべとおしべがあった。その姿は神秘的だった。

私は当時、ハンサムな同級生にあこがれていた。その人は色白で彫りが深く小柄で、西洋人の少年のような容姿だった。私は心の中で彼を「美」と呼んでいた。

そして、なぜかそのクロッカスをその少年として見ていた。そのクロッカスになぜ「シルビエ」と言う名前を付けたのか記憶がないのだが、なぜかクロッカスの記憶とともに「魔の山」を連想するのである。

しかし、魔の山の主人公は「ハンス」というらしいし、その人に私があこがれるわけでもない。シルビエというのは一般に女性の名前らしいが、私はなぜか少年の名前として、それを花につけたのであった。テレビにでも出て来た少年から名前を取ったのかな?

「シルビエ」でウェブ検索すると、人の名では「シルヴィ」というのが出てくるが「シルビエ」はあまりない。「シルビア」というのは女性のなまえでよく聴くが、私は「シルビエ」と記憶している。

クロッカスが咲くのは春休みなので「魔の山」を読んだのは冬休みか春休みだったのかもしれない。

これらのことは、実家の天袋にある昔の日記を見ればわかりそうだが、もはや太った老婆には、天袋に登ることは不可能かもしれない。

コメント (4)

高校時代の思い出

2022-03-23 23:52:10 | 読書

私の人生のうち、一番楽しかった学校生活は高校だった。
高校では、演劇部にいた。演劇部で親友もできた。演劇があったから高校が楽しかったのだろう。

演劇は総合芸術である。高校生のころ文学にも目覚めた。その当時は読書もよくした。

演劇部の顧問は、大学を卒業したばかりの新任の女性の先生だった。私たちと7~8歳くらいしか違わないのだ。
その先生は現国の先生だったかな?古文の先生だったかな?授業でも教わったように記憶している。

演劇をしている人間である私たちは、一種の「あくどさ」や「野蛮さ」があると感じていた。
しかし、この先生にはそういうものがいっさいなく、「灰汁」が足りないのだった。
演劇をするタイプの人間ではないね、と思っていた。

それは悪い意味ではなく、何の嫌味もない先生で、顧問として私たちをよくサポートしてくれた。
先生は、ものすごい偏差値の高い国立大学を出ていた。その受験科目の多さにびっくりして、相当優秀なんだなと思ったけど、先生は和やかでやさしく謙虚であり、プライドの高さなどはみじんも感じさせなかった。容姿もそこそこきれいだった。

卒業式の日は、参列して一連の内容が進んで行ったが、特に悲しくはなかった。

そうして退場するときに、この先生の姿が目に入った。なぜか急に涙があふれてきた。
私たち卒業生は、胸にピンクの造花をつけていた。

今でも記憶に残る一瞬。
胸にピンクの造花を付けた自分が、演劇部の顧問の若い女性教師に見送られて、胸が熱くなった。
それは演劇部の仲間もみんな同じ思いだし、先生にとっても初めての教え子だったんだということを実感した。

普段は何も感じなかったのに、そこで初めて、先生と自分たちの絆を感じたのだった。

・・・

今、私は「巴里に死す」という小説を読んでいる。
この作者は芹沢光治良である。「巴里に死す」という題名は、なぜかあまりにも有名だと思っているが、その内容については知らなかった。この題名を知ったのは高校時代に違いない。

そして、演劇部の顧問のその先生は、当時「人間の運命」を読んでいた。
これは10巻くらいあったような気がする。おそらく先生は全部読んだのだろう。
私も真似して読み始めたが、たぶん2~3冊くらいで挫折したような気がする。

これを今から読んでみるかな?

「巴里に死す」についてみていたら舞台は1920年代のパリの話だそうだ。
なんと、今から100年も前のことだ。書かれたのは1943年だそうだ。

手記には主人公の心理が書かれていて、ああそういえば、高校の頃は、こういう心理描写みたいな文が好きだったなと思い出した。

恋愛は精神を高めるものでなくてはならず、人は常に向上心を持たなくてはならない、と若いころは想っていた。

しかし、今は、向上心などみじんもなく、何かおいしいものを食べたいとか、楽しいことはないかとか、そんなことばかり考えて生きている。

病気をしないで長生きしたいとか、安全に暮らしたいとか、そういうことを求め、精神の向上などはどこかに忘れ去ってしまっていたのだ。

日常にまみれ、ただ生きてるだけのオバサン(ばばあ)になってしまった。

先生はどうしているかな?もう70歳に近いかな?
先生は、私たちの卒業後まもなく教師を辞めて結婚されたそうである。お子さんもいる。
ご主人の転勤で海外で暮らしたりもしたそうだ。

この小説が書かれたのは今から80年も前だが、私が高校生の頃はまだ33年くらいしか経っていなかった。

「人間の運命」だって、当時はそんなに古い長編小説ではなかったはずだ。書かれてから10年も経ってなかったようだ。

今、あのころ読みそびれた本を読み始めるなら、半世紀も元に戻って、高校時代からやり直すって感じである。

 

コメント

漱石山房記念館

2021-10-03 23:14:37 | 読書

本日は、早稲田にある「漱石山房記念館」に行ってきました。

この記念館の存在を知ったのは、なんと、昨日だったのです。

東村山ふるさと歴史館の中で、偶然パンフレットを見つけたのでした。

そこに、この記念館で「夏目家の人びと、漱石の家族」というテーマ展示を10月3日までやっていることが書いてあり、なんとそれは今日までではないかということで、出かけて行ったのでした。

(ああ、このタイミングは本当に不思議だ・・・)

ここは、夏目漱石が実際に住んでいた家があった場所だそうです。

そして、漱石の人生・作品・活動・漱石を取り巻く人たちのことなどが、わかりやすく展示されていて、とても良い場所でした。

パネルの説明をいちいち読むのは大変なものですが、こちらでは無料で音声ガイドを貸してもらうことができ、大変便利でした。

・・・

私は学生時代、夏目漱石のゼミに入っていて、漱石のことを一通り研究したつもりでしたが、今では大部分忘れているし、そもそも20歳程度の若者が漱石の人生や作品の中に著していることについて、どれだけ理解していたんだろうかと思います。

漱石の家族には、奥さんのことくらいしか目を向けなかったように思います。
また、住んでいた場所が東京なのに、ゆかりのある地域を歩いてみるようなこともしませんでした。

文学散歩をすればよかったなと思いますが、当時はそんなことも思い浮かびませんでした。

今日の展示をみて、漱石が末っ子で小さい時に養子に出され、それからまた実の親のところに戻ってきたりして複雑な境遇だったことや、自分の娘を幼くして亡くしたことなど、今まで気にも留めていなかったことに気が付きました。

新聞社に入社したのは、連載小説を書く仕事のためであり、社員になって小説を書くって、今ではそんなことはないだろうと思います。

漱石が小説を書いた期間は、11年間だったかな?人生のごく一部の時期であり、たったそれだけの期間に、あんなにたくさんの作品を書いたのはすごいと思いました。

また、漱石は、絵にも興味があり、本人が描いた絵もあり、かなり上手でした。

それから、猫のみならず犬や文鳥なども飼っていて、動物好きだったようです。

そして、植物も好きで、庭には色々な樹木が植えられていたそうです。

記念館の外観。現代風の建物ですが、元の家の雰囲気を思わせるような部分もありました。

ここに住んでいたんだな~と思います。

建物のわきに、漱石公園があり、銅像がありました。

裏には猫の墓が。13回忌だかに建てたそうです。

これは、途中の道で撮ったもの。

この記念館は、数年前にできたそうです。建物も新しいです。

もし私の学生時代にここがあったら絶対に来ていたはずです。
地下に漱石関係の書物がたくさんあり、閲覧できるようになっていました。
昔にはなかった書物もあり漱石研究はさらに進んでいるんだなと思いました。

また、復刻版や漫画・絵本などもあり見るだけでも楽しいです。

40年以上も前には、同じゼミの友人と一緒に駒場の近代文学館に通って漱石関係の本を調べていた記憶があります。
今日の展示では、横浜の近代文学館に漱石関係の資料がたくさんあることがわかりました。
(駒場は無くなったんだっけ?)

・・・

漱石は49歳でなくなり、今考えれば、40代なんて、まだ若者じゃないかと思います。

漱石よりも10年以上も長く生きている私です。

人生の中の2年間くらい、漱石の作品を読みまくっていた時期がありましたが、何も覚えていないんだから、もう一回読み直して復習したほうが良いなと思いました。

今読まないと、もう一生読まないかもしれませんものね。

きっと若い時には気づかなかったことに気づくことがあると思います。

 

 

 

 

 

コメント (6)