日曜日に、車で都内の中山道を走ってきました。
中山道は、江戸の日本橋と京都の三条大橋を結んだ街道ですが、昨日走った区間は、環七と環八の間のわずかな距離で、そこは板橋区になるようです。
なぜそこを走ったかといえば、一昨日you tuberのスーツさんが、中山道自転車の旅、第1回目をUPしたのがきっかけです。まだ全部は見ていないのですが、日本橋を出発し板橋区を走って行き、色々解説しています。そして、思った通り、やっぱり志村の一里塚を写していました。
それで、今回は、とにかくそのあたりを走ってみようと思って出かけました。
まず、青梅街道から環七に入り北に向かって走っていき、中山道(国道17号)へ左折。ここは立体交差で、環七の側道を下り17号に出るかたちでした。
しばらく走って、前方の信号が赤になったところで止まると、ちょうど目の前にあったのがこれです。
おお、これは志村の一里塚ではないか!
なんというタイミングのよさ。急いでカメラを取り出しシャッターを押しました。
実は、一里塚のある中山道を走ってみようと思ってはいましたが、一里塚を見ようとまでは思っていなかったのです。それが偶然にも、その前で車が停止することになるとは、なんとラッキーなのでしょうか。
かなり大きな木で存在感があり、立派なものですね。
一里塚というのは、慶長9年(1604年)に徳川家康が秀忠に命じて、江戸日本橋を基点とする全国の街道沿いに1里(約4km)ごとに築かせた塚だそうです。
それは、道のりの目安になるとともに、榎の木陰が休憩場所にもなったとのことです。
しかし、長い年月を経て劣化が起こり、交通体系も変化したため、明治9年(1876)には一里塚廃毀の法令が出て取り壊されることになり、日本の大部分の一里塚は無くなったようです。
志村の一里塚は、残された貴重な一里塚として、大正11年(1922年)に国の史跡に指定されました。(日本中に17か所)
昭和8年に中山道は道幅(歩道を含む)を25mに拡張したしたそうです。
志村の一里塚は、元々道から離れた両側にあったので、道路を拡張しても移動する必要なく、昔の位置のまま存在しているのだそうです。
日本橋からは3つ目の塚で、約12km距離ということになります。
一里塚は、普通地面が丸い山のように盛られていますが、こちらは石崖を積んで整備したので、昔の形とは違っているようです。
しかし、榎はかなり大きく立派なもので、古くからのものなのでしょう。
道路の反対側の一里塚も撮影してみました。第二車線の車でよく写っていませんが、同様の塚が見られました。
この信号は、地図で見ると「志村一里塚」という名前みたいです。
写真を写すために、前の車との車間距離を長めに開けて停止していました。
赤信号停止とともに一里塚を発見し、左の塚を3枚撮影、右の塚を1枚、正面の交差点を1枚撮影したところで、ちょうど信号が青になり発車しました。
その後、ほどなく、環八との交差点があり、左折しました。立体交差しているものだとばかり思いこんでいたのですが、そうではなく、普通の交差点だったので、合流しないで済んでよかったです。
そのまままっすぐ走り、また青梅街道に戻ってきました。
中山道の走った部分は、あまりにも距離が短いので、今度走るときは環八に曲がらず、もっとまっすぐ行ってみようと思います。
・・・
私は、以前スーツさんが東海道の自転車の旅で、一里塚のことを解説していて、箱根の古いままの一里塚を紹介してくれたのをきっかけに、一里塚というものに興味を持つようになりました。
そして、都内にある一里塚について調べたところ、この中山道の志村一里塚と、甲州街道の万願寺一里塚があることを知ったのです。
この2つの一里塚の場所や駐車場を色々調べたのですが、万願寺の一里塚の方が行きやすそうなのと、昔ながらの形をしているので、そちらに先に行ってみました。(5月10日 日野市、万願寺一里塚)
志村の一里塚も、今度は車から降りてそばに近づいてみてみたいと思います。
ともかく、車から見ることができて良かったです。