山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。
と思っていたけど、もうそんな年齢じゃなくなってきた。

我執

2005-09-27 17:33:20 | 未分類過去
自分のことばかり書いていると、トラウマやコンプレックスのことばかりになり、何だかいやだ。
それは明るく前向きではなく、限りなく泥沼にはまっていくようでもある。
しかし、こうなったら、徹底的に自分自身にこだわり、
すべてを書き連ねてしまえば、
それらが消化されて一歩を踏み出すことができるのかもしれないとも思う。
しかし、どうにも書けないこともある。
消化どころか自分に毒されてしんでしまうかもしれない。

筆を持てば、煩悩があふれるばかり。
これは「我執」だ。
私は「我執」という言葉を夏目漱石の作品研究から知ったのだが、
インターネットで検索してみたら、仏教の関係のブログなどが多く出てきた。
私の精神を直すのには仏教の教えがいいのかもしれないと思った。

日本のお寺は葬式と法事をして儲けているだけなんじゃないかと思っていた。
うちが檀家になっている寺もそうである。
でも、そうでないお坊さんもいるんだなと思った。

http://blog.goo.ne.jp/a1214


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私の苦手なもの

2005-09-26 00:29:52 | 未分類過去
私が苦手なものは、小さいときは、赤ちゃん・生野菜・買い物・体育(かけっこ・マラソン)・人前で話すこと。
中学のときは、器械体操の自由演技を作ること。マットや平均台などの体操が好きで体操部に所属し、技術的にはけっこうできるほうだったが、自由演技を作ることがなかなかできなくて、結局選手にはなれなかった。挫折だ。
その後、ダンスや踊りというものはどうも苦手である。短大のとき、サタデーナイトフィーバーがはやっていて、演劇部でそれを踊ることになったのだが、何度練習しても私はタイミングが遅れるらしい。それで、さんざん苦言を言われた挙句、踊らなくていいと除外されてしまった。その後もその演劇部ではミュージカルを主としていたため、個人で創作ダンスを披露しろなどと言われ、とても無理だと思ってやめてしまった。私は高校時代も演劇をやっていたが、私が好きなのは新劇で、文学座や劇団民芸・俳優座などであった。しかし短大の演劇部は、劇団四季や東京キッドブラザーズであり、また、部員はみんなタバコをスパスパ吸っていて、よくディスコに行って踊りまくるような人たちだった。

それから、私が苦手なのは、英語。
高校1年くらいまではなんとか大丈夫だったが、勉強嫌いで、特に暗記が嫌いな私は、まず単語が覚えきれなくなり、どんどん消化しきれなくなった。
そのころ「あんちょこ」と言われる教科書ガイドがあったのだが、くそまじめな私は自分の力で訳したりしなければいけないと思っていたために、一つ一つの単語の意味を辞書を引いて予習する方法しか思いつかなかった。しかし、それはすごい時間がかかり、もともと勉強嫌いな私は予習していかないことも多かった。さらに暗記が苦手だったために、新出語どころか、古い単語や熟語までもを覚えていない状態になっていった。すると、新しい課に入ったときに、新出語のみならず、古い語句までも新たに調べなければならないという状況になった。これではどんなに時間をかけても無理だった。塾にでも行っていればまだよかったのかもしれないが、英語はついに落ちこぼれになってしまった。
2年か3年のとき、ある英語のリーダーの先生は、私に当てても答えられないことがわかっているので、前の席から順にあてていっても、私のところになると突然別の列に変えて当てたり、私を抜かしたりして、私に当てるのを避けるようになった。これはかなりきつかった。
私は次第に英語の授業をさぼるようになっていった。授業出席数が最低限足りるようにはしたものの、1時間目にあれば遅れていく、午後にあれば早退してしまうということをしていた。
大学受験は英語がないというわけにはいかない。だが模試などすると、国語・古文はかなり偏差値が高いのに、英語が一桁に近いような点数なのである。私が得意なのは、国語と数学と理科だった。英語と社会は暗記だからだめである。国語だけできても文系にはいけない。数学と理科が得意だったら理系のようだが、理系に進もうとはおもわなかったし、やはりどっちにしても英語ができなければだめである。
ちなみに、音楽と美術はよくできたが、そっちの道に進む気はない。
日本史はなんとか頑張って暗記したので、まあまあの学力となったが、もはや英語は致命的だった。

私は演劇をしたかった。演技をするのは向かないと思っていたが、劇団で劇を作りたいと思ったり、大学では演劇を理論的に学んで、演劇評論家のようなものになりたいと思っていた。しかし、うちは姉が短大だから、私も短大でなければいけないし、姉が推薦入学で受験料をかけていなかったので、私もそう何校も試験を受けることができなかった。
だから、第一希望と滑り止めと偏差値が10くらい違う学校を二つだけ受けることにした。そして、結局は滑り止めしか受からなかった。そこは本当は推薦でもよかったのだが、どうしても第一希望の受かる可能性の低い学校を受けてみたかった。第一志望の学校は短大と4年制のほうも受けた。だが、受かったところで4年制に行くことに親は反対だった。
結局、短大も4年制も両方とも落ちて、親の思い通りとなった。
今となっては、もっと中間の偏差値のところも受ければよかったかなと思う。

なぜならば、今、私の出身短大の私の出た学部は存在しない。私たちが卒業したあとの時代になって、多くの大学はどこも学部をふやしたり、拡張したりして、地方に一部を移転させることの多い時代があったが、私の出身校も、東京から近郊都市に移転した。しかし、そこは辺鄙な場所であり、東京ほど学生を集める魅力がなくなってしまったのである。その後はその近郊都市近辺から通う学生ばかりになり、まして、東京の人間がそこまで通うということはなく、近年の短大に対する人気の低下も加わって志望者が減っていった。
私の出身校は文芸・マスコミ・国文というコースがあり、なかなかユニークな内容で、偏差値は低いものの当時は競争率が10倍を超えていたのであるが、近年は定員割れとなったらしい。
その学校は、私が受験したとき、英語の試験がなく、国語と古文と作文が試験科目だった。
内容は気に入っていてもやはり偏差値というものは重要であると思う。
もし、浪人ができたなら、英語を一生懸命勉強して、いい大学に行きたかったし、もし過去に戻ってやり直せるものならば、私はピアノを習わないで英語塾に行かせてもらい、英語を頑張って受験を成功させたいと思う。

私が受験して行きたかった大学には文芸学部に劇芸コースというのがあって、そこに入りたいと思ったのであるが、私は高校のときに演劇ばかりしていて、受験勉強をしなかったので合格することはできなかった。同じ学校からそこの文芸学部に合格した同級生は部活などしないで、毎日まじめに勉強をしているような生徒だった。本当にその大学に入って勉強したかったのかなあと思う。世のなか皮肉である。
しかし、入りたい学校に入れば、将来が開けていたかと言えばどうだかわからない。まあ、学歴コンプレックスは免れていたかもしれない。
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数え切れないトラウマ

2005-09-25 14:51:41 | 未分類過去
私にはものすごくたくさんのトラウマがある。その中のひとつが「モーツアルト」である。

昨日テレビ番組で、モーツアルトの曲は精神に良い影響を及ぼすというのをやっていた。このことは、最近巷で話題になっているらしく、2~3か月前にも、クラシックなど全然わからない夫が急にモーツァルトの曲を室内に流して聞いたりしていて、何事かと思ったところ、モーツアルトの曲は精神に安らぎを与えるから、失業中の人間が聴くとよいのだというのだった。
だいたい、人からそんなことを聞かなければ、けっしてモーツアルトなんか聴かない人間が、それを聞いたとたんに鵜呑みにし、全くそのとおりだと言って、モーツアルトを聴き始めるというのも、どうなのかと思う。

ところで、私は、モーツアルトはあまり好きではない。正確に言えば、あることをきっかっけに好きではなくなった。
それは、高校生のとき、ピアノの先生から「あなたは、モーツアルトを弾くセンスがない」と言われ続けたからだ。

私は、小学校1年のころ初めてピアノを習い始めたが、しばらくするとやめ、今度は3年のころ別の先生についた、それからまたいつしかやめて、また別の先生に中学のころ習い始めた。これらの3人の先生は近所の歩いて行ける場所か自宅訪問で、地元の小学校か中学の音楽の先生だった。それを、高校になったときに、姉が習っていたピアノの先生に変えたのであるが、この先生はピアノの教師専門であり、そこは電車で通わなければならない場所だった。

この先生につくと、基本がなっていないと言われて、ハノンなどで徹底的に基礎練習をさせられ、曲もブルグミュラーぐらいに戻って一通りやり直させられた。小さい子がもっと進んだところをやっているにのに、非常に恥ずかしかった。やっとソナタを弾けるようになったところで、このモーツアルトにぶち当たる。先生が言うには、「お姉さんはモーツアルトをとても素敵に弾きこなせたのに、どうしてあなたは弾けないのかしら。」「同じ姉妹とは思えないわ」「どうしてセンスがないのかしら」「モーツアルトの感性がまったくないようね」等等である。どのように心をこめて弾こうと、先生の納得は得られなかった。
一方、先生は「あなたはハイドンなんかを弾かせると、とても良く弾けるのに、モーツアルトとなると、どうしても弾けないのね。」とのこと。
最初は、別にモーツアルトの曲を嫌いだなどとは思っていなかったのだが、そういうことばかり聴かされていると、モーツアルトを弾くたびに身構えてしまうようになってしまった。そして、確かに私はハイドンやベートーヴェンのほうが好きだった。

ならば、得意なものを上手に弾ければいいじゃないかと思うのであるが、その先生はモーツアルトが好きなのであって、モーツアルトが弾けることにしか価値を見出さないのである。世の中でも天才はモーツアルトであり、ハイドンはたくさんの曲を残したがモーツアルトほど天才ではないといわれている。音楽性とか繊細さというものは、モーツアルトによりいっそう求められるのであろうか。ハイドンは凡人でも弾けるが、モーツアルトは選ばれた者しか弾けないというのであろうか。

高校2年のころ、ピアノの先生から、音楽のほうに進む気があるなら、それなりに教えるけどどうするか、と聞かれ、私は音楽には進まないと答えた。
どうしたって、モーツアルトで姉を越すことはできなかった。また、子供が嫌いだし、人にものを教えるのも好きではないから、ピアノの道に進んでも仕方がないのだ。
そして、私は自分を詩的な人間ではないと思っている。どうしたって、散文的な人間である。感受性で生きる人間ではなく、理屈で生きる人間である。モーツアルトは弾けない人間である。

モーツアルトが好きだという人間に会うと、自分が阻害されるような気がしてしまう。それは、モーツアルトを弾けない人間である私は、モーツアルトを愛してはいけないからである。理解できない人間がそのよさを愛せるはずもないからである。

また、私にモーツアルトを弾く繊細さがないのに、まして夫にそんなものを理解できるわけがないだろうと思う。
しかし、モーツアルトの曲が人間の心にいい効果を及ぼすというのは、どうやら何にもわからない人の耳にでもその曲が届き、脳に伝わりさすれば、自然に良い効果が得られるというわけらしい。
だが、トラウマをもった私にはモーツアルトの曲は逆効果なのであった。
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こども嫌いな私

2005-09-24 10:42:18 | 未分類過去
姉は子供が大好きで優しく、昔から親戚や近所の子供に親切に接していたので、とても人気があり、子供がなついた。だから、音楽教室の先生というのは姉にとって天職であり、教室勤務をやめて個人でピアノを教えても口コミでどんどん生徒が増えた。姉は、実際ピアノの腕はよくない。しかし、教えるのがうまいらしい。結婚してからは何度か引越し、個人レッスンだけしているが、どこに行っても生徒集めに苦労したことがなかったようだ。50を過ぎた現在は、さすがに世のなかの子供の数が減ってきたこともあり生徒は以前より少なくなった。夫の収入も充分にあり、収入を得る必要もないので、もうやめようかと思っているらしいが、何の営業活動をしなくても、まだ数人の生徒が姉のところに通ってきていて、毎年発表会などにも出演させている。そして、私がパートタイマーで週20時間働いてやっと稼ぐ金額を、姉は週7時間も教えれば稼いでしまう。

姉が子供好きであるのは、父親譲りである。父は子供の心が分かる人で私が小さいときもよく遊んでくれた。ダイアモンドゲームやトランプなどの卓上ゲームの相手にもなってくれたし、珍しく雪が降るとそりなど作って近所の斜面にもっていって、のせて滑らせてくれたりなどした。
一方、母は忙しいということもあるのだが、ゲームが嫌いだからトランプなどはいっさいしない。一度、人形の服が欲しいといったら、赤い布で服を作り始めたから楽しみに待っていた。ところが最後のところで、母は服にボタンをつけず、人形に着せると糸で縫い付け始めた。私は着せ替えをして楽しみたかったので大いに抗議し、結局脱がせてそのままになった。
父は室内家具や建具の仕事をしていたが、ある日いらなくなったレースのカーテンのきれいな布を見つけてきて人形のウエディングドレスを作ってやるといいだした。そして父は得意になって一生懸命作ってくれたのだが、針仕事ができないため、レース生地の袖の部分などを業務用のボンドで貼り付けようとした。それは結局うまくいかなかった。ドレスはだめだったが、父は、私のために木工で人形の洋服ダンスやベットなどを作ってくれた。
母は手先が器用なので実際の人間が着る服は洋裁でも編み物でもよく作ってくれた。人形の服を編んでくれたこともあったし、ぬいぐるみもたくさん作ってくれたから、いい母なのだが、基本的に夢がなく、遊び心もなく、子供の心を理解しない人である。姉の話によると、姉が小学生のころ母の日に自分のお小遣いで買えるものを探した結果、栓抜きを買って母に上げたそうだが、母からはこんなものいらないと冷たくあしらわれてしまったと言う。
また、母にとっては花火などはもっての外で、あれはお金を燃しているのと同じだといっていた。祭りなども嫌いで縁日で売っている綿アメなんかは少量の砂糖に過ぎないから高い金を出して買うのはバカだという。誕生日やプレゼントなどもしない。クリスマスツリーなどを用意するのもすべて父だった。母ほどではないが、私が実用的な考えをする傾向にあるのは母の影響を受けている。

子供が好きであるか嫌いであるかは、環境もあるだろうが生まれつきの性質もあると思う。 母は長女で下に妹や弟がたくさんいるが、面倒見のいい性格ではないし、小さい子に進んで声をかけている様子は見たことがない。子供好きな人は、子供を見れば寄っていってちょっかいを出し自ら遊ぼうとするが、母はそうではないし、私も同じだ。

さらに、私は子供の時から近所や親戚の赤ん坊や幼児をかわいいと思ったことがなく、むしろ異常に怖くて、いっさいかかわりをもちたくないと思うのであった。
それが、どうしてなのかずっとわからなかったのだが、ひとつ思い当たることがある。
私がもの心ついたころ、母はエミちゃんという美容院の赤ちゃんを預かっていたことがある。家にエミちゃんの写真があるので覚えているが、エミちゃんはやっとおすわりができるくらい、生後6~7ヶ月くらいだったと思う。エミちゃんがうちに来たときは妹ができたようでかわいいなと思い、興味津々だった。
しかし、母は幼稚園に行くか行かないかの私に、よその赤ちゃんであるエミちゃんをいじらせなかった。一方、姉はもう3~4年生になっていたから、進んでエミちゃんの面倒をみていた。
ある日、姉がエミちゃんをコタツの上に座らせると、エミちゃんはそのままばたんとうしろにひっくり返ってコタツ板に頭をぶつけ大泣きをし、母がその音と鳴き声に血相を変えて飛んできて、こんな赤ちゃんをコタツの上に座らせるバカがあるかと姉を叱った。私はそばで見ていたが、ますますエミちゃんには近づかないほうがいいと思った。
末っ子である私には赤ちゃんに接するという機会はあまりなかった。同じころだと思うが、母と親しい近所の人が、やっと歩くくらいの小さい子をつれて玄関の前で立ち話をしていた。赤ちゃんには「いないないばあ」をして笑わせるもんだと思った私は、母に「いないないばあしようか?」と言った。すると母は「そんなことしたってだめだ」といった。私は遠慮がちに自分が思ったことをしてみたが、母の言うとおり相手は喜ばなかった。たしかに、いないないばあをするには相手は大きすぎた。
そのようなことから、自分は赤ん坊とかかわりを持ってはいけないという刷り込みができてしまったのだと思う。また、相手が子供に限らず、人に向って私が何か言うときに、母がどう思うか、そんなバカなことを言うもんじゃないなどと叱られるのではと思い、私はいつでも自分のほうから人に働きかけることを非常に恐れるようになった。

私にとって、小さければ小さいほど子供は怖い。その後、親戚が幼児をつれてくると、中学生のころなどは自室にとじこもってひたすら親戚が帰るのを待っていたりした。

正確に言えば、私は子供が嫌いなわけではなく、子供に働きかける自信がないということは自分にもわかっていた。
高校生のころのある日、母の一番下の弟夫婦が急にうちにやってきて、何やら急いでいたのだが、そのお嫁さんは私が義理の姉の子供だろうと見ると、突然赤ん坊を私のひざに乗せ、ちょっと抱いててねといってどこかに行ってしまった。私が子供嫌いで小さい子の面倒などは見ない子だということは親戚の多くは知っているので、普通私にそんなことを頼む人はいないが、そのお嫁さんは結婚したばかりで私の特質など知らなかったようである。
そのときが私が初めて赤ん坊を抱いたときであると思うし、赤ん坊を触ってはいけないという刷り込みが解かれたときだったのかもしれない。ほんの数分間のことだったが、私を信頼して預けてくれたことが意外であり、嬉しかった。
その後も赤ん坊にはどう働きかけたらいいのか、私にはわからなかったが、姉が子供を産むと、その子は他人の子ではないから、触ってもいいんだという安心感があって、普通に接することができたし、自分の子はやはりかわいい。そして、自分の子を育てれば、他人の子も怖くなくなり、子供に対するトラウマはなくなっていった。

それでも、私は子供より大人のほうが好きである。自分の子を幼児だからかわいがったということはなく、何歳であろうと自分の子だからかわいいのであり、大人に成長していく子供が好きである。私が面倒を見てかわいかった当時の過去の子供の姿には関心がなく、一人前に自分で何でもできるようになった今現在の子供に関心がある。

しかし、夫は、うちの子も3歳のころはかわいかったなあなどといつも言っている。かといって、夫は幼児が好きなわけではなく、子供が小さいときに世話をしたわけでもないのであるが、単に、反抗もしないで天心無垢でかわいい姿をしていた3歳のときの姿がなつかしくて仕方がないらしい。世の中の子供も、3歳が一番だ、それを過ぎたらかわいくないなどと言っているが、確かに幼児期のかわいらしさは格別ではあるものの、私には3歳の子供の価値はそれほどわからない。
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姉妹の関係

2005-09-23 10:01:12 | 未分類過去
次女がどうしてそんなにも長女を嫌うのか問い正したことがあるが、具体的な理由はでてこなかった。ただ、とにかく嫌いなタイプだということである。

そういえば、私は姉と仲がいいが、姉が、もし他人ならば絶対に付き合いたくないし、友達にはなりたくないタイプなのである。だから、次女の気持ちがうっすらとはわかる。しかし、姉は同じ親から生まれ同じ家庭に育った世界にたったひとりの人間なので、そういう意味で理解し合えるから、やはり私にとってかけがえのない人だと思っている。

私の姉は裕福であるということを一番重要視する人間である。人を見るときに、その人が貧乏くさいか貧乏くさくないかという観点でしか見ない。そこが私にとっては一番姉のきらいな部分である。姉は世間でボロアパートにすんでいる人間などをことごとく軽視する性格であるから、もし私が血のつながりのある人間でなかったら、まったくかかわりをもとうともしないし、けっして友人づきあいなどはしないはずである。ただ、私が実の妹であるということだけで、例外として心を許して付き合っているにすぎない。

姉は自宅でピアノ教師をしていたために、30年前の独身のときから月収が30万くらいあり、結婚するときには貯金も何百万もあった。そして、本人以上に収入のある相手と結婚し、その相手が順調に出世していったから、今は2軒の家を所有し、数百万円の車も所有している。子供2人は高校から私立に行かせ、姉の娘は十万もする服を着て歩いている。とりあえずは、姉の夢はかなったと言えよう。

ところが、そのような生活をしている姉でありながら、随分貧乏くさいなあと思うことがよくある。たとえば、イタリアンレストランなどで単品料理をいくつか取ってみんなで自由に取り分けて食べる場合など、うちの場合は家族が食べたそうなものを、値段などは考えずに適当にどんどん注文して行く。足りなければすぐに追加する。あまったらあまったで、残してくる。であるから、まったく神経を使うことがない。
ところが、姉の場合は、注文するときにすごく迷う。これは誰が好きだけどこれは誰が嫌いだからどっちにしようかとか、こっちのほうが量が多くて安いとか、セットにすれば30円やすいから、この飲み物はやめてこっちにすればいいのでは、などと考え続ける。料理が出てくると、思ったより量が少なかったわね、こっちを頼めばよかったかしら、もったいないから○○ちゃん食べちゃってよ、これは頼まなきゃよかったわね、などと食事中ずっとそんなことばかり話しているのだ。こんな食事の仕方をしていて楽しいのかなあと思う。

この性格は実家の母に似ている。母は昔の人なので、お百姓さんが作ったお米を一粒も粗末にしてはいけないという考えであるから、その年代の人としては理解できる。
数ヶ月前、うちの家族と姉と実家の母で昼食を食べに行った。そのとき、各自がいろいろな定食をとったのだが、その定食にはどれも刺身の盛り合わせや煮物・酢の物・味噌汁などがついていた。母は鮭わっぱ定食をたのみ、姉は伊勢海老定食を頼んだのであるが、姉は「このご飯は多すぎる。どうしようか、もったいないわね、だれか食べない?」と言い出した。母も「こんなにお刺身がついてたのねえ、私はマグロは好きじゃないわ」などと言い出した。ならば、残せばいいだろうと思うのであるが、2人がしたことは、「じゃあご飯を半分ずつ食べましょう」と言って、姉の白いご飯をわけて食べ始め、母は「これならおかずはお刺身だけで十分だわ」と言って、食べたくないというマグロの刺身などをおかずにして食べ、メインの鮭わっぱには手を付けない。食事が終わりころになると、店員さんに何か入れ物ありますか?と聞いて、これは夕飯にすればいいと言って、母は店の人から容器をもらい手をつけなかったわっぱめしを入れている。店員さんいわく、「ああ、よっかった、お口に合わないから召し上がらないのかと思ってました」。
うちのこどもは不思議でならない。おばあちゃんは鮭わっぱが食べたくてあの定食をたのんだのに、どうして文句をいいながら嫌いなマグロとおばさんのご飯をたべてるんだろう。食べたいものをおいしいうちに食べればいいのに・・・。
私もまったくそう思う。しかし、母のそういう性分はなおらないし、姉もそれを当然のように思っている。

姉は現在、自分がお金持ちになり、住居も服装も貧乏くさくないということを安心の糧としているようなところがある。
それは、実は、彼女が子供のころ貧乏でいやな思いをしたからに他ならないのであって、実際に貧乏人の思考回路が根深く残って離れないわけだ。

うちは両親とも貧乏人の子沢山農家の生まれであって、父は会社勤めをしていたが、新婚夫婦には何もなく、小さなぼろアパートにすんでいた。かなり無理をして家を建てたのは私が小学校にあがる前である。姉は小5まで古い小さい借家に住んでいて、小学校の担任の家庭訪問のときなどかなり惨めな思いをしたらしい。「えっ、うちはここなの?」などという言葉が担任の口からでたそうだ。
姉は小さいときから音楽が好きで、本人は自分には音楽の才能があると確信していたようである。しかし、家にはオルガンしかなかった。やっとピアノをローンで買ったのが、姉が中学のときだ。そのような弊害によって思うように才能を伸ばすこともできなかったし、周囲からの先入観による差別を受けて子供時代をすごしてきたため、もっと恵まれた家庭に育っていれば・・・という思いを姉はずっともちつづけているようだ。
私は小学校に入ったときは新築の家があり、低学年でピアノがあったので、あまり惨めな思いをしたという記憶がない。ただ、ローンを抱えていたので、うちにはお金の余裕がないのだという気持ちは常にあった。しかし、姉ほど辛い思いをしたわけではないので、お金持ちっぽくなったり、財を築きたいという考えは強くないのだと思う。姉には異様なブルジョア志向があるが、それがあればあるほど劣等感の裏返しのように思えてならない。

それで、姉は他人に対してはお金がありそうな振る舞いをして、貧乏人を軽視し、自分には関係がない世界の人たちだという態度をあらわにする。しかし、それは自分がそうであったということと裏表になっているのだ。

私たち姉妹はやはりいろいろな面でせこい。手持ちのお金があっても、このことには使えないなどと出し渋るため、そのことで、様々な行動にブレーキがかかったり、いやな思いをする。
たとえば、姉は友人を車で送ってあげると実はガソリン代が馬鹿にならないのだと思ったり、私は子供の吹奏楽の演奏会のビデオが3000円もするのは高いのではと思って注文してやらなかったり、そんな家計にかかわらないような出費をどうして出し渋ってしまうのかと思うが、やはり貧乏な思考回路がしみついているからだろう。

親や家庭から引き継いできたものを同じくしているという変えようのない関係と、その中で対抗したり反発しあったりする気持ちが入り混じって、兄弟姉妹に対しては一種異様な感情がある。
親から愛情をどれだけどのようにかけられたか、今後、親にどれだけのことをしていけるか、子供としての役割をどのように分担していくのかなど、今後も姉とはかかわりを持ちながらいきていく。
姉はいつも理解者であって、また競争相手でもある。

そして、私の娘2人も同様にして、同じ家庭の中で親の思考回路や価値観の影響を受け、同感し合い、反発しあい、対抗して生きていくのであろうかと思う。
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先生からのいじめ?

2005-09-22 01:33:11 | 未分類過去
今になって、私は先生のいじめにあっていたのかなあと思うことがある。
そう思うようになったのは、40代になってからの、本当につい最近だ。
あまりにも先生を信頼しすぎていたために、自分が先生から意図的にそういう仕打ちを受けていたなんていうことは考えてみたこともなかった。

それは、小学校の3年のときのことだが、今まで単に辛い思い出だと思っていたことは、学芸会の劇に自分が出る役がなかったばかりか、裏方のひとつの役割さえも与えられなかったという思い出である。
私には家が近所の友人が3人がいて、いつも仲良し4人組で行動していた。その年、学芸会では「にんじん」をすることになった。まず、主役の「にんじん」の役は教員の子供で優等生であるAちゃんに先生によって決められた。私の仲良しの1人のS子はいじめっ子役をしたいと立候補してそれにきまった。その後、いろいろ役を決める中で、先生が私の仲良し2人にお嬢様役をしなさいと言って、2人はお嬢様役になり、浴衣を着て出演することになった。私は驚いた。今までは、仲良しで申し合わせていっしょにするのが普通だったから、突然2人だけを先生が選んでしまうなんてことは考えていなかったのだ。
キャストは次々に決まっていき、ついに最後、幕の開け閉めをする役だけが残っていた。私は必死になって幕引き希望に手を上げた。しかし、多数決で他の男の子の方に決まってしまった。というわけで、私は何一つ役割を与えられなかったから、学芸会までの毎日、たった一人で下校することになった。
私の他にそういう人がいたかどうかはわからないが、みんなが残ってたのしく劇の練習や準備をする中、一人だけ帰るのは寂しくてしかたなかった。その気もちを友人のS子に話すと、自分はいじめっ子役を希望したからなれた。○ちゃんは希望しなかったんだからしょうがないよと言われた。確かにそうではあった。

もうひとつのいやな思い出。
この先生には子供が2人いるということだったが、ちょうど大学受験の年頃だった。その先生の息子たちは地元から離れたエリート高に通わせたとのことで、授業中先生は受験のことばかり話していた。当時ちょうど学生運動が激しい時代で、大学は学業どころではなくなり、東大が入学試験を見送ったから、浪人していた息子は東大には行けなくなったなどという話を授業を中断して延々としていた。まあ、その話はそれでも興味深く聞いていた。
そんなある日、私は授業中トイレに行きたくなったのであるが、先生の話は休み時間になっても延々と続いて、次の時間になっても終わる気配はなかった。以前にもそんなことはよくあったので、周囲の友人と示し合わせて先生に申し出て、ぞろぞろとトイレに行ったこともあった。しかし、その日は周囲に親しい友人がいなかったので、行動を共にする人はいなかった。私はもう我慢しきれないと思い、意を決して1人で教壇まで出て行って、黒板に書き込んでいる先生に、トイレに行ってもいいですか?と聞いた。しかし、先生はまったく聞こえないようでそのまま話したり書いたりしていたから、先生は夢中で話していて私が何か言っても気がつかないと思いあきらめて席に戻った。
話はさらに延々と続いた後、先生は受験の話をやめて、算数の授業にもどり、みんなを立たせた。1番前が0.1だったら、その後ろの人は0.2である。その後ろはいくつになるのかなどと、立った生徒を目盛り代りにして自分がいくつに相当するのかを言わせたりした。立ったらますますトイレを我慢するのはきつくなり、私は耳まで真っ赤になってトイレを我慢した。そしてようやくその時間がおわりトイレに駆け込んだ。実際教室の中で少しちびっていたが、下に流れないくらいの量で必死に止めていたので、おしっこをもらしたのは誰にも知られずにすんだ。間一髪だった。
今になって思えば、生徒が前に出てきて何かいっているのを気がつかない教師がいるわけがない。意図的にしていたとしか思えない。

先生はある日、このクラスでA高校に行けるのは誰それ、B高校に行けるのはだれそれ、などと偏差値の高い学校順に名前を言い連ね始めた。私は自分をそれほど馬鹿ではないと思っていたので、早いうちに自分の名前が出てくると思っていたが、いつまでたっても出てこなかった。そしてついにはかなり偏差値の低い高校名とどう間違っても私よりずっと成績の悪い子の名前が出てきた。しかし、ついに先生の口から私の名前が出てくることはなかった。私は先生がたまたま私の名前を言い忘れたんだろうと思った。

それから、こんなこともあった。夏休みの宿題に私はいろいろな種類の植物の葉を集め、その葉の裏に絵の具をつけて紙におしつけ、葉脈の図鑑のようなものを作った。これはクラスのみんなから、すごいね、きれいだね、という評判だった。父か母の提案にしたがって作ったもので、簡単なわりにきれいにできたから、作ってよかったなと思い、私もとても気に入っていた。作品が戻ってきたらゆっくり親にも見せたいと思っていた。
ところが、2学期が終わるころになっても先生は一向にそれを返してくれなかった。実は、教卓の近くに置かれたダンボール箱の中に無造作に入れられていて、それはあけっぱなしになっていたから、毎日それを目にはしていたのだが、先生が返してくれるわけでもなく、持ち帰れというわけでもないので、どうにもできなかった。そこには何人かの作品が入っていたと思うが、他の人がどうしたかはわからない。時がたち、いつしかそれはなくなっていた。

先生は、私たちが4人でいるとき、休みの日にうちに遊びにおいでなどと言って場所を教えてくれた。先生はそんなときわけ隔てなくやさしかったので、私は私ひとりが嫌われていたなどということはぜんぜん思ったこともなかった。でも、今、思うと、やはり先生は私をきらっていたのだと思う。もしくは、自分を主張しないこどもを懲らしめたかったのだと思う。存在しないものとして扱っていたというのが適切かもしれない。
私が自分からはきはきとものを言う子供であったなら、上に書いたことはすべて解決できたことだった。私が自分を主張しなかったから悪いのだ。
先生は、「主張をしないとこうなるんだ。だから主張しなさい」と教えるつもりだったのだろうか。でも、完全に信頼しきっている子供は、自分から先生に物事を催促してはいけないと思っているし、先生が意図してそういうことをしているなどとは考えることもできないのである。また、私が、あまりにも鈍感すぎたのかもしれない。

この先生は、よくパチンコをしていたらしく、家に遊びに行ったとき、テレビの下にパチンコでとったであろうチョコレートなどのお菓子がしまってあって、だしてくれた。私の田舎では教員でパチンコをする人は少なくないようであった。たとえば高校時代の教員にもパチンコ好きな人がいたものだ。
そして、先生の家は意外に粗末な借家だった。自分も今、粗末な家に住んでいるから、家で人間を判断するのは良くないと思うが、教員の収入から考えれば、一般的な家屋に住めると思う。いったい何に使ってしまっていたのだろうか?パチンコだろうか?子供の教育だろうか?奥さんが専業主婦だったからだろうか?
実は、うちの父もパチンコが趣味で仕事のあとにパチンコ屋に行くことがあった。そして父はけっこうパチンコがうまかった。小さい町のことだから、パチンコ屋で教師と父兄が顔をあわせることもあるかもしれない。父からは先生にあったなどということは聞いたことがないが、まさか、私や父の知らないところで、パチンコのうらみとかがあったんじゃなかろうかなどと思ったりもする。

この先生は父より年上だったから健在ならばもう90歳くらいになっているだろう。子供のころは何年か後まで年賀状など出していて、先生を信頼しきっていた。先生の年賀状は毎年、「平素のご厚情を感謝し~」などという大人向けの印刷されたものだったが、返事をもらうとうれしかった。だが、今ごろになってあの1年間の事実が見えてきたような気がする。あの先生には会いたいとも思わない。
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K先生の思い出

2005-09-19 00:33:07 | 未分類過去
自分が教わった先生で、自分を良いほうに変えてくれたと思うのは小学校6年のときのK先生である。先生が掲げた目標は「積み上げ」だった。そして、家庭学習ノートという100円ノートを各自用意させて、そこに自分がしたい勉強をして提出させた。30年前の100円の大学ノートというのは分厚い。1冊はなかなか終わるものではない。先生はそれをクラスの列ごとに日替わりで回収して中身をチェックし、その日のうちにコメントを書いて返してくれた。今になって思えば、目を通すだけでもすごい手間だったと思う。

私は勉強をする習慣がなかったので読書ばかりしていて、最初のころは本の名前と読書時間を記入するばかりだった。「読書もいいけど、たまには勉強しなさいよ」などと先生に書かれた。時には「本当に勉強しない人なんだね。でもテストができるのは不思議だなあ」「今度のテストはちょっとできなかったぞ。君ともあろう人がどうしたの?」「やっぱり、勉強すればできるじゃない」「算数ばかりやってないで、他の科目もやろうね」などと書いてくれた。当時は塾なんかに行っている人も少なく、そのうち勉強の習慣がついてきた。

K先生がよくさせたことは、問題を出してできる人に手をあげさせるのではなく、できた者から順に先生のところに持っていくという方法だった。私はそれまで一度も手を上げて発表するような子供ではなかった。ところが、その方法で初めてわかったことは、一番最初に持って行くのが私であるということがかなり多いということだった。

その年、私に起こった意外な出来事は、学級委員決めのクラスの投票で、私が副委員に選ばれたことだった。私の小学校は田舎の小さな学校で、40人たらずの1クラスが1年から6年まで変わりなく続いた。そして、学級委員をする顔ぶれはいつも決まっていた。それがその年の後半は、今まであまりめだったことのないものばかりが学級委員に選ばれた。

私は人前に立ってものをしゃべったことがなかったので、恐ろしくて、学級会のときに司会をさせられても「他に意見はありませんか?」という一言も言おうかどうしようかとドキドキしてしまい、ついに教壇の前に立ったまま一言も発することなく終わったりした。年賀状には友達数人から「もっと活発になって!」というコメントがつけられたりした。4年生以上で構成される代表委員会に出るのも恐ろしく、年下のベテラン委員の前でおどおどしていた。そういう経験をして初めて自分が今までのままではおとなしすぎて役目を果たせていないということを実感した。

卒業前の朝礼のときに全校の在校生に話す代表となり、そのときはマイクなどもなく校庭で、声が小さくて何も聞こえなかったとみんなに言われてしまった。学芸会のときは終わりのことばを代表してしゃべったが、途中で言葉を忘れ、ポケットから紙を出して見たりしてしまった。卒業式には記念品の内容を述べる役をした。そんな時、私はきっと適任ではなく、まわりのものはどうしてあんなおとなしい場慣れしない子にさせるのかと不服だったのではないかと思う。その先生になって他にも今まで目立たなかった子に役目が当てられるようになった。

勉強は好きではないがスポーツが好きな生徒も、そのころK先生と一緒にサッカーを盛んにして、すごく生き生きとしていた。
学芸会は「浦島太郎」をやったが、みんなで力をあわせて作り上げた記憶がある。クラスの卒業文集はクラス全員でガリ版を刷って作った。「自分について(自画像つき)」「将来の夢」「修学旅行」、その他の作文・寄せ書きなどから構成されている。表紙は図工の得意な子が修学旅行で行った羽田空港の飛行機の様子を版画で作り、文集の題は「飛躍」であった。この年はクラス全体が活性化した年で、6年間一緒だったものたちの集大成のような1年だった。学校行事とは関係なく卒業前に先生と先生の奥さんといっしょに遠足に行った。卒業式当日はすべてが終わっても全員がそのまま帰るのを惜しみ、校庭で陣取りかなんかして遊んだのを覚えている。そんなにまとまったクラスにしてくれたのもK先生の方針があったからだと思う。

私のようなものが、与えられた役をうまくこなせなかったのは、非常に迷惑なことだったと思う。周囲や場を犠牲にするような危険をおかしてまでも、先生がその役をさせたのは、やはり、おとなしすぎる人間をなんとか改造しようと思われたのであろう。もっと自信をもちなさいとよく家庭学習ノートで励まされた。
その先生がいなかったら、今の自分はない。私はすごく伸びやかな性格になった。

高校生のころ、先生にばったり会って進路はどうするかと聞かれた。まだ決めていないというと、教師になれと言われたが、いやだと答えてしまった。人にものを教えるなんて好きじゃないと思った。6年の時、浦島太郎の役をしたT君は、ウルトラマンのような顔でけっしてハンサムではなかったが、性格のバランスが取れていて、みんなから人気があった。そのT君は教員になった。おそらくK先生の影響だと思う。

K先生は今は、中学校の校長先生になっているそうだ。T君は小学校の教員をしていて、同級生の子供の担任をしたりしているそうで、保護者面談で会ったなどと聞くと笑ってしまう。K先生は当時25歳という若さだったので、T君が教員になってからはK先生と同僚時代があったという。T君はインターネットで名前を検索すると担任しているクラスがT君の指導の下におもしろい活動をしてメディアに取り上げられたりしていて、よく活躍しているなあと感心する。

私もT君のようにK先生に会ったときに恥ずかしくない活動をしていたい。日本語教師になったときは、我ながら自分らしい仕事についたと思った。教えることの楽しさや醍醐味を中年になって知った。でも、続けられなかった。残念だけど、やっぱり器じゃなかった。

しかし、人生は一生「積み上げ」だ。私が小学校を卒業するときに書いた寄せ書きは「良い人生を」である。本当は「価値ある人生」と書こうとしたら、すでに同じようなことを友人が書いていて、その言葉に変えた。

K先生に本当にありがとうと言いたい。
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教師の資質

2005-09-18 18:26:40 | 未分類過去
きのう「女王の教室」を高校生の娘と見ていて、「小学校のときの先生でどの先生が一番いい先生だった?」と聞いてみた。娘の小学校は2年づつ担任が変わったので3人の先生に受け持ってもらったが、娘はすかさず1・2年のときのA先生だと答えた。
A先生は中年のベテランのおばさん先生で、まあ、まかせておいて安心という感じであった。一番よくないのは3・4年のときの先生だというが、40歳手前くらいの独身女性で、ちょっと線が細い感じがした。
娘にどういう点が悪いのかと聞くと、もう問題にならないくらい最悪だという返事。実はそんなことを娘の口から聞くのは初めてだった。この先生は確かに一部の保護者から授業がわからないなどと苦情が出て、担任を下ろしてくれという意見もあったようである。PTA役員からどう思いますかという電話がかかってきたことがあったが、当時うちの子供はべつに何にも言っていなかったので特に問題はないと思うと答えた。

保護者会などで話した感じでは、たしかに包容力や子供受けするオーラはなかったようである。どこかにトラウマがある人という感じはした。同類と言うのは直感で分かるので、自分に似た要素があったから、その先生のマイナス面を突く気にはなれず、むしろかばいたい気持ちがあったように思う。
でも、適職でない人は教師にはならないほうがいいかもしれない。その先生は研究所の研究員とか事務系の仕事をしていたほうがむいていたのではないかと今になって思う。
私自身もやはり教師には向かない。私は小学生のころは勉強の成績は良かったのだが、なぜか劣等感の塊だった。それはスポーツができないということが原因かもしれないが、人前で話すのが嫌いで、性格に均整が取れていないのであり、絶対に人の中心になるような人物ではなかった。今は人と話すのが好きで、人前で話すのも比較的平気だが、子供のころの人格はそうそう直るものではない。人をまとめるよりも単独行動がすきなのである。

子供が小学校を卒業するとき、謝恩会で、1・2年のときの担任のA先生に会った。
先生に挨拶に行くと、先生はうちの子が1年生のとき1人でさびしそうにしていた姿を今でも辛く思い出されると話された。そういえばうちの子は1年生のころ友達がいない時期があり、学校に行くのがいやだ、死にたいなどと言ったことがあった。上の子に休み時間様子を見に行ってもらったこともある。
思い余って先生に手紙を渡そうと書いたのだが、そのまま渡さず、そのことについて話をしたこともなかった。それで、先生はそんな深刻なことは知らないと思っていたのだが、ちゃんと見ていてくれて、親の私が忘れているようなことを、数年後にも記憶していてくれていた。
子供は2年生くらいになると、あぶれた変人同士でなんとなく仲良くなり、その後は友人がいなくて困るということもなく、親のほうは初めから問題が存在しなかったように忘れていた。しかし、先生は1時期であろうと辛い思いをさせたことについて今でも心を痛めてくださっている。そこが人間性の違いかもしれない。

ところで、日本語学校の場合、もう19歳以上であるので、大人対象であるが、外国に来て精神的に不安定な学生も多いので、なかなか難しい。私は優しすぎると言われることが多かったが、教師になりたてのころ授業中返事をしない女子学生を叱ったら貝のようになってしまい、その後、私の授業には一度も出なかった子がいた。私はそんなにもその学生の心を傷つけてしまったのだろうか。関係を修復できないまま卒業してしまった。私にはどうでもいい優しさはあるが、本当に必要な優しさはないのかもしれない。それから、今思えば、授業がうまくなかったというのがその学生にしかとされた一番の理由で、授業に出る価値がないと判断されたのかもしれない。

同じように授業を進めているつもりでも、先生によって学生の受けがぜんぜん違う。自分が一生懸命教えても学生をうんざりさせたりすることもある。まごころをこめて接しているつもりでも、学生が心を開かないことがある。別の先生なら開くこともある。学生によって評価が違うこともある。

私が小学校6年生のときの担任は、私にとっては非常にいい先生だった。その先生は私の能力を引き出し、自信のなさを何とかなくそうとしてくれた。教え方もいいと思った。しかし、その先生に対する評価がぜんぜん良くない人もいた。その人はその先生から長所を発見してもらえなかったからだろうか。

すべての生徒にとっていい先生と言われる先生は、いったいどこが違うのだろうか。
よくない先生になってしまった人は、いい先生に改善することができるのだろうか。
いい先生の素質は、天性なのだろうか。

いとこが教員をしているが、毎年家族の写真入の年賀状に近況の手書きのコメントをつけて実家の母のところに送ってくる。私はといえば、叔母のところに年賀状を送ったり送らなかったりで全く一貫性がない。子供のころも2歳年下のそのいとこのほうが何でも優れていた。水泳をしてもピアノを弾いても私が劣っていた。教員と言うのはやはりいいかげんな性格ではだめだろうと思う。人望が厚い。器が大きい。その素養は自然に身についているもので、どうにもならないようにも思う。

なんだか、支離滅裂になってしまったが、教師というのは誰にでもできるものではなく、やはり大変な仕事だと思う。

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いいかげん目覚めなさい!

2005-09-17 23:04:24 | 未分類過去
女王の教室最終回だった。

「いいかげん目覚めなさい」

真矢の言葉は心にしみた。色々色々、心に響く言葉があったが、今そのとおりには再現できない。ただ、くだらないことをぐたぐた考えていないで今するべきことをしろ。そして、いつまでも甘えているんじゃない。ということは、私自身に向けられた言葉だった。

ドラマを見ていたら、今までこのブログに書いてきたことなんか、全部削除してしまいたい気持ちになった。でも、恥を忍んであえて残しておこうかと思う。これから、もっといいものを書いていきたい。

それから、私はいい教師ではなかった。自分にも人にも甘かった。毅然とした態度がないし、教え方も下手だった。器が小さく弱かった。努力も足りなかった。
自分自身にもっと厳しくなって、人間性を向上させ、技術も磨かなければいけない。

それから、天海祐希はかっこいい。最後に初めて微笑んだカットが印象に残った。このドラマの最中一度も笑う場面がなかったのではないだろうか。
私は、いつも学生から優しい先生だと言われたけれど、どちらかというと、優しすぎるというニュアンスがあった。にこにこしていればいいってもんじゃない。

教師には厳しさや真心が必要だが、それ以前に教えるテクニックが必要だ。わかりやすい教え方。学生をひきつけるカリスマ性。時にはユーモア。

今日、もう一人、実際の教師としていいなあと思ったのが、竹中平蔵氏。テレビ番組のなかで、経済について話していたが、非常に朗らかで分かりやすい解説だった。あんな先生の授業は楽しく集中できそうである。
これからの日本を救うのはスペシャリストだそうだ。子供たちには、自分の選んだ専門分野でがんばってもらいたい。
私は、日本語教育のスペシャリストにはなれなかったけど、まだまだがんばる。  






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2005-09-16 23:53:46 | 未分類過去
急に寒くなってきた。数日前、蝉も鳴かなくなったなあと思っていたら、おとといまたツクツクボウシが鳴いていて驚いたが、さすがにもう蝉もいなくなるだろう。7月ころ、まずアブラ蝉が鳴き出し、そのあとミンミン蝉がなくようになった。8月中ごろから後半くらいにかけてか、アブラ蝉が家の中に飛び込んできたり、階段の踊り場やベランダに墜落してきたりしていた。この辺は桜の木が何本かあるので、蝉が多いが、家に向かって飛んでくるのは必ず茶色いアブラ蝉である。ベランダなどで鳴かれるとうるさくてたまらない。ミンミン蝉は声は聞くが姿は見たことがない。
蝉は地面の中で6~7年過ごし、地上に出てからは1週間足らずの命だと聞く。蝉にとっては最後の1週間はどんなものなのだろう。そして、地面にいる長い期間は楽しいことなどはあるのだろうか。墜落して仰向けにひっくり返った蝉を起こしてやるのだが、しばらくするとまたひっくり返っていたりする。もう死んじゃったかと思うと、生きている。また起こしてあげるが、またひっくり返る。だから、もうそのままにしておく。
子供が小さいときに、蚕を飼った。蚕は毎日桑の葉をひっきりなしに食べ、ある日糸を出して一生懸命繭を作った。しばらくすると、まったく別の形の蛾になって繭から出てきた。新幹線の車両のようだった蚕の幼虫とは顔も目も全然違って似ても似つかない。そしてすぐに交尾をして卵を産んでそれからしんでしまう。
いったい、それらの虫というのは、どの姿が本来のすがたなのだろうかと思う。成虫は終末である。時間の長さだけで考えれば人間だったら老後の時期に当たるだろう。それならば、幼虫である時期がその虫の大部分の人生(虫生)であって、その時期も楽しいものなのかもしれない。蚕は桑の葉を食べていた時期が一番楽しかったのかもしれないなあと思ったりする。成虫になるともはや口もないらしい。蝉もたくさん鳴いて配偶者を見つけて子孫を残すという最後の勤めを終えて死んでいく。墜落するたくさんの蝉を見ていると、蝉というのはそういうものであって、立派に生き抜いたんだからそれでいいんだ、ころがったままほっとけばいいんだという変な納得のような気持ちになる。
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北京で買ったパンダの湯のみ

2005-09-14 22:27:15 | 未分類過去
何年か前に家族で北京に行った。日本語学校は中国人の学生が多く、中国に関心をもったからだ。日本で売られている中国製のものは安い。それで、中国に行ったらいろいろ安い物が買えるんだろうと思ったのだが、ガイドさんが連れて行ってくれるところは、どこも高級品ばかりでとても高かった。シルクのスカーフが1万円近くしたり、お茶なども何千円もしていた。何でも数千円を下らずもっと高いものも多い。

日本人をどんだけお金持ちだと思っているんだろう。夫はホテルにこだわる人で、一番高級なホテルのコースにしていたために、お金持ちだと勘違いされたのではないかと思う。
店の人に勧められるたびに「高いですねえ。こんな高いものはふだん日本で買ったことがありません。とても買えませんよ。」と答えて、どこも見るだけですませた。

そんな中で、お茶を試食するところに連れて行かれ、いろいろ飲み比べたりしているうち、店の人が赤字で「北京」と書かれた青い湯飲みを出してきて、そこにお茶を入れて見せた。すると、北京の文字と青い部分は見る間に消え、代わりに笹の中を歩くパンダの絵が浮き出てきた。温度に反応して変わるのだそうだ。値段は一個千何百円かしたような気がする。以前上野の科学博物館で買ったマンモスのコーヒーカップは700円くらいで、お湯を入れるとマンモスの体が骨に変わるものであった。それよりかなり高いなと思いつつも、パンダの絵はもっと色がきれいだし、このくらいは記念に奮発しようと思って2個買った。

日本に戻ってきて、その湯飲みを2~3回くらい使ったある日、皿洗いの嫌いな私はしばらく他のものと一緒にその湯飲みを水の中につけておいた。数時間後、湯飲みを洗おうとしてぶったまげた。青地に北京の赤い文字が妙にゆがんでいる。どうしたことかと思ってみると、なんとはがれて破れている。そのとき初めてそれは湯飲みに描かれたり焼き付けられたりしているものではなく、単にシールのようなものが貼り付けられてあったのだとわかった。

ひとつはそうやって見るも無残にはがれて取れてしまい、あとに残ったのは真っ白で単純な湯のみだった。簡単に水ではがれるようなものが貼り付けてあっただけと知りすごいショックだったのだが、もう一個のほうは、はがれかかったのをそっともとに戻し、はがれないように大切に食器棚にしまっておいた。

今から数ヶ月前のある日、夫は会社の健康診断で検尿をしたところ、血尿でひっかかった。目には見えないけれど血液成分が入っているとのこと。夫はそういうことには恐ろしく敏感で、即自分で近所の病院に診察を受けに行き、さらに薬局から尿の検査紙を買ってきては、排尿するたびにリトマス紙のようなものを自分の尿につけて色が変わったかどうかなどと点検していた。結局、健康に異常はなかった。
ところで、そのときに夫が信じられない行動を起こしたのである。紙コップがないかと食器棚を探していた夫は、その北京の記念の湯飲みを取り出して、トイレに持って行って、その中に放尿したのだ。夫の言い分では、「中国人にだまされた。こんな偽物はいらないだろう。こんなもの、ションベンを入れるのにちょうどいい」と言うことである。

中国人はシールではないとは言わなかったのだから、こっちが勝手にシールじゃないと思いこんでいただけだった。貼り付けてあっただけなのはショックでだまされた気分だったが、私には記念の湯のみだった。
しかし、夫はもともと欧米が好きな人間で、本当は中国には興味もなく行きたくなかったらしい。夫は中国がきらいなんだと思う。

今、その湯飲みは、トイレの片隅に置きっぱなしになっている。
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運動部の子

2005-09-13 21:20:10 | 未分類過去
今日は、高校生の娘がどっと疲れて帰ってきた。朝練があると授業中眠くて仕方がないという。体育祭の前で、その練習を朝一時間早く行ってやっているのだ。そして、授業が終わると今度は部活で、それが7時過ぎまで。家に帰るのは8時近くである。これを労働にしたら12時間くらい働いていることになる。いくら若くても疲れるわけである。帰ってくると自分で体育着やタオルを洗濯機に持っていって洗っている。今は全自動だから簡単だが、我が子ながら偉いなあと思う。私があてにならないので、自分でやるようになってしまったのだ。たまに疲れて寝てしまいそうになり、洗濯が終わったら干しといてとたのまれるので、そういう時は干してやる。
普段は、洗濯をしながらテレビを見ている。あと、携帯のメールをしている。それで、勉強はほとんどしない。

だいたい、私の子供が中学から高校に至るまで運動部を続けていること自体信じられない。そういう人種は私の家系にはいなかった。それで、1学期は体育が5だったというから、これも驚いた。私は体育が大の苦手なのだ。子供も運動神経がいいわけではないが、たまたま一学期にやった体育の種目2つともが、中学と高校の部活と同じだったのだそうだ。

体はさすがによく鍛えられている。筋肉のつき方が違う。健康美である。
それから、運動部というのは、口よりさきに体が動く。
体育会系が買われるのはそういう点なんだなと思う。余計な口をたたいている間に自分でやったほうが早いとも思うらしい。

全く、怠慢な親に似ない子で、そういう点では尊敬する。


 
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顔で勝負

2005-09-08 21:33:15 | 未分類過去
ふたたび北野武の話になるが、新作映画のポスターがテレビで紹介されていた。それが、映画内のふたりの人物、ビートたけしと北野武の顔であり、さらにその顔が描かれるための粒子の1つ1つは彼の小さい顔でできている。つまり、微小な顔の集合体がひとつの大きな顔を作るという構成になっているのである。そこまで顔にこだわったかと感心する。
この映画は今まで北野氏が作ってきた映画の総集編だとも本人が言っているようであるが、そこにはやはり58年の人生が刻まれた顔が来るのであろう。人はかならず自分の顔と向き合わなければいけない。

俳優は顔が命。芸能人も顔が命。だから、2枚目俳優や女優は美を追求するが、中高年になって、かっこいいなあ・インパクトがあるなあと思う俳優は単なる美しさではなく、総合的な人間としての迫力・味・魅力を顔が語っている。美を追求したら顔面麻痺の後遺症などはマイナスのはずだが、北野氏の場合も、それは総合的な人間の顔としては何の障害にもなっていないのだ。

男性だからそれができるのかもしれないが、もともと美人でもなく、顔面麻痺の後遺症が残り、若さもなくなってきた現在の私にとっては、自分の目標もそういう総合的な味を目指すしかなくなってきた。
このごろ、自分の顔を鏡に映すのはまったく張り合いがなく、あきらめの境地だ。しみやしわが増えてきて、その老化現象に太刀打ちできない。どんなに化粧をしても目の下のくまは隠せない。また、もともと視力がいいのがわざわいして、早くも老眼になってしまい、老眼鏡を手放せなくなってしまった。おばあさんに突入である。
こうなったら、若く美しい女性路線は不可能だから、変に若作りしても逆効果、中高年なりの雰囲気をかもし出した婦人になるしかない。

私はもともと美容というものに労力をつぎ込めない性格である。だから、洗顔やマッサージや基礎化粧などということがこまめにできない。それで、その結果が肌の老化に現れている。肌の手入れやお化粧に費やすためのお金と時間がないというのも大きな要因でもある。

ドモホルンリンクルのコマーシャルで50代の人がシミもシワもないきれいな顔を披露しているが、ああいう人は一日中自分の顔に注意を向けて、念入りに手入れをしているんだろうと思う。化粧水ひとつつけるのも忘れて寝てしまうような私には、ぜったいに無理だ。

私の顔にシミが多いのは過去に3年間外を歩き回る肉体労働をしていたことも大きな原因である。
子供が小さいころ、学校に行っている間にできる仕事で、ちょうど良かったのだ。肌は紫外線で荒れてしまったが、毎日4時間歩いていたので健康診断の血液検査ではコレステロール・中性脂肪などすべて理想的だと毎回言われた。
ところで、シミはなぜか顔面麻痺になった左側のほうが断然多い。左頬には大きなシミの集団がある。神経が正常でないと血行や代謝が悪くて、メラニン色素がたまってしまうのだろうか。それとも単なる偶然なのかわからない。このシミはレーザー光線で消えるそうであるが、ひとつ消すのに1万円くらいかかるから10万円以上かかりそうだ。実家の母に、お金を出してあげるから治したらどうかと言われたことがあるが、そこまでして直す必要もないだろう。

この間、ひとつの発見をしたのだが、私は眉間に一本だけシワがある。それは右側であり、気がついたときはかなり深く刻まれていた。いつの間に眉間にシワなど・・・と思ったのだが、いろいろ苦労があるから知らないうちについ眉をしかめてしまうこともあるんだろう。きっと眠っている時に険しい表情で寝ていたりして、いつの間にか消えないほどになってしまったにちがいない。45年も生きていると心労が多いのだ。笑いジワならまだしも、眉間のしわを発見したときはショックだった。
ところで、どうして左側にはないのか?普通眉をしかめると眉間には2本のシワができるものだ。しかし、私の場合、左側は顔面麻痺で筋肉の力が右の半分くらいしかないから、眉間にしわをよせる力が弱いのだった。それで、左側だけシワができないという結果が生まれていた。
顔面麻痺が顔の険しさを緩和してくれることもあるんですね。

いずれにしても、女40代、自分の生き方と自分の顔に責任を持たねばならない。

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顔面神経麻痺

2005-09-07 00:33:46 | 未分類過去
顔面神経麻痺はけっして私を不幸にしたわけではなかったが、私から健全な顔の表情を奪ったことは確かである。36歳のある日を境に、それきり私の顔はそれ以前のようにはもどらなかった。一生、目をぱっちり開いたまま笑うことはできないし、普通の顔でハンバーガーをほおばることもできない。スパゲッティーなど食べるときは口の周りにつきやすいから、一口食べるたびに口を拭く。左側の唇の動きが悪くなったからだろう。
昔は口笛もよく吹けたが、今は吹けない。昔、クラリネットを吹いていたが、これも唇に力を入れるからおそらく今は無理だろう。クラリネットを吹く形をすると目のほうが完璧に閉じてしまう。吹けたとしても、恐ろしく見苦しい顔をさらさなければならなくなってしまう。でも、どうせ吹くこともないからどうでもいいことだ。

顔面麻痺になったときは、2人の子供は小学生だった。総合病院の耳鼻科で診察を受けたら、入院しろと言われたが、子供と夫だけで家にいるのは無理だった。夫は仕事が休めないし、夜勤もある。それに、自分は顔が動かないだけで、体は元気だった。動かない顔をさらすのは恥ずかしいからマスクをして自転車で毎日病院に点滴に通った。顔が麻痺するとまぶたが動かなくなるが、閉まったままにはならない。半開きのままになる。瞬きができないからゴミが入ってしまう。そこで、眼帯をする。眼帯とマスクで顔を覆い、右目だけ出して通院した。
私の予測では、顔は2週間は完全麻痺、その後回復して一ヶ月くらいで元に戻るだろうと思っていたがそうはいかなかった。一月たっても顔はほとんど動かなかった。
顔の半分の筋肉が働かないということは、単に顔半分が動かないということではない。麻痺しているほうは、形を保つ力もないということである。普通、笑う場合は、口角が左右で引っ張って口の形を作っている。しかし、片面が麻痺している場合は、麻痺した側の口は正常な側の引っ張る力に対抗する張りもなく、不気味な形にゆがんでしまう。右が斜め上に上がれば左は斜め下に下がるのが物理の法則である。片面で笑っても顔全体は世にも恐ろしい表情になってしまう。口も動かないから飲み物などはみな隙間からこぼれてしまう。これも物理の法則で、手で唇をつまんでふさぎながら食べる。
神経は一日に0点何ミリしか成長しないとのことで、直るのには順調に行っても時間がかかる。神経は顔中に張り巡らされているものらしいが、修復する段階で、つながるべきでない神経同士がつなぎ合わさったりしてしまうので、動くようになったときに、目と口が共動運動を起こしてしまったりする。ものを食べると涙がでるというワニ目現象も起きる。

直りが悪いと悩みかけたころ、初めてペインクリニックというものの存在を知った。そのときは発症から2ヶ月近くたってしまっていた。ペインクリニックで星状神経節ブロックという治療を始めたら、徐々に顔が動くようになってきた。本当はもっと早くその治療を始めればよかったようだ。少しずつ目に見えて動くようになっていった数ヶ月は本当に嬉しかった。

女優の松居一代さんも顔面神経麻痺を患ったそうだ。発病時は私よりひどかったようだが、入院して治療を受け、今は完全に直っており、その後、船越英一郎氏と再婚して幸せに暮らしている。

「入院しないで治りが悪くても知らないぞ」と口の悪い耳鼻科医が言っていたのを後になって思い出した。治療法は入院しても点滴をするだけのように聞いたので、自宅から通っても同じことだと思ったのだが、やはり違ったのだろうか。ペインクリニックにもっと早くから通っていたら、結果はもっと良かったかもしれない。

顔面神経だから命に別条はないけれど、これが血管だったりしたらおしまいである。人はいつどうなるかわからないと思った。生き物でも物体でも、一瞬にして破損したら元どおりには戻らないことがあるのだ。


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北野武との共通点

2005-09-06 00:03:10 | 未分類過去
昨日、テレビに北野武監督が出ていた。また新しい映画を作ってベネチア国際映画祭に出品したそうだ。「TAKESHIS’」というこの映画は、本人にもわけがわからないものだそうだ。たけしさんにはこれからもどんどん活躍してもらいたい。

北野武と私には共通点が二つある。
ひとつは「おにぎりを食べるときの顔」
北野氏がおにぎりを食べようとして口を大きく開けると、彼の右目は閉じる。
私がおにぎりを食べようとして口を大きく開けると、左目が閉じる。
なぜならば、北野氏はバイクの交通事故で右顔面神経を損傷し、私は末梢性顔面神経麻痺で左顔面神経を損傷し、両人ともその後遺症が残っているからである。
瞬きも良く見ると右目と左目の動きの活発さがちがう。正常なほうは、ぱちぱち瞬きできるが麻痺したほうは鈍い動きをしている。私は北野氏よりも多少症状が軽いかもしれないが、自分の顔は普段は見えないから詳しいところはよくわからない。
とにかく、口の動きによって片目が閉じてしまうから、笑うときは両目を細めるように工夫している。口を閉じたまま笑うよりは口をあけたほうが目の引きつりは少ない。
発音練習などすると、目の周りの筋肉がつっぱって苦痛を感じてくる。パ行は特によくない。以前、コーラスをやっていたが、発声練習に苦痛があるし、コーラス大会の写真の顔が見苦しいからやめた。
だから、おそらく日本語学校の採用の面接くらいではあまり他人に気づかれないが、教室では、顔の不具合が目立つことがあるかもしれない。

以前、ボランティア教室で教えていたときに、一番前の席に座っていた中国人の若い女性が口をぽっか~んとあけて、私の顔に見入っていたことがある。それから、日本語学校の学生と個人面談などしていると、かなりの割合で学生が自分の目の下をこすったりする。話すときに私の左目の下まぶたが細かく痙攣するからではないかと思っている。

顔面神経麻痺で一旦顔半面が完全に動かなくなったのは、私が36歳のとき。そのときも人生のリセットだった。そのころは肉体労働者だった。外を歩き回っていて冷たい風に当たったのが原因で、顔面神経が炎症を起こし麻痺してしまったのかもしれない。
医師の治療を受けながら、人のためになるもう少し知的な仕事がしたいと思った。長らくペインクリニックに通ううちに通院依存症みたいになってしまっていたのだが、あるとき、医師からこれ以上治療しても効果はないと言われた。それで、いつまでも人の世話になっているばかりではだめだと思った。
そのころ、たまたま近所で国際化や外国人問題を扱った講座が開講され、病院の代わりにそれに通うようになった。その後、肉体労働を続けながらそのお金で日本語教師養成講座に通って日本語教師になり、日本語学校に就職した。

今思えば顔面神経麻痺になってよかったのかもしれない。顔が多少不自由になったにもかかわらず、その後、運が開けてきた。人のつながりも老若男女国籍問わず広がった。
北野武氏のことはよく知らないが、事故の後、映画の制作など、また新しい活躍が始まったのではないだろうか。

北野氏とのもうひとつの共通点は、誕生日である。当然、年は違う。しかし、誕生日が同じ人というのは、何の根拠もないけれど、どこか自分と共通点があるのではないかと思って、親しみを感じる。

不思議なことに、私の中学一年のときの初恋の人は私と同じ誕生日だった。また、高校であこがれていた人もまた、同じ誕生日だった。この2人は同級生だから、本当に私と同じ日に生まれている。それは、ひきつけられた後になって知ったことで、その偶然に驚いた。何か、直感的に感じるものがあるのかもしれない。しかし、どっちも片思いでろくに話しをしたこともなく、縁はなかった。

北野氏は偉大な人だ。顔面麻痺と誕生日ごときで親しみをもつなんて失礼かもしれないが、私も頑張って何か才能を発揮したい。

昨年、うつ状態になって神経科に行ったときに、顔面神経麻痺のことも話した。そのとき、今から結婚するわけじゃないし、離婚されるわけでもないし、生活上特に不自由もないし、これはどうって問題ではないねと医師と話した。
顔面神経麻痺の後遺症はうつ病の原因や私の人生のマイナス要因にはなっていない。

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