私は、1度だけ競輪場に行ったことがある。
小学低学年の時、父に連れられていった。
父の趣味は、競輪とパチンコ。今考えると、ギャンブル好き?
その他には、ゴルフと釣り。
なんで、父が私を競輪場に連れて行ったかというと、小さい私が一人で家にいたからだろう。
競輪場に着くと、鉄棒のある遊び場があって、父がそこで少し遊んで待っていなと言って、出かけて行った。たぶん車券を買いにいったのかな。
レースのことはまるで覚えていない。
それで、実は、母の職場は、その“競輪場”なのだ。だから、母は競輪が開催される週末は、仕事だった。昔は今みたいに自動販売機じゃないから、おばさんたちが車券を売っていた。車券売り場担当と、引き換え窓口担当とかあって、引き換えは、車券の数字があっているかどうかを調べ、お金を計算して渡すという、結構神経を使う仕事だったらしい。
車券の数字には穴があいていて、複数枚あるときは、重ねて穴が貫通していれば、その枚数を数える。数字を間違えたり枚数を間違えたりすると大変だ。ときには、違っていると知っていながら似たようなものを持ってくるお客もあるらしく、騙されないようにしなければならない。最終的にお金が合わなくて苦労することもある。
あ、なんか私は、そのように把握してるんだけど、これらはみんな、私が小さい時に母から聞いたことをもとにしてイメージしたことなので、本当にそうだったのかは不明である。
今はきっと自動読み取り、自動計算になっているのかな。
昔はそういうわけで、地元の同級生の多くのお母さんが競輪場に勤めていたのだった。
競輪の多くは、土・日・月と開催されたかな、それとも金・土・日だったか、一日だけ平日が入るというパターンが多かった。
中学の時、同じクラスにちょっと口べたな男の子がいたのだが、保護者面談かなんかの日が、競輪の開催日だった。それで、その子が先生に「その日は競輪だからお母さんは面談に来れない」って言った。そうしたら、担任が、「競輪?競輪があるからって、そんな理由で・・」のような反応で、あきれ返りバカにしきった反応を示した。
きっと担任は、そのお母さんが競輪を趣味にしてのめりこんでいる人だと思ったに違いない。「だって、競輪だから・・・」と男の子は口ごもった。先生はさらに「だから、競輪なんてさ・・」と言い続けた。
私は、その子のお母さんは競輪場に勤めているんだとぴんときた。「先生、違うんですよ。○君のお母さんは、競輪場で働いているんです。」と私は言いたかったが、本当にそうだと知っているわけではないので、口に出すことができなかった。
父と競輪場に行った時のことに戻るが、今思うとその日は何か記念すべきレースでもあったのかもしれない。でも、子連れだったから父はそんなに長くはいなくて、1~2レースくらいで引き揚げたと思う。
今思うと、儲かったんだろう。髪飾りとか洋服とかかってもらった。
父は洋品店に行くと、マネキンが来ている服を指差して店員にたのんではずしてもらい、それを買ってきた。襟と胸にフリルのついた白いブラウスと水色のスカートだった。私はいつも姉や従姉のお下がりばかり着ていたので、新品の服を着るのは初めてだった。
夜、母が仕事を終えて帰宅して、その話を聞くと、「子どもを競輪に連れていったりして」といって、父をとがめたが、私は服を買ってもらったので嬉しかった。
父はパチンコに行くと、チョコレートやビスケット、そして自分の分は煙草に交換していた。自宅には、パチンコでとったフランス人形が2つ今も飾られている。
母は質実な人間で、一切無駄な物を買わない人なので、父のおかげで嗜好品を手にすることができた。
そんなわけで、競輪場では、父が客、母が従業員であった。競輪場の窓口は、客からは中が見えず、中からはお客の顔が見えないらしい。しかし、声や手先などで察することができ、「今日、多分お父さんらしい人が私の窓口に車券の買いに来たよ」などと、母が言っていたことがある。
当時、競輪場は結構な収益を上げていたので、母の給料も悪くはなかった。今は煩雑な作業が自動化されたこともあり、かなりの人員削減が行われたようだ。競輪事業は地方公共団体がやっているので、公務員の給料見直しなどとも関連して、競輪のおばさんのたちの給料も削減されたのではないかと思う。だから今は下火だ。
母はずっと前に定年退職し、退職金までもらってやめた。あのころは、いい時代だったね。
小学低学年の時、父に連れられていった。
父の趣味は、競輪とパチンコ。今考えると、ギャンブル好き?
その他には、ゴルフと釣り。
なんで、父が私を競輪場に連れて行ったかというと、小さい私が一人で家にいたからだろう。
競輪場に着くと、鉄棒のある遊び場があって、父がそこで少し遊んで待っていなと言って、出かけて行った。たぶん車券を買いにいったのかな。
レースのことはまるで覚えていない。
それで、実は、母の職場は、その“競輪場”なのだ。だから、母は競輪が開催される週末は、仕事だった。昔は今みたいに自動販売機じゃないから、おばさんたちが車券を売っていた。車券売り場担当と、引き換え窓口担当とかあって、引き換えは、車券の数字があっているかどうかを調べ、お金を計算して渡すという、結構神経を使う仕事だったらしい。
車券の数字には穴があいていて、複数枚あるときは、重ねて穴が貫通していれば、その枚数を数える。数字を間違えたり枚数を間違えたりすると大変だ。ときには、違っていると知っていながら似たようなものを持ってくるお客もあるらしく、騙されないようにしなければならない。最終的にお金が合わなくて苦労することもある。
あ、なんか私は、そのように把握してるんだけど、これらはみんな、私が小さい時に母から聞いたことをもとにしてイメージしたことなので、本当にそうだったのかは不明である。
今はきっと自動読み取り、自動計算になっているのかな。
昔はそういうわけで、地元の同級生の多くのお母さんが競輪場に勤めていたのだった。
競輪の多くは、土・日・月と開催されたかな、それとも金・土・日だったか、一日だけ平日が入るというパターンが多かった。
中学の時、同じクラスにちょっと口べたな男の子がいたのだが、保護者面談かなんかの日が、競輪の開催日だった。それで、その子が先生に「その日は競輪だからお母さんは面談に来れない」って言った。そうしたら、担任が、「競輪?競輪があるからって、そんな理由で・・」のような反応で、あきれ返りバカにしきった反応を示した。
きっと担任は、そのお母さんが競輪を趣味にしてのめりこんでいる人だと思ったに違いない。「だって、競輪だから・・・」と男の子は口ごもった。先生はさらに「だから、競輪なんてさ・・」と言い続けた。
私は、その子のお母さんは競輪場に勤めているんだとぴんときた。「先生、違うんですよ。○君のお母さんは、競輪場で働いているんです。」と私は言いたかったが、本当にそうだと知っているわけではないので、口に出すことができなかった。
父と競輪場に行った時のことに戻るが、今思うとその日は何か記念すべきレースでもあったのかもしれない。でも、子連れだったから父はそんなに長くはいなくて、1~2レースくらいで引き揚げたと思う。
今思うと、儲かったんだろう。髪飾りとか洋服とかかってもらった。
父は洋品店に行くと、マネキンが来ている服を指差して店員にたのんではずしてもらい、それを買ってきた。襟と胸にフリルのついた白いブラウスと水色のスカートだった。私はいつも姉や従姉のお下がりばかり着ていたので、新品の服を着るのは初めてだった。
夜、母が仕事を終えて帰宅して、その話を聞くと、「子どもを競輪に連れていったりして」といって、父をとがめたが、私は服を買ってもらったので嬉しかった。
父はパチンコに行くと、チョコレートやビスケット、そして自分の分は煙草に交換していた。自宅には、パチンコでとったフランス人形が2つ今も飾られている。
母は質実な人間で、一切無駄な物を買わない人なので、父のおかげで嗜好品を手にすることができた。
そんなわけで、競輪場では、父が客、母が従業員であった。競輪場の窓口は、客からは中が見えず、中からはお客の顔が見えないらしい。しかし、声や手先などで察することができ、「今日、多分お父さんらしい人が私の窓口に車券の買いに来たよ」などと、母が言っていたことがある。
当時、競輪場は結構な収益を上げていたので、母の給料も悪くはなかった。今は煩雑な作業が自動化されたこともあり、かなりの人員削減が行われたようだ。競輪事業は地方公共団体がやっているので、公務員の給料見直しなどとも関連して、競輪のおばさんのたちの給料も削減されたのではないかと思う。だから今は下火だ。
母はずっと前に定年退職し、退職金までもらってやめた。あのころは、いい時代だったね。