山咲雛子の日記

毎日何かを好き☆と感じ、感謝して、頑張っています。時間が沢山あったら、ゆっくり自然の中で過ごしたいです♪旅もしたいな♪

船岡城址公園の歴史

2010年04月22日 | ドライブ
1000本程の桜が美しい船岡城址公園ですが、山頂から見える「一目千本桜」もまた、白石川堤に沿うようにピンクの色を添え、うっとりするような眺めです。
「一目千本桜」を見たいと、遠方からの観光者も多いと聞きます。



さて、一目千本桜は、東京での事業が成功した高山開治郎が、大正12年、700本程のソメイヨシノを地元に贈呈したものです。

毎年3月には、地元の柴田農林高校の学生さんたちによる桜の枝の剪定が受け継がれ、地元の方々の善意により、桜の木が守られ美しさを保っています。
柴田農林高校では、「センダイヨシノ」などの珍しい品種の育成にも力を入れているそうですよ。



さて、船岡城址の山頂には明治30年に三角点が設置され、それによると標高は136m。

船岡城は、中世の頃は要害堅固な山城でした。
一国一城令が出された近世では、船岡城は要害と呼ばれ、城としての機能も薄れ、山頂付近の本丸、二の丸はほとんど使用されず、城下町に近い三の丸に領主の居館や政庁が移されたそうです。
明治初頭には廃城となり、現在では、三の丸に残る土塁や古井戸、枡形だった詰の門の坂の形状に、城郭の風情を感じることができます。



原田甲斐供養碑と、柴田外記供養碑が山頂のスロープカ―停留所の傍に祀られています。

それは寛文事件、あるいは伊達騒動と呼ばれる事件の歴史に起因します。
ちょっと複雑な事件なので、理解するのに少し根気が要りますが、簡単に言うと…

仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したものの放蕩はいっこうに止まらず、ついに綱宗は21歳で幕府の命で強制隠居させられ、4代藩主には、わずか2歳の伊達綱村が就任しました。
2歳の綱村が藩主になると、大叔父にあたる宗勝が後見として実権を掌握しました。
宗勝は、家老の原田甲斐宗輔(船岡城主)らと藩権力の集権化を行い、地方知行制を維持しようとする伊達氏一門(伊達安芸宗重)と対立します。

やがて、宗勝の甥にあたる伊達式部宗倫と伊達安芸宗重のあいだで所領紛争が起こると、伊達安芸宗重は幕府に一件を上訴。

1671年(寛文11年)3月27日、騒動解決を目的とし、幕府の大老酒井忠清の屋敷にて、関係者が召喚されます。
伊達家を二分した御家騒動に対する幕府の裁定が下されようとしていたその席で、原田甲斐宗輔は伊達安芸宗重に斬りかかって殺害します。
さらに原田甲斐宗輔は、安芸派の柴田外記朝意(藩奉行の一人)と斬りあって傷を負い死亡。
また柴田外記もまた、原田甲斐から受けた傷のためその日のうちに死亡。



かつて、原田甲斐が船岡城主であった頃は、この二の丸で政務を執っていました。

二の丸跡にある「絹引の井戸」は、城中井戸として用いられていました。



船岡城主であった原田甲斐の墓碑を建てることは許されなかったため、樅の木をその代わりとして供養したとも伝えられているそうです。

山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』はこの仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のモチーフとなり、周五郎作品中で、最も多く映像・舞台化されています。



関係者が死亡したこの伊達騒動はその後、原田家や兵部派が厳しい処罰をうけました。