桜の頃、船岡城址公園の山頂から北西の方角に、山全体がピンク色に色づいているのが「太陽の村」です。
残念ながらその日は、桜の見頃でありながら、雪交じりの雨を迎えていました。
(撮影4/21)
晴れていれば、 蔵王の山々や太平洋も望められるそうです。
「太陽の村」は昭和52年に開村し、柴田町の四大名所としても知られています。
柴田町の四大名所とは、白石川堤の「船岡城址」「一目千本桜」「船岡駐屯地」「太陽の村」が挙げられます。
平成11年2月には、「総合交流ターミナル施設」がオープンし、そば打ち体験等ができる食工房、レストラン、研修施設、宿泊施設等が完備されました。
かねてから、地元の食材にこだわった「ぜいたく味噌ラーメン」が気になっていました。
地元のそば粉を使った手打ちの蕎麦も興味深々ですが、このようなリアルな写真のメニューを見ると、心は一直線にラーメンに惹かれてしまいます。
まるで食堂の様な趣きですが、地元のおかみさんたちの機敏で明るい接客が、とても気持ち良いです。
オーダーのタイミングで、「花めぐり味めぐり 仙台・宮城フラワースタンプラリー」を見せると、太陽の村では期間限定で「味噌こんにゃく」のサービスが受けれます。
宮城でのスタンプラリーは毎年行われています。
スタンプラリーのチェックポイントに設置されているガイドブックのスタンプ欄(応募はがき) にスタンプを押し、3個揃ったら必要事項の記入と郵便切手を貼付し郵送することで、抽選で250名様に特産品がプレゼントされるというイベントです。
各ポイントでガイドブックを見せるだけで、何らかの特典を受けることができるのが、最大のメリット。
「太陽の村」では、2名利用でこのような「味噌こんにゃく」(2本で通常は350円)のサービスを受けることができました!
ゆずみそがとてもこってりしていて、サービスで頂くのは申し訳ないほどの美味しさでした。
これが「ぜいたく味噌ラーメン」(750円)です。
巷のラーメンメニュー「葱ラーメン」でも、こんなに凄い葱の量は見たことも食べたことさえありません。
見た目だけではなく、ひとくちスープを啜った時点で、さらなる感動が始まります。
化学調味料に頼らない、えもいえぬ風味。
野菜のお出汁が効いた、まろやかなスープ。
野菜が麺の重しとなり、かき出すようにすくい上げる、アツアツの麺の快感。
麺が無くなると、長ネギが麺の代わりとなるほどのボリューム。
ああ~、なぜ…
ほとんどの方が、このラーメンを食べ、そのあと皆満足げに会計に向かっていました。
私もです!
わざわざ山を上ってこの食堂に来た甲斐があると感じました。
船岡城址桜祭り期間中、お城前の「しばたの郷土館」が無料で入場できます。
「如心庵」は、織田信長の実弟有楽斎が380年ほど前に建造した、愛知県犬山市の国宝「如庵」を写した茶室です。
その日残念ながら内覧はできませんでしたが、外観の趣きもなかなか風情があります。
「思源閣」の名前の由来は、中国詩人、庾信(ゆしん)の詩にちなんでいます。
「其のミを落とすものはその樹を思い、その流れを飲むものはその源を壊う」
1階では、柴田町一円の歴史を知ることができます。
展示物のなかで、戦時中の火薬工場(現在の自衛隊船岡駐屯地)があったことを知ることができました。
2階は、町内外からの寄贈品の展示室となっています。
時代の流れとともに、日本人の服も変遷しました。
それに伴い、靴も、農機具も変わっていく様子が解ります。
とても懐かしい雰囲気のする「昭和の頃のくらし」の展示です。
ちゃぶ台の雰囲気や振り子時計、分厚いテレビなどの演出が、レトロ感を上手くかもし出していると思います。
昭和世代の私は、ここにある一つ一つのモノには記憶があり、嬉しくなってしまいました。
家族団欒とは、こんな雰囲気で食事をすることなのではないでしょうか。
さて、少し船岡城下の町を歩いてみました。
城下町の名残が、今も残っています。
この門構え、家の前を流れるお堀、門の向こうに見える、立派な樹木…
ここは、麹屋さんの家で、「麹屋コレクション」として、有料で拝観もできるようです。
このあたりのお家には、立派な土蔵があります。
かつての歴史に想像を巡らしながら、町を歩くと様々な発見に出会います。
歴史とリンクできるヒントを探しながら、ただ心の向くままに歩き何かを感じる、そういう時間が私は好きです。
居酒屋やスナックなどの歓楽街となっている場所は、袋小路という地名が付いていました。
17時だというのにもう、カラオケの楽しそうな歌声が流れていました。
「如心庵」は、織田信長の実弟有楽斎が380年ほど前に建造した、愛知県犬山市の国宝「如庵」を写した茶室です。
その日残念ながら内覧はできませんでしたが、外観の趣きもなかなか風情があります。
「思源閣」の名前の由来は、中国詩人、庾信(ゆしん)の詩にちなんでいます。
「其のミを落とすものはその樹を思い、その流れを飲むものはその源を壊う」
1階では、柴田町一円の歴史を知ることができます。
展示物のなかで、戦時中の火薬工場(現在の自衛隊船岡駐屯地)があったことを知ることができました。
2階は、町内外からの寄贈品の展示室となっています。
時代の流れとともに、日本人の服も変遷しました。
それに伴い、靴も、農機具も変わっていく様子が解ります。
とても懐かしい雰囲気のする「昭和の頃のくらし」の展示です。
ちゃぶ台の雰囲気や振り子時計、分厚いテレビなどの演出が、レトロ感を上手くかもし出していると思います。
昭和世代の私は、ここにある一つ一つのモノには記憶があり、嬉しくなってしまいました。
家族団欒とは、こんな雰囲気で食事をすることなのではないでしょうか。
さて、少し船岡城下の町を歩いてみました。
城下町の名残が、今も残っています。
この門構え、家の前を流れるお堀、門の向こうに見える、立派な樹木…
ここは、麹屋さんの家で、「麹屋コレクション」として、有料で拝観もできるようです。
このあたりのお家には、立派な土蔵があります。
かつての歴史に想像を巡らしながら、町を歩くと様々な発見に出会います。
歴史とリンクできるヒントを探しながら、ただ心の向くままに歩き何かを感じる、そういう時間が私は好きです。
居酒屋やスナックなどの歓楽街となっている場所は、袋小路という地名が付いていました。
17時だというのにもう、カラオケの楽しそうな歌声が流れていました。
1000本程の桜が美しい船岡城址公園ですが、山頂から見える「一目千本桜」もまた、白石川堤に沿うようにピンクの色を添え、うっとりするような眺めです。
「一目千本桜」を見たいと、遠方からの観光者も多いと聞きます。
さて、一目千本桜は、東京での事業が成功した高山開治郎が、大正12年、700本程のソメイヨシノを地元に贈呈したものです。
毎年3月には、地元の柴田農林高校の学生さんたちによる桜の枝の剪定が受け継がれ、地元の方々の善意により、桜の木が守られ美しさを保っています。
柴田農林高校では、「センダイヨシノ」などの珍しい品種の育成にも力を入れているそうですよ。
さて、船岡城址の山頂には明治30年に三角点が設置され、それによると標高は136m。
船岡城は、中世の頃は要害堅固な山城でした。
一国一城令が出された近世では、船岡城は要害と呼ばれ、城としての機能も薄れ、山頂付近の本丸、二の丸はほとんど使用されず、城下町に近い三の丸に領主の居館や政庁が移されたそうです。
明治初頭には廃城となり、現在では、三の丸に残る土塁や古井戸、枡形だった詰の門の坂の形状に、城郭の風情を感じることができます。
原田甲斐供養碑と、柴田外記供養碑が山頂のスロープカ―停留所の傍に祀られています。
それは寛文事件、あるいは伊達騒動と呼ばれる事件の歴史に起因します。
ちょっと複雑な事件なので、理解するのに少し根気が要りますが、簡単に言うと…
仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したものの放蕩はいっこうに止まらず、ついに綱宗は21歳で幕府の命で強制隠居させられ、4代藩主には、わずか2歳の伊達綱村が就任しました。
2歳の綱村が藩主になると、大叔父にあたる宗勝が後見として実権を掌握しました。
宗勝は、家老の原田甲斐宗輔(船岡城主)らと藩権力の集権化を行い、地方知行制を維持しようとする伊達氏一門(伊達安芸宗重)と対立します。
やがて、宗勝の甥にあたる伊達式部宗倫と伊達安芸宗重のあいだで所領紛争が起こると、伊達安芸宗重は幕府に一件を上訴。
1671年(寛文11年)3月27日、騒動解決を目的とし、幕府の大老酒井忠清の屋敷にて、関係者が召喚されます。
伊達家を二分した御家騒動に対する幕府の裁定が下されようとしていたその席で、原田甲斐宗輔は伊達安芸宗重に斬りかかって殺害します。
さらに原田甲斐宗輔は、安芸派の柴田外記朝意(藩奉行の一人)と斬りあって傷を負い死亡。
また柴田外記もまた、原田甲斐から受けた傷のためその日のうちに死亡。
かつて、原田甲斐が船岡城主であった頃は、この二の丸で政務を執っていました。
二の丸跡にある「絹引の井戸」は、城中井戸として用いられていました。
船岡城主であった原田甲斐の墓碑を建てることは許されなかったため、樅の木をその代わりとして供養したとも伝えられているそうです。
山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』はこの仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のモチーフとなり、周五郎作品中で、最も多く映像・舞台化されています。
関係者が死亡したこの伊達騒動はその後、原田家や兵部派が厳しい処罰をうけました。
「一目千本桜」を見たいと、遠方からの観光者も多いと聞きます。
さて、一目千本桜は、東京での事業が成功した高山開治郎が、大正12年、700本程のソメイヨシノを地元に贈呈したものです。
毎年3月には、地元の柴田農林高校の学生さんたちによる桜の枝の剪定が受け継がれ、地元の方々の善意により、桜の木が守られ美しさを保っています。
柴田農林高校では、「センダイヨシノ」などの珍しい品種の育成にも力を入れているそうですよ。
さて、船岡城址の山頂には明治30年に三角点が設置され、それによると標高は136m。
船岡城は、中世の頃は要害堅固な山城でした。
一国一城令が出された近世では、船岡城は要害と呼ばれ、城としての機能も薄れ、山頂付近の本丸、二の丸はほとんど使用されず、城下町に近い三の丸に領主の居館や政庁が移されたそうです。
明治初頭には廃城となり、現在では、三の丸に残る土塁や古井戸、枡形だった詰の門の坂の形状に、城郭の風情を感じることができます。
原田甲斐供養碑と、柴田外記供養碑が山頂のスロープカ―停留所の傍に祀られています。
それは寛文事件、あるいは伊達騒動と呼ばれる事件の歴史に起因します。
ちょっと複雑な事件なので、理解するのに少し根気が要りますが、簡単に言うと…
仙台藩3代藩主の伊達綱宗は遊興放蕩三昧であったため、叔父にあたる一関藩主の伊達宗勝がこれを諌言したものの放蕩はいっこうに止まらず、ついに綱宗は21歳で幕府の命で強制隠居させられ、4代藩主には、わずか2歳の伊達綱村が就任しました。
2歳の綱村が藩主になると、大叔父にあたる宗勝が後見として実権を掌握しました。
宗勝は、家老の原田甲斐宗輔(船岡城主)らと藩権力の集権化を行い、地方知行制を維持しようとする伊達氏一門(伊達安芸宗重)と対立します。
やがて、宗勝の甥にあたる伊達式部宗倫と伊達安芸宗重のあいだで所領紛争が起こると、伊達安芸宗重は幕府に一件を上訴。
1671年(寛文11年)3月27日、騒動解決を目的とし、幕府の大老酒井忠清の屋敷にて、関係者が召喚されます。
伊達家を二分した御家騒動に対する幕府の裁定が下されようとしていたその席で、原田甲斐宗輔は伊達安芸宗重に斬りかかって殺害します。
さらに原田甲斐宗輔は、安芸派の柴田外記朝意(藩奉行の一人)と斬りあって傷を負い死亡。
また柴田外記もまた、原田甲斐から受けた傷のためその日のうちに死亡。
かつて、原田甲斐が船岡城主であった頃は、この二の丸で政務を執っていました。
二の丸跡にある「絹引の井戸」は、城中井戸として用いられていました。
船岡城主であった原田甲斐の墓碑を建てることは許されなかったため、樅の木をその代わりとして供養したとも伝えられているそうです。
山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』はこの仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のモチーフとなり、周五郎作品中で、最も多く映像・舞台化されています。
関係者が死亡したこの伊達騒動はその後、原田家や兵部派が厳しい処罰をうけました。
今、柴田町船岡城址公園の桜は、見頃を迎えています。
4月19日、桜の香りに包まれながら、心地よい小春日和を過ごしました。
屋台も来ていました。
桜の期間中は、スロープカーが運行されています。
20人乗りの2両編成で、3分40秒で公園山頂(距離にして305m)に到着します。
平日ながら長蛇の列に並び、30分ほどでスロープカ―に乗車することができました。
(大人往復500円、片道は250円)
車内からの眺め。
桜のトンネルをくぐるような、ドキドキ感がたまりません。
スロープカ―を降りると、山頂からは船岡大観音を拝観することができます。
観音様に入ることができ、螺旋階段がありましたが、上にあがることはできないようでした。
観音様の背後には宮城蔵王の山並みにがそびえ、黄昏を迎えようとしていました。
白石川堤の一目千本桜は、これからが見頃になりそうです。
4月19日、桜の香りに包まれながら、心地よい小春日和を過ごしました。
屋台も来ていました。
桜の期間中は、スロープカーが運行されています。
20人乗りの2両編成で、3分40秒で公園山頂(距離にして305m)に到着します。
平日ながら長蛇の列に並び、30分ほどでスロープカ―に乗車することができました。
(大人往復500円、片道は250円)
車内からの眺め。
桜のトンネルをくぐるような、ドキドキ感がたまりません。
スロープカ―を降りると、山頂からは船岡大観音を拝観することができます。
観音様に入ることができ、螺旋階段がありましたが、上にあがることはできないようでした。
観音様の背後には宮城蔵王の山並みにがそびえ、黄昏を迎えようとしていました。
白石川堤の一目千本桜は、これからが見頃になりそうです。
桜が咲く時期、あぶくま親水公園は、花見山の臨時駐車場になっています。
あぶくま親水公園から随時、JRシャトルバス(300円/一人往復)が運行されており、花見山へは10分ほどで到着となります。
このあぶくま親水公園は、白鳥飛来地でもあります。
桜満開の花見山、4/15にもまだ白鳥の群れを見ることができました。
よほど居心地がいいのでしょうか。
旅立ちがとうに過ぎている時期ですが、とてもリラックスした雰囲気に感じました。
川べりを少し歩いてみると、つがいの白鷺やツバメが元気に飛び回る姿も見ることができました。
先日も雪が降り、冬と春の気温の差がはげしいこの頃です。
異常気象としか思えませんね。
旅立ちは一体いつになるのでしょうか、気がかりですね。
オナガガモのつがい。仲良さそう~です♪
右がオス。左がメスです。
タデが芽を出す陸地で、鴨たちはのんびり日向ぼっこしていて、近づいてもあまり逃げませんでした。
あぶくま親水公園の片隅には、白鳥の塚がありました。
地元の方々に、白鳥はとても大事にされているのですね。
いつかは老い、渡りををあきらめる白鳥もいることでしょうね。
あぶくま親水公園から随時、JRシャトルバス(300円/一人往復)が運行されており、花見山へは10分ほどで到着となります。
このあぶくま親水公園は、白鳥飛来地でもあります。
桜満開の花見山、4/15にもまだ白鳥の群れを見ることができました。
よほど居心地がいいのでしょうか。
旅立ちがとうに過ぎている時期ですが、とてもリラックスした雰囲気に感じました。
川べりを少し歩いてみると、つがいの白鷺やツバメが元気に飛び回る姿も見ることができました。
先日も雪が降り、冬と春の気温の差がはげしいこの頃です。
異常気象としか思えませんね。
旅立ちは一体いつになるのでしょうか、気がかりですね。
オナガガモのつがい。仲良さそう~です♪
右がオス。左がメスです。
タデが芽を出す陸地で、鴨たちはのんびり日向ぼっこしていて、近づいてもあまり逃げませんでした。
あぶくま親水公園の片隅には、白鳥の塚がありました。
地元の方々に、白鳥はとても大事にされているのですね。
いつかは老い、渡りををあきらめる白鳥もいることでしょうね。