グリーンズ・テイブル

ppのピアニッシモな戯言でござ~い☆

21世紀に生きる君たちへ

2011-08-12 07:26:42 | 

対訳 21世紀に生きる君たちへ
司馬遼太郎
ドナルド・キーン監訳/ロバート・ミンツァー訳
朝日出版社

目次
人間の荘厳さ
21世紀に生きる君たちへ
洪庵のたいまつ


ときどきコメントを寄せてくださるnatuさんのブログに「洪庵のたいまつ」が紹介されていて、体の弱かった洪庵が
人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる。
のくだりに感動したのがきっかけで、手にした本です。

「21世紀に生きる君たちへ」は周りの小さな事柄から世界中の様々な問題までを考えるときの立ち位置が示されています。

文中より
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。

さて、自然という「不変のもの」を規準に置いて、人間のことを考えてみたい。
古代でも中世でも自然こそが神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
__人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
__自分に厳しく、相手にはやさしく。
という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、科学と技術を支配し、良い方向にもっていってほしいのである。

自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、社会をつくって生きている。社会とは支え合う仕組みということである。

助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
そして、`たのもしい君たち´になっていくのである。

鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。


・・・・・


平成元年度から使われれている小学校用教科書への書き下ろしなので、ひらかなが多いですね。
小学生だけでは勿体ない。

この半年、日本はどうなの?


対訳のほうが何故か安かったので、こっちに。
スラスラ読めたら、カッコイイね。

シューマンの指

2011-06-16 01:08:56 | 
「シューマンの指」
奥泉 光
講談社

私は推理小説は読まないのだけれど、ただただこのタイトルに惹かれて手に取ったものだから、筆者の思惑通りに、素直に深~くのめり込んだ分だけ、思いっきり最後に放り投げられて、本を閉じた感。
最後のどんでん返しに次ぐどんでん返しで、それまで読んだのは何だったのかとさかのぼって思い出してはそう思うのである。
(これから読む方のために内容は書きませんが)

ただ、登場人物の語る音楽論が、クラシック音楽に多少なりとも関わっている人間としては興味深く、鵜呑みに出来ない部分も含めて、結構面白かった。

たとえば
シューマンに晦渋さがあるとしたら、それは伝統と前衛に橋をかけようとする彼の芸術的野心ゆえであり、楽譜に潜む魅力を十全に引き出しうるか否か、シューマンの管弦楽曲は、指揮者とオーケストラにとって一つの試金石といっていいだろう。誰が振っても「感動的」に盛り上がる、チャイコフスキーのごとき凡庸な音楽とシューマンは根本から違うのだ。

音大の「画一的な」教育法は、真に才能のある人間にとって有害だとの思想は、この頃すでに広く流布していて、つまり長峰修人がアメリカで音楽学校に通わず、幅広い知識を養いながら個人レッスンで腕を磨いていることこそ、彼の一流の証しだ・・・

ベートーヴェンは、ピアノソナタというジャンルを完成させた。と同時に、それを壊して見せた。後期の、とりわけ最後の作品111のc-mollは明らかに破壊だろう?偉大な完成者が自分で解体してみせるところまでやり尽くしたジャンルで、後から来た人間に何ができるだろう?

シューマンは小曲集でソナタを書いたんだ

歓喜や平安のなかに哀愁や憂鬱や不安の翳りがよぎるのは、ロマン派音楽の特徴である。闇をはらまぬ光はなく、闇には必ず光の気配がある。けれども、大抵の音楽において、光と闇があくまで交差するのに対して、シューマンの音楽には、闇が全体にねっとりまとわりつくような印象がある。喜びと悲しみが、交わり合い、重なり合うのではなく、喜びがそのまま悲しみであるような音楽。

ピアノの練習は、スポーツと同じく、純粋に肉体的な、メカニカルな鍛錬が少なからぬ部分を占める。いわゆる西洋のクラシック音楽は、ほとんど曲芸と呼びうるほどの技術を器楽奏者に要求するのであり、ピアノを弾くのに適した筋力と柔軟性と俊敏性を獲得するには、毎日欠かさぬ長時間の練習が必要である。私の知りうる限り「練習の虫」でないピアニストは存在しない。

(音楽俗物を具体的にいうと)ピアノといったらショパン、みたいにいう人たちさ。あるいはチャイコフスキーやブラームスが、シューマンよりずっと偉いと思い込んでいるような馬鹿な人たちさ。

下手でもかまわないではないか。どのみち人間が演奏するのであれば、どんな名手が弾こうが完璧はありえない。「音楽」はすでにこの世界にあるのであり、演奏されるされないなどは本質の問題ではないのだ。

演奏する人の個性といえば、聞こえはいいけれど、要するに、癖だとか勝手な思い込みだとか、そういうもので音楽は汚されてしまう。演奏されたものが不完全、なんていうのはまだ優しいいい方で、つまり演奏は音楽を滅茶苦茶に破壊し、台無しにする。その滅茶苦茶になった残骸を、僕らはずっと音楽とよんできたんだ

「演奏なんかしなくたって音楽はもうすでにそこにある。演奏はむしろ音楽を破壊し台無しにする」


最近、音楽との対峙がいい加減になってきていたと反省。
もう少し、誠実に向き合おう。
と、思えただけでも読んだ甲斐ありですね~(フフ)

コンサートに向けての選曲を想う。
奏者と聴衆の好みのどこら辺にポイントを置くかで随分違ってくるが、演奏することを生業としている場合はある程度、聴衆に媚びた選曲になってもいたしかたない。
であれば、アマチュアは自分本意でも良いのでは。実力よりほんの少しだけ(あくまでもほんの少しだけ)難しい曲に取り組んで練習し、少し腕を上げる。
理解ある聴衆に暖かく見守られながら、少しずつレベルアップできたら、それが理想。
聴衆受けの良かった、実はグジャグジャな演奏の後味の悪さ…これだけは避けたい。

光と影

2011-05-13 09:21:24 | 

先日紹介した「捨てちゃえ、捨てちゃえ」(ひろさちや著)の最後に掲載されているのが、

ジタバタ逃れる~人生の「影」をしっかり見つめる

気象用語に“ホワイトアウト”というのがる。
南極観測の越冬隊に参加した人から教わったが、晴れてはいても、薄い雲が上空にあるようなときに、このホワイトアウト現象が起こるそうだ。太陽の光が上空の雲に乱反射し、また下にある雪にも乱反射する。それで、あたり一面が「光」になってしまい、影がなくなる。
そうすると、方向も距離も分からなくなり、自分がどこにいるのか、どの方角に向かって歩いているのか、まったく分からなくなるのである。こういうときには、よくクレバス(氷河や雪渓の割れ目)に落ち込んで死ぬ人がいるという。
つまり、わたしたちは、「影」があるからものが見えるのである。「光」がないと物は見えないが、「光」ばかりになってしまっても物は見えない。「光」と「影」があって、はじめて物が見えるのだ。
わたしたちの人生においても、「光」と「影」がある。「光」と「影」がなければならない。
「光」は幸福であり、「影」は不幸である。わたしたちは幸福を希求し、不幸を嫌う。不幸になったとき、一刻も早く幸福になりたいと、わたしたちは願う。
しかし、不幸があってこそ、はじめてわたしたちは幸福になれるのだ。不幸がなくなれば、ひょっとしたらわれわれは幸福になることができない。少なくとも、幸福を心から喜べなくなるのではないか……。
だとすれば、不幸になったとき、不幸から逃れようとしてあまりジタバタしてはいけない。ジタバタして不幸から脱出できるのであれば、そうしてもよいが、そうでないのであれば、むしろ不幸そのものをじっくりと味わったほうがよい。不幸は人生の「影」であり、「影」をしっかり見つめることによって、道が見えてくるのではないだろうか。


病気になって健康の有り難さを知り…

冬があるから春が嬉しくて…


画像は昨日の空。
ヘリコプター2機現る。ゴミではありませんよ~。

五月病に

2011-05-06 17:02:56 | 

ゴールデンウイーク明け頃現れる「五月病」に効くかどうかは分からないけれど、
多少の参考になれば…
一昨日アップした「捨てちゃえ、捨てちゃえ」(ひろさちや著)の中に収まっているエッセイです。

仕事への不安~期待されているのは、あなたらしいやり方

人生のさまざまな段階で、新しい仕事を手掛けねばならぬことがある。学校を卒業したとき、サラリーマンが転勤などで新しい部署に就いたときなどである。わたしのような文筆業では、出版社から新しい仕事を持ち込まれることがある。
そんなとき、多くの人は、果たして自分にその仕事がやれるだろうか……と不安になる。もちろん、不安ばかりでなく、いささかの抱負もあるかもしれない。しかし、不安のほうがあまりにも大きいときがある。その不安の気持ちを少しでも軽減させるのに、こんな考え方が役立つかもしれない。
新しい仕事は、たとえば上司からあなたに命じられたものだとする。その場合、上司のほうでは、あなたにその仕事ができると思ったからこそ、その仕事を命じたのである。自分にはとてもできないと思っていても、他人の眼であなたを見れば、あなたに能力があると査定されているのだ。だから、あなたはまず自信をもつべきである。
それから、仕事のやり方は必ずしも一様ではない。いろんなやり方がある。たとえてみれば、忠臣蔵の大石内蔵助の役割を十人の俳優で演じて、十通りの大石内蔵助ができるようなものだ。自分にふさわしい仕事のやり方をすればいいのだし、あなたにその仕事を依頼した人も、あなたらしいやり方でその仕事をやってくれることを期待している。そう考えると、ずいぶんと楽になるはずだ。
吃音症の人がセールスの外交の仕事をさせられた。彼は徹底して顧客の意見を聞くことにした。自分ではほとんどしゃべらない。ところが、彼は話し上手といわれるようになったのだ。
そういうやり方もあるのである。

楽に楽に。

捨てちゃえ、捨てちゃえ

2011-05-04 15:26:08 | 
折角の連休に、あいにくの雨。
何処にも行く予定は無いけれど、庭で作業をしようかという気持ちになったのに…出鼻を挫かれてしまった。。。

前回アップした本「シンプルに生きる」といい、この本といい、
こういう本を自然に手にしてしまうのは、
色々な「片付け」の必要を潜在的に感じているのかも。

捨てちゃえ、捨てちゃえ
ひろさちや
PHP研究所

「まんだら人生論(上・下)」の中から選んだエッセイに加筆したもので、殆どが2ページ読み切り86編の、ちょっと空いた時間に読むには最適な本。
全編に流れているのは、世間の常識に惑わされない自分の物差しを持った生き方でした。

どれを紹介しようか迷いましたが、今日は、

「できる人間」~人格を備えた「できた人間」に

「できる人間」と「できた人間」はだいぶ違っている。辞書によると、「できる人間」とは能力・才能のある人であり、「できた人間」とは人柄などが円満で立派な人である。
そういえば、「能力」と「力量」は同じではない。たいていの辞書には、
「力量……能力があること。力があること」
として区別していないが、わたしは、この二つは違っていると思う。もっとも、どう違うかを説明するのはむずかしいが……。
能力のほうは、たとえば才能を100点満点で表示して、それに、人格を10点満点で表示して加算したようなものであろう。これに対して力量は、才能と人格をかけ算したようなものだと思う。具体的にいえば、才能80,人格3のAと、才能50,人格8のBでは、能力はAが83、Bが58で、AがはるかにBに勝る。しかし、力量でいえば、Aが240で、Bが400になり、Bのほうが上になる。かりに人格が0であれば、その人間にいくら才能があっても力量は0になる。
そう考えると、「できる人間」というのは能力によって査定したものであり、「できた人間」のほうは力量でみたものであろう。日本語にはおもしろい使い分けがあるようである。
さて、われわれはどうも「できる人間」に重きを置いているようである。若者が生涯の伴侶を選ぼうとするとき、あるいは会社の入社試験なども、「できる人間」を選ぼうとしてしまう。若い時代は「能力」が目立つからかもしれない。しかし、本当に高い評価が与えられるのは、「できた人間」なのである。わたしはそう思っている。


短いので、そのまま載せました。
職場で、趣味の集まりで、習い事で、病院でetc.
周りの色々な場面でうなずけてしまいます。

詩とファンタジー№12

2011-03-14 09:20:56 | 

№14を紹介したときに、振り返ると№12が抜けていたと書きましたが、
アップするのを忘れていただけでした
遅ればせながら、

詩とファンタジー№12 夏波号
投稿詩とイラストレーション
責任編集:やなせたかし
かまくら春秋社

特集:きらめいた彗星 村山槐多
対談:森口博子×やなせたかし「詩が生まれる瞬間(とき)」

今号も好きな詩や絵がいっぱい。

詩人・画家だった村山槐多(1896~1918)の豊かな感性と知性で書かれた大人な詩は軽くも重くもなく、静かに入ってきます。
存在を初めて知ったppでした。。。

ああ君を知る人は 絵・黒井健


幼虫詩人
    藤井良紀
虫とりあみがあるから、虫がつかまえられるんじゃなくて、
夏があるから、虫はつかまえることが、できるんだ。
お星さまが空にうかんでいるから、うちゅうがあるのではなくて、
うちゅうの中に、ちきゅうもまた、うかんでいるんだよ。

からだが大きくて、ゴツゴツしてて、力づよいから、「おとこ」なのではなくて、
まもるべき人がいるから、「おとこ」になれるともいえる。
でも、そんなことなくて、おんなの人がすきだから、
ぼくは「おとこ」なんだとも、いえる。それは、人それぞれでいいでしょう?

時間がながれて、歴史ができあがっていくのではなくて、
歴史が時間をつくっていくのかもしれないし、
ホントの中に、ウソがしのびこんでいるのではなくて、
ウソの中に、ホントがかくれているのかもしれないよ。

こたえの出ない問いだからこそ、問いかけてみたくなっちまう。
どっちも正しいせいでつい、どっちかをまちがいにしたくなる。

もうすこし詩人になって、せかいの中で遊んでみても、いいじゃない?


七月の午後に 平井深海魚 絵・内田新哉

たたんだ千円札

2011-02-23 09:46:26 | 

生活小冊子に掲載されていてググッときた詩です。

たたんだ千円札
    浅田志津子
いつも 東京へ帰る朝
玄関までで、いいと言っても
どうせ、買い物があるからと
母は 駅までついてくる
もったいないからいいと言っても
母は 自分の入場券を買って
わざわざ ホームまでついてくる
列車にわたしが 乗りこむ直前 
ポケットから たたんだ千円札を出して
途中で、お弁当でも買ってと
わたしの手に 握らせる
網棚に 荷物を置いて椅子に座り
窓のガラス越しに 老いた母を見る
陽気に手をふる母を見ながら
早く、発車しないかなと思う
列車が 動きはじめたら
一度ふりかえって 母に手をふる
ふりかえるのは 一度だけにする
どんどん小さくなってゆく母を
見るのは 一度だけにする

車窓から 海がみえなくなると
読みかけの本を開く
読書に飽きて 少し眠るときは
たたんだ千円札は しおりに使う
飲み物をのせたワゴンがくると
わたしは 財布から小銭をだして
お茶と サンドイッチを買う
母がくれた千円札は 本の間に はさんだままだ

夕暮れのアパートへ帰りついたら
パソコン机の引き出しの奥の
ビスケットの空き箱にしまう
たたんだ千円札で一杯の あの 古びた木の箱に

(詩集「最後のだっこ」より)


真冬に実家から帰るとき、寒いから家に入ってと言っても
「見送りたいんだから、いいの」と、
曲がり角でバックミラーに映らなくなるなるまで立っていた母のこと、

一番最後にだっこされた時のこと、
一番最後に手を繋いだ遠い日のこと、

久しぶりに思い出した。

シンプルに生きる

2011-02-11 20:33:18 | 

「シンプルに生きる」
ドミニク・ローホー
訳・原秋子
幻冬舎

ひと所に何十年も住んでいるせいか、整理しなきゃと気になっている所だらけ。
引き出し一つ開けても、モノモノモノでぎっしり。
たまに処分したモノに限って、後で必要になったりするものだから、
「捨てることはいつでも出来る」と取り敢えず取っておいたり。。。

この本に惹かれたのは、モノに対してだけではなく、これまでやって来たことの整理見直しの時期に来ていることをどこかで感じていたからかも知れない。

シンプルで豊かな生活を得るために
・ものと上手につきあう方法
・住まい
・ファッション
・時間管理
・お金の管理
・美容
・食事
・ひとづきあい
・自己管理

の項目で書かれています。
参考にならない部分もあったけれど、賛同出来る面はかなり有り。

現代は「断捨離」なる言葉も出現したくらい、物心両面の整理で個々が自由になることを求めている時代のようです。

冒頭に掲げてある「シンプル主義の37カ条」の中から抜粋
・欲求と必要の違いを区別できるようにする
・場所を移動させただけで「片付けた」と思わない
・シンプルにすることは「愛するものを排除するのではなく、
 幸せのために役にも立たず、貢献もしないものを排除するのだ」と自分に言い聞かせる
・泥棒が入っても、とっていくものがないくらいにしておく
・関わっているさまざまな活動の数を減らす

詩とファンタジー№14

2011-02-02 11:12:12 | 

詩とファンタジー№14 冬星号
投稿詩とイラストレーション
責任編集:やなせたかし
かまくら春秋社

特集:茨木のり子の詩世界
対談:黛まどか×やなせたかし 言葉の「違い」を越えて

今回は好きな詩やイラストが一杯、エッセイも読み応えたっぷり!

オシャレタス
   サトウアツコ
悪口を言わレタス
本心でものを言えと…。
この、ネコかぶりめ…と。
たしかに、みためから…
何枚もミドリのドレスを着ては
 いますが…
コレはオシャレタス。

いくつになっても
心も体も
古びたレタスにはなりたくないの。

人生につかレタスって
思うときはあっても
ガンバレタスでいたいのよ


地下鉄
  雪待伸吾
どんなに
速く走っても
お先真っ暗


通知表
  央子
人生を楽しくするのは
相対評価より
絶対評価


赤い糸
  宇野流
いくつもの街を越えて
君に会いに行こう

窓から差しこむ雪明かり
頬をほんのり熱くする

ピンと張られた赤い糸
にやけ顔でゆるまっていく

君もバス停でひとり
たぐり寄せているのだろうか

君にあったら
すぐに抱きしめよう

ゆるんだ赤い糸がすっかり
マフラーになるように

絵・菅野研一


迷子のこうもり
詩・みやもとおとめ 絵・岡山伸也


ピーマン
詩・月子 絵・岡田里


二番目に幸せな結末
詩・山口理々子 絵・磯貝裕美


季節毎に発行されるこの本、時々立ち寄る小さな本屋さんで見かけたときにだけ買っていたものだから、バックナンバーをみると№12が抜けてました。
今回知ってちょっと驚いたのはこの本屋さんには毎回1冊しか入らないんですって!

あなたの手のひら

2010-12-16 10:33:59 | 

花の詩画集「あなたの手のひら」
星野富弘
偕成社

事故で頸髄を損傷し手足の自由を失い、首の動きもままならぬまま筆をくわえて描き始めた絵と文。
四季ごとに編集されていて、「秋冬編」の中から2点を。

「草の実 シロノセンダングサ」
私を信じたのかい
ズボンの裾にしがみついている草の実よ




「そばを食べながら そばの花」
魚釣りみたいだね
でもこの魚
きっと大物になるわ

寝ている私の顔の上から
長いそばを
食べさせながら
妻が言った



活字にしちゃうとダメですね。

楽しいこと、美味しいものは……新しい力にかわってくれる☆

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