プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

矢ノ浦国満

2018-05-22 23:26:30 | 日記
1971年

矢ノ浦国満選手、といえば、たいていのプロ野球ファンならまだ覚えていることと思う。近鉄時代、華麗な守備でパ・リーグ、ナンバー・ワン遊撃手の折り紙までつけられながら、生来のギャンブル好きがたたり、あちこちに借金ができて球界を追われるように去ったのが三年前。グローバル・リーグ東京ドラゴンズにコーチ兼選手として参加したりしたが、その後は音信が途絶えていた。その矢ノ浦さんが、プロボウラーとして再出発するウワサがあるのだ。現在、父親・保喜さんの関係で堺市の永井燃糸という会社に勤めるかたわら同市百舌頭待ちの中もずファミリーボールに通って腕をみがいている。本人は「年齢的にも三十の坂を越えたし、実力からいってもアマの域を出ない。プロ?その気がないわけじゃないけど、当分はアマで気楽にやってみます」と語っているが、同ボウル支配人の増野敬さんは「一般の人と違って足腰のバネ、手首の強さは抜群。努力しだいでは・・・」とプロ入りを進言しているとか。プロ野球から転身組では杉町(元西鉄)山本(元巨人)竜(元ロッテ)などが活躍しているが、JBC(全日本ボウリング協会)アベ193の矢ノ浦さんの名前がプロとしてクローズアップされる日も近いのではなかろうか。
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鏑木悦純

2018-05-22 21:14:16 | 日記
1971年

先ごろのトレード会議で巨人移籍が決まった大洋の鏑木悦純投手(27)。昨年の第一回会議で阪神から大洋入りしており、二年連続の渡り鳥ということになる。来年はプロ入り十年目だが、阪神時代も公式戦にわずか6試合に登板しただけで、勝敗に無関係。心機一転を期した大洋での一年間も、イースタン戦ですら登板のチャンスがなかった。今度の巨人移籍も、戦力としてではなく「打撃練習用投手として」という見方が強いが、本人は一年間に同じケースで巨人入りしながら、埋もれた素質を見出された阿部の例もあるので「一生懸命やれば、一度ぐらいチャンスがもらえるかも・・・」と、巨人への移籍にいちるの望みを託している。一粒種の達也ちゃん(一つ)を抱いて「一度でいいから、パパが一軍のマウンドを踏む姿を見たい」と語る伝夫人の願いをかなえてやるためにも、鏑木はがんばらねばなるまい。
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小笠原正一

2018-05-22 20:57:51 | 日記
1971年

プロ野球の阪神タイガースは、日通盛岡の小笠原正一選手(25)=身長177㌢、体重78㌔、右投げ、右打ち、盛岡農高出=の入団を十日午後二時すぎから、大阪・梅田の阪神本社六階ホールで発表した。紺の背広姿の小笠原は、二十人を越える記者、カメラマンに取り囲まれてびっくりしたようす。戸沢球団社長に紹介される間も、端正な顔を上気させていた。しかし、しばらくするとすっかり落ち着き、プロ入りの動機を「もうすぐ二十六歳だし、おそいプロ入りなんですが、自分の力をためしてみたかった」とはきはきしゃべった。抱負は「一刻も早く阪神の戦力になりたい」とのこと。かたわらから河西スカウトが「おっつけのきいたバッティング本番で出た包装陸上の砲丸投げで全国一位になったほどで、腕っぷしは強い。左投手は好きだし、いい選手です」とたのもしげに補足する。小笠原選手は三十九年、盛岡農高から日通盛岡へ入社、四番打者、外野手として活躍。都市対抗全国大会には、強肩強打が買われて新日鉄釜石の補強選手として後楽園の土を踏んでいる。ことしの都市対抗には盛岡鉄道局の補強選手として出場、三番打者の重責を与えられた。先月十九日のドラフト会議では阪神から9位(同球団は11位まで指名)で指名された。十一月九日に正子夫人と結婚した新婚ほやほやだが、当分は合宿住まいで、野球一筋の生活をするという。日通盛岡の畠山馨コーチは「小笠原選手が抜けるとうちの戦力はかなり苦しくなる。しかし、小笠原選手が長年プロに進むことを願っていたのだから、心から祝福して送り出したい」と語っていた。
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神農清治

2018-05-22 20:15:50 | 日記
1971年

プロ球団のロッテオリオンズは一日午後二時、東京新宿の球団事務所で花巻商業三年神農清治外野手(18)=身長180㌢、体重80㌔、右投げ、右打ち、紫波郡日詰出身=ら五選手の入団を発表した。中村長芳オーナーが「岩手のカンノウくんです」と記者団に紹介すると、ピクリとほおを緊張させながら「一生懸命やります」と胸を張っていた。神農選手は花商で中堅を守り三番を打った。十一月十九日のドラフト会議ではロッテから14位(同球団は15位まで指名)で指名されていた。一日午前十時過ぎ、高橋多喜男花商野球部副部長に付き添われて球団事務局を訪れると、さっそく「いい体格だな」と記者団の祝福?を受けた。黒いもめんの学生服は小さめで大きな手足がニューッとはみ出している。「プロに指名されるとは思っていなかったので、早大か立大に進学するつもりでした。入団交渉を受けて、少し迷いましたが、結局は自分でこの道を選びました。今ではロッテの一員であることに誇りを持っています」とはきはき語る。紫波郡紫波町日詰の生まれで、仁徳氏の三男。紫波第一中では投手だったが、花商に進学してからは打撃を生かすため外野に回った。高橋副部長は「足も早いし、打撃の素質がある。三年間で打率三割五分ぐらいだが、まじめで根性もあり、私は初めからプロ向きだと思ってました」と言う。でっかいからだに似合わず、色白の童顔である。プロ球界では花商の先輩である巨人の阿部成宏外野手を尊敬すると言い「阿部先輩は大洋時代を加え、七年間の下積み生活に耐えて、今秋巨人の一軍に昇格した。私もどんなことがあってもやり抜きます」ときっぱり語る。

赤川宏花巻商高野球部監督の話 本人の希望通りになり、うれしい。プロ野球のきびしさを自覚してがんばってほしい。神農の素質からすれば、基本を三年間みっちりやれば、ものになるだろう。体力がある上に脚力もあるから大いに期待してよい。長所の強肩とバッティングを伸ばすことに専念すべきだ。本校からは阿部雄厚(近鉄)、阿部成宏(大洋、巨人)、泉沢彰(西鉄)に次いで四人目のプロ選手。三人の先輩に負けないように全力を尽してほしい。

神農選手の父親仁徳さん(63)の話 中学時代から野球が好きで野球で身を立てるつもりでいたようだ。希望通りに入団出来たのは、全く幸運だ。からだに恵まれているので、きっと力いっぱいやってくれるものと信じている。ただやる以上はとことんまでやってほしい。中途半ぱな形で終らないようにいってある。あとは本人の精進次第だ。
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関根勇

2018-05-22 19:35:42 | 日記
1971年

元プロ野球選手の第二の人生は、それこそ「十人十色」。プロゴルファー、プロボウラーからバーのマスター。タクシーの運転者まで並べたてれきりがないが「クラブのホスト」というのは異色中の異色だろう。その、あっと驚く転身をやってのけたのが、元広島、サンケイの関根勇捕手(26)=大阪高出=だ。選手時代はまったく芽が出ず、四十四年にグローバル・リーグの東京ドラゴンズの一員として渡米したとき、ちょっと名前が出た程度だったが、現在は東京・銀座のレディース・クラブ銀座騎士のナンバー・ワン・ホスト。「酒も好きだし、こういうムードは大好き。結局、ボクに一番向いている職業ってことなんですかね」と苦笑まじりに語る関根さん。月収は「なんやかやで六、七十万円」というから、プロ野球選手ならレギュラーでも上のクラスだ。「三十歳まで働いて、自分の店を持つのを目標」に目下、カクテル光線ならぬ銀座のネオンの中で、素質を発揮している。
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妹尾幸一

2018-05-22 19:22:45 | 日記
1962年

かねてプロ入りのうわさのあった徳商の妹尾幸一投手(18)=城東中学出身=はこのほど南海ホークスへ入団することになった。同選手はさる九日に上阪して十日、大阪球場で南海球団の岩瀬常務、鶴岡監督、中原コーチ、富永スカウトが立ち合ってピッチングのテストを行ない、これに合格して入団が決まったもの。身長1㍍82、体重78㌔、右投げ右打ちで、徳商二年の三十五年春、夏の甲子園、秋の熊本国体に一塁手として出場、大型打線の主軸として桝田(大阪住友金属へ就職予定)広野(慶応大受験)両外野手らとともに活躍した。三年間の通算打率は3割4分6厘。三年生になってから投手(12勝5敗1分け)に転向していた。今後その柔軟な長身を生かして速球投手としての成長が期待されている。なお同選手は二十四日から中モズ球場ではじまる南海の自主トレーニングに参加する。

妹尾選手の話「念願だったプロ野球、それも南海というりっぱなチームに入団することができてうれしい。投手の経験は徳商三年生のとき一年しかないので、すぐ出場できるとは思わない。二、三年みっちり練習して早く第一戦で投げられるようにがんばります」

徳商須本監督の話「ピッチングか、打力か、いずれにしても体格がよいから、プロへ入っても精神的にさえしっかりすれば一人前になれると思う。プロで鍛えなおしてもらって一日も早く第一戦に出場してほしいものだ」

南海岩瀬常務の話「私が徳島(鳴門市)出身の関係から知人を通じて話があり、テストの結果、採用することになった。鶴岡監督も体格に恵まれているうえ、スピードもかなりあるので、投手としてその将来性を買っているようだ。私も技術は別として根性がありそうなので楽しみにしている」
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