プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

原野一博

2018-05-23 21:32:52 | 日記
1971年

近鉄の原野一博投手が、何の前ぶれもなしに同僚の前からこつ然と姿を消したのは、今シーズンのオールスター戦の直後だった。球団職員の話では「事務所に現れてきょうでやめますと言った切りです」原野は竜谷高から入団、ことし四年目だった。170㌢、72㌔と小柄なのにスカウトされたのは足腰の強いバネにあったという。だが、これまでは一軍に登用されるどころか、二軍のリリーフ専門に明け暮れていた。彼は退団の理由を明確にしていなかったそうだけれども、練習に疲れ、希望が日ごとに薄れていくその心中はわかるような気がする。どこへ行ったのか。合宿の仲間だった一人はこう話す。「あいつは競輪の選手に興味を持っていたな。下半身の強さを生かして競輪選手の養成学校に通っているというウワサを聞いたことがありますよ」と。まだ二十一歳の若さ、西鉄を自ら出て名をあげているプロゴルファー尾崎の行き方を夢見て第二の人生に踏み出したのかもしれない。
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藤田訓弘

2018-05-23 08:16:07 | 日記
1971年

藤田はことしの六月中旬のある日突然、胃に激痛を感じた。医者の診断は「出血性胃カイヨウ」だった。完治には手術が必要といわれ、その代わりメスを入れたら「二度と野球は出来ない」と条件をつけられた。からだをとるか、野球をとるかー。日ごろの不摂生がその原因とはいえ、初めておとずれた人生の岐路に悩んだ。「オレから野球を取ったら何も残らない。医師に、頼むから野球をやらせてくれ、と頼んだ。からだよりも野球を選んだんですよ」と告白する。広島商から南海を経て阪神へ。ことしで七年目。南海入団のときもらった約八百万円の契約金で広島に家を建てた。いま野球をやめても住むところはあるが、貯金はなし、何の職業を選んでいいか見当もつかないという。「二カ月入院して出てきたら体重が10㌔も減って68㌔しかなかった。力もなくなった。でも来年もう一年やってみる。もっとも、球団が契約してくれればね・・・」と複雑な表情を見せた。藤田は来季の契約を二十二日に終わった。これで来季の保証はもらった。だが安心とばかりはいかない。
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