1975年
水谷は甲子園出場をみやげに三重高から四十二年阪急入り。翌四十三年15勝7敗の好成績をあげ、四十九年まで四度10勝ラインをマークした。ことしは春先のキャンプで右ヒジを痛め、登板の機会がなかったが、シーズン終盤には故障も完治。フォークボール、カーブ、チェンジアップと多彩な球種を武器に「初心に帰ったつもりで懸命にやる。10勝はねらいたい」と新天地の活躍を誓っていた。
水谷は甲子園出場をみやげに三重高から四十二年阪急入り。翌四十三年15勝7敗の好成績をあげ、四十九年まで四度10勝ラインをマークした。ことしは春先のキャンプで右ヒジを痛め、登板の機会がなかったが、シーズン終盤には故障も完治。フォークボール、カーブ、チェンジアップと多彩な球種を武器に「初心に帰ったつもりで懸命にやる。10勝はねらいたい」と新天地の活躍を誓っていた。