能登豪雨

2024年09月22日 | 災害

【詳報】能登豪雨、地震の苦境に追い打ち 道路寸断、多数の集落孤立
 (朝日新聞)

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/asahi/nation/ASS9P725KS9PDIFI001M


>■死者は計6人 安否不明者は14~89歳の8人

> 記録的な大雨で河川の氾濫(はんらん)や土砂崩れが相次いだ能登半島地震
>の被災地では、22日午前も強い雨が降り続いた。石川県内では道路が寸断され、
>集落など115カ所が孤立、仮設住宅9団地が床上浸水して、多くの被災者が再び
>避難生活を強いられている。地震と大雨による二重の被害を受けた状態で、復
>旧・復興への影響が懸念されている。

この能登豪雨のニュースを、昨日からテレビで観るたびに心をいためています。

私は、2009年に能登に行きました。
無名塾の「マクベス」を能登演劇堂に観に行ったのです。
2009年10月21日九想話「無名塾の『マクベス』
先日、NHKラジオの「サダデーエッセイ」(NHK-R1 6:45~)で仲代達矢が、
>無名塾「肝っ玉おっ母と子供たち」の公演は、2025年5月に復興した能登演劇堂でやります。
と話していた。
私は行けるものならまた、能登演劇堂に無名塾の芝居を観に行きたいです。
これから能登半島に、地震や豪雨などの災害がなく、復興が進むことをお祈りします。

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終りに見た街

2024年09月21日 | ドラマ

今夜、「終りに見た街」(テレビ朝日 21:00~)というドラマを観た。
原作が山田太一で、脚色が宮藤官九郎だった。
私はこのドラマがあることをかなり前から知っていた。
それは、毎週図書館で読んでいる週刊文春の宮藤官九郎のエッセイ「いまなんつった?」で知った。
これまで山田太一が何回かドラマにしたものを、宮藤官九郎が新しくシナリオを書いたという。

息子と娘と妻、それに認知症になりかけている母がいる家族と暮らす売れない脚本家の太一。
やっと買ったマイホームである日、窓から外を見ると景色が変わっていた。
住宅街にある家を買ったのに、まわりは樹木が茂る林の中だった。
少しづつ事情が分かってくる。
この家族は家ごと、昭和19年にタイムスリップしてしまったのです。

亡き父の戦友の甥である小島敏夫と、その息子・新也も共にタイムスリップしている事を知り、
終戦まで生き残るために協力していくことにする。
はじめに新築したばかりの家を焼こうと敏夫に言われるが、太一はそれができなかった。
そのうちに息子と娘たちが、昭和19年の暮らしに合わそうとする。
家族の中がぎくしゃくしていく。
太一と敏夫は、3月10日に東京の下町に大空襲があることをみんなに知らせようとする。
少しでも犠牲者をなくしたい、と考えた。
しかし家族の中の考えがばらばらになり、その行動もうまくできなくなってきた。

あらためて戦争は厭だと思った。



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イヤな上司

2024年09月20日 | 会社・仕事関係

私が35歳で転職した(株)日本エルエスアイは東ソーの子会社(現在この会社は存在しません)で、
半導体を製造するときに必要なハンドラーという装置のメーカーだった。
日本エルエスアイが所沢に出来たばかりの武蔵野事業所の資材部には、私の上に課長と部長がいた。
その部長は東ソーの人でやさしい人だった。
課長も長いこと資材購買をやってきた人で、いい人だった。
課長が加工品の部品、私が購入品(メーカーの製造する部品)の担当をした。
加工品とは金属を図面どうりに制作してもらう部品で、購入品は電機メーカーの造る既製品です。
私がその会社に入って、これまで苦労してきたことがなくなった。
それまで勤めていた会社での資材購買は辛かった。
なにしろ仕事をくれる会社の決めた部品を集めることが大変だった。
日本エルエスアイはメーカーなので、あるメーカーの部品が納期がかかるときは、
技術部に行って同等の別なメーカーに簡単に替えてもらった。
私は、ほんとうにいい会社に、転職してよかったと思った。

新しい職場で楽しく仕事をしていたが、1年ほどして部長が東ソーに戻ることになった。
そして新しい部長が入った。
その部長のせいで、それからの私と課長は苦労した。
いろんなことに細かい部長だった。
ほとんど1日中笑い顔はなく、黙って仕事をしている部長だった。
そしてまもなく課長と私に、コストダウンを要求してきた。
現在の部品価格から10%コストダウンするように、という。
私は、そのときに付き合っている部品商社にコストダウンをお願いした。
すると1回目は、どの会社も10%のコストダウンに応じてくれた。
ところが部長は、コストダウンが終了してから3ヶ月後にまたコストダウンしろという。
さすがに課長も私も困った。
それでも、取引先にそれをお願いするしかなかった。
あの部長の下での仕事はつらかった。
私からすれば、部長のコストダウンの要求には無理があった。
なんの根拠もなくただコストダウンをしろ、というだけだった。
いくつかの部品商社からは、取引を断られることもあった。
ある程度の利益がない取引などは、お断りの会社は何社かあった。
部長は、資材部はこんだけコストダウンをしているんだ、ということを
本社の社長たちに言いたかったのだろう。
それにしても無理なものは無理なんです。

その部長があるとき飛行機で熊本に出張した。
帰りの飛行機の中で倒れて、そのまま病院に入院した。
なんでも脳に、ある菌が入ってそのようになったと、言われた。
そのとき私は課長という立場になっていた。
課長というのはかっこいいが、要するに残業代を出さなくていい社員ということです。
部長が入院したので、それまで部長がしていた仕事を私がすることになった。
部長は、武蔵野事業所の所長のような仕事もしていたので、
武蔵野事業所の1ヶ月の仕入れた部品の金額、各社員の作業時間の合計などを、
集計して本社に報告していたのです。
その仕事も私がやることになった。
それまでも私は毎日、夜の9時までは仕事をしていた。
お金が出ないので残業とはいいたくない。
自分の仕事を終えてから部長の仕事をやった。
部長は、紙に手書きして、電卓で計算していた。
私は、40歳の2月にパソコン通信がしたくてNECのノートパソコンを買っていた。
ほとんど家でそのパソコンで、パソコン通信を楽しんでいた。
部長の仕事をするには手計算では間に合わなかった。
部長は、昼間1日中ゆったりとその計算をしていてよかった。
私はLotus1-2-3を勉強して計算式を入れて、部品の金額や作業時間の合計を出した。
そうやっても月に何日かは深夜の3時ぐらいまで仕事をしなければならなかった。
あのとき私はどうやって生きていたんだろう?

そういう暮らしを3ヶ月ほどしていたら、部長の体調が回復して退院した。
1ヶ月ほど自宅療養をしてから会社に部長が出てきた。
そして、会社に出社してきた部長の私に対する態度が一変した。
私にコストダウンなんてことはいわないし、なにしろ会社での態度が丸くなった。
あァ・・・、人間なんてこんなもんだな、と私は納得した。
部長は、私が部長のしていた作業をパソコンを使って集計したと話したら、
さっそく部長もNECのノートパソコンを買った。
その頃、会社にはパソコンなんてものは存在しなかった。
私は、Lotus1-2-3や一太郎を部長に教えた。
まだそのときは、WindowsはなくてMS-DOSだった。

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阪神、5連勝でストップ

2024年09月20日 | 家族

試合結果 阪神、5連勝でストップ 投手陣が乱調
 (サンケイスポーツ)

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/sanspo/sports/sanspo-_sports_baseball_npb_5HJUTBU6SNHGZED2L4KP3FJQVE


>(セ・リーグ、DeNA9ー6阪神、21回戦、10勝10敗1分、20日、横浜)阪神はDeNAに敗れ、
>連勝が5でストップした。投手陣が誤算だった。先発の西勇輝投手(33)は二回に2点
>先制を許すと、三回にはオースティンに3ランを浴びて5失点で降板。六回からは5番手
>で先発として8勝を挙げたジェレミー・ビーズリー投手(28)が今季初めて中継ぎで登
>板したが、七回に筒香の2ランなどで3失点を喫した。打線は0-5の四回に前川右京外野
>手(21)の4試合連続打点となる適時打などで4点を返し、五回にも1点を加えるなど粘
>りを見せた。八回にも2死満塁のチャンスを作ったが、中野が右飛に倒れて得点できず。
>最後まで逆転することはできなかった。勝利した首位巨人とのゲーム差は3に広がった。

今夜は、BS-TBSで野球中継があったので、私は観た。
関東のテレビ局で阪神の野球中継があると、私がテレビ中継を観ていると、阪神は負けちゃうな。
なんてだろう?
私にそんな力はないとは思うのだが、私がテレビ中継を観ていると、阪神は負けちゃう。
そんなことを考えると、これから私は阪神の野球中継を観られないではないか。
どうしたらいいんだろう?

大谷 立ちっぱなし会見は本人の希望ポスト
大谷翔平、“立ちっぱなし会見”は「本人の希望」 伝説の51-51…謙虚さ光った11分間
 (Full-Count)

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/fullcount/sports/fullcount-1621642


>敵地で行われた51-51会見、大谷の椅子も用意されなかった

>【MLB】ドジャース 20ー4 マーリンズ(日本時間20日・マイアミ)

> 伝説の1日も謙虚な大谷翔平は変わらなかった。マーリンズ本拠地のローンデポ・パーク
>で行われた「51-51」会見。前人未到の大記録を樹立したスーパースターはウィル・アイア
>トン通訳と立ったままだった。

大谷選手、おめでとう!!

阪神は今夜、負けてしまった。
明日はがんばれ。



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「雪國 」吉幾三

2024年09月19日 | 会社・仕事関係



今夜、「歌謡プレミアム 特別版」(BS日テレ 20:00~21:54)
「吉幾三・山本譲二・細川たかし みんな一緒に半世紀スペシャル」を観た。
吉幾三が「雪國」をうたった。
「雪國」は、「俺はぜったい!プレスリー」「俺ら東京さ行ぐだ」などの
コミックソング路線だった吉幾三が、本格演歌路線への転向を図った曲です。
「雪國」は1986年に発売された。
そして1987年2月にはついにオリコン1位、「ザ・ベストテン」では演歌としては
2曲目(五木ひろしの「おまえとふたり」以来)の週間第1位となった。

私は1987年に在籍していた(株)K電子の忘年会でこの歌をうたった。
私はそのK電子が嫌いで、辞めたくてやめたくてしかたがなかった。
私が35歳のときでした。
吉幾三は、「雪國」をうたって本格演歌路線へ転向した。
私も、ちゃんとした会社に転職したいと考えていた。
所沢市にあるK電子は、東京の高田馬場にあったN電気の子会社だった。
電池メーカーのUPS(無停電電源装置)を下請けとして製造していた。
私はその会社(会社員30人)の資材購買部の仕事をしていた。
電池メーカーから翌月生産するUPSの注文が入る。
その部品を私は東京のいくつかの部品商社に発注する。
ICなどの半導体やコンデンサーやボリューム・その他の部品のうちの
いくつかの納期の長いことが分かると、
私は電池メーカーに連絡をして同等の他のメーカーにしたい、とお願いした。
メーカーが違うと同等品でもなかなか電池メーカーは、許可してくれなかった。
そんな苦労をしてなんとか製造に間に合う納期までに部品を集めた。
ところが肝心のUPSの心臓部になる電池が電池メーカーから入荷しなかった。
週1回やる工程管理会議で、いつも「なぜ電池が入らないんだ」と製造部や上の人から責められた。
電池メーカーから電池が入らないんだから、上の者が電池メーカーに話してくれればいいのに、
それはしないで資材購買担当者(私)を責めた。
そのときの会社の上の者は、電池メーカーのUPSを発注してくる部署とは仲良くしているが、
電池を支給してくれる部署には何も言えないようだった。
私は、そんな人たちと仕事をしたくなかった。
1988年の9月に、新聞にある会社の求人広告があった。
日本で上位の化学材料会社の所沢にある子会社が、資材購買担当者を募集していた。
その会社は、半導体製造のときに必要なハンドラーという装置を製造していたメーカーだった。
私は、装置メーカーだったら部品のメーカーが違っていてもすぐ許可が取れると考えた。
私は、下請けというものがつくづくイヤになっていた。
履歴書を郵送すると、1週間後に面接に来るようにと連絡があった。
そして面接をして、その会社に採用された。
その会社は本社が池袋、工場が所沢の他に熊本・松本・福島にあり、社員は100名ほどだった。
私はやっと下請けではなくメーカーの社員になれたのでうれしかった。

吉幾三の「雪國」を聴くと、あのときの転職のことを思い出す。
吉幾三は、コミックソング路線から本格演歌路線へ転向した。
私も、下請けの零細企業から、大会社の子会社だがメーカーに転職できた。
1988年の私の転職は、私の人生でかなり大きな出来事でした。
ですがその会社も、半導体不況で1998年には消滅してしまった。

♫ 雪國 ♫ 吉幾三


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ゆっくりと

2024年09月18日 | YouTube



2・3日前、朝のウォーキングのときに、歩道を幼虫がゆっくり動いていた。
7センチほどの大きな幼虫だった。
なんの幼虫なんだろう?
ゆっくり歩く幼虫を見ていて、私はなんだか感動してしまった。
歩道なんか歩いていて(いや歩道だからいいのか)、人間に踏まれたらどうすんだ?と思った。
要注意して歩いてほしい。

今朝のウォーキングのときに、公園の中の道をかたつむりがノンビリ歩いていた。
かたつむりも気がつかれなかったら踏まれてしまうだろう。

今夜、YouTubeの「はとやま爺ちゃんねる」に「ゆっくりと」という動画を投稿しました。

ゆっくりと




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ぼうじぼの夜

2024年09月17日 | 暮らし

今日は十五夜です。
私が子どもの頃十五夜には廊下に、
ススキ・実のついた柿の枝・栗ごはん・団子・けんちん汁などを母がお供えした。
そして母は1年間ためておいた小銭を入れた缶を、そのうしろに置いておいた。
子どもたちが夕方になると、ぼうじぼを持ってやってくる。
だいたい2人か3人組で、お供え物の前でぼうじぼで地面を叩いて歌をうたった。

♪ぼうじぼ あだれ そば あだれ
 さんかく ぶったら みな あだれ
 ことしは ほうねん まんさくだ

うたい終わると、母は小銭をその子たちにあげた。
母は、いったいいくらぐらいを子どもたちにあげたのだろう?

私も十五夜のとき、幼なじみの友人と2人でぼうじぼを持って歩いた。
そのときのことを書いた九想話(1999年10月04日「ぼうじぼ」)があります。

ネットの中を私が作っていたぼうじぼに近いものを探した。
十五夜に、ぼうじぼで地面を叩きうたったことを懐かしく思い出します。

今日は、雲があったが月が見られました。

 

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今日の作業

2024年09月16日 | ガーディニング

今日は〝敬老の日〟なんですね。
72歳の私も高齢者の1人に入ってしまっている。
高齢者の日のことをこれまで何も考えてこなかったが、
その自分がその中に入っていることに驚く。

〝敬老の日〟は、私には関係ない。
息子や孫たちからも何もない。
今日も高齢者(67歳)の女房を職場まで車で送り迎えをした。
女房の勤める大学は、今日から授業が始まったようで食堂はものすごく混んだそうだ。

私は今朝、6時前からウォーキングを50分ほどして、以前から切ろうと考えていた木を切った。
女房から庭の隅の木が伸びすぎているからすっきりさせて、言われていた。
夏の間、涼しくなったら伐採しようと思っていた。



このようになりました。
(また三重カナメも剪定しなければならないですね)
切った木や枝を廃棄するために、40センチ以内(町の規則)の長さに切断して束ね、葉を袋に入れた。

夕方6時前にシャワーを浴びてから、お灸を女房にしてもらった。
私はこれをやっておかないと、腰痛がひどくなってしまう。

 

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朝顔

2024年09月15日 | 植物・花



私は今年初めて、日本朝顔のタネをまいた。
これまではヘブンリーブルー(西洋朝顔)は育ててきた。
そのヘブンリーブルーの花が小さくなってしまったので、朝顔にした。
しかし私としては、その朝顔の花に満足していない。
なんか花が小さいのです。
普通の朝顔のタネを買ってきてまいたのですが、花が小さい。
鳩山町の暑さのせいなんですかね?
来年はどうしよう?





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カマキリの死

2024年09月14日 | 家族

カマキリの死

9月3日、庭で変な動きをしているカマキリがいた。
私はそのカマキリを、時間が許す限り撮影することにした。
すると私には予想できないことになっていった。
このようにカマキリが死んでいくということを、私は知らなかった。
私は自然界の片隅を、ちょっと覗かせてもらったような気持ちです。

今日、YouTubeに「カマキリの死」という動画をアップしました。



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