1月10日は初金毘羅です。
余り聞き慣れませんが、サイトを調べていましたら次のように書いてありましたので紹介します。
1月10日を「初金毘羅」と言います。
12月10日は「終金毘羅」と言います。
金毘羅は天竺霊鷲山の鬼神で、薬師十二神将の1つである宮毘羅大将とも言われております。
仏法の守護神、夜叉神王の上首で、その像は武装し怠怒の姿をとるが、魚神で蛇の形をし、尾に宝玉を蔵すると言う。
海上の守護神として祀られ、船人が最も崇敬する神となりました。
この神を祀る香川県琴平町の金毘羅宮では、10月9日から11日まで金毘羅祭りが行われます。
江戸時代後期は伊勢参りとともに金毘羅参りが盛んであったそうです。
新年になると宝船に乗った七福神の絵や七福神巡りの宣伝をよく見かけます。
その七福神のお一人である「恵比寿天」のお祭りが、今日の「宵恵比寿」、明日の「十日恵比寿」、明後日の「残り福」と続きます。
そこで七福神について簡単に書きます。
七福神とは次の七人の神様を言います。
この中には元々神様ではない方もおられます。
「恵比寿天」 商売繁盛の神様
「イザナキ」「イザナミ」の三男がこの神様と言われており、唯一の日
本の神様です。
釣竿を持ち鯛を抱えています
この竿は、先を見越して竿で少しづつ釣りをすると言われています。
これは「暴利をむさぼらぬ清廉な心の象徴」とされています。
「大 黒 天」 豊作の神様
もともとはインドのシヴァ神と言われています。
日本の大国主命と混同されて信仰されるようになったようです。
丸い頭巾を被り、右手に槌を持ち、左手で袋を背中にかけ、米俵の
上に乗っています
「弁 財 天」 学問と財福の神様
これもインドのサラスバティと言う芸術の神が日本に来て「弁才天」と
言う芸術の神からから、「弁財天」と言う財産の神になったようです。
琵琶を持った容姿端麗な女神様
「毘沙門天」 勝負事の神様
夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王の一つです
別名「多聞天」といわれています。
甲冑を着て、右手に槍を左手に宝珠を捧げ、厳しい顔つきです
「布袋和尚」 開運、良縁、子宝の神様
この人は神様ではなくて僧侶です。
中国ではミクロ菩薩の化身と言われ、王朝の交代時に現れてくる聖
人として神格化されたそうです
大きなお腹をしていて、大きな布袋を担いでいます
「福 禄 寿」 福徳、長寿の神様
中国漢民族の伝統的な宗教である「道教」の星の神様」と言われて
います
頭が長い独特の風貌の持ち主
「寿 老 人」 長寿、幸福の神様
中国宋時代の人で天南星の化身と言われています
白い髭をたらし、杖を持ち、鹿を連れています
このように七人の神様には別々のご利益があり、それを授かりたいと新年には七福神が話題になるようです
(一言メモ)
七福神信仰は室町時代末期に京都で始まったと言われています。
この頃はまだ宝船に乗っていません。
宝船に乗るのは江戸中期になってからと言われています。
この宝船に乗った七福神の絵を元旦の夜に枕の下に敷き、良い初夢を見ようと言
う風習が江戸時代に中期以降に流行りました。
これが現在の七福神めぐりにつながっているようです。
昨日、冬場は野菜の摂取が少なくなりがちな事と、正月に御節を食べて疲れた胃を癒すために、「春の七草」と言われる野菜を入れて粥を食べると書きました。
昔は正にその通りだったと思います。
その慣わしが日本の文化、伝統として残っている訳ですが、実際に七草粥を食べた人は私を含めてどれくらいいるのでしょうか?
今では一年を通じて新鮮な野菜が手に入る時代なので、あえて七草粥を食べなくても野菜類の補給を心配することはありません。
しかし伝統的なしきたりを残すと言う観点からは少し寂しい気がします。
一方、家庭菜園の楽しみはと言うと、販売されている野菜ではなく、自家製の新鮮な野菜を毎日食べられることにあります。
我が家では白菜、キャベツ、ホウレンソウなどは勿論ですが、一般にサニーレタス、リーフレタスと言われている「カッティングレタス」(葉レタス)も栽培しています。
これは玉レタスのように玉ごとに収穫するのではなくて、下の葉から必要な量だけ掻きとって収穫します。
必要な枚数だけ収穫し、すぐに食卓に出しますので、いつも新鮮で栄養豊富な野菜として重宝しています。
このため敢えて七草を食べなくても野菜類の摂取は十分だと思っているところです。
我が家は典型的なベジタリアンだと思います。
そのせいか肥満もなく健康状態には満足しています。
(一言メモ)
レタスの原産地は地中海地方と言われ、ギリシャでは紀元前5世紀頃には既に食
用として栽培されていたようです。
日本では平安時代に「ちしゃ」が食されていました。
今で言うサニーレタスやリーフレタスのような下の方から掻きとって食べる「掻きち
しゃ」と言われる種類だったようです。
玉レタスが入ってきたのは明治以降といわれています。
レタスの栄養素は、βカロチン、ビタミンB、C、カリュム、カルシュムなどが豊富に
含まれています。
特にカッティングレタスと言われる「葉レタス」は「玉レタス」と比して2倍から数倍の
栄養素が含まれており、食するには 「葉レタス」 がお奨めです。
昨日は二十四節気の最初の節気「小寒」でした。
この日から「大寒」までの15日間と、更にその後の節分(2月3日)までが、寒さの一番厳しい頃といわれています。
一般的に「寒の内」と言われており、寒中見舞いはこの頃に書きます。
そして今日は七草粥を食べる日です。
もともと春は「七種」と書いて「ななくさ」と読み、「七草」は秋の用語に使用されていましたが、いつの間にか春も秋も同じように「七草」と書くようになりました。
春の七草はご存知の通り
芹(せり) セリ科の多年草
薺(なずな) ぺんぺん草
御形(ごぎょう) 母子草
繁縷(はこべら) ナデシコ科の雑草
仏の座、 田やあぜ道に生える雑草
菘月(すずな)、 蕪(かぶ)
蘿蔔(すずしろ) 大根
を言いますが、これがどのような野菜か知っている人は少ないのではないでしょうか?
蕪や大根を除くと田や道端に生えている雑草が実態なのです。
七草粥は邪気を払い、万病を除くという意味だけでなく、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補う効能があると言われています。
平安時代には米、粟、黍(きび)、稗(ひえ)、みの、胡麻、小豆の穀物七種を食べていたようです。
野菜の七草は1362年頃の書物に書かれており、その頃から食されるようになったと思われます。
また今日7日までを「松の内」と言い、正月にお迎えした神様が帰られる日でもありますので、門松は本日を持って取り除きます。
昔は時間を表すのに十二支を用いていましたね。
もちろん方角にも使われていて、暮らしの中にすっかり溶け込んでいたように思いす。
そして年号にも干支が使用されています。
皆さんよくご存知の「壬申の乱」は672年(壬申年)に起きた反乱ですね。
簡単に説明しますと、
天智天皇(中大兄皇子)の死後、皇位継承をめぐって、天智天皇の実弟の大海人皇子が長子の大友皇子を退けようとして起こした内乱といわれています。
結局、戦に敗れた大友皇子は自害し、大海人皇子が即位して天武天皇となりました。
このときの壬申年の壬申をとって「壬申の乱」といわれている訳です。
また近年では「戊辰戦争」がありますね。
これもご存知の通り1868年(戊辰年)の戊辰から名づけられています。
これは明治新政府が徳川幕府軍を一掃するために起こした内戦ですね。
1868年1月の「鳥羽伏見の戦い」から1869年5月の「函館戦争」までの戦のことです。
また高校球児の憧れである甲子園球場の名前も干支からきています。
即ち、甲子園球場ができたのは大正13年です。
干支年は十干と十二支の組み合わせで年を表していますが、その最初が甲(きのえ)子(ねずみ)となるわけです。
大正13年がこの最初の干支年(甲、子)に当たり、ここから「甲子園」が名づけられたといわれています。
こうしてみると干支は現在でも私たちの身近に溶け込んできていることに驚きますね。
日常生活の中で「干支年」のついたものがないだろうか?と探してみれば楽しくなりませんか?
昨日の記事で干支はもともと十干、即ち五行説に陽「兄(え)」と陰「弟(と)」が結びついたものと書きました。
そして十二支はご存知の通り
ねずみ(子)、 牛(丑)、 虎(寅)、 うさぎ(卯)、 龍(辰)、 蛇(巳)、
馬 (午)、 羊(未)、 猿(申) 鳥 (酉) 犬(戌) 猪(亥)
ですよね。
この十干と十二支が組み合わされて、60年で一回りすることも昨日書きました。
この十二支は時間や方角にも使われています。
時間では2時間ごとに使用され、それを現在の時間に当てはめると、凡そ次のようになります。
子は( 0時) 丑は( 2時) 寅は(4時) 卯は( 6時) 辰は( 8時) 巳は(10時)
午は(12時)未は(14時) 申は(16時) 酉は(18時) 戌は(20時) 亥は(22時)
この時間を使用している言葉に午前・午後があります。
即ち午前は午(午の刻、12時)の前、午後は午(午の刻、12時)の後となった訳です。
正午(12時)は正に午の刻を言っているわけですね。
方角では北から30度づつ移動して使われています。
子は(北) 丑は(北北東) 寅は(東北東) 卯は(東) 辰は(東南東) 巳は(南南東)
午は(南) 未は(南南西) 申は(西南西) 酉は(西) 戌は(西北西) 亥は(北北西)
のようになります。
皆さんよくご存知の子午線は子(北)と午(南)を結んだ線の事だと言うことがよくわかりますね。
(一言メモ)
昔は時刻を「○○つ時」と言うように数でも言っていましたね。
即ち 九つ時は子の刻と午の刻 八つ時は丑の刻と未の刻
七つ時は寅の刻と申の刻 六つ時は卯の国と酉の刻
五つ時は辰の刻と戌の刻 四つ時は巳の刻と亥の刻
「3時のお八つ」と言いますが、本当は未の刻が八つ時なので午後2時ごろが正解
ではないでしょうか?
テレビ、映画の時代劇を見ていると、「明け六つ」とか、「暮六つ」など、時間をこの
ように表現していますね。
上の「○○つ時」に当てはめれば今の時刻が理解できると思います。
また方角でも十二支が使われていることに気づくと思います。
干支を知れば時代劇を見る目も少しは変わり、楽しくなると思いませんか?
昨日は干支について簡単に書きましたので、今日はその干支の続きを書きたいと思います。
今では干支といえば12の動物のことを言っていますが、もともとは十干(じっかん)を干支といいます。
十干とは中国の思想で、この世の中は「木」「火」「土」「金」「水」の5つの要素からなっていると言う「五行説」に、陽「兄(え)」と陰「弟(と)」が結びついたものです。
これが「えと」なのです。
ですから12の動物とは別であったものが、いつの間にか十干と十二支の組み合わせを「干支(えと)」と言うようになりました。
この十干十二支を組み合わせると、六十干支となり、還暦を迎えます。
ですから60歳を還暦といっていますが、正確には61歳ですね。
61歳から新しい六十干支が始まります。
暦でよく見かける、「きのえ」、「きのと」、「ひのえ」、「ひのと」、などはこの十干に
甲(こう)、 乙(おつ)、 丙(へい)、 丁(てい)、 戊(ぼ)、
己(き)、 庚(こう)、 辛(しん)、 壬(じん)、 癸(き)
の十までの漢字を当てたものです。
即ち、甲(きのえ{木の兄}) 乙(きのと{木の弟})、
丙(ひのえ{火の兄}) 丁(ひのと{火の弟7})、
戊(つちのえ{土の兄}) 己(つちのと{土の弟})、
庚(かのえ{金の兄}) 辛(かのと{金の弟})、
壬(みずのえ{水の兄}) 癸(みずのと{水の弟})
このようにして暦を見つめると楽しくなりませんか?
干支について簡単に書きました。
干支について(その3)も書きたいと思います。
今年は干支の最初の年「ねずみ年」ですね。
昨日はサークル仲間で門松を作った時のことを書きましたが、今日の記事もまた同じサークルで今年の干支のねずみを手作りした作品を紹介します。
指導を受けながら和気藹々の内に出来上がった作品が上の画像です。
少し耳が大きいのが気になりますが、出来栄えには満足しています。
さて今年の干支であるねずみについて、次の(一言メモ)で至極簡単に紹介したいと思います。
(一言メモ)
昔、天の支配者が人間を守る12頭の動物たちを選ぶために1月1日に宴会を開く
ことを決め、お触れを出しました。
そのお触れには次のように書かれていました。
「天宮に先着した12頭の動物に人間を守る象徴としての守護獣の資格を与える。
与えられた動物は以後毎年交代でその責務を果たすこと」
名誉な守護獣の資格をもらいたいと、あらゆる動物がそのお触れを見て、遅れな
いように準備しました。
ところがネコは寝ていてそのお触れに気がつきませんでした。
目が覚めた時、外が騒がしいのでねずみに事情を聞いたところ、ねずみは1月2日
に宴会があると、うその日を伝えます。
宴会当日、まず足の遅い牛が夜中に出かけます。
それをねずみが見つけ、遅れまいと牛の背中に飛び乗りました。
その後、トラ、ウサギ、龍、蛇、午、などそのほかの動物たちも間に合うように出か
けました。
一番に出かけた牛が天宮の前まで来たときに、背中のねずみが飛び降りて1番目
に天宮に入りました。
一番先に出かけた牛は足が遅いのでねずみに先を越されて2番目になりました。
ねずみはずるいですね。
その後、トラ、うさぎ、辰、蛇、馬、羊、猿、鳥、犬、猪、の順に入りました。
この先着12頭の動物が人間を守る象徴としての守護獣となったわけです。
ねずみから始まるの干支の順番はこのときの到着順であり、毎年交代して我々
人間を守ってくれています。
ネコはねずみに教えられた通り1月2日に天宮に行きましたが、門番から「宴会
は昨日終わった。顔を洗って出直せ!」と怒られ、守護獣になれませんでした。
ネコは怒りました。
ネコはそれ以来ねずみを目の敵として追い回しています。
またネコがいつも手で顔を洗うようにしているのは、門番に言われた事を守ってい
るからだと言われています。
今年はそのずるい動物である「ねずみ」年です。
ネコはどんな気持ちで今年を見つめているのでしょうね。
明けましておめでとうございます。
輝かしい2008年の始まりです。
最近では年号を西暦で表現する人が多くなりましたが、私はどちらかと言うと和暦、即ち「平成20年の始まり」といった方が馴染みがあります。
俳人で中村草田男が詠んだ
「降る雪や明治は遠くなりにけり」があります。
これは明治生まれの草田男が昭和の時代を目の当たりにして、雪が降る季節に生まれた時代を振り返って、遠くなったものだなと言う感慨詠んだものです。
和暦になじんだ私としても
「降る雪や昭和は遠くなりにけり」の感をおぼえます。
さて、本題の門松ですが、先月の中頃自治会のサークルで門松の講習会があり、その時の作品を玄関先に立てました。
これも手作りして楽しむ、所謂クラフトの類でしょうか。
(一言メモ)
正月に何故門松を立てるのでしょうか。
平安時代の貴族の間に「小松引き」と言う行事があり、その行事で使用された小
松を長寿祈願のために愛好する習慣がありました。
もともとは松、杉、椎、榊、などの常緑樹が使用されていましたが、いつしか松、
竹、梅などが用いられるようになりました。
昔は木の梢には神が宿ると考えられていたところから、年神様を迎え入れるため
の依代、即ち神が招き寄せられて乗り移る物としての意味合いがあります。
従って門松を立てるのは神様を招き迎えるためですが、これも最近では印刷物を
玄関に貼り付けて簡素化したものが殆どになりました。
環境問題との関係でやむをえない面がありますが、やはり古き日本の伝統的な文
化の一つであれば残したいものです。
これも「明治は遠くなりにけり」の1つでしょうね。
門松を立てる日は12月13日~28日か30日に行います。
13日は松迎えといって松をとりに行く「事始め」の日です。
29日は「二重苦」といって苦に通じることから避けます。
31日は「一夜飾り」といって不吉を嫌い飾りません。
1月7日までが松の内。
取り払いは神様が帰られる1月7日にします。