9月20日の記事で元CIAのブルース・クリングナー氏の東京新聞でのインタビューを紹介しました。クリングナー氏が、日本の自衛隊を侵略戦争にまで活用するように求めてくるであろうことに対し、薩長公英陰謀論者さんから以下のようなすばらしい投稿をいただきました。そのまま新記事としてアップさせていただきます。
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http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/2a96e56c23358306ad63112db1071e52
政党とは国民にとって与えられるものではない。選挙とは選択ではない。自由とは選択の自由ではない。 (薩長公英陰謀論者) 2015-09-28 02:54:53
もとCIAの、ジャパン・ハンドラー、クリングナー氏が東京新聞のインタビューに応じ、今般の戦争法について、日本が集団的自衛権を行使できるのは敵対行為に対応する場合に限られている、と不満を表明しているとのこと、驚愕しました。
相手側からの敵対行為なしの集団的自衛権の行使を要求しているわけで、おそらく先制攻撃というより、侵略征服行動そのものを求めているのです。日本が軍事同盟下に下請参加する米国の軍事行動がそもそも侵略征服であることが躊躇なくさらけ出されています。
米ネオコンがかようになりふり構わなくなっていること、その倨傲と下劣さににあらためて唖然といたしました。
せっかくの西洋のよき思想的文化的伝統からは無縁の白い膚のオオカミのもとで自衛隊員たちがその生死を差配されること、まことにつらい思いです。
戦後占領行政において、日本の軍事国家としての牙を根こそぎ抜くという目的のもとではあれ、彼らなりに誠実に近代立憲国家の理想を追ったニューディーラー、GS(GHQ民政局)を冷戦への転換を奇貨として放逐した反共謀略組織、G2(GHQ参謀第2部)と、ドレスデンと東京に対する無差別殺戮爆撃、対日原爆投下を立案指揮した殺人鬼カーティス・ルメイの流れを汲むのがネオコンの対日謀略チーム(ジャパン・ハンドラーズ)であると聞いたことがありまして、むべなるかなと思いました。
今般の戦争法によって往時の南ベトナム政府と何ら変わらない存在と化した日本政府は、明治長州政権が大日本帝国憲法をそうしたように、外見的立憲主義によって運用してきました。
すなわち、国民の基本的人権と憲法を最高規範とする法の支配をたんなる建前と考えてきたわけです。
集団的自衛権の行使承認を安倍官邸が閣議で決定するまでは、防衛省のホームページには
「しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています」という政府見解が明記されていたとのことです
(http://news.livedoor.com/article/detail/9018146/ )。
これはあくまで外見的立憲主義による権力側の行動の制約を明記したものです。
しかし、ネオコンに使嗾された政府官邸および自公は、今次の戦争法制定において外見的立憲主義さえ踏みにじったわけです。
かように前近代的なやり方を躊躇なく、計画的にやってのけたことから、ほとんどすべての憲法学者が、野蛮な違憲立法であると怒りを表明しました。
かって長州明治政府が日本を近代的立憲国家に見せようと努力したことさえドブに投げ捨てた政府官邸と自公は、人類史的に恥ずべき存在に堕しているのにかかわらず、長州平成政府が国営放送局と最大発行部数の新聞を支配しているために、多くの人びとはそれに気づかされていません。
しかし、「憲法守れ」と立ち上がった、SEALDsという若ものたちの、かってない草の根運動が、広汎な庶民国民一人ひとりに憲法に対する自覚的認識を呼び起こしました。
民主主義とは選挙という一方的に与えられた機会にお仕着せの選択肢に限定されてさまざまの注文に従って行使するものではないこと。民主主義とは、選挙を含めての自発的、主体的な表現と行動によってつくりだすものであることを、人びとははじめて自分のものとしつつあります。
思い思いのプラカードを掲げて主張し訴える行動、デモという言い方にまじってパレードという言葉が自然にもちいられるようになりました。
そこではマイクを握って大勢の前で呼びかけるときに、誰もが「私は・・・」と言っています。「我々は・・・」ではなく。そのことに強い感銘を受けました。
いま、あの民主党と、すでに長州ではなくなった共産党が手を結ぶことができるのか、それが焦点になっています。
そして、民主党内にはけっして共産党に近づくことのないであろう主要メンバーが公然たる力を持っています。
これを政党による政局問題としてのみ考えるマス・メディアはすでに周回遅れになっていると思います。
民主主義においては政党の動きや政党内の考えがコトを動かすのではなく、政党は多数の国民に動かされて国民の考えに従って政治に携わるものだ、ということが、SEALDsによって当然のこととなり、これが澎湃たる流れになりつつあります。
マス・メディアの世論調査において支持政党を選ぶ、選挙において選択できる政党に投票する、こんなものが民主主義ではないと、SEALDsの若ものたちが、世代をとわず皆につたえています。
「勝手に決めるな。言うことをきかせる番だ俺たちが」というコールは、政府自公に対するだけのものではなく、政治というものに対する民主主義的スタンスを端的にあらわしていると思います。
いまこのコールが民主党に向けられていることを思い知るべきです。
政党とは国民にとって与えられるものではありません。国民が動かすものです。
選挙とは与えられたリストから選択するものではありません。国民の意を日々体して政治のプロフェッショナルとして動いてくれる人をつくりだすものです。
自由とは選択する自由ではなく、つくりだす自由なのです。
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http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/2a96e56c23358306ad63112db1071e52
政党とは国民にとって与えられるものではない。選挙とは選択ではない。自由とは選択の自由ではない。 (薩長公英陰謀論者) 2015-09-28 02:54:53
もとCIAの、ジャパン・ハンドラー、クリングナー氏が東京新聞のインタビューに応じ、今般の戦争法について、日本が集団的自衛権を行使できるのは敵対行為に対応する場合に限られている、と不満を表明しているとのこと、驚愕しました。
相手側からの敵対行為なしの集団的自衛権の行使を要求しているわけで、おそらく先制攻撃というより、侵略征服行動そのものを求めているのです。日本が軍事同盟下に下請参加する米国の軍事行動がそもそも侵略征服であることが躊躇なくさらけ出されています。
米ネオコンがかようになりふり構わなくなっていること、その倨傲と下劣さににあらためて唖然といたしました。
せっかくの西洋のよき思想的文化的伝統からは無縁の白い膚のオオカミのもとで自衛隊員たちがその生死を差配されること、まことにつらい思いです。
戦後占領行政において、日本の軍事国家としての牙を根こそぎ抜くという目的のもとではあれ、彼らなりに誠実に近代立憲国家の理想を追ったニューディーラー、GS(GHQ民政局)を冷戦への転換を奇貨として放逐した反共謀略組織、G2(GHQ参謀第2部)と、ドレスデンと東京に対する無差別殺戮爆撃、対日原爆投下を立案指揮した殺人鬼カーティス・ルメイの流れを汲むのがネオコンの対日謀略チーム(ジャパン・ハンドラーズ)であると聞いたことがありまして、むべなるかなと思いました。
今般の戦争法によって往時の南ベトナム政府と何ら変わらない存在と化した日本政府は、明治長州政権が大日本帝国憲法をそうしたように、外見的立憲主義によって運用してきました。
すなわち、国民の基本的人権と憲法を最高規範とする法の支配をたんなる建前と考えてきたわけです。
集団的自衛権の行使承認を安倍官邸が閣議で決定するまでは、防衛省のホームページには
「しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています」という政府見解が明記されていたとのことです
(http://news.livedoor.com/article/detail/9018146/ )。
これはあくまで外見的立憲主義による権力側の行動の制約を明記したものです。
しかし、ネオコンに使嗾された政府官邸および自公は、今次の戦争法制定において外見的立憲主義さえ踏みにじったわけです。
かように前近代的なやり方を躊躇なく、計画的にやってのけたことから、ほとんどすべての憲法学者が、野蛮な違憲立法であると怒りを表明しました。
かって長州明治政府が日本を近代的立憲国家に見せようと努力したことさえドブに投げ捨てた政府官邸と自公は、人類史的に恥ずべき存在に堕しているのにかかわらず、長州平成政府が国営放送局と最大発行部数の新聞を支配しているために、多くの人びとはそれに気づかされていません。
しかし、「憲法守れ」と立ち上がった、SEALDsという若ものたちの、かってない草の根運動が、広汎な庶民国民一人ひとりに憲法に対する自覚的認識を呼び起こしました。
民主主義とは選挙という一方的に与えられた機会にお仕着せの選択肢に限定されてさまざまの注文に従って行使するものではないこと。民主主義とは、選挙を含めての自発的、主体的な表現と行動によってつくりだすものであることを、人びとははじめて自分のものとしつつあります。
思い思いのプラカードを掲げて主張し訴える行動、デモという言い方にまじってパレードという言葉が自然にもちいられるようになりました。
そこではマイクを握って大勢の前で呼びかけるときに、誰もが「私は・・・」と言っています。「我々は・・・」ではなく。そのことに強い感銘を受けました。
いま、あの民主党と、すでに長州ではなくなった共産党が手を結ぶことができるのか、それが焦点になっています。
そして、民主党内にはけっして共産党に近づくことのないであろう主要メンバーが公然たる力を持っています。
これを政党による政局問題としてのみ考えるマス・メディアはすでに周回遅れになっていると思います。
民主主義においては政党の動きや政党内の考えがコトを動かすのではなく、政党は多数の国民に動かされて国民の考えに従って政治に携わるものだ、ということが、SEALDsによって当然のこととなり、これが澎湃たる流れになりつつあります。
マス・メディアの世論調査において支持政党を選ぶ、選挙において選択できる政党に投票する、こんなものが民主主義ではないと、SEALDsの若ものたちが、世代をとわず皆につたえています。
「勝手に決めるな。言うことをきかせる番だ俺たちが」というコールは、政府自公に対するだけのものではなく、政治というものに対する民主主義的スタンスを端的にあらわしていると思います。
いまこのコールが民主党に向けられていることを思い知るべきです。
政党とは国民にとって与えられるものではありません。国民が動かすものです。
選挙とは与えられたリストから選択するものではありません。国民の意を日々体して政治のプロフェッショナルとして動いてくれる人をつくりだすものです。
自由とは選択する自由ではなく、つくりだす自由なのです。