代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

長州史観から日本を取り戻す 

2014年01月17日 | 長州史観から日本を取り戻す
 以前の記事で、『月刊日本』誌の2013年9月号亀井静香さんの言葉を紹介して「靖国神社は長州神社だ」と書いた。亀井発言以来、ネット上ではしずかに「長州神社」という呼び方が拡散されつつある。靖国神社は長州神社なのだという本質を見抜くことで、私たちは明治新政府・長州藩閥が日本人に仕掛けたマインドコントロールから脱却できる。読者の皆様に「長州神社」の拡散を呼びかけたい。

 
 かつて「新しい歴史教科書をつくる会」は、戦後の日本に広く浸透していた歴史観を「GHQ=コミンテルン史観」あるいは「自虐史観」と呼び、GHQとコミンテルンによるマインドコントロールからの脱却を訴えた。「GHQ史観」と「コミンテルン史観」は違うと思うが、それらの歴史観は確かにあり、それぞれが日本人に浸透していたことも事実だ。それからの脱却を訴えた彼らの主張に意義はあったと思う。

 ・・・とリップサービスした上で、ここからが問題。彼らは「GHQ史観」「コミンテルン史観」に変わって、「長州=靖国史観」で日本人をリ・マインドコントロールしようとしたのだ。それは若い層にすばらしく浸透した。現在、まさにその「成功」が、日本を滅亡の淵へと追い込みつつある。「GHQ史観」が去った後の日本の次なる課題は、「長州史観」から日本を取り戻すことだ。

 はじめに断わっておくが、私は長州の英雄、吉田松陰も高杉晋作も大好きな人物である。決して悪意をもって長州批判をするわけではない。
 私が初めて読んだ司馬遼太郎の小説は、たまたま松陰と晋作の師弟を主人公にした『世に棲む日々』だった。高1の頃のことだったが、読了するまでに何回涙したかわからない。それからすっかり吉田松陰を尊敬するようになって、高校時代に松陰の書いた『留魂録』や『講孟箚記』など読み漁ったものだった。

 吉田松陰の政治思想そのものは問題だらけ、欠陥だらけで、「元祖ネトウヨ」的なところがある。それでも公に生き公に殉じた、その生き方の純真性・行動力・感化力等は日本史的に傑出した存在であり、明らかに歴史を動かす原動力になった。そして松陰の弟子の高杉晋作は、日本史上もっとも傑出した天才革命家だったと思う。私も以前に拙ブログで、高杉晋作をフィデル・カストロやチェ・ゲバラに比肩する天才革命家と評価したことがあった。しかし松陰と晋作の後継者たちは、彼らの生き方に学ぶことなく、松陰の思想の誤った部分を肥大化させ「長州=靖国史観」を創り上げた。これは明確に害悪なのだ。

 長州藩閥末裔の安倍晋三首相が、日本国憲法を「アメリカに押し付けられた憲法」と呼び、日本人の自主性にまったく依拠していない、憲法のイロハも分かっていない自民党改憲案を「自主憲法」と誇らしげに礼賛するあたりが、長州史観の害悪を明確に物語っている。
 安倍首相個人の人柄は、とても善良で純粋な方だと思う。そして尊敬する祖父・岸信介元首相と父・安倍晋太郎氏が果たせなかった「自主憲法制定」の夢を自分でかなえようと、純粋な信念で動いているのだと思う。それだけに、その行動の大本にある「長州史観」の誤りを問題にする必要性は高いと思うのだ。
 

 「長州史観から日本を取り戻す」 ― 書き出すと長くなりそうだ。この続編は追って少しづつ書くようにしたい。
 



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4 コメント

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Unknown (12434)
2014-01-18 12:00:08
はじめまして。12434と申します。私は自民党の改憲案に反対しているのですが、関様のご意見は非常に興味深く、いつも参考にさせていただいています。

残念ながら今の日本国民の多くは、現行憲法が明治の自由民権運動家の私擬憲法も参考になった事実をあまり知りません。
こうした背景にも、長州史観が影響しているのでしょうか?
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自民党岸派(清和会)の流れです ()
2014-01-20 12:47:08
 はじめまして。日頃拙ブログを読んでくださって、またコメント下さってありがとうございました。

 自民党の派閥の中で、もっとも声高に「現憲法は押し付け」「自主憲法の制定」と叫んでいるのが清和会系ですが、清和会はもともと岸信介首相がつくった岸派の流れです。岸元首相は長州人で、由緒正しき長州藩閥の流れを汲んだ政治家です。清和会の政治家は皆、岸信介元首相の思想と歴史観(すなわち長州史観)を継承している傾向は否めないと思います。石原慎太郎さんももともと福田派(旧岸派)です。

 彼らにとって、押し付け憲法を廃止し、自主憲法を制することが悲願ですから、現行憲法が私擬憲法を参考にしているという事実は、自らの歴史観にとって「不都合な事実」になりますから、当然、黙殺することになると思います。

 明治憲法は長州人の伊藤博文が作成の中心人物であり、岸信介にとっては、あれこそが自主憲法だったのでしょう。現行憲法の制定の際、A級戦犯として獄中にいた岸さんは、当時の民衆が新憲法を大歓迎した雰囲気にも触れることができず、占領軍の押し付けによって日本の国体が汚されたと、獄中で臥薪嘗胆しながら悔しがったことでしょう。

 岸さんはCIAと不適切な関係を持つことによって、釈放され首相にまで登り詰めますが、アメリカに対しても面従腹背で、内心「コノヤロー、いつの日にか・・・・」と思っていたのだと思います。だって、「鬼畜米英」と叫んでいた戦時閣僚ですから。

 ちなみに岸は、東條内閣の商工大臣でしたが、東條内閣を打倒しようとしています。長州藩閥の岸にとって、賊軍であるところの旧南部藩の家系である東條英機の風下に回るのはプライドが許さなかったのかもしれませんね。
 
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Unknown (12434)
2014-01-20 18:45:54
お返事ありがとうございます。

しかしまあ、明治の私擬憲法を作ったのも戦後の憲法草案要綱を作ったのも日本人なのだから、自分たちの価値観に合わないだけでそれを黙殺するとかひどい話です。
それこそむしろ自虐的史観だと思います。
あと百歩譲ってGHQの完全な押し付けでも、それなりに近代的でいい憲法ですよ。もっともそれが向こうにとっては害悪なんでしょうけど。

でもそう考えると、今の自民党ってコンクリートみたいに頭固いですね。護憲派改憲派を問わず憲法学者には、「自民党改憲案は憲法に対する基礎的知識が乏しい人たちが作った恐ろしい代物」という方がいますが、自民党の皆様に考え直して頂くことはできないでしょうか?
難しい話だと思いますが、鈴木宗男さんのように考えを改めた人もいますから可能性も少しはあると思います。
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素晴らしい司馬遼太郎『この国のかたち(一)1986-1987』(文藝春秋、1990年) (薩長公英陰謀論者)
2014-02-16 01:34:19
 高校生時代の関良基さんを感涙にみちびいたという司馬遼太郎がじつは素晴らしいと、岩波新書のシリーズ日本近現代史③『日清・日露戦争』(2007年)を担当した日本史学者、原田敬一氏の書いた『「坂の上の雲」と日本近現代史』(新日本出版社、2011年)におしえられました(同書、P32~33、P136)。そこで思い立って題記の『この国のかたち(一)』を読み始めまして、司馬遼太郎を見直さざるを得ませんでした。感動すら感じました。

 司馬遼太郎が22歳と8日で「敗戦の日」を迎えたとき、敗戦を間近にひかえた1945年早春に満州から移動して栃木県佐野に駐屯していた連隊におり、このときのことを『文藝春秋』巻頭随筆連載をまとめた題記書(一)の「あとがき」にこのように書いています:

 「・・・もし敵の本土上陸作戦がはじまると、私の部隊は最初の戦闘の一時間以内に全滅することはたしかだった。・・・私は毎日のように町を歩いた。・・・軒下などで遊んでいるこどももまことに子柄(こがら)がよく、自分がこの子らの将来のために死ぬなら多少の意味があると思ったりした。が、ある日、そのおろかしさに気づいた。このあたりが戦場になれば、まず死ぬのは、兵士よりもこの子らなのである」

 「終戦の放送をきいたあと、なんとおろかな国にうまれたことかとおもった。(むかしは、そうではなかったのではないか)と、おもったりした。・・・いくら考えても、昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようにはおもえなかった」

 ・・・と。

 「国と民を賭けものにして賭場にほうりこむ」とは。それはいまTPPと「国家戦略特区」のことでしょうか。そしてまさか再び・・・。結論を先回りすれば、かようなことすべて「明治維新」にはじまったことであると思います。

 おそらくそれ自身が「長州史観」であると言ってよいと思われる明治維新、司馬遼太郎は『この国のかたち(一)』「2 朱子学の作用」(文春文庫版、P21~P33)で明治維新の無思想性を語っています:

 「・・・明治維新なのだが、革命思想としては貧弱というほかない。スローガンは尊皇攘夷でしかないのである。・・・人類のすべてに通ずる理想のようなものはない。また人間の基本の課題もほとんど含まれていないのである」

 「幕末の攘夷書生や処士が鎖国の継続こそ勅諚であるととなえて大あばれし、結果として太政官政府ができると、開国をしてしまった。・・・井上馨(1835~1915)のもとに、古い知りあいがやってきて、『御前、いつ攘夷はおとりやめという勅諚が出ました』というと、井上はそれを言うな、という表現で、噛みつくように『あのときは、ああでなきゃいかんかったのだ』といったといわれる」

 「明治維新は思想的器量という点では決して自讃に耐えるようなものではない。しかも、・・・ながく宋学(水戸)イデオロギーが生きたのである。左翼のあいだでさえ、水戸イデオロギー的な名分論のやかましい歴史がつづいてきた」

 なお、朱子学を「水戸イデオロギー」にしたものは徳川光圀の修史事業の目的であった宋学的価値観=尊皇攘夷による水戸史観の確立であり、そのルーツは宋学イデオロギーのとりこになって武家政権を倒そうとした南朝・後醍醐天皇とその側近公家であることが「2 朱子学の作用」で述べられています。壮大で寛容な国際主義に立っていた以前の王朝から一転してなぜ、宋の王朝が偏狭なナショナリズムを鼓吹しなければならなかったのかという事情への興味深い言及を含めて。

 ちなみに『この国のかたち(一)』の「16 藩の変化」では、「藩」という呼び方が一般化したことは幕末であることを述べています(藩という呼称は明治になってから「公的に」確立したもので、幕末に薩長が「天子の藩屏(はんぺい=まわりを守るもの)」から来た「藩」を自称したことに由来するこということは専門家には「基本的な事実」なのだそうですが、それならそうと教科書に書けばよいのに)。そしてその傍証として、のちの桐野利秋、中村半次郎が(赤松小三郎殺害の下手人ですね)「藩という流行語」を得意になって使ってみたものの、藩の尊称である「尊藩」というのが「損藩」かと思い込み、それでは相手に対して失礼であると相手の藩のことを「弊藩」と言っていた(「藩屏」を逆立ちさせて?)という話を紹介しています(文春文庫版、P194)。

 かようなことを含めて、これこそ司馬史観の精華であると感嘆すべきこのような知見を、司馬遼太郎はなぜ彼の作品を通じて人口に膾炙させなかったのか、と嘆息せざるを得ません。まさか明治維新に似せて自分の作品も無思想にしたということでしょうか。
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