前回に引き続いて手前ミソで恐縮ですが、私の研究内容の紹介をさせていただきます。近頃、同志社大学の社会的共通資本研究センター(宇沢弘文所長)のディスカッション・ペーパーとして、「地球温暖化とアジアの森林」という論文を書きました。ウェブ上で公開されておりますので、興味のある方、ご参照ください。このページです。http://www1.doshisha.ac.jp/~rc-socap/publication/20ondanka_seki.pdf
私の心の中にある一番の問題意識は、「資本主義でもなく社会主義でもない第三の道を探る」というものです(このブログの趣旨も基本的にはそういうことです)。つい10年ほど前ならば、こんな問題意識を口にすると、「資本主義の勝利はすでに明らかだ。何を寝ぼけたことを言っているんだ。このアホ!」などと笑われたものでした。しかし、グローバル資本主義の末期的症状が多くの人々の目にも明らかになってきた現段階にあっては、まっとうに受け入れてもらえる問題意識だと思います。
今回紹介した論文は、あくまでも私の目下の研究対象である「アジア諸地域における植林事業」をテーマとしたものですが、既存の資本主義と社会主義がそれぞれ展開してきた造林政策のどこに問題があったのか、それぞれどう改善していけばよいのか論じたものです。(すでに、このブログに過去に書いたことと重複する部分も多いです)。
この記事では、本文の中から一部を抜粋して紹介させていただきます。興味のある方は本文をお読みください。ディスカッション・ペーパーというのは、議論の叩き台で、最終的に活字にするための改稿する予定のものです。読者の皆様の感想などいただけると幸いに存じます。
まずインドネシアとフィリピンを考察対象として、資本主義的造林(植林)政策の問題点としては、以下の三点を指摘いたしました。
*****************
①土地の環境に適した在来樹種は植栽されず、ユーカリやアカシアといった5年程 度で伐採可能な外来の早生樹種ばかりが造林される。
②造林投資の収益性の大小を決定するのは土壌条件、気候条件、地理的条件などが 主な要因であり、企業努力による技術改善よりも、自然条件に規定されて収益性 はほとんど決まってしまう。その結果、平地の農業適地やまだ豊富なバイオマス が残る天然生二次林などが造林用地として選択され、地元住民とのあいだの土地 紛争も発生し易くなる。
③環境上造林の必要性が高い、裸地、荒廃地、急傾斜地などは収益性が低いどころ か、採算水準にも乗らない場合が多い。つまり本来造林すべき場所で造林されな い。
*******************
次に中国を考察対象としながら社会主義的造林事業の問題点として、以下の三点を指摘しています。
********************
①地域の実情を鑑みない一律な基準による造林地の設定が行われている。
②造林地の農民的利用を極力排除しようとして、農民が森林への関心を失っている。
③植栽する苗木を上から計画的に配分し、地域の環境や市場条件に適合していない。
********************
以上のように植林事業をめぐって、資本主義(あるいは市場原理主義)と社会主義(あるいは官僚主義)の弊害をそれぞれ指摘した上で、最後に以下のような提言を行っています。一部を紹介いたします。
********************
森林は市場原理主義に依拠しても、官僚主義に依拠しても適切には管理されない。資本主義と社会主義の失敗を乗り越えつつ、社会的共通資本として、森林を炭酸ガスの排出源から吸収源へと転換させるためには、どうすれば良いのだろうか。市場原理主義はいけないが、市場インセンティブは活用する必要がある。おおまかな土地利用計画は必要だが、住民の意向を無視した官僚主義的計画に陥ってはいけない。
先ず資本主義的造林事業の改善策を検討しよう。自由放任に依拠した資本主義的造林事業は、外来種のモノカルチャーが指向される点、さらに環境的に植えるべき傾斜地や荒廃地に植わらず、本来は木を植えなくても良い農業適地や二次林が選択されていくという点で、あまりにも多くの問題がある。市場原理に依拠した造林政策を進める国々で、森林面積の減少を抑えられないのも無理はない。
土地紛争を回避しながら、環境上必要性の高い場所に、生物多様性にも配慮しながら、適切に造林を進めるには、国や自治体が地元住民の意向を反映しながら、おおまかな土地利用計画を決め、さらに必要な財政資金を補助金として投入していく必要がある。
企業が林地の経営権を得て直接的に経営するのは、誰も住んでいない荒廃地でそれを行うのであれば可能かも知れないが、地域住民の土地利用と競合する場合は、基本的に直接経営を避けるべきであろう。民間企業は、直接に森林を経営するという供給サイドの役割に立つのではなく、地元の農家が生産した木材を買い付けるという需要サイドの役割に徹した方が、社会的な公正の観点からも、経営の持続可能性の観点からも望ましい。基本的に造林の実行主体は、企業よりも地元の農家の方が環境面でも社会面でも好ましい。
企業はあくまで収益性を基準に植栽樹木を決定するので、基本的にモノカルチャー造林になり、さらに木材価格が下落して収益性が低下すれば、競合する農作物へと土地利用を転換させるのに躊躇しないだろう。農民造林の場合、一般的にアグロフォレストリーの手法を用いながら、リスクを分散させながら多品種の生産を行うので、生物多様性上も望ましい。さらに木材価格が下落しても、農家の場合は、年度ごとの利潤の確保を必ずしも要求しない。農家の場合、いざという時のための貯蓄という感覚で、樹木を植栽する場合が多いので、価格が低迷していれば樹木を切らずにストックしたまま待つことができる。このことからも木材生産は、企業が行うよりも農民が行う方が望ましく、企業は農家と契約して買い付けるという役割に徹するのが好ましい。
次に社会主義的造林事業の改善策について論じよう。社会主義的造林は、造林の初期段階において効果的であることは、中国とベトナムの近年の急激な森林面積の増加を見ても実証されている。しかし本章で見たように、現場のことを良く理解していない官僚主導のトップダウン政策の弊害によって、地元住民は受動的に動員されているだけであり、必ずしも能動的な経営意欲を持っていない。このため、林地経営の長期的な持続可能性は保障できていない。
政策の改善策としては、造林参加世帯に対する補助金やマイクロクレジットによって支援するという財政的支援措置は継続しつつも、住民の意欲を削ぐような厳しすぎる土地利用規制・干渉を弱めて、市場インセンティブによる経営の自主性を高めるべきであろう。中国の退耕還林事業については、林間間作や林間放牧禁止の規制は失くすべきであり、森林管理と農業・牧畜経営が有機的に結びつきながら両立可能になる途を模索すべきである。
私の心の中にある一番の問題意識は、「資本主義でもなく社会主義でもない第三の道を探る」というものです(このブログの趣旨も基本的にはそういうことです)。つい10年ほど前ならば、こんな問題意識を口にすると、「資本主義の勝利はすでに明らかだ。何を寝ぼけたことを言っているんだ。このアホ!」などと笑われたものでした。しかし、グローバル資本主義の末期的症状が多くの人々の目にも明らかになってきた現段階にあっては、まっとうに受け入れてもらえる問題意識だと思います。
今回紹介した論文は、あくまでも私の目下の研究対象である「アジア諸地域における植林事業」をテーマとしたものですが、既存の資本主義と社会主義がそれぞれ展開してきた造林政策のどこに問題があったのか、それぞれどう改善していけばよいのか論じたものです。(すでに、このブログに過去に書いたことと重複する部分も多いです)。
この記事では、本文の中から一部を抜粋して紹介させていただきます。興味のある方は本文をお読みください。ディスカッション・ペーパーというのは、議論の叩き台で、最終的に活字にするための改稿する予定のものです。読者の皆様の感想などいただけると幸いに存じます。
まずインドネシアとフィリピンを考察対象として、資本主義的造林(植林)政策の問題点としては、以下の三点を指摘いたしました。
*****************
①土地の環境に適した在来樹種は植栽されず、ユーカリやアカシアといった5年程 度で伐採可能な外来の早生樹種ばかりが造林される。
②造林投資の収益性の大小を決定するのは土壌条件、気候条件、地理的条件などが 主な要因であり、企業努力による技術改善よりも、自然条件に規定されて収益性 はほとんど決まってしまう。その結果、平地の農業適地やまだ豊富なバイオマス が残る天然生二次林などが造林用地として選択され、地元住民とのあいだの土地 紛争も発生し易くなる。
③環境上造林の必要性が高い、裸地、荒廃地、急傾斜地などは収益性が低いどころ か、採算水準にも乗らない場合が多い。つまり本来造林すべき場所で造林されな い。
*******************
次に中国を考察対象としながら社会主義的造林事業の問題点として、以下の三点を指摘しています。
********************
①地域の実情を鑑みない一律な基準による造林地の設定が行われている。
②造林地の農民的利用を極力排除しようとして、農民が森林への関心を失っている。
③植栽する苗木を上から計画的に配分し、地域の環境や市場条件に適合していない。
********************
以上のように植林事業をめぐって、資本主義(あるいは市場原理主義)と社会主義(あるいは官僚主義)の弊害をそれぞれ指摘した上で、最後に以下のような提言を行っています。一部を紹介いたします。
********************
森林は市場原理主義に依拠しても、官僚主義に依拠しても適切には管理されない。資本主義と社会主義の失敗を乗り越えつつ、社会的共通資本として、森林を炭酸ガスの排出源から吸収源へと転換させるためには、どうすれば良いのだろうか。市場原理主義はいけないが、市場インセンティブは活用する必要がある。おおまかな土地利用計画は必要だが、住民の意向を無視した官僚主義的計画に陥ってはいけない。
先ず資本主義的造林事業の改善策を検討しよう。自由放任に依拠した資本主義的造林事業は、外来種のモノカルチャーが指向される点、さらに環境的に植えるべき傾斜地や荒廃地に植わらず、本来は木を植えなくても良い農業適地や二次林が選択されていくという点で、あまりにも多くの問題がある。市場原理に依拠した造林政策を進める国々で、森林面積の減少を抑えられないのも無理はない。
土地紛争を回避しながら、環境上必要性の高い場所に、生物多様性にも配慮しながら、適切に造林を進めるには、国や自治体が地元住民の意向を反映しながら、おおまかな土地利用計画を決め、さらに必要な財政資金を補助金として投入していく必要がある。
企業が林地の経営権を得て直接的に経営するのは、誰も住んでいない荒廃地でそれを行うのであれば可能かも知れないが、地域住民の土地利用と競合する場合は、基本的に直接経営を避けるべきであろう。民間企業は、直接に森林を経営するという供給サイドの役割に立つのではなく、地元の農家が生産した木材を買い付けるという需要サイドの役割に徹した方が、社会的な公正の観点からも、経営の持続可能性の観点からも望ましい。基本的に造林の実行主体は、企業よりも地元の農家の方が環境面でも社会面でも好ましい。
企業はあくまで収益性を基準に植栽樹木を決定するので、基本的にモノカルチャー造林になり、さらに木材価格が下落して収益性が低下すれば、競合する農作物へと土地利用を転換させるのに躊躇しないだろう。農民造林の場合、一般的にアグロフォレストリーの手法を用いながら、リスクを分散させながら多品種の生産を行うので、生物多様性上も望ましい。さらに木材価格が下落しても、農家の場合は、年度ごとの利潤の確保を必ずしも要求しない。農家の場合、いざという時のための貯蓄という感覚で、樹木を植栽する場合が多いので、価格が低迷していれば樹木を切らずにストックしたまま待つことができる。このことからも木材生産は、企業が行うよりも農民が行う方が望ましく、企業は農家と契約して買い付けるという役割に徹するのが好ましい。
次に社会主義的造林事業の改善策について論じよう。社会主義的造林は、造林の初期段階において効果的であることは、中国とベトナムの近年の急激な森林面積の増加を見ても実証されている。しかし本章で見たように、現場のことを良く理解していない官僚主導のトップダウン政策の弊害によって、地元住民は受動的に動員されているだけであり、必ずしも能動的な経営意欲を持っていない。このため、林地経営の長期的な持続可能性は保障できていない。
政策の改善策としては、造林参加世帯に対する補助金やマイクロクレジットによって支援するという財政的支援措置は継続しつつも、住民の意欲を削ぐような厳しすぎる土地利用規制・干渉を弱めて、市場インセンティブによる経営の自主性を高めるべきであろう。中国の退耕還林事業については、林間間作や林間放牧禁止の規制は失くすべきであり、森林管理と農業・牧畜経営が有機的に結びつきながら両立可能になる途を模索すべきである。
資本主義、共産主義を超えた第三の道の必要性ということでは、林業以外のあらゆる産業についても共通するところかもしれませんね。
(占有権?、優先的使用権?……)
「行為者」が、行為に伴う「状態」「現象」にどこまで責任を取るか(事前責任を含む)、
等々、市場原理主義の立場からも、興味深い問題です。
まったく関係ないのですが、
営林事業が最近難しくなってきた理由の一つに、
時間スパンが長すぎる、という点があると思っています。
世代を越えた「立木権の共有」や、立木権を地理的にモザイク状の入り組んだ関係にする(そうすることで、皆伐を防ぐ)、といった工夫が、まずできないでしょうか?
>農家の場合、いざという時のための貯蓄という感覚で、樹木を植栽する場合が多いので、価格が低迷していれば樹木を切らずにストックしたまま待つことができる。
森林の産物だけに頼る経営体では、確かに判断がイビツになりますね。
林の中で家畜を放牧する、とか、複合的な土地利用法で、木を伐る以外の収入・利用価値を作り出すのも大切そうですね。
>林業以外のあらゆる産業についても共通するところ
>かもしれませんね。
そうなんです。私もとりあえず森林のことしか書いてませんが、「市場任せでもいけないし、官僚まかせでもいけない」というのは、森林以外の多くのことに当てはまります。
宇沢先生が、「市場任せでも官僚任せでもいけない社会的共通資本」として例にあげているのは、森林や川などの自然環境のほかにも、医療、教育、金融、農村、社会インフラなどなどです。いま問題になっている年金も当然そうでしょう。
これらのものを、官僚の魔手と市場の魔手からいかに防衛するのかが大きな課題ですね。納税者主権を確立させねば・・・・。
市場原理主義じゃ森林を持続可能な形態で管理することは不可能という結論に必然的に到達するでしょう。。