大変にご無沙汰しております。ほぼ一カ月ぶりの書き込みになります。
このたび私の共著本が出版されました。手前ミソになり恐縮ですが、このブログの読者の一人でも多くの方に読んでいただきたいと思い、紹介させていただきます。
関良基、向虎、吉川成美著『中国の森林再生 -社会主義と市場主義を超えて』(御茶の水書房、2009年3月刊)という本です。写真は、表紙の写真です。いずれも私が撮影したものです。この表紙の写真が既に、中国農民の政府に対する不服従抵抗という濃厚なメッセージを伝えています。表紙の写真に隠されたそのメッセージの謎は本文を読めば分かります。
2002年以来、私どもが中国の貴州省や陝西省の山中で行ってきた研究と実践活動の成果です。研究はじめてから一冊にまとまるのにじつに7年という歳月を要しました。フィールド研究でちゃんとした成果を出そうとすると、どうしてもこれくらいの歳月は必要になります。
文献の中に閉じこもって「理論研究」(実際は欧米翻訳概念の受け売りになりがち)を行っている学者の方々は、ともすればこのような実証研究をバカにしがちです。そういう方々にもぜひ一読していただきたく存じます。現実との対話がない理論など空疎なものです。本格的なフィールド研究から得られた学術的成果がどのようなものか知っていただきたく存じます。
さて、中国というと「必ず崩壊する」という崩壊論者から「光輝く世界の大国になる」という繁栄論者まで、その両極端の主張が論壇でそれぞれは華々しくせめぎ合っております。
私に言わせれば、その両極端の議論がそれぞれ「こうあって欲しい」という主観的な思い込み先にありきの議論です。自分の願望にとって好都合な現象をつなぎ合わせて妄想をムクムクと膨らませているだけなのです。
実際、「崩壊論者」がこの本を読めば「崩壊」の根拠を拾い出すことができるでしょうし、「繁栄論者」が読めば「繁栄」の論拠を見い出すことができるでしょう。私に言わせれば、政府がアホなら今度の恐慌を契機に崩壊してしまう可能性だってあるし、逆に賢明なら今後の世界恐慌を乗り切ってさらに格差を縮小させつつ繁栄することも十二分に可能である、というだけのことなのです。もちろん政府がアホなら崩壊するというのは、米国も日本も同様でしょう。
現在の中国政府が、市場主義と社会主義のせめぎ合いの中で、きわめて深刻な綱渡りを強いられていることは事実です。私の本は、森林再生をテーマにしていますが、中国の内陸の貧困地域の社会全般の不安定性が叙述されております。中国の西部では、一歩政策を誤れば、深刻な社会動乱が誘発されるであろうことはよく分かるであろうと思います。
今後、中国政府が、一部の市場原理主義者にそそのかされて、農地に私的所有権を付与して土地を商品化したり、食料自給をないがしろにして農産物の輸入自由化をさらに進めるなどの政策を進めれば、いよいよヤバイということも本書を読めばわかっていただけるのではないかと思います。ただ同時に、胡錦濤・温家宝の指導部は、これまでのところ、ギリギリの綱渡りを強いられつつも、親農民的な立場で何とか問題に対処していることも伝わってくるでしょう。
というわけで本書は、崩壊論者にも繁栄論者にも読んでいただきたく存じます。とくに崩壊論に立つ、『諸君!』や『正論』や『will』や『SAPIO』などの編集部の方々に読んでいただけると大変にうれしく存じます。書評してくださるのなら献本いたしますので、何とぞよろしくお願いいたします(ムリかなあ・・・)。
書店にはそろそろ並び始めるころかと思います。ただちょっぴり専門的な本なので、どのくらいの書店が置いてくれるかわかりませんが・・・・。専門書ですが2200円と非常に安い値段がついております。それほど小難しい内容でもありません。「政府と農民の対立」という章など、中国政府と農民のあいだの「狐と狸の化かし合い」のような政治的な駆け引きを扱っていまして、小説を読むような感覚で面白く読めるのではないかと思います。
ネットですと、たとえば下記のようなところで注文できます。
e-hon http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032210871&Action_id=121&Sza_id=GG
セブンアンドワイ http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32210871
アマゾン http://www.amazon.co.jp/dp/4275008146/
最後に、私が書いた本の序章の一節を引用させていただきます。森林問題を題材にしつつも、「社会主義と市場主義の双方の弊害をアウフヘーベンする方策を探る」というのが本書の大きなテーマなのです。
***<『中国の森林再生』9-10頁より引用>****
中国という国は、市場原理が貫徹する領域と社会主義が残存する領域とがパラレルに存在する二重社会である。市場改革の成果ばかりを強調する論者は、中国に残存する社会主義的要素が果たしている効果を過小評価しがちである。毛沢東以来のお家芸である動員型の造林手法は、少なくとも造林の初期段階においては有効なのだ。
(中略)
貿易自由化と金融自由化を機軸として押し進められてきたグローバル資本主義の大波は、世界に残る天然林資源を、文字通り抹殺しつつある。この状況を鑑みれば、社会主義体制に見られる非市場主義的な土地制度や森林管理制度の持つ特質を調査し、その中に持続可能な森林管理に結びつける知見があるのであれば、その利点を評価する必要がある。このような観点からも、中国という国の森林再生活動を、とくに選んで研究する必要性は高いのである。
本書においては、「市場主義的改革こそが」あるいは「社会主義的計画こそが」といった単一の制度のみを評価するようなことはしない。地理的・自然的・市場的な諸条件が異なれば、当てはめるべき政策内容も当然異なるべきでだからある。市場主義を適用してよい場合もあれば、社会主義的方策を適用するのがよい場合もあろう。市場主義的森林経営の正の部分も負の部分も客観的に論じるし、社会主義的森林計画の正の部分も負の部分も同様に論じていく。
先にも見たように、市場主義的造林であれ社会主義的造林であれ、結局のところ、地域住民が意欲を持って能動的に森林を管理しないことには成功はおぼつかない。詳しくは本書で明らかにするように、毛沢東的な大衆動員型の手法は、造林の初期段階では有効であっても、長期的な視点での持続可能な経営には結びつかない場合が多い。この点で社会主義的な造林活動は、地域住民の視点から修正される必要もある。本書においては、その修正の方向性を、実践を通して検証したい。
毛沢東は『実践論』で次のように結論した。「実践、認識、再実践、再認識という形式が循環往復して、無限にくりかえされ、そして各循環ごとに実践と認識の内容が一段と高い段階にすすむ」(注)と 。中国が試みる人類史上最大の森林再生事業も、実践に基づいた認識によって、その問題点が修正され、より高次の段階で再実践される必要があろう。
(注)毛沢東(松村・竹内訳)、1957『実践論・矛盾論』岩波文庫:28頁。
***<引用終わり>*****
毛沢東を引用したのは半分シャレ(もちろん半分は本気)です。ちなみに終章ではマルクスの『資本論』が引用されています。そちらも半分は中国政府に対する当てこすりのパロディ的なものですが。詳しくは本を読んで下さるとまことにうれしく存じます。
このたび私の共著本が出版されました。手前ミソになり恐縮ですが、このブログの読者の一人でも多くの方に読んでいただきたいと思い、紹介させていただきます。
関良基、向虎、吉川成美著『中国の森林再生 -社会主義と市場主義を超えて』(御茶の水書房、2009年3月刊)という本です。写真は、表紙の写真です。いずれも私が撮影したものです。この表紙の写真が既に、中国農民の政府に対する不服従抵抗という濃厚なメッセージを伝えています。表紙の写真に隠されたそのメッセージの謎は本文を読めば分かります。
2002年以来、私どもが中国の貴州省や陝西省の山中で行ってきた研究と実践活動の成果です。研究はじめてから一冊にまとまるのにじつに7年という歳月を要しました。フィールド研究でちゃんとした成果を出そうとすると、どうしてもこれくらいの歳月は必要になります。
文献の中に閉じこもって「理論研究」(実際は欧米翻訳概念の受け売りになりがち)を行っている学者の方々は、ともすればこのような実証研究をバカにしがちです。そういう方々にもぜひ一読していただきたく存じます。現実との対話がない理論など空疎なものです。本格的なフィールド研究から得られた学術的成果がどのようなものか知っていただきたく存じます。
さて、中国というと「必ず崩壊する」という崩壊論者から「光輝く世界の大国になる」という繁栄論者まで、その両極端の主張が論壇でそれぞれは華々しくせめぎ合っております。
私に言わせれば、その両極端の議論がそれぞれ「こうあって欲しい」という主観的な思い込み先にありきの議論です。自分の願望にとって好都合な現象をつなぎ合わせて妄想をムクムクと膨らませているだけなのです。
実際、「崩壊論者」がこの本を読めば「崩壊」の根拠を拾い出すことができるでしょうし、「繁栄論者」が読めば「繁栄」の論拠を見い出すことができるでしょう。私に言わせれば、政府がアホなら今度の恐慌を契機に崩壊してしまう可能性だってあるし、逆に賢明なら今後の世界恐慌を乗り切ってさらに格差を縮小させつつ繁栄することも十二分に可能である、というだけのことなのです。もちろん政府がアホなら崩壊するというのは、米国も日本も同様でしょう。
現在の中国政府が、市場主義と社会主義のせめぎ合いの中で、きわめて深刻な綱渡りを強いられていることは事実です。私の本は、森林再生をテーマにしていますが、中国の内陸の貧困地域の社会全般の不安定性が叙述されております。中国の西部では、一歩政策を誤れば、深刻な社会動乱が誘発されるであろうことはよく分かるであろうと思います。
今後、中国政府が、一部の市場原理主義者にそそのかされて、農地に私的所有権を付与して土地を商品化したり、食料自給をないがしろにして農産物の輸入自由化をさらに進めるなどの政策を進めれば、いよいよヤバイということも本書を読めばわかっていただけるのではないかと思います。ただ同時に、胡錦濤・温家宝の指導部は、これまでのところ、ギリギリの綱渡りを強いられつつも、親農民的な立場で何とか問題に対処していることも伝わってくるでしょう。
というわけで本書は、崩壊論者にも繁栄論者にも読んでいただきたく存じます。とくに崩壊論に立つ、『諸君!』や『正論』や『will』や『SAPIO』などの編集部の方々に読んでいただけると大変にうれしく存じます。書評してくださるのなら献本いたしますので、何とぞよろしくお願いいたします(ムリかなあ・・・)。
書店にはそろそろ並び始めるころかと思います。ただちょっぴり専門的な本なので、どのくらいの書店が置いてくれるかわかりませんが・・・・。専門書ですが2200円と非常に安い値段がついております。それほど小難しい内容でもありません。「政府と農民の対立」という章など、中国政府と農民のあいだの「狐と狸の化かし合い」のような政治的な駆け引きを扱っていまして、小説を読むような感覚で面白く読めるのではないかと思います。
ネットですと、たとえば下記のようなところで注文できます。
e-hon http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032210871&Action_id=121&Sza_id=GG
セブンアンドワイ http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32210871
アマゾン http://www.amazon.co.jp/dp/4275008146/
最後に、私が書いた本の序章の一節を引用させていただきます。森林問題を題材にしつつも、「社会主義と市場主義の双方の弊害をアウフヘーベンする方策を探る」というのが本書の大きなテーマなのです。
***<『中国の森林再生』9-10頁より引用>****
中国という国は、市場原理が貫徹する領域と社会主義が残存する領域とがパラレルに存在する二重社会である。市場改革の成果ばかりを強調する論者は、中国に残存する社会主義的要素が果たしている効果を過小評価しがちである。毛沢東以来のお家芸である動員型の造林手法は、少なくとも造林の初期段階においては有効なのだ。
(中略)
貿易自由化と金融自由化を機軸として押し進められてきたグローバル資本主義の大波は、世界に残る天然林資源を、文字通り抹殺しつつある。この状況を鑑みれば、社会主義体制に見られる非市場主義的な土地制度や森林管理制度の持つ特質を調査し、その中に持続可能な森林管理に結びつける知見があるのであれば、その利点を評価する必要がある。このような観点からも、中国という国の森林再生活動を、とくに選んで研究する必要性は高いのである。
本書においては、「市場主義的改革こそが」あるいは「社会主義的計画こそが」といった単一の制度のみを評価するようなことはしない。地理的・自然的・市場的な諸条件が異なれば、当てはめるべき政策内容も当然異なるべきでだからある。市場主義を適用してよい場合もあれば、社会主義的方策を適用するのがよい場合もあろう。市場主義的森林経営の正の部分も負の部分も客観的に論じるし、社会主義的森林計画の正の部分も負の部分も同様に論じていく。
先にも見たように、市場主義的造林であれ社会主義的造林であれ、結局のところ、地域住民が意欲を持って能動的に森林を管理しないことには成功はおぼつかない。詳しくは本書で明らかにするように、毛沢東的な大衆動員型の手法は、造林の初期段階では有効であっても、長期的な視点での持続可能な経営には結びつかない場合が多い。この点で社会主義的な造林活動は、地域住民の視点から修正される必要もある。本書においては、その修正の方向性を、実践を通して検証したい。
毛沢東は『実践論』で次のように結論した。「実践、認識、再実践、再認識という形式が循環往復して、無限にくりかえされ、そして各循環ごとに実践と認識の内容が一段と高い段階にすすむ」(注)と 。中国が試みる人類史上最大の森林再生事業も、実践に基づいた認識によって、その問題点が修正され、より高次の段階で再実践される必要があろう。
(注)毛沢東(松村・竹内訳)、1957『実践論・矛盾論』岩波文庫:28頁。
***<引用終わり>*****
毛沢東を引用したのは半分シャレ(もちろん半分は本気)です。ちなみに終章ではマルクスの『資本論』が引用されています。そちらも半分は中国政府に対する当てこすりのパロディ的なものですが。詳しくは本を読んで下さるとまことにうれしく存じます。
その筋からシカトされる、面倒なことになると論評を回避される、のは百年スパンの本物であることの「見えない勲章」であると、読者として誇りに思います。
しかし、きっとそのうち、中国の「退耕還林」という世界史的な動きが注目されるとともに御著が脚光を浴びるであろうと確信しています。
おそらくこのプロジェクトについての「外国人」研究者による数少ない研究のひとつでしょうから(唯一?なのでしょうか)。
薩長明治以降一貫しておバカな日本よりむしろ、御著はアジア地域や欧州で強い興味を惹くのではないかと推察します。
「長江文明」の発見によって「黄河文明神話」に対する挑戦をおこなった研究者の一人に四川省出身の若い天才的な中国人がいました。
胡弓の名人だった彼がビジネス(オカネ)の魔力に虜われたとき「100年後、1000年後に残る仕事をする方が、いまオカネを自由にすることよりもはるかに大切なんやで」と懸命に説得しましたがおよびませんでした。
現在の中国の知的文化的創造性のなさは、膨大な保有米国債をはじめとする「かおなし」オカネの魔手を、自分の手だと思い込んでいることによると思います。まさに「かおなし」なので、模倣でもなんでも・・・ともかく。
背中の子の生育によって、いつか目がさめるでしょう。『中国の森林再生』とともに。
拙著を読んでくださり御礼申し上げます。
私の書いたものは、日本のアカデミックの世界では、ほとんど言及もされないのですが(おそらく論評しようとするとめんどうなことになるので、存在そのもが無視されるのでしょう)、心ある方々に読んでいただけるだけで嬉しく存じます。
>技術文化を外のものに丸投げ依存していることがその原因であるということです。
中国も隋・唐から明代までは非常に高い発明力を有していましたので、やはり現代中国の政治システムの中に、外国の模倣は奨励するが、内からの発明を阻害するような制度的要因があるのだと思います。
薩長が支配した明治時代の日本が、模倣ばかりで発明力がなかったのと同様かと存じます。
関様、じつは少々待ちましたが『中国の森林再生』が手に入りました。表紙カバーの素敵な写真の背景がわかりニコニコしてしまいました。この自立した知性あふれるおばあさんとお母さんに育てられた背なかの子は、今はもう日本で言えば中学生に・・・どんな子になっているのでしょう。
たくさんの写真、ひとつひとつ見入ってしまいます。P132の小母さんと見まもる少女、P133の老人、P135の少年、そこにいあわせたように空気の匂いがあたたかくただよいます。
この壮大な現場仕事を成し遂げられた関様とお二人に、それを実現させてくれた周囲の人びと、中国の農林当局と地元政府の人びと、深い生活の匂いがつたわる村の人びとに、心から敬意を表します。
本書の第3部(3はローマ数字)は圧巻だと思いました。NGOの若いスタッフの献身と変身、村の人たちとのインタラクションは感動的です。
それに・・・ありのままの状況をてらいなく伝えていただいているために、ここから、経済って何だろう、政治ってなんだろう、国家とは、と「市場主義、社会主義、資本主義、国家主義」と呼ばれている人間のありようについて、自然にしかし肩をわしづかみにされたように考えてしまいます。なにより「生きるってなんだろう」と。
印象ばかりを述べて、退耕や間作という問題が照らし出すものから学ぶべきものが重大であることについて触れることができないのをお詫びします(理解と力の不足のために)。
何かと言えば大騒ぎされる中国については・・・その膨大な時空のスケール、悠久の歴史と奥深い生命力に比して、明治期以降のニホンのインタフェイスはそこに踊る人間(操り人形?)像もちまちまとした言葉もあまりにも卑小でうんざりしていましたが、
おんぶ紐でお子さんを背負って論文を書いていた「天才関さん」!(見ていたような。いえ、お二人のコメントから)のおかげで溜飲を下げることができました。
今や世界をブイブイ言わせている中国ですが、報道された中国共産党の年次方針における課題として見たと思うこと、すなわち「開発能力」の不在、これが真剣に気になっていました。
日欧の外資の資金と技術に中国の人的資源を丸投げした結果の経済力、それはあやういと。 画期的な新製品や新技術が出てこない(韓国と同様に)ということのみならず、これほどのITリテラシーがあれば、マイクロソフトのウィンドウズを大きく越えるパソコン・オーエスや創意的なITのアーキテクチュアが出てきて不思議ではないのに、なぜなんだろう、と。ひとごとには思えずに。
私なりの「答え」は、中国は、伝統的と言いますか、民衆の深い海に育まれた自分たちの文化を忘れていること、技術文化を外のものに丸投げ依存していることがその原因であるということです。
と、いうことで、この世界稀な規模の「退耕還林」、黄土の嵐をつくり出した黄河文明を克服する使命を帯びているであろう壮大な営為が、天才関さんのプレパラートに飛び込んできたことに震えるような感動を覚えました。
かような本を出していただいて、心から感謝します。いつかこの本の値打ちが強く輝くであろうと確信します。
今までのところ経済では蜜月関係にあるようですし、G2体制の強化に動いてると思います。
それがいつまで続くのかは分かりませんが・・・
はざまにある日本は大変な時代を迎えるのは間違いないでしょうね。
両国とも日本を抑え込みたいと言うのは共通してるでしょうから。
何の事は無い、敗戦直後、中国が赤化する前の米国のアジア戦略に戻っただけなんですけどね。
あの時も中国をアジアにおけるパートナーにそして日本は2度と牙が剥けない様に1920年代~30年代の水準に抑え込むと言うのが当初の連合国の方針でした。
冷戦の激化、中国の赤化でそれが180度変わったんですよね。
これからの日本人は覚悟して腹をくくらねばならんと思いますね。
それから良く言われる事ですが日本人は性善説を前提にしておりますが、欧米人あるいは中国人は性悪説を前提にしてるそうです。
これは同感です。日本人の方が中国人よりもオカミに従順に思えます。中国でも地域差があり、私の見た範囲の印象では、黄河流域はわりと従順で、長江流域の方が激しいです。
>「狐と狸の化かし合い」
何気なく書いた言葉でしたが、ウケて下さったようで何よりです。さて、どちらがキツネでどちらがタヌキだろうと考えたのですが、政府の方がタヌキっぽくて、農民の方がキツネのように見えます。
>中国政府と農民のあいだの「狐と狸の化かし合い」のような政治的な駆け引き
という表現に感じてしまいました。
ここまで開き直れる社会には、私達の社会にゃ
無理そうですよね(苦笑)
日本の場合だと、政府からいかにむしり取るか、で「優秀さ」を競い合うきらいがあるので、
日本のほうが、政府への依存心がつよいかも知れません。