谷口誠著『東アジア共同体 -経済統合のゆくえと日本-』(岩波新書)という本を紹介したいと思います。谷口誠氏(元国連大使、元OECD事務次長、元早稲田大学教授)は、かつて私の上司であった方なので、多少贔屓目になってしまうかも知れませんが、この本は日本の若い世代、さらには各国語に翻訳してアジア全域の若い世代にも、是非とも読んで欲しいと思っています。
谷口氏の「東アジア共同体構想」は、巷で流行しているようなFTAの寄せ集めによる自由貿易圏の構想ではないのが特徴です。むしろ、米国が「グローバル・スタンダード」と称して押し付けてきた市場原理主義、各国の自由を奪いながら、独裁的な手法で強制してきた「アメリカン・スタンダード」の論理に対抗するためのオルタナティブとして「アジアン・スタンダード」を確立することを目指したものなのです。ウォール街=米国財務省=IMFの三位一体による世界経済支配を終焉させるために、オルタナティブな経済・社会システムのビジョンを、アジアから世界に向けて発信しようとするものなのです。
もちろん、「アジアン・スタンダード」を確立して、それを世界に向けて強制しようとしたら、アメリカがやっていることと何ら変わらないでしょう。谷口先生の構想では、アメリカン・スタンダード、ヨーロピアン・スタンダード、アジアン・スタンダードなど、異なるビジョンが並び立ち、経済政策に関する健全な理論的競争関係が存在することにより、特定の世界観に基づく偏った経済政策が世界を一元的に支配することがないよう、多様性のある多元的な世界経済システムを構築しようということなのです。
単なるFTAの寄せ集めとしての「アジア共同体」であれば、NAFTAのようなアメリカン・スタンダードのアジア版にすぎず、市場原理主義へのオルタナティブにはなり得ないでしょう。
谷口氏は、そうしたビジョンをOECD事務次長であった当時に固めたようです。それは米国によるいわゆるワシントンコンセンサスの押し付けという横暴を肌で実感できたからです。
私たち一般的な市民層からは、IMF=米国財務省=ウォール街という権力機関の横暴は、そうそう実感できるものではありません。ただ、確実に、それらの支配によって生活の質は劣化していくのですが、その因果関係を結びつけて認識するのは難しいのです。
むしろ谷口氏のように、OECDなど国際権力の中枢に近いところにいればいるほど、その横暴を肌で実感できるのでしょう。これは世銀のチーフ・エコノミストであったジョセフ・スティグリッツにもいえることです。OECDや世銀のように、権力の中枢に近いが、IMF=米国財務省=ウォール街という権力の核心そのものからは若干ズレた位置にいる良心的な人々が、彼らの害悪をもっとも感じ取ることができるのだと思います。
谷口氏のOECD時代の経験は、本当に興味深く、それだけで一冊の本を書いて欲しいものです。例えば、私は谷口氏ご本人からこんな話を聞いたことがあります。(私の記憶で書いているので、正確さを欠いていたら失礼します)
ソ連崩壊後、IMFと世界銀行は50人からなる代表団をOECDに送り込んで、ロシアにおける構造調整政策(いわゆる「ショック療法」)に関して議論したことがあったそうです。(IMFによるロシア「改革」がいかに恐るべき事態に至ったかは、ロイ・メドヴェージェフ『ロシアは資本主義になれるか』、佐藤経明『ポスト社会主義の経済体制』(岩波書店)、スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)など多くの書が出ていますので、ここでは繰り返しません。)
私は、OECDは両手をあげてIMF政策に同意したのかと思っていましたが、そうではなかったそうです。OECD事務局の中で、少なくとも日本代表の谷口氏とフランス代表が、「こんなことをやったらロシアはメチャクチャになるぞ」と反対したそうです。
その時、IMFは谷口氏に、「我々は経済の専門家だ。あなたはただの外交官だろう。経済のことは経済の専門家に任せろ」と恫喝するように言ったそうです。
谷口氏は、すかさず「あなたは経済の専門家だというが、では旧ソ連の専門家は何人いるのだ」と聞き返したそうです。何と、旧ソ連経済に関しての専門家は、50人中たったの2人しかいなかったそうです。いったいソ連という国のシステムの何たるかも知らない人たちが、どうやってその国を改革できるというのでしょうか?
とまあ、こんな調子です。その後の事態は、谷口氏の予想とおりになりましたが、当時、IMFによるロシア「改革」の恐るべき帰結を事前に予想できた人がどれだけいたでしょうか。あのジョセフ・スティグリッツにしたって、GDPが半分に減って、平均寿命が5歳も縮まるなどの恐るべき実験結果が出てから事後的に誤りに気づいたに過ぎないのです。
少々話しがそれました。話をアジアン・スタンダードに戻します。
アジアが世界に発信し得るスタンダードとは一体なんでしょうか? 巷では、「日本とアメリカのあいだには『市場主義』、『民主主義』、『人権』など共通の価値観があるが、日本と中国のあいだにはそれがない。『アジア共同体』など幻想である」というようなことがよく言われます。
しかし、「市場主義」などおよそ日米で共通するコンセンサスがあったわけでないことは、アメリカが日本経済を「クローニー資本主義」呼ばわりして、異端視してきたことでも分かるでしょう。
昨日(1月19日)、谷口誠氏と4人のパネリストによるシンポジウム「“東アジア共同体”の可能性」が早稲田大学で開かれ、私も参加してきました。
シンポジウムが終わった後、私はパネリストの一人であった中国の経済学者である凌星光氏(福井県立大学名誉教授)と私的に話していました。凌氏は、アジアから発する共通のスタンダートとは「政府と市場の機能的な接合」であると簡潔に表現していました。私は、「公的部門が社会資本整備に責任を持ち、未来のビジョンを示し、市場の暴走を許さない、公的部門と民間部門がそれぞれの短所・長所を補い合うような、健全な補完関係である」という趣旨のことを言いました。そうしたことを話していて、中国人の凌氏と日本人の私とで、全く意見が一致しました。
この種の「政府と市場の補完関係」という認識に関しては、日本の経済システムを「クローニー資本主義」呼ばわりする米国人とはコンセンサスを得ることが難しいでしょう。日中間の認識の方がはるかに共通する部分が大きいのです。もちろん、最近は日本でも中国でも、米国流の新古典派経済学の教義がかなり浸透してきているので、その点は困ったことです。しかし、新古典派の熱狂的な流行は、その結果の恐ろしさが実験的に明らかになるにつれ、そう長くは続かないことでしょう。
「日本と中国には共通の価値観がない。日米間にはそれがある」などと、親米派の知識人はいった何を根拠に主張しているのでしょうか? 日本人の側が一方的な「片想い」としてそう信じ込みたくても、彼らの方が決してそのように想ってはくれないことが分からないのでしょうか? 「日中間に共通の価値観がない」と言う人には、「もう漢字を使って文章を書くな」と言いたくなってきます。
日中間では、「忠・孝・仁・恕・礼」といった孔子の思想について共通の話題を交わせますが、米国人にそれらの価値観を語ったところでチンプンカンプンです。日米間には『論語』に相当するような歴史的深みのある共通の価値観などありません。日本資本主義の始祖たる渋沢栄一は、『論語』を企業経営に活かしたことはよく知られているところです。
米国の低い貯蓄率に対し、日本、中国、韓国、台湾は高い貯蓄率という点で共通の特質があります。これは社会に深く浸透した儒教道徳の影響かとも思います。明らかに、東アジアと米国のあいだにある文化的な価値観の違いが、貯蓄という経済行動の差異に反映しているのです。
高い貯蓄率と制度的金融システムの存在により、日本・韓国・台湾・中国などはいずれも政府の産業政策と、戦略的分野への公共投資を可能にしてきました。米国に言わせれば、そうしたシステムは「時代遅れで、胡散臭い」のでしょうが、中国の経済成長は、それが今でも効果的であることを見事に示しているといえるでしょう。
日本も、傾斜生産方式と護送船団方式など制度的な金融システムによって戦後復興を実現しました。バブル崩壊という「敗戦」からの復活も、戦略的に育成すべき産業分野を民意に立脚して一新した上で、システム論的には同じことを繰り返せばよいのです。
復興期の日本にとっては、石炭・鉄鋼・造船などが貯蓄を優先して振り向けるための戦略的な投資分野でしたが、現在においては、太陽エネルギー、バイオマス・エネルギー、風力発電、波力発電、天然ガス、燃料電池など、温暖化対策に貢献する新エネルギー分野が、最重要な戦略的投資先でしょう。
さらに東アジア諸国にあふれる貯蓄の一部は、「アジア通貨基金」にプールして、アジア全域における計画的発展・傾斜生産方式の実現のために使用すればよいのです。ウォール街からの短期的な投機資金など、貯蓄率の高いアジア諸国は全く必要としないのです。
さて、郵貯と簡保を民営化してしまったら、そのような産業政策に基づく戦略的投資は不可能になってしまいます。平等にもとづく社会の安定、人間同士の信頼関係、信頼に基づいた民主主義といった、日本の良きシステムは、その根底からガタガタになってしまうでしょう。
民間金融部門と政府の政策的金融部門が有機的に結合した状態こそ、我々が未来に向けて提示すべきアジアン・スタンダードの姿なのです。
マスコミの皆さん、お願いですから真剣に考えて報道してください。米国のエコノミストの言うことを鵜呑みにして、タレ流すような報道は止めてください。
谷口氏の「東アジア共同体構想」は、巷で流行しているようなFTAの寄せ集めによる自由貿易圏の構想ではないのが特徴です。むしろ、米国が「グローバル・スタンダード」と称して押し付けてきた市場原理主義、各国の自由を奪いながら、独裁的な手法で強制してきた「アメリカン・スタンダード」の論理に対抗するためのオルタナティブとして「アジアン・スタンダード」を確立することを目指したものなのです。ウォール街=米国財務省=IMFの三位一体による世界経済支配を終焉させるために、オルタナティブな経済・社会システムのビジョンを、アジアから世界に向けて発信しようとするものなのです。
もちろん、「アジアン・スタンダード」を確立して、それを世界に向けて強制しようとしたら、アメリカがやっていることと何ら変わらないでしょう。谷口先生の構想では、アメリカン・スタンダード、ヨーロピアン・スタンダード、アジアン・スタンダードなど、異なるビジョンが並び立ち、経済政策に関する健全な理論的競争関係が存在することにより、特定の世界観に基づく偏った経済政策が世界を一元的に支配することがないよう、多様性のある多元的な世界経済システムを構築しようということなのです。
単なるFTAの寄せ集めとしての「アジア共同体」であれば、NAFTAのようなアメリカン・スタンダードのアジア版にすぎず、市場原理主義へのオルタナティブにはなり得ないでしょう。
谷口氏は、そうしたビジョンをOECD事務次長であった当時に固めたようです。それは米国によるいわゆるワシントンコンセンサスの押し付けという横暴を肌で実感できたからです。
私たち一般的な市民層からは、IMF=米国財務省=ウォール街という権力機関の横暴は、そうそう実感できるものではありません。ただ、確実に、それらの支配によって生活の質は劣化していくのですが、その因果関係を結びつけて認識するのは難しいのです。
むしろ谷口氏のように、OECDなど国際権力の中枢に近いところにいればいるほど、その横暴を肌で実感できるのでしょう。これは世銀のチーフ・エコノミストであったジョセフ・スティグリッツにもいえることです。OECDや世銀のように、権力の中枢に近いが、IMF=米国財務省=ウォール街という権力の核心そのものからは若干ズレた位置にいる良心的な人々が、彼らの害悪をもっとも感じ取ることができるのだと思います。
谷口氏のOECD時代の経験は、本当に興味深く、それだけで一冊の本を書いて欲しいものです。例えば、私は谷口氏ご本人からこんな話を聞いたことがあります。(私の記憶で書いているので、正確さを欠いていたら失礼します)
ソ連崩壊後、IMFと世界銀行は50人からなる代表団をOECDに送り込んで、ロシアにおける構造調整政策(いわゆる「ショック療法」)に関して議論したことがあったそうです。(IMFによるロシア「改革」がいかに恐るべき事態に至ったかは、ロイ・メドヴェージェフ『ロシアは資本主義になれるか』、佐藤経明『ポスト社会主義の経済体制』(岩波書店)、スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)など多くの書が出ていますので、ここでは繰り返しません。)
私は、OECDは両手をあげてIMF政策に同意したのかと思っていましたが、そうではなかったそうです。OECD事務局の中で、少なくとも日本代表の谷口氏とフランス代表が、「こんなことをやったらロシアはメチャクチャになるぞ」と反対したそうです。
その時、IMFは谷口氏に、「我々は経済の専門家だ。あなたはただの外交官だろう。経済のことは経済の専門家に任せろ」と恫喝するように言ったそうです。
谷口氏は、すかさず「あなたは経済の専門家だというが、では旧ソ連の専門家は何人いるのだ」と聞き返したそうです。何と、旧ソ連経済に関しての専門家は、50人中たったの2人しかいなかったそうです。いったいソ連という国のシステムの何たるかも知らない人たちが、どうやってその国を改革できるというのでしょうか?
とまあ、こんな調子です。その後の事態は、谷口氏の予想とおりになりましたが、当時、IMFによるロシア「改革」の恐るべき帰結を事前に予想できた人がどれだけいたでしょうか。あのジョセフ・スティグリッツにしたって、GDPが半分に減って、平均寿命が5歳も縮まるなどの恐るべき実験結果が出てから事後的に誤りに気づいたに過ぎないのです。
少々話しがそれました。話をアジアン・スタンダードに戻します。
アジアが世界に発信し得るスタンダードとは一体なんでしょうか? 巷では、「日本とアメリカのあいだには『市場主義』、『民主主義』、『人権』など共通の価値観があるが、日本と中国のあいだにはそれがない。『アジア共同体』など幻想である」というようなことがよく言われます。
しかし、「市場主義」などおよそ日米で共通するコンセンサスがあったわけでないことは、アメリカが日本経済を「クローニー資本主義」呼ばわりして、異端視してきたことでも分かるでしょう。
昨日(1月19日)、谷口誠氏と4人のパネリストによるシンポジウム「“東アジア共同体”の可能性」が早稲田大学で開かれ、私も参加してきました。
シンポジウムが終わった後、私はパネリストの一人であった中国の経済学者である凌星光氏(福井県立大学名誉教授)と私的に話していました。凌氏は、アジアから発する共通のスタンダートとは「政府と市場の機能的な接合」であると簡潔に表現していました。私は、「公的部門が社会資本整備に責任を持ち、未来のビジョンを示し、市場の暴走を許さない、公的部門と民間部門がそれぞれの短所・長所を補い合うような、健全な補完関係である」という趣旨のことを言いました。そうしたことを話していて、中国人の凌氏と日本人の私とで、全く意見が一致しました。
この種の「政府と市場の補完関係」という認識に関しては、日本の経済システムを「クローニー資本主義」呼ばわりする米国人とはコンセンサスを得ることが難しいでしょう。日中間の認識の方がはるかに共通する部分が大きいのです。もちろん、最近は日本でも中国でも、米国流の新古典派経済学の教義がかなり浸透してきているので、その点は困ったことです。しかし、新古典派の熱狂的な流行は、その結果の恐ろしさが実験的に明らかになるにつれ、そう長くは続かないことでしょう。
「日本と中国には共通の価値観がない。日米間にはそれがある」などと、親米派の知識人はいった何を根拠に主張しているのでしょうか? 日本人の側が一方的な「片想い」としてそう信じ込みたくても、彼らの方が決してそのように想ってはくれないことが分からないのでしょうか? 「日中間に共通の価値観がない」と言う人には、「もう漢字を使って文章を書くな」と言いたくなってきます。
日中間では、「忠・孝・仁・恕・礼」といった孔子の思想について共通の話題を交わせますが、米国人にそれらの価値観を語ったところでチンプンカンプンです。日米間には『論語』に相当するような歴史的深みのある共通の価値観などありません。日本資本主義の始祖たる渋沢栄一は、『論語』を企業経営に活かしたことはよく知られているところです。
米国の低い貯蓄率に対し、日本、中国、韓国、台湾は高い貯蓄率という点で共通の特質があります。これは社会に深く浸透した儒教道徳の影響かとも思います。明らかに、東アジアと米国のあいだにある文化的な価値観の違いが、貯蓄という経済行動の差異に反映しているのです。
高い貯蓄率と制度的金融システムの存在により、日本・韓国・台湾・中国などはいずれも政府の産業政策と、戦略的分野への公共投資を可能にしてきました。米国に言わせれば、そうしたシステムは「時代遅れで、胡散臭い」のでしょうが、中国の経済成長は、それが今でも効果的であることを見事に示しているといえるでしょう。
日本も、傾斜生産方式と護送船団方式など制度的な金融システムによって戦後復興を実現しました。バブル崩壊という「敗戦」からの復活も、戦略的に育成すべき産業分野を民意に立脚して一新した上で、システム論的には同じことを繰り返せばよいのです。
復興期の日本にとっては、石炭・鉄鋼・造船などが貯蓄を優先して振り向けるための戦略的な投資分野でしたが、現在においては、太陽エネルギー、バイオマス・エネルギー、風力発電、波力発電、天然ガス、燃料電池など、温暖化対策に貢献する新エネルギー分野が、最重要な戦略的投資先でしょう。
さらに東アジア諸国にあふれる貯蓄の一部は、「アジア通貨基金」にプールして、アジア全域における計画的発展・傾斜生産方式の実現のために使用すればよいのです。ウォール街からの短期的な投機資金など、貯蓄率の高いアジア諸国は全く必要としないのです。
さて、郵貯と簡保を民営化してしまったら、そのような産業政策に基づく戦略的投資は不可能になってしまいます。平等にもとづく社会の安定、人間同士の信頼関係、信頼に基づいた民主主義といった、日本の良きシステムは、その根底からガタガタになってしまうでしょう。
民間金融部門と政府の政策的金融部門が有機的に結合した状態こそ、我々が未来に向けて提示すべきアジアン・スタンダードの姿なのです。
マスコミの皆さん、お願いですから真剣に考えて報道してください。米国のエコノミストの言うことを鵜呑みにして、タレ流すような報道は止めてください。
http://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/fc02bbff4b50f6540c23b36649a2c012
現在、中国に資本侵略している日本企業ってのは、70年前の関東軍みたいものでしょう?
やっぱり、満州にたくさんの侵略民を送った長野のひとは根っからの反動なのでしょうか?
では、失礼。