代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

アジアで民主主義という価値観は必要なのか?

2008年01月31日 | 東アジア共同体
 前の記事の続きです。これで本日三本目になります。いま仕事の谷間で時間があるので、書けるうちにたくさん投稿しておきます。

 前の記事で、「自由・人権・民主主義」などと、よそ様の概念をサル真似で崇め奉るのを止めにしよう、と書きました。アジアの価値はアジアに見出さねばなりません。

 それじゃアジア共同体を構築する上での共通の価値とは何かということで、フィリピンの事例を紹介したいと思います。前の記事で、花ブナさんがコメントして下さった上杉鷹山の「自助・互助・扶助」の三原理を検討しました。フィリピンでも、これと似たような考えがあります。

 私の友人の政治学者の堀芳枝さんが書いた『内発的民主主義への一考察 -フィリピンの農地改革における政府・NGO・住民組織』(国際書院、2005年)という本があります。その内容を紹介しながら論じてみます。

 堀さんの研究課題はズバリ「民主主義」です。この本は、1986年にマルコス独裁体制が倒れてフィリピンが民主化され「包括的農地改革法」が成立する中で、ラグナ州の南部タガログのある村の小作農民たちが、その法律を利用して、地主の抵抗を押しのけて自作権を勝ち取るまでの闘いの過程を分析したものです。
 
 彼女は、村人たちと一緒に農地改革を求める運動をしながら、当の農民たちが、どのような価値観によってそれを実現したのかを探ろうとしました。
 で、村人たちと一緒に暮らして運動していたのですが、彼・彼女らの口からは「民主主義(demokrasya)」という言葉が発せされることはなかったそうです。

 もともと「民主主義」なんて概念は伝統的なタガログ社会にはなく、「デモクラッシャ」というスペイン語をそのまま使っているのですから。マニラのインテリは使っても、村人たちがこんな言葉を発することは滅多にないのです。
 それで、堀さんは、西欧産ではないアジアの「内発的民主主義」とはどのようなものなのか村人たちの意識構造を探ろうとします。
 彼・彼女らがデモや座り込みといった運動を組織する上で、どのような概念が基盤になっていたのかを調査し、下記のような価値観を見出していくわけです・・・

・sarili サリリ… ちょうど「自助」という意味に相当。
・pakikisama パキキサマ… 付き合い、仲間、参加といった意味。互助に相当。
・bayanihan バヤニハン… 協働といったニュアンス。日本で言うところの「結い」という意味もある。
・utan na loob ウタン・ナ・ロオブ… 直訳すると「心の債務」。誰かに借りをつくったら、「心の債務」として留めておいて、いつか返さねばならない。

 ウタン・ナ・ロオブは、日本語で言うところの「恩義」に近いのですが、もっと強い意味です。ちなみに、ウタン・ナ・ロオブが分からない人間は「Walang hiya! ワラン・ヒヤ(恥知らず!)」と批判されます。ワラン・ヒヤという言葉は、タガログ語の中では、もっとも激しく相手を非難する言葉です。「恥」を重んじる日本的価値観に近いことが分かるでしょう。

 他にもあるのですが、まあざっとこうした概念が小作人の運動をつなぐ価値基盤だったそうです。自助・互助という日本的価値観に相当するものであることが分かるでしょう。

 つまり地域住民たちにとっての「民主主義」とは、「サリリ(自助)」や「パキキサマ(互助)」や「バヤニハン(協働)」を実行することであったというわけです。

 安倍前首相は、「自由・人権・民主主義」という基本的価値をアジアに広げなければいけないというわけですが、私としては基層レベルでアジアに共通するこうした伝統的価値観を再発見し、それを未来に向けて発展させていくことの方がアジア共同体を構築する上で、大事なことだと思うのです。
 その点、中国に公式訪問した際、山東省の孔子廟に参拝した福田首相の姿勢は評価できますね。

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5 コメント

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アジア的というか (Cru)
2008-02-02 00:44:26
大きく見ても、東南アジア的価値観というところではないでしょうか。
確かに日本と共通するところはあるように伺えますが。
世界を隅々まで見たわけでもない私には良くわかりません。
アラブ世界なり、華北とか韓国なりではまた異なるのではないんでしょうか。

少なくとも我々は既に日本の伝統的価値観と「近代的」価値観の混成状態にあり、後戻りは出来ないのだと思います。
ただ、それが決して普遍的なものではないということ
は自覚的でありたいものだとは思います。

間違っても西欧的価値観の押し売りの片棒を担ぐべきではないと。

地域にはその地域毎の歴史的背景がある価値観があり、それはその地域の実情を反映して流動していくものであり、外からの強制は(もし強制力があるのなら)それは悲劇になる可能性が高いのだろうなと。

嫌韓論者のように違いを言い立てることも、人として同じだよねと同質性を述べることも、ある一線を越えると現実と乖離していくんじゃないかなあと。

※ただし、「人間社会」の性質として「優位にあるものが」(優位であるが故の)「強い信念を持ち」「声が大きい」事は(やり方さえ間違えなければ)「信頼感」につながり、「普遍的価値」としての声評を獲得していくものだと思います。
それが多分「西欧的価値観」の力なのでしょう。
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cruさま ()
2008-02-04 16:48:39
 コメントありがとうございました。
 もちろんアジアに「普遍」の価値があるなどとは思っていませんが、伝統的な価値をバカにしながら、西洋概念を普遍化しようという左派にも右派にも共通する試みがいかに滑稽かということを指摘したかったのです。
 各地の価値を学び、それぞれを相互に理解し、尊重しあわねばならないと思います。
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Unknown (552)
2010-06-10 19:15:30
ブッシュ大統領がDemocracy replace resentment with hope,respect their citizen and their neighbors ・・・.Every step toward freedom in our country safer,so we will boldly act in freedom's cause.(民主主義は敵意を希望に変え、自国民や隣国を尊重する。自由に向けての全ての段階が我が国をより安全にする、だから我々は自由のために大胆に行動する。)と発言しました。この理念を中国共産党はわかるのか?同じ東アジアでも韓国、台湾、フィリピンの4ケ国はは自由、、人権を尊重する民主主義国家です。しかし、中国は世界一の反日、ウイグル人、チベット人を虐殺しています。また独立国である台湾への侵略を反国家分裂法で合法化し、いずれは日本も他人事ではありません。こんな強盗と付き合って何の得があるのか?中国は韓国がソウルを首烏爾(ショウル)と音訳で呼ぶように求めても漢城(ハンチョン)と現地語と掛け離れた読みを使い続けようとしまるで帝国主義的に感じました。中国は自分は世界の中心と勘違いしてる、こんな基地害野郎となんか断交して台湾と国交回復してほしい。 Japan and Taiwan with each other.日台一心同体
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552さんへ (デルタ)
2010-06-11 02:26:32
552さんはじめまして。

この批判、われわれ日本人にも、まるまる跳ね返ってきます。
今から約70年まえ、
ソウルを京城(けいじょう)と呼ばせ、
Taipeiを台北(たいほく)と呼ばせた歴史が、
日本にもあります。

このような現象は、
政府の政体やイデオロギーに関係するというより
国民(あくまで”本土”の国民)が、政府を通して求めるものの大きさ・質を反映し、
形となって現れるものだと、私は考えます。
今、在北京の政府が、台湾に求めるものと同質なものを、かつて日本が、朝鮮半島や台湾にもとめ、
そして、天皇を中心にして、世界を回そうとしていました。
ただし、民主主義は無駄ではありません。
立法・行政の民主化は、あきらかに戦争を起こしにくくするシステムになっています。専制国家では、決して問われない「財政バランス」や「戦争目的の説明責任」などが、どれだけ日本の出兵を妨げているか、お分かりになりますよね?
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Unknown (hayate)
2010-06-22 17:52:47
552さんの意見に共感します。中国は独裁国家でチベット人やウイグル人を弾圧したり、チベット仏教、キリスト教、イスラム教を平気で弾圧するから21世紀のナチスだね。独立国である台湾の総統選挙をミサイルで妨害したり、反国家分裂法で台湾への武力行使を合法化したりしたから本当に危ない国です。中国とは国交を断絶して、台湾と国交を結んだほうが日本にとっても幸せだね。
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