最近出た、山崎農業研究所編『自給再考 ―グローバリゼーションの次は何か』(農文協)という本の紹介をしたい。
この間の私はブログで、ドーハラウンド交渉を決裂させ、WTOの農産物協定を見直して各国の食糧自給の権利を認めるように制度を変えていかねばならないことを訴えてきた。
『自給再考』は、米国主導のグローバリゼーションの破綻を宣言し、その次にくる地産地消の時代、「輪(循環)と和(信頼)の時代」という未来社会のビジョンを描きだしている。ぜひ多くの方々に一読してもらいたい本である。
著者たちは全部で10人。経済学者、思想史家、農林家、有機農業運動家、民俗学者、消費者運動家といったじつに多彩な顔ぶれだ。章構成は以下のようになっている。
1.西川潤「世界の『食糧危機』 ―その背景と日本農業にとっての意味」
2.関廣野「貿易の論理 自給の論理」
3.吉田太郎「ポスト石油時代の食料自給を考える」
4.中島紀一「自然と結びあう農業を社会の基礎に取り戻したい」
5.宇根豊「『自給』は原理主義でありたい」
6.結城登美雄「自給する家族・農家・村は問う」
7・栗田和則「自創自給の山里から」
8.塩見直紀「ライフスタイルとしての自給」
9.山本和子「食べ方が変われば自給も変わる」
10.小泉浩朗「輪(循環)の再生と和(信頼)の回復」
多彩な顔ぶれが各自の視点で、それぞれ「自給」の意味を根源的に問い直している。農家の立場で、消費者の立場で、途上国の立場で、人類史の観点で、家族や集落の人間関係の和の観点で、人間らしく生きるためのライフスタイルの観点で、物質循環の観点で、それぞれ「自給」の必要性が論じられるのである。
盛りだくさんの内容なので、すべての論点に言及することはできないが、私がこのブログで書いてきたことと関連のある範囲でコメントしたい。
第二章の関廣野氏の論考はとりわけ興味深かった。関氏は、これまでの世界貿易の歴史を振り返りながら、いつの時代でも民衆は自給経済に満足していたのであり、貿易というものはいつでもどこでも富と権力のある特権層の維持・拡大を目的として推進されてきたという事実を明らかにしている。
民衆不在のまま、正しい情報が伝えられることもなく、民主的な議論もされないまま、貧困層の生活を絶望に落とし込む決定をしたWTO協定などその典型的事例であろう。
また、近代の個人主義は、封建的身分社会から個人を解放した結果生まれたのではなく、南北アメリカ大陸の「発見」と植民地化と植民地貿易の開始という「偶然」によって生み出されたものであるという説を展開する。私もその説には賛同するものである。広大な南北アメリカ大陸をヨーロッパ人が独占するという歴史の偶然性に基づく不幸な事態が存在しなければ、米国流の「市場原理主義」という破滅的なイデオロギーも、この地球上に発生することもなかったであろう。
その上で関廣野氏は、アメリカ中心の世界貿易体制は終焉すると宣言し、各国の食料主権が再確立され、家族経営の自作農主義は復権され、民主主義は再定義されるだろうと予想する。ここで氏のいう「民主主義の再定義」とは、選挙の有無といった矮小な民主主義から、地域に住む人々が地域の主権を担うという地域自治社会への移行のことである。私も「そうなるだろう」と確固とした断言はできないものの、「そうせねばならない」という希望は表明したい。
関廣野氏が、「アメリカ主導の世界貿易の終焉」を表明するのは三つの理由だ。
①ドルが暴落するのにドルに代る国際貿易の決済通貨が出現しないこと。
②原油価格の上昇により大量の商品の遠距離輸送が困難になっていくこと。
③WTOの「自由貿易」とは弱肉強食の論理の別名だという認識が世界に広がり、それがWTO交渉を挫折に追い込んだこと。
以上のシナリオは若干楽観的すぎるようにも見える。ドルが国際決済通貨の地位から転げ落ちるのは間違いがないとして、その後のシステムがどうなるのかはまだ予断を許さない。その後にくるべきシステムは、いまだカオスの先にある。
別の国際決済通貨が出現する可能性もある。ジョセフ・スティグリッツは、米ドルに代る新たな国際決済通貨を創出すべきだと主張する。私は、他の点に関しては、スティグリッツの主張を支持する点が多いのだが、新たな国際決済通貨の創設という点に関しては、「本当に必要だろうか?」という疑念も大きく、私はいまだに判断を保留している。
食料主権を確立し、地産地消の循環型社会を構築しようという立場からすれば、基本的に多国間貿易主義は廃絶し、二国間協定に基づく二国間貿易主義の方がよいだろう。信頼できる国同士で、お互いに傷つけない範囲内で協定を結んで貿易をする。それが網の目のように結びつきあえばよい。その際の決済通貨は、もちろんその国の通貨でよい。中国と日本の貿易だったら、元と円をやり取りし合えばよい。そうなれば新たな国際決済通貨は必ずしも必要ない。
もっとも日本の場合はそれでよいが、小国では、十分な市場規模を確保できないので、ある程度の大きさの地域統合は必要だろう。まあ、2~3億人の規模で地域が統合される市場単位になればよい。その意味で、EUの統合、ASEANの統合、ラテンアメリカ共同体の統合などは私の視点でも支持される。
ただし、その場合でも、なおかつ農業や林業は域内自由化の対象から外すべきだ。たとえばメキシコやグァテマラの先住民族の小規模農業と、ブラジルやアルゼンチンの大規模農業がラテンアメリカ共同体内で競争を強いられることなど、みるも無残な結果しか生み出さないからである。
工業のような収穫逓増産業は、その確立のためにある程度の規模の大きなマーケットが必要とされる。しかし農林業といった自然生態系に生産条件を既定された収穫逓減産業にとっては広域的マーケットは不要であり、小さな規模での地域循環が持続性の面からもエネルギー効率の面からももっとも合理的なのだ。
その他、本の伝えるメッセージはどれも奥が深い。本書のキーワードをいくつかあげれば、「スローライフ」「半農半X」「身土不二」「医食同源」「コミュニティ・ビジネス」「ビア・カンペシーナ(百姓の道)運動」などである。東洋の概念から西洋の概念、ラテンアメリカ起源の概念と多彩である。まさに、志ある百姓と消費者が国境を越えて連帯している。
「自給」というと、国家を単位として考える「国家自給論」になりがちであるが、本書はそうではない。本書の訴える「自給」とは、あくまでも「地産地消」、地域の人間関係の「輪と和」の中での自給である。
人間の輪の中で生産と消費が行われているという点では、貿易が行われていたとしても「フェアートレード」であれば、人間の「輪と和」の自給といえるのだろう。
この間の私はブログで、ドーハラウンド交渉を決裂させ、WTOの農産物協定を見直して各国の食糧自給の権利を認めるように制度を変えていかねばならないことを訴えてきた。
『自給再考』は、米国主導のグローバリゼーションの破綻を宣言し、その次にくる地産地消の時代、「輪(循環)と和(信頼)の時代」という未来社会のビジョンを描きだしている。ぜひ多くの方々に一読してもらいたい本である。
著者たちは全部で10人。経済学者、思想史家、農林家、有機農業運動家、民俗学者、消費者運動家といったじつに多彩な顔ぶれだ。章構成は以下のようになっている。
1.西川潤「世界の『食糧危機』 ―その背景と日本農業にとっての意味」
2.関廣野「貿易の論理 自給の論理」
3.吉田太郎「ポスト石油時代の食料自給を考える」
4.中島紀一「自然と結びあう農業を社会の基礎に取り戻したい」
5.宇根豊「『自給』は原理主義でありたい」
6.結城登美雄「自給する家族・農家・村は問う」
7・栗田和則「自創自給の山里から」
8.塩見直紀「ライフスタイルとしての自給」
9.山本和子「食べ方が変われば自給も変わる」
10.小泉浩朗「輪(循環)の再生と和(信頼)の回復」
多彩な顔ぶれが各自の視点で、それぞれ「自給」の意味を根源的に問い直している。農家の立場で、消費者の立場で、途上国の立場で、人類史の観点で、家族や集落の人間関係の和の観点で、人間らしく生きるためのライフスタイルの観点で、物質循環の観点で、それぞれ「自給」の必要性が論じられるのである。
盛りだくさんの内容なので、すべての論点に言及することはできないが、私がこのブログで書いてきたことと関連のある範囲でコメントしたい。
第二章の関廣野氏の論考はとりわけ興味深かった。関氏は、これまでの世界貿易の歴史を振り返りながら、いつの時代でも民衆は自給経済に満足していたのであり、貿易というものはいつでもどこでも富と権力のある特権層の維持・拡大を目的として推進されてきたという事実を明らかにしている。
民衆不在のまま、正しい情報が伝えられることもなく、民主的な議論もされないまま、貧困層の生活を絶望に落とし込む決定をしたWTO協定などその典型的事例であろう。
また、近代の個人主義は、封建的身分社会から個人を解放した結果生まれたのではなく、南北アメリカ大陸の「発見」と植民地化と植民地貿易の開始という「偶然」によって生み出されたものであるという説を展開する。私もその説には賛同するものである。広大な南北アメリカ大陸をヨーロッパ人が独占するという歴史の偶然性に基づく不幸な事態が存在しなければ、米国流の「市場原理主義」という破滅的なイデオロギーも、この地球上に発生することもなかったであろう。
その上で関廣野氏は、アメリカ中心の世界貿易体制は終焉すると宣言し、各国の食料主権が再確立され、家族経営の自作農主義は復権され、民主主義は再定義されるだろうと予想する。ここで氏のいう「民主主義の再定義」とは、選挙の有無といった矮小な民主主義から、地域に住む人々が地域の主権を担うという地域自治社会への移行のことである。私も「そうなるだろう」と確固とした断言はできないものの、「そうせねばならない」という希望は表明したい。
関廣野氏が、「アメリカ主導の世界貿易の終焉」を表明するのは三つの理由だ。
①ドルが暴落するのにドルに代る国際貿易の決済通貨が出現しないこと。
②原油価格の上昇により大量の商品の遠距離輸送が困難になっていくこと。
③WTOの「自由貿易」とは弱肉強食の論理の別名だという認識が世界に広がり、それがWTO交渉を挫折に追い込んだこと。
以上のシナリオは若干楽観的すぎるようにも見える。ドルが国際決済通貨の地位から転げ落ちるのは間違いがないとして、その後のシステムがどうなるのかはまだ予断を許さない。その後にくるべきシステムは、いまだカオスの先にある。
別の国際決済通貨が出現する可能性もある。ジョセフ・スティグリッツは、米ドルに代る新たな国際決済通貨を創出すべきだと主張する。私は、他の点に関しては、スティグリッツの主張を支持する点が多いのだが、新たな国際決済通貨の創設という点に関しては、「本当に必要だろうか?」という疑念も大きく、私はいまだに判断を保留している。
食料主権を確立し、地産地消の循環型社会を構築しようという立場からすれば、基本的に多国間貿易主義は廃絶し、二国間協定に基づく二国間貿易主義の方がよいだろう。信頼できる国同士で、お互いに傷つけない範囲内で協定を結んで貿易をする。それが網の目のように結びつきあえばよい。その際の決済通貨は、もちろんその国の通貨でよい。中国と日本の貿易だったら、元と円をやり取りし合えばよい。そうなれば新たな国際決済通貨は必ずしも必要ない。
もっとも日本の場合はそれでよいが、小国では、十分な市場規模を確保できないので、ある程度の大きさの地域統合は必要だろう。まあ、2~3億人の規模で地域が統合される市場単位になればよい。その意味で、EUの統合、ASEANの統合、ラテンアメリカ共同体の統合などは私の視点でも支持される。
ただし、その場合でも、なおかつ農業や林業は域内自由化の対象から外すべきだ。たとえばメキシコやグァテマラの先住民族の小規模農業と、ブラジルやアルゼンチンの大規模農業がラテンアメリカ共同体内で競争を強いられることなど、みるも無残な結果しか生み出さないからである。
工業のような収穫逓増産業は、その確立のためにある程度の規模の大きなマーケットが必要とされる。しかし農林業といった自然生態系に生産条件を既定された収穫逓減産業にとっては広域的マーケットは不要であり、小さな規模での地域循環が持続性の面からもエネルギー効率の面からももっとも合理的なのだ。
その他、本の伝えるメッセージはどれも奥が深い。本書のキーワードをいくつかあげれば、「スローライフ」「半農半X」「身土不二」「医食同源」「コミュニティ・ビジネス」「ビア・カンペシーナ(百姓の道)運動」などである。東洋の概念から西洋の概念、ラテンアメリカ起源の概念と多彩である。まさに、志ある百姓と消費者が国境を越えて連帯している。
「自給」というと、国家を単位として考える「国家自給論」になりがちであるが、本書はそうではない。本書の訴える「自給」とは、あくまでも「地産地消」、地域の人間関係の「輪と和」の中での自給である。
人間の輪の中で生産と消費が行われているという点では、貿易が行われていたとしても「フェアートレード」であれば、人間の「輪と和」の自給といえるのだろう。
また読んでからコメントを考えます。
吉田太郎さんのブログでも本の紹介をしていましたのでリンクをはっておきます。